慈雨

 庇を伝った雫が目の前にぼとりと落ちた。
 コンクリートの大地に衝突して砕けたそれを避けようと、綱吉は慌てて右足を引っ込めた。ゼロコンマ数秒遅れで左足も、摺り足気味に後退させて踵を揃えて天を向く。
 濃い灰色の庇の向こう側には、更に色を濃くした鉛色の雲がどんと構えて陣取っていた。
 青空は影も形も無く、一面雨雲が覆い尽くしていた。そこから降り注がれる雨は冷たく地上を濡らし、空気を冷やして吐く息を白くさせていた。
「参ったなあ」
 心底困り果てた顔をして、彼は曇天から目を背けて呟いた。コンクリートに滲む雨の跡から逃げてもう一歩半後ろに下がり、ブレザーの上から突き刺さる冷たい空気に身震いする。
 通学に使っている靴は底が薄いので、足の裏からも冷気がじんわり伝わって、身体を冷やす一因になっていた。腕を撫でさすった程度では暖かさは戻って来ない。かといって屋内に引っ込んでも、暖房の当ては無かった。
 教科書やノートがぎっしり詰まった重い鞄を右肩に担ぎ、弱り切った表情で再び鈍色の空を見上げる。雲の層は厚く、雨はしばらく止みそうに無かった。
 雨脚はさほど強くはない。けれど間断なく降り注いでいるので、傘無しで歩き回るのは辛そうだった。
 ようやく春の兆しが見え始めた矢先の、寒の戻り。その上雨まで降られて、ここで濡れて帰ったら風邪を引くのは目に見えて明らかだった。
 むしろここに立っているだけでくしゃみが出て、鼻水が垂れてきそうだ。
「どうしよう」
 もうひとつぶるりと震え上がり、綱吉は呟きつつその場で足踏みした。
 少しでも身体を動かして熱を呼び込もうと足掻き、両手を胸の前で交差させて上腕や肩をさすりもする。けれどどちらも、無駄な努力としか言いようがなかった。
 携帯カイロのひとつでもあれば、少しは違ったかもしれない。いや、それよりも今朝、自宅を出る時に母の小言に耳を傾けていれば、こんな事にはならなかっただろうに。
 夕方から雨が降るから、遅くなるようなら折り畳みで良いので持って行くように言われた。けれどその時は、まさかこんな目に遭うとは夢にも思っていなかったから、必要無いと断ってしまった。
 ホームルームが終わったらすぐ帰るつもりでいた。あの時に下校できていたなら、傘は要らなかった。
「なんだってこんな日に限って、補習があるんだよ~」
 廊下に張り出されていた掲示物を恨めしげに思い返し、深々とため息をつく。もっともそんな事をしたところで、雨が止んでくれるわけがない。緩く首を振り、彼はがっくり肩を落としたまま視線だけを上向かせた。
 先だって行われた抜き打ちテスト、それで赤点を取った生徒の名前が一枚のわら半紙に印刷されて掲げられていたのだ。プライバシーの侵害もあったものではないが、良い成績を収められなかったのは確かなので文句も言えない。ダメダメな生徒を少しでも救い出してやろうという先生の気遣いは、なんとも冷たく心に染み入る次第だ。
 そんなわけで少人数相手の補習が終わったのが、つい十分ほど前の事。
 放課後の貴重な一時間が潰れた上に、残り十五分を過ぎるか否かの頃には、ついに雨も降りだした。机を並べていた他クラスの生徒は皆傘を持っており、しかもその中に顔見知りは居なかった。日頃から補習仲間だった山本は、今回に限ってぎりぎり欠点を回避していた。
 獄寺もとっくに帰宅した後だ。彼は待っていると言ってくれたのだが、終わる時間がはっきりしていなかったのもあって綱吉が断ったのだった。
