公差

 空調の稼働状況が自動で変更されたのだろう、それまで感じなかった温い風が首筋を淡く擽った。
「……ん?」
 読み耽っていた本から顔を上げて、綱吉は目をぱちぱちさせた。少し乾燥しているのかもしれない。彼は瞬きの回数を増やして網膜に潤いを補うと、ついでとばかりに肩をぐるりと回した。
 図書室で借りて来た小説は分厚く、なかなかの重量だけれども、元々子供向けに書かれたものとあって文字は大きく、一ページ当たりの分量もさほど多くなかった。冒険物語というのもあって飽きること無く文章を追い掛けられる。退屈しのぎにはもってこいだった。
 けれど些細な事で集中力が見出されてしまった。一旦休憩をしようと深呼吸をして、目印になるよう本に付随していた茶色い紐をページに挟む。栞代わりにして表紙を閉じると、心地よい達成感が胸に広がった。
「ん、んー」
「読み終わったの?」
「うひゃ」
 長らく前傾姿勢でいたからか、首や肩、腰と、あちこちが痛い。凝り固まった筋肉を解そうと腕を頭上高くまで伸ばしていたら、右側から唐突に話しかけられた。
 油断していたのもあって驚いてしまって、綱吉はソファに座ったまま飛び跳ねた。ボスン、と尻をクッションに沈めて身震いして、慌てた様子で視線をそちらに流す。
 カーテンの掛かった窓を背景にして、ひとりの青年が悠然と椅子に腰掛けていた。
 その手前には大きな机が置かれて、片隅には書類が山を成していた。
「なに?」
「あ、ああ。いえ。まだ……です。もうちょっと」
 挙動不審に身を捩った綱吉に小首を傾げて、並盛中学校の応接室を不法占拠している男が目を眇めた。動きに合わせて、長さのある前髪が音もなく右側に流れて行く。切れ長の黒い瞳が隠れ行く様を眺め、彼は急ぎ取り繕って膝に寝かせていた本を持ち上げた。
 紙面からはみ出ている紐の端を指し示し、ついでに親指と人差し指を向き合わせる。一センチ程度の隙間を形作った彼に苦笑して、この中学校を文字通り牛耳っている風紀委員長はやや大袈裟な仕草で背筋を伸ばした。
 椅子の背もたれが押し出されて、ギシギシと音を立てた。少々不快な音色に肩を竦めて、綱吉は肩の高さにあった本を、今度は目の前のテーブルに置いた。
 入れ替わりに冷めてしまった紅茶のカップを取り、渇いていた喉を潤してやる。
「苦い」
 その味が予想していたものよりもずっと渋くて、表情は自然と険しくなった。それでも我慢して飲み干し、人心地着いたと吐息を零す。視線を感じて右を見れば、雲雀が目を細めて微笑んでいた。
「お仕事、終わったんですか?」
「君と同じだよ」
「……へへ」
 彼の手が長く止まったままなのに気がついて、身を乗り出しながら問い掛ける。返事は即座に得られた。不遜な台詞に一瞬目を丸くして、綱吉は直ぐに相好を崩した。
 ならば本を読み終わる頃が、彼の作業の終わる頃か。考えただけで嬉しくなって、紅色の頬は勝手に緩んでいった。
 しまりのない顔をして笑った少年に目尻を下げて、雲雀が机上に転がしていた鉛筆を摘み上げた。左手で、こちらはコーヒーが入ったカップを拾い、口へと運ぶ。
 白い陶器の動きを目で追って、綱吉は世界的に有名な冒険物語のページを捲った。
 細い紐が挟まれた箇所を広げて、記憶にある最後の文章を指で探し出す。手元に集中し始めた彼を一瞥して、雲雀も委員会の報告書作成に取り掛かった。
 カリカリとペン先が紙面を走る音だけが、しばらくの間部屋に満ちた。室内の気温を一定に保とうとして、冷えている場所を見つけ出した空調がまた自動的に羽の向きを変えた。だが襟足を撫でられても、今度ばかりは綱吉も顔を上げなかった。
