スプーン片手に封を切った袋をのぞき込み、沢田綱吉は嬉しげに頬を緩めた。
「ふんふん、ふふ~ん」
上機嫌に鼻歌を奏でて、焦げ茶色の粉を少しだけ匙で掬い取る。ラップを敷いた計りにひっくり返してメモリを覗き込んで、彼はもう一度スプーンを袋の中にねじ込んだ。
爪の先ほどの量を足して、レシピにある数字に限りなく近づけてから匙を置いて袋の口を閉める。中の空気を出来るだけ少なくして密封させてから、今し方計量し終えたココアパウダーを銀色のボウルへと。
中では先に計っておいた白い粉が、準備万端で彼を待ち構えていた。
「これを、混ぜて……と、そうだ。ボウル、まだあったかな」
ココアが底に少しこびり付いているスプーンを使ってざっくり掻き混ぜて後、綱吉は身を屈めた。流し台の脇にある棚を開けて薄暗い内部を覗き込み、目当てのものを見つけ出してうん、とひとり頷く。
きちんと洗ってあるとは思うのだが、念の為水でサッと流して表面をキッチンペーパーで拭い、彼は気合いの声を上げて表情を引き締めた。
しかし力んでいられたのはものの三十秒足らずの間でしかなく、薄茶色になった粉をふるいに掛けているうちに口元は自然と綻んでいった。
立ち上る粉塵によるくしゃみを堪え、二度ばかりふるい終えた粉を前に満足げに頷く。
「こっちはこれでよし、と」
一仕事終えてホッと胸を撫で下ろし、彼はサラサラになったボウルの中身に目尻を下げた。軽く揺さぶって山形になっていた粉を崩し、手に付着していた分は叩いて落として、次の手順を確認しようと前方に身を乗り出す。
窓から差し込む明るい陽射し、そして天井から降り注がれる照明の両方を浴びて背伸びをする。水や粉が被らない場所に置かれた手書きのレシピを覗き込んで、綱吉はふんふん、と小ぶりの鼻をひくひくさせた。
普段は沢田奈々の根城たる台所は、目下その息子である綱吉に占領されていた。中央に置かれたテーブルには役目を終えたばかりの薄力粉の袋や、まだ出番が来ないでいる道具などが所狭しと並べられており、足の踏み場ならぬ、コップの置き場すらない状態だった。
その綱吉はといえばオレンジ色のエプロンをして、鼻の頭には白い粉が付着しているのにも気付かない。真剣な目をしたかと思えばふにゃりと気の抜けた笑みを浮かべて、鼻歌に飽きたのか次は口笛を吹き始めた。
もっとも、その口笛も決して上手とは言えなかった。
中学に上がり、友人になった山本にコツを教えて貰うまで、どう頑張っても音が出なかった。窄めた口から飛び出すのはふっ、ぷすっ、といった程度の空気が爆ぜる音ばかり。最近になってようやく笛らしい音色が奏でられるようになったものの、音程は外れてばかりで、曲目を言い当てられる人は皆無だった。
それでも、音が出るようになった時は嬉しかった。練習しているうちに上手くなるとのアドバイスもあって、最近では気がついたら口遊んでいる、などということも多かった。
鼻歌と同じで、意識しているわけではない。時々調子崩れのぽしゅっ、という音を混ぜながら、彼は別に用意していたボウルの中身を粉の山に少しだけ注ぎ入れた。
そちらはクリーム色の液体だった。
とろりとしているそれを粉に浸透させようと、ゆっくり泡立て器を掻き回す。軽く馴染ませたところで、次に取り出したのは計量カップだった。
「ふふ~ん、ふんふ……ん、っと」
あらかじめ冷蔵庫から出しておいた牛乳パックを持ち上げて、またもやレシピを覗き込んで分量を調べる。膝を折って軽く腰を曲げ、カップに記されたメモリと目線の高さを揃えてと、動きはなんとも忙しない。
屈伸運動を繰り返す彼が立てる物音以外、雑音は殆ど聞こえて来なかった。
たまに家の前の道を車や人が通るくらいで、室内は至って静かだった。小さな怪獣こと子供達も、なにかと綱吉のやることに口出ししてくる五月蠅い家庭教師の姿も、何処を探しても見つけられなかった。
音程が悉くズレた最近のヒット曲を口笛吹いて、綱吉は計り終えたばかりの牛乳を、まだまだ粉っぽいボウルへと半分弱流し込んだ。