 今思えば、悪いと思いつつも彼に付き合って貰えば良かった。後悔はいくらでも湧き上がって来て、果てが見えない。物憂げな表情を隠さぬまま、綱吉は湿気で湾曲している前髪を抓んで引っ張った。
「ほんっと。俺ってついてない」
 悪い事ばかりが重なって、良い事がひとつもない。今日の星占いはどうだっただろうかと、信じてもいないものを引き合いに出してため息を重ねていたら、背後からカツリと足音が聞こえた。
 自分の吐息と、降りしきる雨の音しかなかった中に突然響いた物音に、油断していた彼はどきりと胸を弾ませた。
 サッと顔色を悪くして居竦み、緊張に頬を強張らせる。ただ正面玄関前で突っ立っているだけなのに何故かとてつもなく悪い事をしている気分に陥って、未だ姿の見えない誰かが脇を通り抜けて行くのをひたすらじっと待つ。
 知っている相手だったら勇気を出して声を掛けて、傘に入れて貰えないか頼んでみようか。
 いや、たとえ知り合いでなかろうとも。
 無い勇気を振り絞ろうかどうかでひとり葛藤し、息を呑んで結んだネクタイをぎゅっと掴む。どきどきと鼓動は速度を増して、少し前まで全身を覆っていた寒さはいつの間にかすっかり消え去っていた。
 むしろ暑いくらいだった。
 断られたとしても、構うものか。少しでも濡れずに帰れる可能性があるのならば、それに縋るより他に道は無い。
 臆したがる心を奮い立たせて唾を飲み、綱吉は毅然と顔を上げた。
 スノコを踏みしめていた足音は一旦消え失せた。しかし雰囲気からして、上履きから外履きに履き替えていたのは間違い無い。振り返り見たわけではないが、持って生まれた勘がそう告げていた。
 後は男としての矜恃を示すだけだ。
 足音は響かないが、誰かが近付いて来る気配はあった。長く途絶えていた風とは異なる空気の流れにゴクリと喉を鳴らして、綱吉は。
「あ、……あのっ」
 なけなしの根性を振り翳し、やや上擦った声をあげて右足を大きく後ろにずらした。
 腰を捻って上半身を後方に振り向かせる。大粒の琥珀の瞳を見開いて、期待と不安が入り混じった表情で見つめた先で。
 予想に反して傘もなにも持たない青年が、怪訝な顔つきで綱吉を睥睨した。
「あの、……う?」
 両手はスラックスのポケットの中、黒色の学生服を羽織ってその下は白のシャツ。空っぽの左袖に目立つ色の腕章を嵌めて安全ピンで固定した出で立ちの男は、尻窄みに声を小さくする綱吉を不思議そうに見つめた後、止まない雨を仰いで眉を顰めた。
 長めの前髪から覗く瞳は黒濡れた水晶の輝きを放ち、細身な外見に反して腕も足も非常に筋肉質。不機嫌そうに引き結ばれた唇は一切の音を発さず、眇められた双眸は陰鬱な色合いの空を射貫いて離さない。
 視界に入ってはいても、意識の外に捨て置かれた状態に等しい。折角絞り出した勇気を霧散させて、綱吉は腹立ちを覚える暇もなく呆然と立ち尽くした。
「……ええー」
 つい漏れ出た抗議の声に、並盛中学校風紀委員長たる青年は即座に反応した。聞こえていないと思っていただけに、じろりと睨まれて瞬時に背筋を震わせ、綱吉は誤魔化し笑いを浮かべて目を逸らした。
 確かに知り合いが通り過ぎるのを期待しはしたが、まさか彼が現れようとは。
 運命の巡り合わせとでも言うのか、粋すぎる天の計らいに心の中で恨み言のひとつも呟いて、綱吉は細く長い息を吐いた。
「いやいや、むしろこれはラッキーなのかもしれないんだぞ」
 数百人という生徒が在籍している中学校で、ただでさえ数が少ない知人と遭遇出来る可能性など殆どゼロに等しい。それにも拘わらず奇跡としか言いようのない偶然が起きたのだから、この出会いを不運と落ち込むのではなく、逆にチャンスと捉えるべきではないか。