 大粒の瞳を忙しく上下させて、印刷された文字を夢中になって追い掛ける。主人公の少年を己に置き換えて、勇猛果敢に邁進する自分を想像して心を時めかせる。見た事のない景色を想像して自分なりに色をつけ、物語の世界での旅を独自にアレンジしながら読み進めて行く。
 そして冒険の旅は、唐突に終わりを告げた。
「え、えー? ここで切るの?」
 冒険者の一団が道険しき山脈で、未知の敵との遭遇を果たそうとしていた。深く立ちこめた霧に行く手を阻まれ、やむなく夜営となったその日の遅く。
 火の番をしていた仲間さえ眠ってしまったところに忍び寄る、不穏な影。次なる戦いが予兆されたところでページは終わっていた。
 残りは訳者の後書きや、続編の宣伝があるだけ。盛り上がって来たところでブツリと話を分割されてしまって、作者のあまりの非道さに落胆の息が漏れた。
「ちぇ」
 続きが読みたければ、図書室に行くしかない。けれどそれはそれで、なかなかに面倒だ。
 今日借りたばかりの本を即座に返しに行くのも、微妙に気恥ずかしい。こんな事になるのなら、二冊目も一緒に借りて来るのだった。
 昼休みの自分を思い返して口を尖らせ、鈍器にもなり得るハードカバー本で膝を叩く。膨れ面で足をぶらぶらさせ、子供みたいに拗ねていたら、遠くの方から押し殺した笑い声が聞こえて来た。
 ハッとして、綱吉は自分の現在地に気付いて赤くなった。
「な、なんですか」
 そこで肩を震わせているのが誰なのかももれなく思い出して、羞恥心がむくりと顔を出した。一気に耳の先まで赤く染めた彼の怒号に、雲雀は堪えきれずに噴き出した。
 この反応からして、見られていたのは間違い無い。ここが何処なのかを忘れ、うっかり自宅で寛いでいる気分でいたのが悪かった。恥ずかしさに負けて俯いて、彼は両手で頬を覆い隠した。
 指先に触れる肌が熱い。それが余計に居たたまれなさを増幅させて、綱吉は膝を閉じ、脇も締めて小さく、丸くなった。
 ソファで団子虫になった少年に嘆息して、雲雀は開いていた携帯電話を閉じた。とっくに片付いていた書類の角を揃えて黒いクリップで挟み、茶色い紙製の箱へと放り投げる。
 処理済み、と小さく書かれた札を指で弾いて椅子を引けば、物音に過剰反応した綱吉がビクリと肩を震わせた。
 指の隙間から恐る恐る様子を窺っているのが、離れていても伝わって来た。そこまで怯えずとも良かろうに、と内心面白く無いのを隠しつつ、腰を浮かせて立ち上がる。
 携帯電話をズボンのポケットに忍ばせて靴音を響かせたところで、綱吉はソファに上げていた足を下ろした。
「ヒバリさん?」
「それ、面白かった?」
 本日の業務が終了したことは、雰囲気から分かった。壁の時計を見れば、下校時刻まであと三十分ほど残されていた。
 その僅かな時間をどうするのかと、沢山の質問を混ぜて視線を投げれば、雲雀は長い指を一本残して折り畳み、綱吉の膝を指し示した。
 ソファの背凭れに片肘ついて寄り掛かった彼を見上げて、綱吉は眉間に皺を寄せた。
 一瞬何の事か分からなくて怪訝にしてから、夢中で読み耽っていた本のことだと気付いて首肯する。読み終えたばかりの表紙を愛おしげに撫でて、彼は満面の笑みを浮かべた。
「はい。最初は取っつきにくかったけど、結構あっさり読めました」
 分厚い本は、見た目からして中身も難しそうだと決め込んで、これまで手を出してこなかった。けれどこれは、対象年齢が小学校中学年から高学年というのもあり、言葉は平易で、ルビも振られていて読みやすかった。