泡立て器をしっかり握り直し、指先に覚える抵抗をねじ伏せてぐるぐる掻き回していく。最初は薄力粉の白とココアの茶が斑模様を成していたものが、次第に混ざり合ってやわらかい薄茶色へと変化していく様は眺めていて楽しかった。
「へへ」
完成した時の様子を想像して、綱吉は目を細めた。口の中いっぱいに溢れた唾液を飲み干して、口笛を奏でるところまではいかないものの、薄紅色の唇を窄めて尖らせる。
隣町のデパートまで買い物に出ている母達が帰って来る前に、片付けまで全て終わらせてしまわなければならない。本当はのんびりしている暇はないのだけれども、焦ったところで失敗するのは分かりきっている。
「ふふ、んふふ、ふ~」
なるべくネガティブな方向に物事を考えないよう心がけて、綱吉はしどけなく笑って白い歯を覗かせた。
空になったボウルに水を注いでシンクの脇に退かし、その上に同じく出番が終了した計量カップも放り込む。後は材料全部がしっかり混ざり合うよう、腕を動かし続けるだけだ。
今のところは順調だった。問題は焼く時だけれども、ハルと京子が用意してくれたレシピ通りにやれば、まず問題は無い筈だ。
壁に吊した時計を見上げれば、おやつの時間までまだ一時間以上残っていた。
焼き上がる頃には、丁度良い時間帯になっている。ちゃんと出来たかどうか、一個くらい味見をしてもきっと誰も文句は言うまい。
それも楽しみだと相好を崩して、綱吉は下手な口笛を楽しげに奏でた。
どうせ家の中は誰もいない。居るとしても、天空ライオンのナッツくらいだ。
誰が聞いているわけでもないと考えると、それだけで気が大きくなる。多少音程が狂っていたところで馬鹿にされるわけでもなし、音量も自然と上がっていった。
家中に、とまではいかなくてもそれなりに大音響を響かせて、綱吉はすっかりトロトロになった生地に得意満面の顔を向けた。
「これで~、よ~っし。さてさて、お次は~?」
ぽんぽん飛び出す独り言も、微妙にリズムに乗っていた。若干語尾を伸ばし気味に呟いて、最後に生地に足す食材を取ろうと後方に控えるテーブルに向き直ろうとして。
両手を広げて爪先立ちのダンスを披露した彼の身体が、ピキッと一瞬で凍り付いた。
「え゛っ」
見事にひっくり返ったこの世の物とは思えぬ声を零して、ただでさえ大粒の瞳を限界まで見開く。絶句したまま忙しく瞬きを繰り返し、果ては両手で瞼をゴシゴシ擦ってもみるが、其処に見える人影は一向に消えてくれなかった。
居なかった筈だ。
居るわけがない。
居たらおかしい。
それなのに。
「なにしてるの?」
「そっちこそ、なんでいるんですかー!」
あまりの状況に思考回路は一旦停止して、自分は壮大な白昼夢を見ているのだと思い込みそうになった。しかし放たれた言葉は間違い無く生きた人間が発したものであり、疑う余地は無かった。
淡々とした問い掛けに、頭の中で何かが切れた。さも当たり前のように台所の入り口に立っている青年に怒鳴りつけて、綱吉は握り拳を振り回した。
たったひと言叫んだだけなのに息が切れた。額には汗が滲み、頬は一瞬で痩せこけて肌色は青白かった。
だというのに黒髪の青年は綱吉の罵声の意味が理解出来ないでいるのか、怪訝に眉を寄せて首を右に倒した。両手は胸の前で交差して組まれ、口は不満を表しヘの字に曲がっていた。
肩を上下させてぜいぜい息を吐き、綱吉はエプロンの下に着込んだシャツの袖で顔を拭った。薄水色の布に白い筋が走るのを見て僅かに頬を赤らめてから、苦々しい面持ちで改めて不法侵入者に視線を向ける。
白のカッターシャツに紺色のベスト、スラックスは黒。左袖には緋色の腕章が通され、ずり落ちないよう安全ピンで固定されていた。
長めの黒髪が額の中央で揺れている。隙間から覗く瞳もまた、冴え冴えとした黒水晶の輝きを放っていた。
雲雀恭弥。綱吉が通う並盛中学校の風紀委員長だ。
そして他にも、彼は幾つかの肩書きを有していた。