 そんな風に自分を慰め、ついでに鼓舞して、綱吉は雲雀の見え無いところで握り拳を作った。
 たとえ相手が鬼の風紀委員長とはいえ、全く知らない相手に喋りかけるよりも幾らかハードルは低い。それに、いくら何でも傘を貸してくれと頼む程度で、いきなりトンファーで殴られることはあるまい。
 綱吉は目下、ひとりきりだった。獄寺も山本も傍にはいない。即ち、群れていない。
 余程彼の逆鱗に触れる事を言わぬ限りは、叩きのめされる危険性は低い筈だ。時間が経つにつれて弱気になる心を懸命に励まし、慰め、彼は音立てて生唾を飲み込んだ。
「よ、よし」
 覚悟を決めて、鞄を持つ手に力を込める。
 今帰りですか。早いですね。ところでひとつ御願いがあるのですが。
 さりげなく話を振り、本題に入る道筋を立てる。これで行こうと脳内シミュレーションに頷いて上唇を舐めた彼の百面相を盗み見て、雲雀はポケットに入れたままだった右手を音もなく引き抜いた。
 空っぽの手を広げ、掌を上にして差し出す。受け止めた雨粒は砕けて不可思議な形状を成し、二度と弾むことはなかった。
 冷たいと感じたのは肌に触れた一瞬だけだった。見る間に体温を吸って温くなっていく水滴を肌に馴染ませて掻き消し、雲雀は窄めた口からふっと息を吐いた。
「帰らないの?」
「いえ、帰ります!」
 抑揚無い声で囁きかければ、耳聡く音を拾った彼が反射的に叫んだ。
 パブロフの犬宜しく、咄嗟に反応してしまったようだ。声を張り上げてからハッとした顔をして息を呑んだ少年を見下ろし、雲雀は意地悪く口角を歪めた。
 笑っているとも見える表情に彼の企みが読み取れて、綱吉の頬は見る間に赤く染まっていった。
 折角組み立てていたシナリオは、最早何の役にも立たない。想定していなかったパターンに引きずり込まれてしまい、彼は狼狽気味に口をぱくぱくさせた。
 青くなったり、赤くなったりと忙しい少年に含み笑いを零し、雲雀はまだ少し濡れている手を腰に添えた。
「そう、帰るの。なら早く帰りなよ」
「う、ぐ」
 雨空の下でも朗々と響く声でせっつかれ、綱吉は反論を押し堪えて喉の奥で唸った。
 ここで激高して迂闊に怒鳴り返そうものなら、却って揚げ足を取られて袋小路に追い遣られてしまう。過去の教訓を踏まえて耐えていたら、望んでいた反応が得られないのが不満だったのか、雲雀の口がムッと尖った。
「帰らないの?」
 先ほどと同じ質問を、幾ばくかトーンを低くして再度投げかけられた。
 どうあっても会話を発展させたいらしい彼をねめつけて、綱吉は仕方無く、今し方飲み込んだばかりの台詞を舌の上に転がした。
「帰りますよ。帰りますけど……帰れないんです」
 数秒でも時間が稼げたお陰で、冷静さは僅かながら戻っていた。怒鳴りつけるわけではなく淡々と喋るのを心がけて、足りなかった説明をほんの少しだけ補う。
 コンクリートにじんわり染みこみ、範囲を広げつつある雨に濡れた場所に爪先を滑り込ませ、彼は肩を落として首を振った。
 爪先を強く押しつけて手前に引き戻せば、靴底に紛れ込んだ水分が黒い筋を描いた。筆で書くよりもずっと乱暴な線に視線を落とし、雲雀はすぐに顔を背けて曇天を見上げた。
「傘は?」
「…………」
 目を合わさぬまま問い掛けられて、沈黙を返事の代わりにする。もっとも彼だって、聞かずとも分かっていた筈だ。
 しとしとと降り続く雨を前に、雫が跳ね返って来ない場所に陣取っている生徒がいる。この光景を見るだけで、その生徒がどういった状況下にあるか、多くの人は想像がつくに違いない。
