Clematis

 鐘の音が頭の遙か上を駆け抜けて行った。
 終業の時を告げる音色に、廊を歩いていた彼はハッとした顔で視線を持ち上げた。己の爪先とその少し前方という甚だ狭い空間しか見ていなかった所為で、太陽がもう西に大きく傾いている事実にさえ気付いていなかった。
「ああ、そうか」
 本日の業務終了と相成って、凛と張り詰めていた城内の空気も一斉に緩んだようだ。銀蠍塔に居る武官達の多くも汗を拭い、今夜はどこの店に繰り出すか、額をつき合わせて喧々囂々意見をぶつけ合っているに違いない。
 八人将の中でもひと際賑やかな男をふと思い浮かべ、ジャーファルは小さく肩を竦めた。
 胸に抱えている書類の山を崩さぬよう気を配り、休めていた歩を前に繰り出す。進行方向から五人ばかり文官が連れだって歩いて来るのが見えて、彼は意識して表情を和らげた。
「ジャーファル様、お疲れ様です」
「ええ、お疲れ様です。もう上がりですか?」
「はい。今から皆でバザールに。そうだ。宜しければジャーファル様も、ご一緒にいかがですか?」
「こら」
 すれ違い様に挨拶を交わし、軽く会釈して通り過ぎようとした彼を引き留め、輪の中で最も年若い男が僅かに声を高くして言った。
 すかさず同僚の男が袖を引き注意するが、時既に遅い。思いも寄らぬ誘いに目を丸くして、ジャーファルは三秒後我に返って苦笑した。
 腕の中にあるものを落とさぬ程度に揺らして、それを答えの代わりにしてやる。山盛りの書類に今になって気付いた様子の若い文官は、いかにも「しまった」という顔をして頬を掻いた。
「あ、あー……申し訳ありません」
「いえ。楽しんで来てください」
「失礼致します」
 まだ今日中に片付けなければならない仕事が残っているのだと暗に示され、二の句が継げなくなった彼は気まずげに頭を垂れた。別の同僚がからかって青年の脇腹を肘で小突く。仲良さげの雰囲気に目を細め、ジャーファルは気を取り直して歩き出した。
 五人も揃って礼をして、彼に背を向けた。
 角を曲がる直前、後方からどっと笑い声が響いた。声からするに、先ほどの若者らと思っても良いだろう。ジャーファルの前では遠慮していたものの、姿が見えなくなったところで堪え切れなくなった、というところか。
 きっと親しげに話しかけて来た若者の剛胆さを同僚達が褒め称え、或いはからかい、茶化しているに違いない。あの青年は当分、今日の事で周囲から囃し立てられることになる。
 恐れ多くも政務官ジャーファルを食事に誘った男、として。
 日々多忙を極め、仕事の鬼とも言われている彼が盛り場に繰り出す事など、滅多に無い。祭の場にこそ顔を出すものの、王自ら町に足を運んでいる時でさえ机に向かっている日が大半だ。
 仕事をしていないと落ち着かない。
 少しでも手を休めようものなら、心が急く。
「……いいえ、違う」
 白羊塔の執務室に急ぐ足が不意に止まった。無意識に唇から零れ落ちた声色に愕然として、彼はモザイクタイルが鮮やかな天井を呆然と見つめた。
 何が違うのか。
 自分が吐いた言葉でありながら、自分でもよく分からなかった。
「私はなにを」
 小さく首を振り、咥内にあった唾を飲み込む。喉仏を上下させて息を吐き、ジャーファルは袖に隠れて見えない手に意識を向け直した。
 両手で抱える大事な書類を食い入るように見つめていたら、唐突にそれらを遠くへ放り投げてしまいたい衝動に駆られた。
「っ!」
 一秒後の光景が鮮やかに脳裏に描き出され、驚いた彼はたたらを踏んだ。後ろに数歩下がってから大きく肩を震わせて、荷物が一秒前となんら変わることなく腕の中にある事実に安堵する。
 瞬きを繰り返し、ジャーファルは瞬間的に跳ね上がった心拍数に舌打ちした。
 疲れているのだろうか。
「早く終わらせてしまおう」
 シンドバッドのように毎夜の如く酒場を飲み歩くなど、馬鹿げている。そんな時間と金があるのであれば、この苦しいシンドリア王国の経済状況を少しでも改善させるべく、頭をひねって然るべきだ。
 シャルルカンにしても、ピスティにしても、そうだ。他にもっとやるべき事が沢山あるだろうに。
 酒を片手に騒ぐことしか考えていない二人組には、呆れるより他無かった。特にピスティは、男絡みのトラブルも多い。八人将としての自覚が足りないと言わざるを得ない。
 思い出しているうちにこめかみの辺りが痛くなって、ジャーファルは強引に思考回路を遮断した。
「よっ、と」