玄関の呼び鈴が鳴った覚えは無い。午前中にセールスマンが回って来た時にはちゃんと鳴っていたので、故障している可能性は限りなく低い。
ならばどうして。否、どうやって彼は施錠されている家の中に入って来たのか。
しかも家人の断りもなく。
「料理?」
「そうですよ……って、そうじゃない。ヒバリさん、どっから入って来たんですか」
顔見知りの相手だからといって、不法侵入を許すわけにはいかない。廊下と台所の境界線上にいた彼が中に入って来ようとするのを制し、綱吉は声を荒らげた。
両手を前に伸ばして押し返すポーズを取って、さりげなく銀色のボウルは背中に隠す。だが机の上に散らばる材料や道具については、小柄な身ひとつではどうすることも出来なかった。
急上昇を開始した体温や、高速回転を続ける心臓の鼓動にひとり耐えながら奥歯を噛み締める。けれど赤くなる顔だけはどうにも出来なくて、見る間に変化していく表情に、雲雀は楽しげに口角を歪めた。
意地悪い笑みを浮かべて、眇めた目をふっと上に流す。
台所の上は、今は誰も使っていない父の書斎だ。しかし雲雀がその部屋について言及しようとしている訳ではないことくらい、綱吉でも分かった。
もっと単純な話だ。一階の上、即ち二階。
そこにある一室の窓は、確かに開いたままだった。
「まさか」
「不用心だね。泥棒が入ったらどうするつもりだったの」
「貴方がそれを言いますか」
普段からの彼の行動パターンを思い起こして、綱吉は痛むこめかみに指を置いた。がっくり肩を落として項垂れて、力なく首を振る。
二階の部屋の窓から入って来た人間が空き巣の危険性を訴えるなど、笑い話にもならない。だのに雲雀は至極真面目な顔をしてその可能性を説き、注意を促して憚らなかった。
以前忠告に従って施錠しておいたら、後から文句を言われたのだけれど。
どうやらその辺はすっかり忘れている様子の彼に疲れた顔で嘆息して、綱吉ははて、と眉を顰めて顔を上げた。
「でも、ナッツ、いたでしょう?」
番犬代わりに部屋に残しておいたのだが、吼える声も聞こえてこなかった。
綱吉に似て臆病者のあの子は、あろう事か階段を上れても、自力では下りられなかった。窓から外に遊びに行く、という真似も出来るわけがない。
充分過ぎるくらいにも懐いているから吼え無かっただけだとしても、物音のひとつくらいは立てて然るべきではなかろうか。
まん丸い目で見上げられて、雲雀は嗚呼、と緩慢に頷いた。視線を脇に流し、右の人差し指を天井へと向ける。
「居たけど、寝てたよ」
「うっ」
空中に円を描いた彼の説明に声を詰まらせ、綱吉は落胆の息を吐いて俯いた。
何の為に部屋に残して来たのか、これでは全く意味が無い。日が当たる場所でぬくぬくと寝入っている獣の姿が楽に想像出来て、その主たる少年は弱々しく首を振り、利き手で顔を覆った。
「ナッツの奴……」
もっとも、侵入者が来ないか見張っているように言いつけていたわけではないので、怒るに怒れない。綱吉が過剰な期待を寄せていただけであり、ナッツがのんびり屋で昼寝が大好きなのは前から分かっていたことだ。
「で、なに作ってたの?」
「うひゃわああぁ」
それでも口惜しさが拭えずにいたら、立ち入りの許可を得ぬまま雲雀がずい、と身を乗り出した。
二メートル無い距離を一気に詰められて、綱吉は素っ頓狂な声を上げて伸び上がった。慌てて両手を広げてあれこれ隠そうと足掻くけれども、上背のある男の視界を塞ぐにはどう考えても不十分だった。
暴れる少年の腕をかい潜り、雲雀が見えた品々に小首を傾げた。口を真一文字に引き結び、ふむと頷いて腕を組む。
薄力粉、ココアパウダー、牛乳、そこにチョコチップが加わり、他には掌サイズの容器が複数個。黒いオーブン皿を取り囲む形で並べられたそれらを右から順に眺めて、彼は恥ずかしそうに身を捩っている綱吉に向き直った。