 それを敢えて聞いてくるところが、いかにも彼らしい。無言の威圧を受け、底意地の悪い青年はクッ、と喉を鳴らした。
 細められた瞳と歪んだ口元から彼の胸の裡を読み取り、綱吉はもう一度右足を持ち上げ、靴底を湿ったコンクリートに押し当てた。
 水分を染みこませ、手前の乾いている場所に叩き付ける。判子の要領で靴の裏側が掠れた模様として現れた。
 いっそこのポーチ全体に足跡を刻みつけてやろうか。暇を持て余したが末の発想に自分で呆れ果て、彼は肩からずり落ちた鞄を胸にかかえ込んだ。
 膨らんでいる部分に顎を置いて凹ませて、当面止みそうにない雨空を憎々しげに睨む。
 土砂降りではない。これがバケツをひっくり返したような降り方だったなら、いっそ開き直って自宅に迎えの要請も出来ただろう。だが今は多少濡れるけれど、頑張って走って帰れない事はないという状態だった。
 フゥ太辺りなら喜んで傘を持って来てくれそうだが、リボーンに知れたら小言を言われるのは確実だ。奈々に言われていたのに無視した負い目もある。自力で解決出来るものなら、そうしたかった。
「持ってきてません」
 最悪なことに、置き傘もしていなかった。職員室には置き忘れで持ち主不明の傘が非常用として集められているのだが、そちらも、訪ねていった時には全部貸し出された後だった。
 補習さえなければ、今頃のんびり自宅でオヤツに舌鼓を打てていただろうに。考えれば考える程、小テストの結果が悔やまれてならない。
 口惜しさに歯軋りして、最後には重いため息を。見るからに落胆している綱吉に少しだけ目元を緩め、雲雀は湿気で重くなっている前髪を梳った。
「こんな時間まで居残ってるからだよ」
 雨が降り出した時間を言っているのだろう。ホームルームが終わってすぐ岐路についておけば、こんな場所で雨宿りをせずに済んだのは、綱吉だって充分分かっている。
 事情を知りもしないくせに勝手な事を言い放った彼に苛立ちを募らせ、綱吉はリスのように頬を膨らませた。
「だって、仕方無いじゃないですか」
「小動物?」
「俺だって、さっさと帰りたかったですよ。けど、補習があって。サボったら、怒られるし」
 真横でいきなり罵声を上げた彼に驚き、雲雀が目を見張った。肩を跳ね上げて眉を顰め、暫くしてから憤って地団駄を踏んでいる少年に嗚呼、と相槌を打った。
 尻窄みに小さくなっていく声に苦笑を浮かべ、並盛中学校風紀委員長たる青年はゆるゆる首を振って目尻を下げた。
「そう。なら、悪いのは君」
「ぐぬ、……むぅ」
 さらりと真理を指摘されて、これ以上もうなにも言えなくなってしまった。膨れ面のまま恨めしげに彼を睨んで、綱吉は咥内にあった空気を一気に吐き出した。
 タコのように口を尖らせ、頬が凹んだところで深呼吸を二度繰り返す。雨は依然止む気配が無い。霞がかった視界は悪く、遠くを見渡すのは難しかった。
 吹奏楽部が練習している音が聞こえる。そこに体育館に陣取る運動部の掛け声が混じり合い、複雑な模様を描き出していた。
 下校時間にはまだ余裕があった。野球部の山本を待つのは辛い。
 傍らを盗み見れば、雲雀は黙って空を見上げていた。両手は空で、これから帰ろうというわけではない様子だった。
「……」
 なんのつもりで応接室から出て来たのだろう。彼の胸の裡もまた複雑怪奇すぎて、凡庸な綱吉にはさっぱり見当がつかなかった。
 小首を傾げて視線を戻し、上半分が庇に埋まった世界を闇に塗り替える。瞼を閉ざして胸を反らせば、鼻腔を擽る雨にはほんのり春の匂いが混じっていた。