 問題児の顔を頭から追い出して、気持ちを切り替えて身体を上下に揺らす。先ほどふらついた際に崩れた荷物を抱え直し、彼は右足を床から引き剥がした。
 日は傾いているもののまだ水平線上にあり、空は青い。上空は風が強いのか、雲の流れは比較的速めだった。
 夜には雨が降るかも知れない。頬を撫でる風が僅かに湿っているのを敏感に受け止めて、彼は眉を顰めた。
 嵐になれば港湾にも被害が出かねない。荷物を積んだ商船が波に煽られて転覆しようものなら、一大事だ。
「少し気を払っておく必要がありますね。荷揚げは流石にもう終わっていると思いますが」
 シンドリアは南洋の海に浮かぶ小さな島国だ。これ以上の農耕地の拡大が望めない以上、食糧はどうしても輸入に頼らざるを得ない。資源の少ないこの国にとって、商船の安全を確保するのは国民の命を繋ぐのとほぼ同義だった。
 後で人を遣ろうと決めて、廊下を急ぐ。階段を登り自身の執務室への最短経路を突っ切ろうとした彼の視界に。
 この時間ではまずお目にかかれないような、金色の太陽が眩しく輝いた。
「ジャーファルさん!」
 太い柱の陰から飛び出して来た少年に目を見張り、ジャーファルは出しかけた足を慌てて引っ込めた。
 もう少しでぶつかるところだったと気づき、現れたアリババも慌てた様子で三歩ばかり後退した。一呼吸挟んで照れ臭そうに首を竦め、一応反省しているポーズを作って後頭部を掻き回す。
 小さく舌を出し、目で謝罪した彼にジャーファルは肩を竦めた。
「前はよく見るように」
「はぁい」
 無事避けられたから良かったものの、正面衝突していたら怪我をしていたかもしれない。ちくりと小言を口にして、彼は猫背の少年の左右に視線を走らせた。
 他に人の気配は感じられない。いつも彼と行動を共にしている少年少女は、近くには見当たらなかった。
「どうかしたんですか?」
「ええっと、はい。ジャーファルさんに頼みたい事があって」
「私に?」
 出会い頭に名前を呼ばれたので、用があったのは間違いなかろう。彼もまた飲みに誘いに来たのかと、あまりありそうにない想像を巡らせて問い掛ければ、予想通り答えは違った。
 上目遣いに見つめられて、首を傾げる。両手が塞がっているジャーファルに遅れて気付き、アリババはすぐそこだった彼の執務室の扉を開けてやった。
 気を利かせた少年に礼を言い、遠慮無く戸を潜る。窓の向こう側に広がる景色は、鮮やかな朱色に染まっていた。
 あと一時間と少しすれば、太陽は海の底に沈むだろう。そうなる前にランプの準備だけでも済ませておこうと決めて、ジャーファルは机に書類を置くと踵を返した。
 丁度部屋に入ろうかどうしようか迷っていたアリババと目が合って、宝石箱から飛び出して来たかのような琥珀の艶にハッとする。
「どうぞ」
「失礼します」
 そういえば入室の許可を与えていなかったのを思い出す。手招いてやれば、少年は礼儀正しく頭を下げてから中に入り、後ろ手に扉を閉めた。
 壁に据え付けられた棚の前にいた彼にゆっくり近付いて、アリババはそこに並べられているものを左から順に眺めていった。
「そっか。もうじき暗くなりますもんね」
「ええ、ですので早めに用意を」
「手伝います」
 そこには夜間の照明に使うランプと、陶器製の油壺が並べて置かれていた。他に灯心にする紙縒も束にして揃えられており、それらを見て、彼はジャーファルが何を目的に此処に立っているのかを理解したようだ。
 首肯した政務官を横目に見て、少年は両手を伸ばして金属製のランプを両手で持ち上げた。輪になった持ち手に左の人差し指を通し、右掌で斜め上を向いている口を下から支えてやる。
 見た目以上にずっしり来る重みに奥歯を噛み、彼はそれを落とさぬよう、慎重に机へと運んだ。
 苦笑したジャーファルが先回りをして、資料に埋もれていた机上を手早く片付けて作業スペースを広げてやった。出来上がったばかりの空間に一抱えはあるランプを置いて、アリババが額の汗を拭う。それを見て、ジャーファルの笑みが一層深くなった。
「無理はしなくていいですよ」
 油壺はランプよりも重い。陶器で出来ているので落としたら割れて悲惨な事になるので、アリババは大人しくそちらは年上に任せ、自分は紙縒を一本引き抜いてランプの口に差し込んだ。
 上部の蓋を外してやれば、昨晩に使い切れなかった油が半分ほど残っていた。
「いつも遅くまで?」
 振り返って問えば、ジャーファルは油壺に伸ばそうとしていた手を止めて目を細めた。日暮れ時の薄暗い中でも苦笑いと分かる表情に眉を顰め、アリババはランプの蓋を手に右足を蹴り出した。