 もっと時間がかかるかと思っていたが、二時間と掛からなかった。それも意外で、自分でも驚いている。そういう感想を率直に述べた彼に、雲雀はその都度頷いて返した。
「へえ、そうなんだ」
「はい。えっと、主人公がなんていうか、その。俺みたいなダメダメなんですけど、実は勇者の血を継いでいて、でもやっぱりダメダメだからって頼まれて冒険に出るのも嫌がるんですけど、そこにすっごく格好良い騎士が現れて、主人公を助けてくれるんです。で、俺もあんな風になりたい、って決心して旅をしているうちに、仲間が増えていくわけなんですけどね」
 相槌が得られたのを喜び、綱吉は一気に饒舌になった。
 今し方読了したばかりなので、内容はそれなりにはっきり覚えている。最初の戦いのシーンから、謎の騎士の登場、川を渡るのに肩に担いであげたご老人が実は超有名な魔法使いと、興奮し過ぎて時折盛大に咳き込みつつ、熱の入った説明を展開させる。
 なんとも都合の良い筋立てだと思いつつ、雲雀は適時合いの手を入れてやり、きらきら眩しい琥珀の瞳に目を細めた。
 漫画ばかり読んでいるから、偶には活字にも目を向けるように言った甲斐があった。予想以上の熱の入りように苦笑して、彼は蜂蜜色の髪をくしゃくしゃに掻き回した。
「そう。じゃあ続きを借りにいかないとね」
「はい。でもそれは、明日でも良いかなって」
「気にならないの?」
「そりゃ……忘れる前に読んじゃいたいですけど」
 暗に図書室に行かないのかと問い掛けられて、綱吉は鈍い男を上目遣いに睨み付けた。険のある眼差しに首を捻って、雲雀は何気なく目をやった時計の文字盤に嗚呼、と頷いた。
 下校時間までもうあまり無いのだと知って、頬を緩める。不遜な笑みを盗み見て、綱吉はふいっ、と顔を背けた。
「わーかりました。ヒバリさんがそう言うなら、これ返して、次の借りて、帰ります」
 本心とは遠くかけ離れた台詞を舌に転がし、ふて腐れた表情のまま立ち上がろうと膝を叩く。本当は一秒でも長く一緒に居たいし、こうやってたわいない話をずっと続けていたい。けれど素直な思いはどうにも羞恥の裏に隠れがちで、なかなか表に出て来たがらなかった。
 生意気を言って腰を浮かせた彼を目で追って、雲雀は何故かククっ、と声を潜めて笑った。
 丸めた手を口元にやった彼にムッとして、綱吉は五センチ近い厚みがある本を握り締めた。
「なんですか」
「いいや、なんでもないよ。そうそう、僕もさっき、面白い話を読んだよ」
「へ?」
 鞄に伸ばそうとしていた手を引っ込めて、目を瞬く。指の力が弱まって、本が落ちそうになった。借り物を粗末に扱うわけにもいかなくて、彼は慌てて並盛中学校のシールが貼られたそれを抱き締めた。
 大勢の人の手を経て来た本の表紙は色あせて、カバーの端がほんの少しだけ破れて捲れ上がっていた。それが気になるようで、白い指先は時折その出っ張りに触れて、上に下に、動き回った。
 胸の前で両手を交差させている彼に肩を竦めて、雲雀はソファを軽く押した。反動で身体を起こし、背筋を伸ばす。
 凛とした佇まいは、どこか物語にあった謎の騎士に通じるものがあった。
 鎧を身に纏い、兜を被って居る所為で顔は見えない。けれど長く伸びた髪は黒く艶やかで、声は低く朗々と響き、威厳ある言葉は弱気になる主人公を大いに奮い立たせた。
 巻が進めば、あの騎士が誰なのかも分かるのだろうか。その容姿も、いずれ明かされるのか。
 想像を働かせ、一方で目の前に立つ男を仰ぎ見る。空想の世界と現実が重なり合って、綱吉は出かかった悲鳴を飲み込んだ。
「沢田?」
「いえ、気にしないで」