ポケットがひとつだけのシンプルなエプロンをして、裾からは素足が覗いていた。春先のこの時期にショートパンツはまだ肌寒かろうが、気温が低い所為で震えているわけではない様子だった。
心持ち赤い頬を膨らませて、少年は物言いたげな目だけを彼に投げ返した。
「今日のおやつかなにか?」
「……違います」
味見をするつもりではいたが、本番はまだ暫く先だ。
物分かりの悪い彼に悪態をつき、綱吉は時計の下に設置されたカレンダーを一瞥した。
ふて腐れた顔で口を尖らせて、
「なんで今日来ちゃうんだよ」
誰にも聞こえない音量でもごもごと愚痴を零す。盗み見た青年はまだ中身がたっぷりの薄力粉の袋を引き寄せ、珍しそうにパッケージを観察していた。
人の家の物に興味津々な彼に大きく嘆息して、綱吉は仕切り直しだとチョコチップの袋を手に取った。
本当は追い出してやりたかったのだが、無理に決まっている。雲雀が相手では、死ぬ気になっても勝てるかどうかわからない。ましてや通常のダメツナ状態では、やる前から勝負は見えていた。
部屋で待っていて欲しいと頼んで、聞いて貰える可能性は五分五分。時間も惜しい。慣れない菓子作りに精を出している理由を説明するのは嫌だった。
ならば綱吉が取れる道は、ただひとつ。
彼を居ないものとして扱うこと。
オーブンに入れてスイッチを入れるところまでやれば、後は焼き上がるのを待つだけ。言い訳はその後にやればいい。
徹底的に無視してやり過ごす事に決めて、彼は作業に戻るべく袋の封を開けた。長く放置していたボウルの中に半分ほど落として、掻き混ぜて具合を確かめながら少しずつ追加していく。
背中を向けられて、雲雀は面白く無さそうに眉を顰めた。もっと近くで作業風景を見守ってやろうと足を向ければ、足音を聞きつけた少年に牙を剥いて威嚇された。
邪魔をするなと言われたに等しい。警告を聞き入れずに傍に行ったら、加減無しに手を噛まれそうだ。
強烈な痛みを思い出して無意識に肩に手を回し、雲雀は数秒迷ってそこにあった椅子を引いた。なるべく埃を立てないよう気を配り、腰を下ろす。すぐ前方には、まだやってこない出番に痺れを切らしたカップケーキ用のケースが積み上げられていた。
何気なく手を伸ばし、縁に指を押し当ててくるくる回してみる。綱吉が気にして後ろを振り返ったが、変な事はしていないと知ってか、特に何も言わなかった。
忙しく手を動かしている少年の背中をぼんやり眺め、雲雀は暇を持て余して頬杖をついた。
「カップケーキ、の……チョコレート味」
「嫌いでした?」
「え?」
「え?」
ココアの袋、そして綱吉の手元に移動した袋にあった文字を頭の中で並べた彼の独白に、過敏に反応した綱吉が間髪入れずに質問を投げる。
まさか聞いていると思っていなかった雲雀が幾ばくか声を高くして、その態度に綱吉も目を丸くした。
「え?」
右に倒していた首を左向きに修正して、両手で抱えたボウルを握り締める。腰を捻った状態で停止した彼は、きょとんとしている雲雀の顔をじっと見据えた後、足許から登ってくる羞恥に耐えかねてカーッと全身を真っ赤に染め上げた。
仰け反って倒れそうになり、急ぎ持っていたものを台に戻す。ひとり狼狽激しく慌てふためいている彼に怪訝な顔をして、雲雀は返事の意味を考えようと半眼した。
眉間に皺を寄せて口を閉ざし、今のやり取りは無かった事にしようとしている少年の後ろ姿に視点を定める。
先ほどまでとは比べものにならない乱暴さで生地を掻き混ぜている彼の傍らには、残量がかなり減ったチョコチップの袋が横倒しになっていた。
「チョコレート」
綱吉に菓子作りの趣味があるという話は聞いていない。不器用な彼にとって、料理はむしろ苦手分野だ。
だというのに、日曜日の昼間からカップケーキの作成に勤しんでいる。それに、今日のおやつにするのではない、とも言っていた。となれば、考えられる可能性はただひとつ。
この手作りケーキは、誰かへの贈り物。
市販品で済ませたくない相手に渡す為に、貴重な休日を削って慣れない作業に勤しんでいるとしか思えない。