 すぐ右隣の空いたスペースに壺を移動させて、ジャーファルがクーフィーヤを後ろに払い除けた。揮発を防止する二重蓋を慣れた手つきで外し、何故か膨れ面の少年を気にしつつ柄杓で中身を掻き回す。
「誰かがやらないと、終わりませんから」
 少量を掬い上げてランプに注げば、凪いでいた水面がほんの少し波立った。ちゃぷん、と油の跳ねる音がいつもより大きく響いた。
 物言いたげな眼差しが伏せられて、代わりに大きなため息が聞こえた。
 真横で嘆息されるのは、流石に気分が宜しく無い。言いたい事があるのならばはっきり言えば良いと苛立ち、ジャーファルは気配を尖らせた。
 肩が擦れ合う近さにいた少年が、今頃になって己の失態を知ってビクリと顔を強張らせた。ジャーファルの机に寄り掛かる形で立っていたアリババは、横目で彼を窺いつつ、両手を重ねて太腿の上で弾ませた。
「それで、用件とは?」
 気まずさが先に立ち、なかなか言葉が出て来ないらしい。黙々と作業を終えて壺に封印を施し、ジャーファルは彼を見ぬまま問い掛けた。
「え?」
 細長い口に差し込まれた紙縒に、じんわり油が染みこんでいく。役目を終えた壺を片付けに入った彼の背中を仰ぎ見て、アリババは間の抜けた声を響かせた。
 親指が絡み合った手を揺らして、三度ほど素早く瞬きを繰り返してからふにゃりと笑う。
 直後に引き締め直された彼の、表情の変化をつぶさに見て取ったジャーファルは、あまりの早業に唖然として口をぽかんと開いた。
 喜怒哀楽が激しいのはシンドバッドも同じだが、年齢の所為もあるのか、アリババはそれよりももっと豊かで面白みがある気がした。
 敢えて言葉を当て嵌めるとしたら、そう。
 可愛らしい。
「いっけね。忘れるところだった」
 何をしに部屋の前で待っていたのか、すっかり失念していた。自分の迂闊さを恥じて頬を赤くしている少年にハッとして息を呑み、ジャーファルは頭の中を駆け抜けて行った形容詞を急ぎ遠くへ追い払った。
 十七歳の男の子を指して、その表現はいかがなものか。今の発想は一時の気の迷いだと己に強く言い聞かせ、話の先を促してランプには蓋をする。
 横幅のある机を回り込んで椅子を引いた彼を目で追い、アリババは両手を背中に回した。
「鋏を、ですね。貸してください」
 そうして畏まって告げられたひと言に、ジャーファルは眉を顰めた。
 背筋を伸ばした少年を探るような目で見つめて、先ほど端に追い遣った書類を手元へ引き寄せる。別件の書類が混じっているのを見つけて引き抜き、彼はその表面を指でなぞった。
「ハサミ、ですか?」
「はい。出来れば切れ味の良い奴が良いんです。師匠に頼んだら、ジャーファルさんに相談しろって言われたんで」
 聞き間違いを疑って確認を求めたが、答えは同じだった。迷わず頷かれて、付け足された説明に彼は心の中で舌打ちした。
 シャルルカンの事だから、終業の鐘が鳴った途端にアリババを放り出して飲みにいったのだろう。ふたりのやり取りが楽に想像出来て、ジャーファルは椅子を軋ませ背凭れに寄り掛かった。
 額の真ん中を掌で軽く押さえ、アリババのリクエストにあった切れ味の良い鋏が何処に収納されているか思い出そうと記憶の抽斗を掻き回す。
 その最中、当然の如く疑問が湧いた。
「なにに使うのですか?」
 鋏など、食客たる彼の生活では必要なかろうに。
 布や紙を切り裂く程度ならば、ナイフで事足りる。長く宝物庫に収められていたバルバッド由来の剣を一瞥し、ジャーファルは立ち上がった。
「ありますか?」
「あるにはあったと……ちょっと待ってください」
 しかしアリババは答えず、鋏の有無をまず気にした。無ければ良いのだという雰囲気を匂わされて、普段は鳴りを潜めているジャーファルの好奇心がむくりと首を擡げた。
 心当たりに足を向け、棚を漁って小さな箱を見つけ出す。蓋を開けると、使い古された筆や硯に混じる形で細身の鋏が納められていた。
 鉄製で、持てばひんやり冷たい。錆びてはおらず、ランプほどではないがこちらもずっしり来る重さだった。
 鋭い刃の部分を握って持ち、アリババに見せてやる。まさしく求めていた物らしく、彼は色鮮やかな双眸をきらきら輝かせた。
「借りても良いですか」
「構いませんが、どうするのです?」
 今のところ、これを使用する予定は無い。貸し与えたところで困らないと言外に告げて再度目的を訊ねれば、少年はリズムを取って上半身を揺らした。
