べちん、と力任せに頬を叩かれた。
「いって!」
直後に襲って来た、突き刺さるような冷たさ。五センチ角に切られた湿布の柔い感触に、綱吉は情けない悲鳴を上げた。
腕を下ろした雲雀が、向かい側で深く溜息をついた。表情からして呆れているのが分かる。それでも手は忙しく動いて、湿布を固定するためのテープを引っ張りだした。
白く濁った細いテープを二本、ほぼ同じ長さになるように千切って、片方は手首に端を押し付けて垂らす。まるで短冊のように揺れる医療用のテープをぼんやり眺めていたら、その隙に伸びて来た長い指が、綱吉の頬を引っ掻いた。
嫌そうに顔を顰めるが、睨まれて反論も出来ない。大人しく顎を引いて首の位置を固定させれば、彼は満足げに頷いて、テープを下駄の歯のように並べて張りつけた。
続けてもう二本、先ほどよりも短めに千切って、井の字型になるように並べていった。
皮膚を引っ張られるような感覚に、むず痒さが付きまとった。つい引っ掻きそうになるのを耐えて口を尖らせれば、作業を終えて片付けに入っていた男が不遜に笑った。
「剥がしたら、咬み殺す」
「しませんよ」
折角人が手当てしてやったのだから、と言外に告げて脅しをかけてきた雲雀に言い返し、綱吉はそうっと患部に手の平を押し当てた。一時は遠ざかっていた冷たさが蘇り、続けてじんわりとした熱が体の内側から湧き起こった。
少しだけだが、腫れている。当然だろう、思い切り殴られたのだから。
この男に――
救急箱を閉じた雲雀をちらりと盗み見て、彼は自分を慰めんとして湿布の上から頬を撫でた。優しく、丁寧に、傷に障らぬよう注意しながら。
それでも熱はなかなか引いてくれそうになかった。後からじんじんした痛みが起きて、咥内のどこかで出血しているのか、飲み込んだ唾は少し生臭かった。
「信じられない」
ボソリと言えば、聞こえた雲雀が顔を上げた。
「なにが?」
「仮にも恋人の顔を、力一杯殴りますか。普通」
「生憎と、君の言う『普通』という定義は、僕の中には存在しない」
ぴしゃりと言い切られて、反論を封じられた綱吉は拳を戦慄かせた。開きっぱなしだった唇を閉じて噛み締めて、頬に走った痛みに舌打ちして顎の力を抜く。
そのまま足を投げ出して楽な体勢を作っていけば、雲雀がどさくさに紛れて太腿に触れてきた。
「もう」
ぺちり、と叩いて追い払い、両手を後ろに回してつっかえ棒にする。仰け反って見上げた天井は低く、煤けていた。
木の板が敷き詰められており、木目はまるで墨で描かれた川だ。太い梁が走り、屋根を支えていた。
指先が触れるのも、太さを揃えて切り出された木材だ。年季が入っており、触れるとつやつやした。毎日欠かさず雑巾掛けがされているらしいが、雲雀が駆けずり回っているところは生憎一度も見た事が無い。
心地よい肌触りと冷たさに安堵の息を吐き、綱吉はそのまま後ろに倒れこもうと力を抜いた。だのに懲りずに伸びて来た手が膝や脛の裏側を擽るものだから、ちっとも落ち着けなかった。
「ヒバリさん」
邪魔をしてくれるなと声をあげれば、またも鋭い目つきで睨まれた。
「僕の道場で昼寝だなんて、いい度胸してるね」
「別に、そんなつもりじゃ」
ただ単に、肉体が程よい疲労感を訴えているので、この世で最も楽な体勢をとりたかっただけだ。大の字になって木の匂いを嗅ぎながら寝転がることほど、幸せなことはない。
傷の痛みを気にしながら言い返して、綱吉は座り直した。横になるのは駄目だと言われた以上、嫌だったが従わざるを得ない。
横暴な道場主に肩を竦めて、何気なく頬を掻く。爪が何かに引っかかった。
「こら」
「あ、やば」
無意識にテープを弄っていた。雲雀に怒られてやっと気付いて、綱吉は首を竦め、小さく舌を出した。
一応反省している様子の彼に嘆息し、雲雀はコツン、と緩く握った拳を額にぶつけた。首を前後に揺らして衝撃を逃した青年が、琥珀色の瞳を細めて楽しげに笑った。
ふたりともスーツ姿だったが、上着はとうの昔に脱ぎ捨てて、ネクタイも外していた。
シャツのボタンを幾つか外し、身動きを取り易いよう袖も捲っていた。スラックスの下は素足で、黒の靴下が二足分、ネクタイの傍で仲良く手を繋いでいた。