 いきなりぶるりと身震いした彼に眉を顰め、雲雀が目を眇めた。距離を詰められて、綱吉は吹き飛ぶ勢いで首を振って後ろに下がった。
 ソファに踵が当たって、転びそうになった。すんでの所でバランスを維持して安堵の息を吐き、首を竦めたままそろり、前を窺い見る。
 雲雀は心持ち楽しげに、綱吉を見つめていた。
「それで、あの。面白い……話、って」
「ああ」
 熱っぽい眼差しにどぎまぎしながら、中断していた会話の続きを促して肩の力を抜く。本を抱く手が表紙の裂け目を弄っていたことに今頃気付いて、彼は大慌てでそれを鞄に押し込んだ。
 少ない隙間に詰め込んで、ファスナーを閉める。一仕事を終えてホッとしたのも束の間。
「……っ!」
 おもむろに伸ばされた雲雀の腕が、左右から彼を包み込んだ。
 断りもなしに背後から抱き竦められて、身動きが取れない。声も出ない。息さえ出来なかった。
 目を見張り、全身の筋肉を硬直させる。心臓がドクンと激しく脈打った。十本の指が揃いも揃って痙攣を起こし、身体中を巡る血液が高熱を発して内側から彼を焼いた。
「ひ、ばっ」
 目の前の世界がぐるぐると渦を巻き、天地の感覚さえ分からなくなりそうだった。そんな中で呂律の回らぬ舌を操り、懸命に声を絞り出す。瞬きを忘れた目が乾燥して痛い。驚愕に染まった瞳を限界まで見開いて、彼は胸の前で結び合わされた他人の手に視線を落とした。
 首筋に吐息が浴びせられた。うなじにぶわっ、と鳥肌が立った。緊張でガチガチになってしまった少年を面白そうに眺めて、雲雀は元気よく跳ね返っている薄茶の髪に頬を擦りつけた。
「ひぃぃっ」
「ねえ、君ってさ。身長、いくつだっけ」
「は、はひぃ?」
 突然の抱擁とスキンシップに、声にならない悲鳴が漏れた。口ではなく、頭の天辺から飛び出したような甲高い声を響かせた彼を笑って、雲雀が囁く。脈絡のない問い掛けに、綱吉は長く忘れていた瞬きを連発させた。
 感極まって涙が溢れそうになったのを堪え、恐る恐る首を振り向ける。しかし雲雀が其処に居る所為で、思うように動かせなかった。
「お、俺の?」
「そう、身長。いくつだっけ?」
 狼狽えながら訊き返せば、首肯したのだろう、真後ろで気配が動いた。
 巻き込まれた髪の毛が一部下を向いて、すぐさま跳ね返って元の形に戻る。ドライヤーを当てても、ムースやワックスで整えてもこの髪型を強固に維持している毛髪だから、その程度で癖がつくわけがなかった。
 不思議な反応を見せた毛先を面白がって、雲雀が同じ仕草を何度も繰り返す。その間も腕は前に回ったままで、拘束が解かれる気配は無かった。
 答えなければずっとこのままなのかと考えると、一瞬にして頭の中の水分が蒸発した。白い湯気を立てた彼にきょとんとなった雲雀を知らず、綱吉は行き場の無くなった手をもぞもぞさせて、恐る恐る固く結ばれている指に忍び寄らせた。
「……ふ」
 手に手を重ねられて、思いがけない体温に雲雀が相好を崩した。
 こちらはテンパっているというのに、彼だけが余裕綽々としているのは気に入らない。ほんの僅かに得られた余裕からむすっと頬を膨らませ、綱吉は半眼した。
 身体測定は春の初めに受けたっきりで、以来保健室からは足が遠退いている。ただ友人等と比べてかなり低かったので、実のところ数字は割としっかり覚えていた。
 あれから数ヶ月。
「えっと。……ひゃく、……ろく、じゅう」
 希望的見地も含めてたどたどしく告げれば、
「そんなわけないでしょ」
「がーん!」
 即座に嘘と見抜かれてしまった。