 動きに合わせ、額に掛かる前髪がゆらゆらと左右に踊った。一部が鼻の頭に被っている。バルバッドからやって来た当初と比べても、かなり伸びていた。
 受け取ろうと両手を広げた彼の、瞳よりも少し上に焦点を定める。目が合いそうで合わない状況に身を捩り、アリババは眼に掛かる髪を摘み上げた。
 薄日の中でも目立つ金色が、今日最後の輝きを浴びて絹織物のように煌めいた。
「髪を切ろうと思って」
「かみ?」
「はい。髪を、ちょっと」
 どうしてだか照れ臭そうにしている彼の台詞を鸚鵡返しに呟いて、ジャーファルは目を丸くした。
 アリババが重ねて言って、目を細めて笑った。太っていた頃の名残か、ふくよかな頬を紅に染めた少年にぱちぱちと忙しく瞬きを連発させて、シンドリア王国の政務を一手に引き受けている青年は頭の上に大きなクエスチョンマークを生やした。
「工作でもするんですか?」
「はい?」
 アラジン辺りが駄々を捏ねたのだろうかと真剣に考え始めた彼にきょとんとして、アリババは素っ頓狂な声を上げた。全く思ってもいなかった返答に、どう切り返せばよいのかも分からず立ち尽くす。
 噛み合わない会話の原因を求めてやり取りを振り返り、齟齬の発端となった自分の発言に嗚呼と呻く。
「えっと、そうじゃないです。そっちの紙じゃなくて」
「あ……――」
 顔の前に掲げた掌で額を覆ったアリババに、僅かに遅れてジャーファルも気がついた。
 あまりにも恥ずかしい勘違いに顔を赤くして、ふたり揃って下を向く。許されるなら今すぐここから逃げ出したい。こみ上げる羞恥をどうにかやり過ごして、彼らは温い汗を拭った後、照れ臭そうに笑い合った。
「え、えへへ」
「……どうか、今のことは。忘れてください」
「えーっと、はい。努力します。それで、借りても良いですか」
 今のやり取りがシンドバッド辺りに知れたら、一生笑い話にされるに決まっている。それだけは避けたくて口止めをして、ジャーファルは差し出された手に鋏を置こうとした。
 だが寸前で思い留まり、引っ込めてしまった。
「ジャーファルさん?」
「ひとつ訊きますが、アリババくん。もしや君は、自分で?」
 空の手を握り、少年は嗚呼と首を縦に振った。額の真ん中に垂れ下がっている一房を抓んで軽く引っ張って、にっこりと微笑む。
「床屋に行くお金、無かったですし」
 彼がバルバッドの王城を抜け出して後、苦労しながらひとりで生活を営んでいたという話は聞いている。荷運びの手伝いは危険が伴う重労働だが、賃金は仕事内容に見合う程には高くない。車を引っ張る馬や駱駝の維持費の負担が、存外に大きい所為だ。
 食費も切り詰めていたから、彼の身体は十七歳という実年齢よりも幼くてひ弱だ。そんな状況下で床屋に通うなど、到底叶うわけがなかった。
 へらりと笑って、彼は催促して右手を上下に揺り動かした。艶やかな金の髪を見下ろし、ジャーファルは手の中の鋏を握り直した。
 室内に伸びる影は長くなり、色も全体的に薄くなっていた。こうやって向き合って立っているにもかかわらず、相手の顔がどことなく朧気に眼に映る。昼と夜の境目たる黄昏時を目の当たりにして、彼は深くため息をついた。
「ダメです」
「ええ?」
「自分でなんて、危険過ぎます。もし手元を誤って、刃先が目に刺さったらどうするのです」
 数秒の逡巡の末にきっぱり言い切れば、思ってもみなかった返答にアリババが悲鳴をあげた。
 抗議の眼差しを向けられるが突っぱねて、鋏を高い位置まで掲げてしまう。大人気ない態度と突拍子もない論理に呆気に取られ、少年はぶすっと頬を膨らませた。
 まん丸い顔が余計に丸くなった。言いようによっては可愛らしい表情に肩を竦め、ジャーファルは鋏を机に置いた。
「大丈夫ですよ。初めてじゃないんだし」
「いいえ、ダメです。第一、もう暗くなります。どうしても自分でやると言うのでしたら、明日の朝になさい」
「日が昇ったら直ぐにランニングがあるんです。その後は師匠との修行だし……」
 王城の朝はなにかと慌ただしい。王と八人将、並びに数名の文官は一の鐘が鳴ると同時に朝議を開始し、アリババ達食客も身支度に朝食と、時間の余裕は全くと言って良い程存在しなかった。
 シャルルカンが朝議を終えて銀蠍塔に顔を出すその前に、準備運動諸々を全て終わらせておく必要がある。瞬き一回分の時間でさえ惜しいのに、暢気に髪を梳いて切る暇が持てるわけがなかった。
 それは単に、ギリギリまで寝床に張り付いているのが悪いのだ、という反論が喉の手前まで出かかったのを、ジャーファルはぐっと堪えて飲み込んだ。代わりに諦めに近いため息をついて、袂の長い袖の中で両手を握り締める。