 まだ寒い日が続いている。けれど雨が降る度に、ほんの一寸ずつではあるけれども気温は上がり、硬く閉ざされていた蕾もゆっくり綻んでいく。
 満開の桜を想像して波立つ心を宥め、彼は大地を潤す天の恵みに相好を崩した。
 雨そのものは嫌いではない。偶にはのんびり、時間が過ぎるのを待つのも悪くない。
 そんな事を考えていた矢先だ。
「止まないね」
 沈黙を保っていた雲雀が不意にぽつりと呟いた。
「へ?」
 軒を打つ雨音に邪魔されて、聞きそびれるところだった。鼓膜を震わせた低音にハッと目を見開き、綱吉は其処に彼がいたのを思い出して慌てて表情を引き締めた。
 抱き抱えていた鞄がずり落ちそうになって、急いで握り直して脇を見る。目が合った。バチッ、と火花が散った気がした。
 真っ直ぐ射貫いて来る眼差しは、けれど心持ち優しかった。涼やかな瞳に映る自分を意識して顔を赤らめ、綱吉は居心地悪げに身を捩った。
「そ、そうですね。ヒバリさんは、えっと。あの、……何してるんですか?」
 独り言として聞き流すべきかで迷い、ゼロコンマ一秒の判断で会話を繋ぐ方に進路を取る。しどろもどろながら相槌を打って返し、長く疑問に思っていた内容を思い切って声に出す。
 上目遣いに見つめられて、雲雀は一瞬躊躇してから目線を左にずらした。
 合いの手が入ったのが意外だったようで、返答に窮している。そんな雰囲気が感じられて、綱吉はきょとんとなった。
「ヒバリさん?」
「そう、……だね。止むのを待ってる」
 ここで何をしているのか訊いただけなのに、この反応は予想外だ。何を戸惑うところがあるのか不思議に思っていたら、若干くぐもり気味の声で回答が成された。
 視線を合わせぬまま呟かれて、またも聞き損ねるところだった綱吉は眉間に皺を寄せて首を傾がせた。
 本当かどうか分からないものの、テレパシー能力があるわけでなし、信じるしかない。緩慢に頷き、綱吉は勢いが弱まらない代わりに強まりもしない雨脚に首を竦めた。
「どこかに出かけるつもりだったんですか?」
「学外の。見回りをね」
「へえ。でも風紀委員なら、傘くらいあるんじゃないんですか?」
「片手が塞がると戦えない」
「ああ、成る程」
 お互い軒の先に顔を向けたまま、淡々と言葉を交わす。綱吉の疑問に、雲雀は即座に明朗な返事をくれた。先ほどの逡巡は、偶々だったのだろう。
 実に彼らしい理由に頬を緩め、綱吉は声を殺して笑った。目を細め、雨合羽を装備して戦う風紀委員長の姿を想像して更に肩を震わせる。
「なにがおかしいの」
「いえ、なにも。ふふっ」
 それがあまりに滑稽だったものだから、押し殺しきれなかった。瞬く間に雲雀に見付かって追求されるがどうにか躱して、彼は目尻に浮いた涙を拭って大きく息を吸い、吐いた。
 飲み込んだ空気も雨の味がした。どこか泥臭い、命の芽吹きを連想させる匂いがした。
 未だ忍び笑いをやめない彼に嘆息して、雲雀は両手をポケットに戻した。肩を開いて胸を反らし、変化の見えない空模様を確かめて小さく首を縦に振る。
「仕方無い。応接室で待つことにするよ」
「じゃあ俺もそうしよっかな」
「――え?」
 そろそろ引き際と心得て、まるで誰かに言い訳するかのように言う。真横で紡がれた言葉に同調して、綱吉も深く意図せぬまま呟いた。
 全く予見していなかった合いの手に、雲雀が珍しく声を上擦らせた。切れ長の眼を丸く見開き、踵を返そうとしていた体勢で凍り付く。
 裏返った彼の声にひとつ瞬きして、綱吉は三秒してから我に返った。
「え、あ。あれ?」