 間髪入れずに断言されて、あまりのショックに効果音が口から出た。確かに多少さばを読んではいるが、あの時で既に百五十七センチあったのだ。あと三センチ伸びるくらい、成長期真っ只中なのだから、充分起こりえる話だ。
 それなのに、雲雀は取り合わない。今度は背伸びをして、綱吉の頭に顎を押し当てて来た。
「ぐ」
 前のめりに寄り掛かって来られて、預けられる体重が増えた所為もあって膝を軽く折り曲げて耐える。文句を言う代わりに親指の背を引っ掻いてやれば、雲雀は瞬時に気取って踵を床に下ろした。
 いったい何がしたいのか、よく分からない。ふて腐れていたら、呵々と笑われた。
「大体……、うん。百五十八に足りないくらい?」
「なんで分かるんですか。ていうか、俺全然伸びてない!」
 測定器を使ったわけでもないのに言い当てられて、まさかの名推理に愕然となる。顎が外れそうなくらいに驚いている彼に目を細め、雲雀はようやく腕を開いた。
 急に解放されて、バランスが取れない。ふらついて、綱吉は咄嗟に左足を前に踏み出した。
 そのままくるりと反転して、向き直る。久方ぶりに正面から見た雲雀は、いやに神妙な顔をして顎を撫でていた。
「あの」
「そうか。じゃあ……丁度良いんだ」
「ヒバリさん?」
 なにやらひとりぶつぶつ呟かれて、一寸気味が悪い。思案顔で見つめられるのは居心地が悪く、綱吉は後ろに回した拳で尻を軽く叩いた。
 面白い話を読んだと、そう言っていた。それは身長に関するなにかなのかと訝しんでいたら、
「さっき、ネットでね」
 心の中を読み取った雲雀が、意地悪く笑った。
 嫌な予感が胸を過ぎるが、好奇心が勝った。緩慢に頷き、綱吉は目で続きを催促した。
 向き合って立ったまま、雲雀がズボンのポケットを叩いた。表面が凸凹していることから、そこに収められているものが携帯電話だと、綱吉は理解した。
「ヒバリさんも、インターネットとか、するんですね」
「するよ。調べ物をするのに便利だからね」
「へえ……」
 沢田家にはパソコンが無い。一応リボーンが所持してはいるものの、あれは彼個人のものなので、一度も触ったことがなかった。
 携帯電話からでもネットワークには接続できるが、綱吉が所持しているものは利用金額の上限が決められているので、あまり多用するとすぐに使えなくなってしまう。学校のパソコンは使用するのに先生の許可が必要な為、授業以外で使ったことがなかった。
 そういう訳で、便利なのは知っていても、綱吉はその恩恵をあまり肌で感じられずにいた。
 緩慢な相槌ひとつで済ませた彼に微笑み、雲雀はポケットの隆起をなぞった。四角い形を布の上から辿りつつ、瞼を閉ざし、先ほど得たばかりの情報を心の中で諳んじる。
「ええっと、……うん。まず、こうやって」
「ひぃあっ」
 その上で再度手を伸ばし、綱吉を捕まえる。ぎゅっ、と今度は正面から抱き締められて、彼は甲高い声を上げて竦み上がった。
 脇を締めてきゅっと縮こまり、鼻筋に触れた匂いに頬を赤らめる。肩から背中に回った手がトントン、とリズムを取って、それがまるで、落ち着いて、と囁いているようだった。
 互いの想いを確かめ合った後でも、こうやって突然触れられると驚いてしまう。いい加減慣れて欲しいと言われているのだが、なかなかに難しい相談だった。
 ガチガチに緊張して強張っている彼に苦笑して、雲雀は右手でやわらかな髪を包み込んだ。子供をあやす仕草で撫でられて、優しい指使いにポッと胸が温かくなった。
 安堵の息を吐いた彼に目配せして、雲雀は紅色に染まった耳朶に唇を寄せた。
「知ってる? こうやってぎゅっとし易い身長差は、三十二センチなんだって」
「……はい?」