 アリババは時としてとても頑固で、言い出したら聞かないところがあった。そんな性格までシンドバッドに似なくても良いのにと、我が儘極まりない王を思い浮かべて肩を落とす。
 彼らの周囲はいつも賑やかだ。笑い声が絶えず、近くにいると喧しいくらいで。
 対して自分はどうかと振り返り見て、ジャーファルは袖から抜いた手でアリババの頭をそうっと撫でた。
「ジャーファルさん?」
「分かりました。君は此処で、少し待っていてください。鏡と櫛と、あと……箒もあった方が良いですね。探して来ます」
「え、ちょっ」
 突然触れられて驚く彼に手早く告げて、言い終えると同時に足音を響かせる。カツカツと一定のリズムを刻む音色に目を丸くして、アリババは急ぎ利き腕を伸ばした。
 しかしゆったりとした官服には惜しくも届かず、指先は空を切った。空振りしてたたらを踏んで、アリババは部屋を出て行ったジャーファルに困惑の表情を浮かべた。
「別に良いのに」
 子供扱いされたのが気に入らなくて口を尖らせ、半歩後退してどっしり重い机に腰を預ける。尻は乗せず、寄り掛かるだけに済ませて縁を掴めば、行き過ぎた中指が灰銀色のランプにぶつかった。
 硬い手応えにハッとして、腰を捻って振り返る。机上には他に、今日一日寝ずに過ごしたとしても終わりそうに無い書類が、さながら建造中の塔の如く積み上げられていた。
 興味惹かれて手を伸ばそうとして、触れる直前に思い直して引っ込める。弱い西日にきらりと輝くものがあって、なにかと思えば例の鋏だった。
 こっそり拝借し、黙って部屋を辞したらどうなるだろう。
 さっさと終わらせてしまいたい欲求に心が揺れたが、あの仕事の鬼であるジャーファルが折角アリババに気を遣ってくれたのだ。バルバッドでの出来事を嘆き、哀しみに暮れていたアリババを根気強く慰め、大人の好意には素直に甘えて良いのだと教えてくれたのも、彼だ。
 それにアリババが黙ってこの場を去れば、彼は机に向かって終わらない職務に明け暮れるに違いない。休憩や息抜きだって、人が生きるには必要だというのに。
 散髪が終わったら夕食に誘ってみようか。修行の疲れで怠い肩を回して、アリババは大きなランプの蓋を小突いた。
「お待たせしました」
「ひゃっ」
 緑射塔の部屋にあるものと似ているが、あちらはもっと小ぶりだ。表面に刻まれた幾何学模様を爪で辿っていたら後ろから声が飛んで、油断していた彼は裏返った声を響かせた。
 机の前で爪先立ちになっている少年に小首を傾げ、ジャーファルは抱えて来たものを机に雑に並べた。珍しく息が切れている。砂漠の夜の月を思わせる銀の髪も、僅かに湿っていた。
「すみません。ちょっと、港の方に人の手配をして来たもので」
 途中ですれ違った文官を見て思い出して、慌てて依頼をしたのだという。どこまでも仕事熱心な彼に苦笑して、アリババは追加された道具を一度に眺めた。
 女官から借り受けた櫛と、盥に入った水。その小ぶりな桶の蓋代わりにされていたのは、よく磨かれた鏡だった。縦に長い楕円形で、縁取りの紋様が見事だった。
 箒は見当たらなかった。流石のジャーファルも、まとめて運んでくるのは難しかったようだ。
「それは終わってからでも良いかと思いましたので。アリババくん、こちらへ」
 足りない道具についての問答を片付けて、ジャーファルは机を回り込んだ。先ほど自分が座った椅子を引いて九十度右に回転させ、背凭れを示しながらアリババを手招く。
 横幅のある窓から射す光は徐々に弱くなっていた。雲が増えて、夕焼けの眩しさも普段の半分ほどだった。
「じゃあ、御願いします」
 嫌だと駄々を捏ねたところで、どうせ聞いては貰えまい。融通の利かない性格の持ち主に苦笑して、アリババは小走りに政務官の傍に駆け寄った。
 椅子には小ぶりのクッションが敷かれて、長時間座っていても尻が痛くならない配慮が施されていた。
「失礼します」
「どうぞ」
 小声で断りを入れてから腰を下ろし、背凭れに体重を少しだけ預けて寄り掛かる。年季が入っているのか、重みを受けて椅子がギシリと軋んだ。押し潰されたクッションから空気が逃げ出して、微かに不思議な匂いがした。
 以前、モルジアナが言っていた。ジャーファルからは特に匂いがしない、と。
 カタルゴ出身のファナリスは、強靱な足腰に加えて嗅覚も格段に優れている。いったいアリババ臭とはいかなるものなのか、思い出して憂鬱な気分になりかけて、彼は慌てて首を振った。