彼らの近くには、打ち捨てられたトンファーと、白地に数字の模様が入った手袋が。そして、救急箱が反対側に。
胡坐を崩した雲雀の手が、綱吉から離れた。すかさず腕を伸ばした青年が、引き締まった上腕を掴み取った。
「なに?」
「あ、いえ」
引き止めた理由を聞かれても、答えようが無い。本人も意図しない、無意識の反応だったのだから。先ほどの、頬の痒さにテープを剥がそうとしたのと同じだ。
慌てて手を広げて解放するが、雲雀の目は追求を緩めようとしなかった。
じっと見詰められて、突き刺さる視線に居心地が悪い。身を捩り、足を揃えた彼は、何故か居住まいを正して板敷きの床に正座した。
足の甲が固い板に削られるようで、新たに生じた痛みに、顔がついつい強張った。
そもそも自分は此処に、見舞いに来たはずではなかったか。
それが何故か、知らぬ間に手合わせの時間になっていた。久しぶりに本気でぶつかり合って、確かに溜まっていたストレスは発散されたし、全身に行き渡る疲れはデスクワークで積み重なるものとは大きく違って、むしろ心地よかった。
但しその代償が、渾身の力を込めた一撃だというのなら、割に合わない。
吹っ飛ばされた時の衝撃を思い出して、彼は苦い唾を飲み込んだ。
一方で雲雀は飄々とした態度を崩さず、涼しい顔をして膝立ちになると、不意に綱吉に背中を向けた。立ち去るのかと思いきや、逆で、断りもなくいきなり背中から倒れてきた。
「わっ」
咄嗟に逃げようとして、理性が辛うじて綱吉をひき止めた。
折り畳んだ膝の上に、どすんと重いものが落ちてきた。衝撃が駆け抜けて、防具となる布も身につけていない足の甲に一番ダメージが来た。爪先が痺れたような電流に身悶えて、綱吉は暫く声すら出せなかった。
両手を広げて指を蠢かせ、背筋を震わせてあらゆる痛みを乗り越える。苦悶の表情に脂汗を流した彼を見上げて、全ての元凶たる男は鼻で笑った。
「いっつ、ぅあ……」
「軟弱」
「道場で横になっちゃ駄目なんでしょう?」
聞きようによってはなんとも艶めかしい声で呻いた綱吉に、雲雀が軽口を叩いた。揚げ足を取って説教を試みるが、彼は何処吹く風と受け流して耳を貸そうとしない。
怒った顔に口笛を吹かれて、悔しいやら哀しいやら、もう滅茶苦茶だった。
「ヒバリさん」
「僕の道場だ。僕がどうしようと、僕の勝手だよ」
「そういう事ばっかり言ってると、友達なくしますよ」
傲岸不遜を絵に書いたようなコメントに、綱吉は意識して肩の力を抜いた。筋肉の強張りを解き、雲雀の頭を膝に乗せたまま深呼吸を繰り返す。
トントン、と太腿を叩かれた。何かと思って下を見れば、雲雀が床に向けて指を立てていた。
どうやら枕が高い、という意味らしい。
口があるのだから喋ればいいのに、ジェスチャーだけで伝えようとするのはズボラとは少々違う気がする。真面目に相手をしてやる義理もないが、従わないと拗ねるので、綱吉は大人しく腰を浮かせ、踵を左右に広げた。
ぺたんと床に座り直せば、密着していた膝に隙間が出来た。そこに丁度首が嵌るよう位置を調整して、寝転ぶ雲雀はなんとも得意げだ。
男に膝枕をしてもらって、なにがそんなに嬉しいのか。怪訝に見下ろしていたら、冴えた漆黒の瞳と目があった。
「枕は固い方が好きなんだ」
「左様ですか」
慰めか、言い訳か、褒め言葉か。どう解釈すべきかで迷うひと言に、綱吉は早速だるさを訴える足を叩いた。
耳元で響いた乾いた音に、雲雀は閉じようとしていた瞼を片方だけ持ち上げた。
「君がいればいい」
「……はい?」
呟かれたひと言に、綱吉は聞こえなかったフリをした。その上でもう一度言ってくれるよう頼み込むが、ささやかな仕返しは無視されて、なかった事にされてしまった。
拗ねた顔をして、彼は膝に横たわる青年を静かに見詰めた。
黒水晶の瞳は瞼の裏に隠されて、今は見えない。髪と同じ色の睫が、綱吉の吐息を浴びてそよそよと揺れた。
「ヒバリさん」
この人の見舞いに来たつもりだったのに、誘われて道場に来たのが間違いだった。運動不足解消と、実践感覚を取り戻したいからと、巧く口車に乗せられてしまった。
