やさしく白き手をのべて

 雑多なざわめきが耳を掠めた。
 日暮れ前の駅前は学校帰りの学生に溢れ、歩道は大いに賑わっていた。他にも営業回り中らしきサラリーマンや、夕飯の買い物に忙しい主婦の姿もちらほらと見受けられた。
 ガードレールの向こう側では車やトラックが列を成し、信号が青に変わった途端喧しくエンジン音を響かせた。排気ガスが鼻腔を擽る。吸い込むのを拒もうと、櫂トシキは右手を顔の前で振った。
 その程度で汚れた空気が拡散してくれるとは思わないが、何もしないよりはマシだろう。そんな事を考えて自分を慰め、スラックスのポケットへと指先を押し込む。前も留めずにいるブレザーの裾が押し退けられて、皺が放射状に広がった。
 太陽はまだ地平線の上にあり、空は明るい。しかし澄みわたる青空も居並ぶ建造物に邪魔されて、酷く狭苦しそうに身悶えていた。
「……ったく」
 小さく舌打ちして視線を前に戻す。苛立ち故か自ずと前に運ぶ足取りは荒くなり、歩幅もいつも以上に広かった。
 少しだけ首を前に倒して猫背になれば、視界は灰色の歩道で埋まってしまった。向かいからやってくる人の波を器用に躱して、彼はようやく見えて来た目的地に安堵の息を吐いた。
 やっとか、と十数分前の出来事を思い返して肩を竦める。
「なんだって俺が」
「うわ、あっ。ごめんなさい!」
 思わず口を突いて出た愚痴は、後方から響いた甲高い声に掻き消された。
 男子にしては少々トーンの高いソプラノ。夕暮れ前の町を切り裂いた悲鳴に、櫂は今日何度目か知れないため息を零した。
「アイチ」
「櫂くん、待って」
 左手をポケットから引き抜き、半身を翻して名前を呼んでやる。スーツ姿の中年男にへこへこと頭を下げていた少年は、頭の天辺で跳ね返っている髪一房をピクンと揺らし、慌てた様子で櫂に駆け寄った。
 男は一瞬だけふたりに目をやってから、何事もなかったかのように早足で去って行った。
 だぶだぶの学生服に身を包んだ少年が櫂に小走りに近付いて、両手を膝に置いて背を丸めた。上気した頬は紅に染まり、見上げてくる大粒の瞳は悔しげに歪んでいた。
「お前が遅いのが悪い」
「でも走ったら危ないし。さっきも、ぶつかっちゃって」
 もう其処に居ないサラリーマンを気にして、先導アイチは小さく舌を出した。
 もっとも彼の事だから、ぶつかったと言っても肩が擦れ合った程度に違いない。相手だってさほど気にしている様子は無かった。むしろ謝り倒すアイチに困惑している雰囲気さえ感じられた。
 余り気味の袖を揺らし、アイチは胸の前で人差し指を小突き合わせた。動く度に触覚のような髪がひょこひょこと左右に踊る。歩道の真ん中で立ち話をするのも通行人の邪魔になり、櫂はまたもや深い溜息をついて身体を反転させた。
 言いたい事は山ほどあったが、口にしたところで「でも」や「だって」が繰り返されるに決まっている。堂々巡りの押し問答は時間の無駄と切り捨てて、櫂は目的を果たそうと歩き出した。
 無言で遠ざかる背中を見上げて、アイチは出しかけた手を引っ込めた。
 他に比べて汚れが目立つ袖をきゅっと握って唇を噛み、なにかを振り切るかのように首を振ってから櫂を追い掛ける。
「待って、櫂くん」
「さっさと済ませて戻るぞ」
「……うん!」
 距離を詰めて呼び掛ければ、振り返っては貰えなかったが返事はあった。ぶっきらぼうなその物言いに目を見開き、アイチは次の瞬間満面の笑みで頷いた。
 今日もいつものようにカードキャピタルに顔を出したふたりは、既に来店していたカムイのファイトを見学している最中、店長のシンに突然買い物を頼まれた。
 いつもレジに座っているミサキは学校の用事が長引いて、顔を出すのがかなり遅れるのだという。これからの時間帯が一番混雑する店を放り出すわけにもいかないからと、彼は顔馴染みである櫂とアイチに、平身低頭の勢いで依頼をしたのだった。