「アリババくん?」
「いえ、なんでもないです」
 不審な挙動にジャーファルが眉を顰めて、アリババは早口に捲し立てた。唇を舐めて唾を飲み、椅子の上で身じろいで尻の位置を少しだけ背凭れ側に移動させる。やわらかな感触の後に、先ほど嗅いだと同じ匂いが広がった。
 これはインクの匂いだ。
 遠い昔の、苦々しくも懐かしい記憶が不意に蘇って、鼻の奥がツンと来る。堪えて息を呑み、ゆっくり瞼を閉ざした彼を知らず、ジャーファルは借りて来た櫛を手に取って細かい歯を親指で押し出した。
 折れない程度に力を加えてから指を外し、中身が零れぬよう注意を払いつつ小ぶりの盥を引き寄せる。
 水の跳ねる音がした。彼は第一関節程度まで指先を濡らして、アリババの前髪を上から撫でつけた。
「前だけで良いんですか?」
「はい。後ろは、結べばなんとかなるし」
 毛先が湿り、水分を含んで重くなった。前方に向かってふんわり湾曲していたものが真っ直ぐ下を向いて、余った雫が重力に引かれてアリババの鼻筋を打った。
 冷たくはない。ただ肌が濡れる感触が、ほんの少しだけ気持ちが悪かった。
 襟足を気にして首の後ろを撫でたアリババに頷き、ジャーファルは湿り気を帯びた前髪に櫛を入れた。真っ直ぐ下に滑らせてやれば、余分な水分が削ぎ落とされて櫛に乗り移った。
 横からだと遣り辛いと感じたのか、彼は背筋を伸ばすと足の位置をずらした。
「っ」
 真正面に来られて、アリババは顔を覗き込んでくる冴えた眼差しに竦み上がった。
「アリババくん?」
「あ、……いえ。なんでも、ないです」
 長さを計る目的もあり、ジャーファルの距離は近い。彼が手を動かす度に、袂の広い袖がアリババの顔の前で揺れた。
 時折勢い余って顎や鼻を掠める布が気になるのだと、ジャーファルは勝手に解釈して腕を引いた。数秒逡巡してから思い切って袖を掴み、肩まで一気にたくし上げる。ずり落ちるのを防ぐ為に袖口を何度か折り返してやれば、思いの外逞しい上腕がアリババの視界に現れた。
 着衣の上からでは分からない無数の傷に、緋色の紐がさながら蛇の如く絡みついていた。
「これも、邪魔ですね」
 言って、彼は頭に装着していたクーフィーヤとイカールも外した。まとめて丸めて、机の端に置く。資料の山が突き崩されたが、ジャーファルは見向きもしなかった。
 首の後ろを涼しい風が通り抜けていく。気持ちよさそうに目を細め、彼は妙に上機嫌に微笑んだ。
「ジャーファルさんって、髪切るの、上手かったりするんですか?」
「いえ? アリババくんが初めてです」
「ひえっ」
 心持ち嬉しそうにしている彼に興味を持ち、好奇心が赴くままに問うたアリババは素っ頓狂な声を上げた。
 あれだけ固執していたから、てっきり経験があるものとばかり思っていた。しれっと空恐ろしい事を言われて背筋を凍り付かせていたら、彼にしては珍しく、茶目っ気たっぷりに笑いかけられた。
「大丈夫です。私、刃物の扱いは得意ですから」
「は、はあ……」
 そういう問題なのかと思いつつも、声には出さずに済ます。曖昧な相槌で茶を濁し、アリババは乾いた唇を舐めて顎を引いた。
 覚悟を決めて、少しだけ背中を丸めて頭を前に。断頭台に寝かされる罪人の気分で頭を垂れた彼に肩を竦め、ジャーファルは丁寧に金色の髪を梳いていった。
 乾燥地帯での生活が長かった所為もあるのだろう、毛先の一部は日焼けの影響で少し痛んでいた。しかしここ半年は栄養状態が良かったからか、全体的には艶があり、健康そのものだった。
 引っ張っても簡単には抜けない。絡んでいる部分に櫛の歯が当たって痛がられて、ジャーファルは一旦手を止めて輪になっていた毛を解いてやった。
「君の髪は、本当に綺麗な色をしていますね」
 色艶だけなら、アルテミュラ出身のピスティも負けていない。しかし彼女の髪色と、アリババのそれとでは、雰囲気がまるで違っていた。
 あちらが華麗さを競いあう高嶺の花だと言うのなら、アリババのこれは素朴さを前面に押し出した野に咲く可憐な花だ。
 手を伸ばし、いつまでも触れていたいと思わせるやわらかい色合いだ。
 だというのに。
「でも俺、この髪、嫌いだったんです」
「え?」
 ひと通り梳き終わり、いよいよ鋏を入れようとしたところで苦笑と共に告げられた内容に驚き、ジャーファルはうっかり手を滑らせた。
 床に落ちた金属製品が甲高い音を響かせた。衝撃で刃先が開いた鋏を拾って、彼は付着した汚れを払い落としつつ乱れた心拍を整えるべく深呼吸を繰り返した。