「で、致しやすいのは二十二センチ差」
 心地よいぬくもりを胸に抱いて、雲雀がどこか夢うつつに口遊んだ。心を蕩かす甘やかな囁きに頭の芯がぼーっとして、理解が追いつかない。きょとんとしている綱吉に小さく噴き出し、彼は構わず言葉を続けた。
 綱吉は身じろぎ、首を振った。束縛を緩めた彼の胸に手を添えて、眉を顰める。
 窄められた唇は甘く色付き、楽園に実る果実を連想させた。
「あの。いたす……って、なんですか?」
「――――」
 その愛らしい唇が紡ぎ出した質問に、今度は雲雀が絶句した。
 切れ長の眼を零れ落ちんばかりに見開いて、数秒間停止した後、渋い表情をしてゆっくり閉ざす。どこか痛いのか、呻き声をあげた彼に首を傾げ、綱吉はクエスチョンマークを頭に生やした。
 そんなに変なことを聞いてしまったのか。うんうん唸っている彼に不安になって、ソワソワと落ち着きなく膝をぶつけ合わせていたら、長いため息を吐いた雲雀が黒髪を掻き上げて肩を竦めた。
「君がもう少し大きくなったら、教えてあげなくもないけど」
「そう……ですか? じゃあ、それまで待ってます」
「君って、時々残酷だよね」
「へ? なんでですか、いきなり」
 彼の言葉に従って頷いただけなのに、唐突に責められて、意味不明だと憤る。拳を振り回した綱吉に再度嘆息し、雲雀は小生意気な鼻を抓んで釣り上げた。
 息が出来なくなって藻掻く彼を笑い飛ばして溜飲を下げ、軽く膝を折る。
「ン」
「っ!」
 瞼を閉ざす暇もなくくちづけられて、綱吉は大粒の目を限界まで見開いた。
 雲雀の長い睫毛や、整った顔立ちに騒然としてたたらを踏む。触れあったのは一瞬だったが、一時間よりも長いとさえ思ってしまった。じたばた足踏みをして暴れている彼に苦笑して、雲雀は少し赤くなっている鼻の頭を二度小突いた。
「う、うぅ」
「で、これが今の僕らには丁度良いんだって」
「意味が分かりません!」
 悪戯な手を叩き落とし、綱吉は顔の下半分を覆い隠した。大音響を奏でる心臓を制服の上から押さえ付け、歯を食い縛って表情筋が緩むのを阻止する。
 羞恥と歓喜が入り混じった顔の恋人に目尻を下げて、雲雀は自分の説明不足に舌を出した。
「僕ね、この前計った時で百七十手前だったんだ」
「……?」
「で、コレがし易いのは、丁度僕らの、十二センチ差、らしいよ」
 淡々と言葉を補い、人差し指を前に出す。隠れて見えない唇を求めて、覆っている綱吉の手の甲を軽く押す。
 掌が柔らかい熱に触れた。まるで彼に突っつかれた気分になって、綱吉はカーッと真っ赤になった。
「ひ、ひばっ、……!」
 咄嗟に彼の手ごと払い除けて、口を開こうとした矢先に気がついた。
 先ほどの雲雀の台詞。二十二センチ差でいったいなにを致すのか。中学二年生の未熟な知識が遠くから見つけて来た答えに、彼の理性は瞬く間に限界値を超えた。
「沢田?」
 ボンッ、と頭を爆発させて耳から煙を吐いた彼に、流石の雲雀も少々慌てた。
 ぐらぐら揺れながら膝を折って蹲り、両手で顔を隠した綱吉が首を振る。とてもではないが、今のこの顔を人に見せられない。首の裏まで朱に染めて、彼は碌でもない話を披露してくれた相手の臑を膝で蹴った。
 右足を後ろに退かせ、気付いた雲雀が楽しそうに笑った。
「将来僕は、百八十センチか。それくらいなら、うん、なんとかなるかな」
「お……俺だって伸びるもん!」
「なら、僕はもっと伸ばすだけだよ」
 十二センチより、二十二センチが良いと彼が言う。
 まったくもって有り難く無い決心に、綱吉はもう一発、恋人の足に蹴りを入れた。

2012/02/11 脱稿