ではその送り先は、いったい。
「……え?」
そこまで考えを巡らせて、雲雀ははたと膝を打った。
すとんと落ちてきた答えに切れ長の眼を見開き、三月のカレンダーを振り返り見る。今日の日付を真っ先に探し出して、そこから数日分右にずらしていく。
行き着いた日付は平日を表す黒文字だったが、数字の下にあるメモ書き用の空欄上部には小さく、その日の行事が印刷されていた。
ホワイトデー。
二月のイベントと対を成す、菓子業界が賑わいを増す一日だ。
「嗚呼、それで」
「なっ、なんですか」
一ヶ月弱前の出来事を思い返しながら小声で呟けば、耳聡く音を拾った綱吉がムキになって声を荒らげた。
しかしその顔は林檎のように真っ赤で、言葉を介さずとも胸の裡は容易に知れた。
当日に驚かせてやるつもりでいたのに、雲雀の思いつきの行動の所為ですっかり台無しだった。悔しげに地団駄を踏んで、彼は大振りのスプーンを掴んでボウルを抱え上げた。
出来上がった生地をカップケーキのケースに流し込み、最後に余ったチョコレートを上に散らす。全部で六個、後はオーブンに入れて焼くだけだ。
「美味しく作ってね」
「うぐ。気をつけます」
二月のチョコレートのお返しがまたチョコレートか、とは流石に言わない。綱吉だってこの一ヶ月、散々悩んだに違いないのだ。
忘れずに用意してくれていたのが嬉しくて堪らないが、表には一切出さず、表情は崩さない。力を入れすぎている所為で却って無表情になっている雲雀を盗み見て、綱吉はオーブンのタイマーをセットして肩の力を抜いた。
これで真っ黒焦げになったら泣くしかない。祈るような気持ちでスタートボタンを押せば、使い込まれた機械がヴヴヴ、と唸り声をあげて動き始めた。
明るくなっていくレンジ内部を外から窺って、綱吉はテーブルで寛いでいる青年に苦笑した。
「失敗したら、その……ごめんなさい」
「いいよ。焦げてても食べてあげる」
「……ヤです。焦げたら作り直します」
さらりと気障なことを言った彼に一瞬絶句して、綱吉は照れを誤魔化してぷいっとそっぽを向いた。勝手に赤らむ顔を見せたくなくてくるりと反転し、使い終えた機具を片付けようと洗い場に向かう。
袖を捲り上げた彼に目を細め、雲雀は時計を気にして顔を上げた。
「どれくらい掛かるの?」
「えーっと、大体三十分くらいかな」
蛇口を捻った綱吉が、流れる水に両手を浸しながら目を閉じた。記憶を辿り、レシピにあった数字を口遊む。
状況に応じて少し短くなったりもするが、中までじっくり熱を通すには、概ねそれくらいの時間が必要だ。焼きすぎて焦げてしまうのは嫌だが、早く取り出しすぎて生焼けなのも切ない。
見極めは重要だと気合いを入れた彼を余所に、雲雀は思っていたよりも掛かると知って退屈そうに姿勢を崩した。
前のめりにテーブルに寄り掛かって、上機嫌に洗い物に励んでいる背中を何気なく見る。
「ねえ」
「はい?」
呼び掛ければ即座に返事が得られた。泡だらけの両手を揺らして振り返った恋人にやわらかな笑みを浮かべ、雲雀は両肘を立てて背筋を伸ばした。
結んだ手の上に顎を置いて目を細め、無邪気に微笑んでいる少年に向かって口を開く。
「待ってる間退屈だから、さっきの続き、歌ってよ」
「……へ?」
一瞬何を言われたか理解出来ず、綱吉は目を丸くして首を捻った。歌など歌っていないと、そう言い返そうとしてハッとする。
にわかに赤みを増した彼に相好を崩し、雲雀は「早く」と催促を繰り返した。
林檎を通り過ぎて赤鬼状態になった綱吉が、ふるふる肩を震わせて唇を噛み締めた。
琥珀色の瞳にうっすら涙を浮かべ、こみ上げる羞恥心から逃れようと鼻を大きく愚図らせて。
「ヒバリさんの……馬鹿ぁ!」
音の外れた口笛も、鼻歌も、全部聞かれていた。
いったいいつから、彼は家の中にいたのだろう。最初に確認すべきだったと後悔しながら、綱吉は泡まみれの手を振り翳した。
2012/03/02 脱稿