 それくらいに、アリババの告白は意外だった。
 戸惑いは表情からも推し量れた。アリババは目を丸くしている彼に首を竦め、小さく舌を出した。そしてふっと遠くを見やって、寂しげに瞳を曇らせた。
「俺がガキの頃は、こんな色してる奴はいなかったから」
 ぽつりと零れ落ちた言葉に計りきれない切なさが紛れ込んでいるのを垣間見て、ジャーファルは鋏を握る手に力を込めた。
 バルバッドの国民の多くは、黒髪の持ち主だった。アリババのように絹のような白い肌と金髪の、しかも琥珀色の瞳を持つ者は非常に少ない。
 そしてその稀な血統こそが、長年彼の地を治めてきたサルージャ王家に他ならなかった。
「ガキって、結構言葉を選ばないじゃないですか。変な色だってかからかわれたりもして、それが凄く嫌で。泥を塗りたくって黒っぽくしたり、そんな事が色々」
 他愛ないひと言でも人がどれほど傷つき、哀しい気持ちになるのかを幼子はまだ知らないでいる。投げつけられた外見の違いを思い悩み、どうにかしようと足掻いている子供を想像して、ジャーファルは浅く唇を噛んだ。
 自分は此処に居るべきではないのかという疑問に苛まれて、息をするのさえ苦しい。人の輪に混じりたくて個を別の色で塗りつぶし、見た目を誤魔化して、それで同じになったつもりになって。
 だのに迎え入れられた、望んでいた筈の場所ですら息苦しくて。
 ジャーファルが櫛を左手に持ち替えた。髪をひと房掬い上げ、根本から先端に向かってゆっくり滑らせる。終着点の一歩手前でブレーキを掛け、右手に握った鋏を暮れゆく日の光に晒す。
 目を細め、彼は不揃いにはみ出ている毛先へ慎重に刃を押し当てた。
 じょぎ、とやや無骨な音がふたりの間に零れ落ちた。僅かに遅れて、爪の先ほどの長さになった髪がアリババの膝に舞い降りた。
 肩幅に広げていた足の間にも紛れ込んで、椅子の表面が汚れてしまった。腰を浮かせて払い除けようとしたが、ジャーファルは動かないように言いつけてほんの少し短くなった彼の前髪を梳いた。
 二度、三度と繰り返し櫛を通して、先ほどと同じくほんの数ミリ、鋏の刃に通す。
 忙しなく上下に動く彼の手を追い掛けるのに疲れて、アリババは窄めた口から息を吐き、瞼を閉ざした。
 すぐそこに刃物がある恐怖は、完全には拭い切れない。だが視覚を遮断し聴覚に意識を傾ければ、凶器ともなり得る鋏は懐かしい記憶にすり替わった。
 自然と口元がほころぶ。笑みを形作った彼に、ジャーファルは小首を傾げた。
「どうしたんですか?」
「お袋が生きてた時は、俺の髪は、お袋が整えてくれてたんです」
 一度は色褪せた思い出も、言葉に伴われるうちに鮮やかに蘇った。優しい母の微笑につられて首を竦め、少年は歩くのも覚束無い年頃に戻って目を細めた。
 泥まみれになって帰った夜、母はアリババの言葉を聞いて少し哀しそうな顔をした。ぐちゃぐちゃになっている髪の毛を漱いで清めて、現れた鮮やかな金色に不満げな息子を引き寄せて、抱き締めた。
 思えば母も、父を愛して止まなかったのだ。それなのに二度と会う事も叶わない。だからこそ愛する人の色を継いだアリババを慈しみ、愛おしみ、大切に育ててくれた。
 彼女はこの色が好きだった。アリババは母やカシムの黒髪が羨ましかったが、ふたりとも綺麗だと褒めてくれた。
「今は、この色に生まれて良かったって思う」
 削り落とされた髪を掌で受け止めて、握った拳を胸に当てて呟く。
 祈りにも似た囁きに手を休め、ジャーファルは乾きつつある髪の表面をサッと撫でてやった。
「私も」
 残っていた屑を落とし、残った数本を抓んで軽く持ち上げる。緩やかに孤を描かせたところで指を離して、彼は黄昏が作り出す不可思議な彩に見入った。
 太陽が水平線に半分沈もうとしていた。空を駆ける雲のみならず、波立つ水面さえも紅に染めて、本日最後の輝きをふたりに見せつける。
 少しだけ軽くなった視界に瞬きを繰り返し、アリババは穏やかに微笑む青年を仰いだ。
「君の色は、とても綺麗だと思います」
 役目を終えた鋏を机に戻し、捲り上げていた袖を解いて歩んできた苦難の過去を布の下に隠す。皺の寄った袂ごと腕を撫でたジャーファルに息を呑み、アリババは数秒してから気の抜けた笑みを浮かべた。
 照れて赤くなる頬は夕焼けで誤魔化して、母もお気に入りだった表情を彼に披露する。
「良かった」
 そうして礼を言うより先に、そんな事を口にした。