 確かに店は既に大勢の客で賑わっており、テーブルもなかなか空きそうにない。ファイトを観戦していたい気持ちがあったが、アイチは頼みを断り切れなかった。
 そして櫂は、最初こそ断ったのだが、シンの買い物リストを見せられて、渋々荷物運びの役を引き受けた。
 アイチの細腕では、どう考えても全部担ぎ上げられそうになかったからだ。
「ごめんね、櫂くん」
「別に良い」
 自分が非力なばかりに巻き込んでしまったと、アイチが反省の色を見せて櫂に話しかける。左斜め後ろについた彼を横目で盗み見て、櫂は抑揚のない声で呟いた。
 相変わらず仏頂面で、いかにも機嫌が悪そうだ。けれど彼はこれが常であると、アイチは充分理解していた。
 再会した直後は冷徹な態度に戸惑いもしたが、心の奥深い場所は昔のまま、少しも変わっていない。彼はいつだって優しくて、アイチの味方だった。
「へへ」
 照れ臭いけれど、嬉しい。一緒に行くと言ってくれた瞬間を思い出して顔を綻ばせていたら、櫂が怪訝そうに眉を顰めた。
「どうかしたか?」
「え? えっ、あ。なんでもない、なんでもないよ!」
「おい。危ないぞ」
 問い掛けられて、まさか見られていたとは思っていなかったアイチは慌てて首を振った。普段から高い声をもっと高くして、ついでに両手も振り回す。
 ここが公道のど真ん中だというのを忘れている彼に叫び、櫂は突っ立っているアイチの右上腕を掴んで力任せに引っ張った。
 バランスを崩され、片足立ちで飛び跳ねた彼の後ろを、女子高生のグループが笑いながら通り過ぎていった。
 ふたりのやり取りを気にしているのだろう、ちらちらと視線を感じた。見知らぬ女子に笑われた事実にカーッと赤くなり、アイチは一気に近くなった櫂に目を泳がせた。
 腕の締め付けはすぐに緩んだ。パッと解放されて、堰き止められていた血流が元に戻った。
「ご、ごめん」
「気をつけろ」
 制服越しに掴まれた場所が熱い。無意識に反対の手で撫でながら頭を垂れたアイチに、櫂は表情を変えずに言った。
 そしてぽすん、と無防備にしている頭を叩いた。
 一瞬の出来事に目を見張り、アイチは歩き始めた彼を振り返った。気のせいだろうか、ボリュームのある髪から覗く耳が少し赤い。
「ほら、行くぞ」
「うん」
 唖然としていたら、誤魔化すように促された。急ぎ首肯して、アイチは櫂に続いて大型量販店に続く道に戻ろうとした。
 視線は上げたまま、縹色の背中に固定する。徐々に広がろうとする距離をひと息に詰めようとして。
「――うわあっ」
 足許への注意を疎かにしたばかりに、アイチは僅か一センチにも満たない段差に足を取られた。
 躓いて、前のめりに倒れそうになった。甲高い悲鳴に櫂がビクリとして、ポケットに両手を差し入れたまま振り返ろうとした。
 瞬き一回分の時間が、恐ろしく長く感じられた。まるで映像をコマ送りにしているかのように、世界がゆっくりと動いて行く。
 このままでは転んでしまう。一秒後に待ち受けるみっともない姿に泣きそうになって、アイチは咄嗟に、そこに見えた手摺りに手を伸ばした。
 下方に引っ張ろうとする重力に抗い、息を止めて奥歯を噛み締める。恐怖に竦む心臓に四肢を強張らせ、ぎゅっと固く目を閉ざして必死になってしがみつく。
「……!」
 ガクンと膝が折れた。しかし幸か不幸か、手摺りが思いの外近かったお陰で最悪の事態はどうにか免れた。
 道端で大の字に倒れ込むという憂き目が回避されて、アイチは背筋を粟立てて生唾を飲んだ。
 冷や汗をこめかみに流し、バクバク五月蠅い心臓を宥めて唇を舐める。閉ざしていた瞼を開いて瞬きを三度ばかり繰り返し、濁った視界をクリアにしようと試みたところで、
「大丈夫か?」
「――え?」
 存外に近い場所から櫂の声が降って来た。
 それに合わせて、しがみついていた手摺りが動いた。抱き締めている両手ごと持ち上げられて、彼はきょとんとして目を丸くした。