 何気なく、それでいてごく自然に言葉が飛び出していた。
 自分で口にした台詞が信じられなくて唖然として、琥珀色の瞳を熱に潤ませ唇を意味も無く開閉させる。ゆるゆる首を振って何かを言おうとするのだが、頭が働かないのだろう、声はひとつも出て来なかった。
 雲雀も呆然と立ち尽くして、ひとり狼狽している少年に見入った。
 至近距離で視線を向けられ続けるのに慣れていないのもあって、綱吉の顔は見る間に真っ赤に染まった。茹で蛸、或いは熟した林檎を思わせる色艶にぞくりと来て、彼は鳥肌立った腕を咄嗟に掴んで握り締めた。
 長袖着用の季節で良かったと内心思いつつ、右往左往して必死に言い訳を考えている未来のドン・ボンゴレを瞼の裏に焼き付ける。
 目を閉じてゆっくり五秒数え、再び開いた時には、雲雀の表情から動揺は一切感じ取れなくなっていた。
「応接室に来たいの?」
「ひゃっ、い、いいえ。まさか」
 調子を取り戻して問い掛ければ、綱吉は背筋をビクリとさせて大慌てで首を振った。
 間髪入れない否定に内心がっかりしつつ、感情は表に出さないよう心がける。しかし力みすぎて、頬が僅かに引き攣った。少し怖い顔になった彼に竦み上がり、綱吉は鞄を抱き潰した。
 内股で爪先立ちになって、大それた事を言った一分前の自分をひたすら詰る。バカバカ、と自分を卑下する言葉を並べ立てていたら、頭の上からため息が降って来た。
 呆れ混じりの、それでいながらとても楽しげなリズムで。
「ヒバ……――ひゃわっ」
 冷たい雨が引き起こすのとは毛色が異なる風が吹いた。顔を上げようとした綱吉の視界を、黒いものが覆い隠した。
 頭の上に落ちてきた重い品に身を屈め、咄嗟に変なところから声を響かせる。まるで女子のような悲鳴にカーッと赤くなり、彼は大急ぎで頭部に被さっている布を掴んで引きずり落とした。
 左手で鞄を抱え、明るさを取り戻した視界に安堵して肩の力を抜いた彼の前で、雲雀が当初の予定通り校内に戻るべく踵を返した。
 その背中には、トレードマークとも言えるあの学生服が無かった。
「これって……ヒバリさん!」
 見た瞬間に覚えた違和感に息を呑み、綱吉は右手に持った黒い布にどきりと胸を弾ませた。
 戦慄を覚えて下駄箱が居並ぶ空間に一歩足を踏み出した彼を制し、肩越しに振り返った青年は楽しげに口角を歪めて笑った。
「貸してあげる」
「けど、これ」
「乾かして、明日返してくれたらいい。風邪なんか引いて休んだら承知しないからね」
 言うが早いか彼は綱吉に背を向け、スノコを踏みしめ行ってしまった。反論をする余地は与えられず、追い掛けて突き返す選択肢も封じられてしまった。
 学生服は厚みがあり、表面には撥水加工が施されていた。少々の雨ならば弾いて、内側まで染みこんで来ない。
 これを雨合羽代わりに被って帰れと、つまりはそういうことだろう。
 しとしと降り続く雨を一瞥して、綱吉は手元に残された他人の香りに目を落とした。唇を真一文字に引き結び、勝手に緩みそうになる表情を意識して引き締める。
「使わなかったら……怒る、よね」
 汚してしまうのではないかと躊躇する心をねじ伏せて、彼はひとり囁いた。
 懸命に堪えたものの、結局我慢しきれなかった笑みを零してそれを学生服で隠す。赤い裏地は艶々していて、綱吉を優しく包み込んでくれた。
 緋色の腕章をそっと撫で、耳元に垂れ下がる両袖を胸の前で重ねてぎゅっと握り締める。
 春の訪れを告げる雨の中へ身を躍らせ、綱吉は走り出した。大きな水溜まりを飛び越える足取りは、実に軽やかだった。

2012/03/07 脱稿