 見晴らしの良くなった視界に首を竦めて、怪訝にしているジャーファルを余所に立ち上がる。ズボンや上着に残っていた髪を、出来るだけ水の張った盥の上に払い落とし、そこにあった鏡を覗き込んで具合を確かめてから肩越しに後ろの景色を映し出す。
 左右が反転した政務官の瞳は、廊下で会った時に比べて格段に輝きが増していた。
「アリババくん?」
 片付けの手を休めて、眉を顰めたジャーファルが名を呼んだ。鏡を下ろし、アリババは振り返って相好を崩した。
「少しは気が紛れたみたいで、良かった」
「え?」
 足りていなかった言葉を補い、きょとんとしている彼に尚も微笑みかける。
 真っ直ぐな眼差しで見つめられて、ジャーファルはやがて少し前の自分を思い出して顔を赤くした。口元を手で覆い隠すが既に遅く、表情の変化を察したアリババが楽しげに目尻を下げた。
 人の輪に入るのが苦手だった。
 友人などいない。本音をさらけ出せる相手は少ない。その数少ない盟友とも、近頃仕事の話しかしていない。
 思い出話に花を咲かせ、想いを飾ること無く実直に告げる機会など、ここ最近はしていなかった。
 唖然として、それから長い間隔で呼吸を繰り返して、ジャーファルは肩の力を抜いた。降参だと首を振り、アリババよりも短い前髪を掻き上げて頬を緩める。
「ご協力、感謝します」
「やめてください、そういうの。俺だって助かりました、ありがとうございます」
 知らず、心がささくれ立っていたようだ。八歳も年下の子供にまで見抜かれて、挙げ句気を遣われていたと知って恥じ入るジャーファルに舌を出し、アリババは深く頭を垂れた。
 そして勢いよく背筋を伸ばし、琥珀の瞳をキラキラ輝かせた。
「それで、ジャーファルさん。折角だし、これから夕飯、一緒にどうですか。アラジンとモルジアナも居ますし。俺、ジャーファルさんの話も聞いてみたいです」
 自分ばかりが昔語りをするのは不公平だと言外に匂わせて、逃げられないよう手を取って握り締める。図々しい申し出に呆気に取られ、ジャーファルは反射的に返そうとした言葉を飲み込んだ。
 アリババに遭遇する少し前、廊下ですれ違った文官達。
 彼らのような馴れ合いは必要無いと思っていた。自分はシンドバッドを支え、この国を盛り立てて行く事だけに専念していればいいと、そんな風に考えていた。
 だのに時々、城の中が息苦しい。居心地が悪くて、吐きそうになる事があった。
 日が沈む。暗くなる。だのにここは明るい。鮮やかな金色が、ジャーファルの前で無邪気に輝いていた。
「私は、まだ仕事が残っています」
「……そう、ですか」
「けれど君たちと食事をする暇くらいは、作れないことはないのですよ」
 自分は何処かのぐうたらな王様と違って有能だと暗に示し、落胆していたアリババに意地悪く笑いかける。俯いていた少年は二秒後にハッとして、探るような目を前方に投げた。
 疑い深い眼差しに、偉そうに胸を張って両手は腰に。明らかに不慣れと分かる偉そうな態度の彼に瞬きを連発させて、アリババは不意に噴き出した。
 生まれて初めて取ったポーズに照れつつ、ジャーファルも目を眇めた。道具を返却するついでに食堂に向かおうと決めて、ふたり並んで歩き出す。
 ――いけないことだとは、分かっている。
 あの人は歩みを止めてくれない。必死に走っても追いつけない背中をただ見ているしかない生き方に疲れて、ふと何気なく横を見れば彼がいて。
 目が合った、それだけのことなのに嬉しそうに微笑んでくれる存在に心は細波立ち、同時に深い安堵を覚えている。
 ――いけないことだと、分かっているのに。
「アリババくん、手を繋ぎましょうか」
「は……はいぃ?」
 思い立って問えば少年は驚愕の声を上げて、顔を真っ赤に染めはしたものの、差し出された手は拒まなかった。
 握り返される、その程良い力加減が心地よい。伝わって来る温もりや鼓動、想いを足せば、なおのこと。
 ――いけないことだと、分かっていても。
「アリババくん。君に聞いて欲しい事があるんです」
「はい? なんですか?」
 人気のない廊を、ふたり分の足音を響かせながら進む。ジャーファルの傍らで、小さなクエスチョンマークを幾つも頭上に浮かべた少年は、無邪気にじゃれつく子猫のように愛らしく小首を傾げた。
 分かっている。
 分かっているけれど。
「私は、君のことが」
 ――君の隣があまりに心地よいものだから。
 この先に待っているだろう闇深い世界に目を瞑り、ジャーファルは静かにその音をくちずさんだ。

2012/03/01 脱稿