 釣り上げられた。縹色の袖の向こう側に、櫂の顔があった。
「え?」
 突然何も無いところで転んだアイチに抱きつかれて、櫂も驚きが隠せない。偶々自分が壁になれたから良かったものの、違う場所だったら大惨事になるところだった。
「まったく。気をつけろよ」
「え。えええっ」
「アイチ?」
 嘆息して腕を振った彼を呆然と見上げ、アイチが素っ頓狂な声をあげた。急に目をまん丸にして戦かれて、櫂が不思議そうに眉を寄せた。
 両手をパッと広げ、アイチが櫂を解放する。左側にあった重みが消えて、上半身をそちらに傾けていた彼は慌てて重心を取って制服の襟を撫でた。
 一方のアイチはといえば、転んだのがそんなにショックだったのか目をぐるぐる回し、頭から湯気を噴いていた。
「おい。まさか、どこか捻ったか?」
 誰が見ても赤いと思える顔色をして、恥ずかしそうに俯いている。両手を頬に押し当てている彼を怪訝に見下ろし、櫂は念の為に訊ねた。
 もっともアイチは二本の足でしっかり大地を踏みしめており、痛がっている様子は無い。怪我をしたわけではないと判断して、櫂はぷすぷす言っている彼の額を人差し指で軽く押した。
「うわっ」
「まったく……。ほら、もう行くぞ。さっさと済ませないと、時間がなくなる」
 無理矢理顔を上げさせて、素気なく言い放つ。打たれた場所を左手で庇って、アイチは小さく頷いた。
 笑っているようにも見えるが、拗ねているようにも取れる表情に苦笑して、櫂は一旦前に振り上げた右足を戻した。
「ん」
「櫂くん?」
 アイチが躓いた段差を靴底で踏み付けてから、左手を、掌を上にして差し出す。パーティー会場で女性をエスコートする時のような仕草に戸惑い、アイチは大粒の眼を揺らめかせた。
 その手が何を示しているのか、俄には理解出来ない。緩い孤を描いて天を向く指先と、鉄面皮とも言える無表情とを交互に見比べて、彼は手を重ねて良いものか迷いつつ右手を握り締めた。
 汗ばむ肌をズボンに擦りつけ、恐る恐る広げて浮かせる。けれど肘が六十五度に曲がったところで突然ビクリと震え上がった彼は、何故か哀しげに瞳を曇らせて俯いてしまった。
「アイチ」
「えっと。あの、……早く買い物、済ませちゃおっか」
 淡々と名を呼ばれてどうにか顔を上げ、気恥ずかしげに囁く。何時にも増して早口な彼に僅かに顔を顰め、櫂は行き場を見失いかけていた手を伸ばした。
 問答無用でアイチの小さな手を取り、強く握り締める。
 骨が軋むような痛みに肩を跳ね上げ、彼は驚愕に声も出ない様子で口をぽかんと開けた。
「か……っ」
「行くぞ。お前をひとりにしておいたら、いつまで経っても用事が片付かない」
 呂律が回らず、呼び慣れた名前すら声に出せない。
 絶句しているアイチに言い訳めいた説明を投げ放ち、櫂はふいっとそっぽを向いた。頼りない手をしっかり握ったまま、断りも入れずに大股で歩き始めてしまう。
「うわ、あ」
 つんのめったアイチが悲鳴をあげたが、今度は止まってくれなかった。
 そのままずるずる引きずられて、どうにか転ばずにやり過ごして顔を上げる。陽は西に傾きつつあり、長く伸びた影を踏む人の数は少しずつ増えていた。歩道を行き交う雑踏を避けて進む櫂は、誰がどういうルートを辿って歩いていくのか、まるで見えているかのようだった。
 するりするりと人波を躱す彼と、彼と自分とを繋いでいる手とを順に見て、アイチはボッと煙を吐くと同時に頬を緩めた。堪えても止まらない笑みを浮かべて、嬉しそうに目を細める。
「着いたぞ。……アイチ?」
「やっぱり、櫂くんは凄いね」
「うん?」
 やっとのことで辿り着いた店の入り口で足を止めた櫂に、唐突にアイチが言い放す。
 意味が分からなかった彼は首を傾げたが、買い物を済ませてカードキャピタルに戻る道すがらでも、櫂はしっかり、アイチの手を掴んで離さなかった。

2012/02/23 脱稿