君だって直接確かめたいだろうといわれて、抗えなかった。
彼の推察は正しい。自分は見舞いと称して、彼の肉体が本調子を取り戻しているかどうかを確認しに来たのだ。
そして結果は、ご覧の通り。
頬に張り付いている湿布の一部を視界の端に見て、綱吉は無防備に四肢を投げ出している男の髪に触れた。
つやつやした黒髪は、まるで癖が無い。指に絡みつく事無く滑って落ちて行くのを、知り合った当初からずっと羨ましく思っていた。
「ヒバリさん、ヒバリさん? ヒバリさーん。寝ちゃうんですかー?」
前髪を梳いて脇に払い除けながら、声を潜めて問いかける。寝入るにはまだ早い。太陽は高い位置にあって、道場の狭い窓から光を届けてくれていた。
穏やか過ぎる呼吸に一抹の不安を覚え、彼の機嫌を損ねることになると分かっても聞かずにはいられなかった。背を丸めて身を屈めた綱吉を細い目で見上げて、紫のシャツの青年は不遜に微笑んだ。
「ベッドに行きたいのなら、そう言いなよ」
「そういうんじゃありません!」
伸ばされた手が、垂れ下がっていた蜂蜜色の前髪を梳いた。払い除けて琥珀の瞳を覗き込んだ男の台詞に、綱吉はカッと赤くなって迫る手を叩き落した。
折角気を利かせて訪ねて来てやったのに、全部台無しだ。
「ほんとに、もう」
憤り激しく吐き捨てて、肩を上下させる。不機嫌を隠しもしない彼に呵々と笑い、雲雀は身動ぎ、頭を安定させた。
両手両足の力を抜いて、全身を綱吉に委ねる。再び目を閉じた彼を盗み見て、綱吉は口を尖らせた。
「でも、安心したろう?」
見透かしたような事を言われた。腹立たしい限りだがその通りで、肩の力を抜き、綱吉もまた彼に寄り掛かるようにして身体を楽にした。
呼吸を鎮めて意識を傍らの人物に向ければ、優しい体温と確かな鼓動が感じられた。
もう寝入ってしまったのか、雲雀は動かなかった。時折開閉する唇と、上下に揺れる胸元とが、彼の魂が此処に存在していると教えてくれた。
よくよく注意深く観察すれば、目の下には薄らとだが隈があった。肌の色も、心なしか悪い。頬がやつれているのは、決して気の所為ではなかろう。
昔も、こうやって彼に膝枕したものだ。屋上で強要されて、コンクリートの床が固すぎて半泣きになったのも、今となってはいい思い出のひとつだ。
「ふふ」
懐かしい記憶に顔を綻ばせ、眠りの邪魔にならぬ程度に黒髪を梳いてやる。出会った当初は木の葉が落ちる音でも目が醒める、とまで豪語していたのに、月日が経つと人は色々変わるものだ。
付き合いたての頃の自分たちはなんとも初々しくて、思い返せばそれだけで顔が赤くなる。今では考えられないような馬鹿なことにも、真剣な気持ちで臨んでいた。
それだけ本気だった。
だから現在もこうやって、一緒にいられる。
「ヒバリさん」
綱吉の指が、黒髪を何本か絡め取った。脇に押しのけて、額を白日にさらす。日焼けしない素肌の、綱吉から見て左側生え際近くに、薄らとだが傷跡があった。
大量に出血して、意識朦朧とする彼をこの腕に抱き止めた。あらゆる殺意を感知して攻撃を回避する彼も、流石に不幸な偶然が招いた落下物までは避け切れなかった。
爆発の影響で煙が濛々と立ち込めて、視界はすこぶる悪かった。崩落寸前の建物から脱出しようと試みて、瓦礫に躓いた綱吉を庇ったばかりに。
数日間、生きた心地がしなかった。麻痺や記憶障害といった後遺症が残らなかったのは、奇跡としか言いようが無い。最高の医療スタッフを揃えてくれた仲間達には、感謝の言葉もなかった。
だが、だからこそ、綱吉は彼とふたりきりになるのが怖かった。
傷跡は、思った以上に目立たなかった。これなら前髪に隠れて、言われなければ誰も気付かない。
「よかった」
本来気遣わなければならないのは自分なのに、病み上がりの雲雀に妙な気を使わせてしまった。なるべく普段通りを心がけていたけれど、負い目からくる余所余所しさを、彼は敏感に受け取っていたのだろう。
心から呟いて、黒髪を元の位置に戻す。心から安堵して呟いて、長く胸の中にあった蟠りを吐き出して、目を閉じる。
風が動き、頬を擽られた。
「……?」
薄目を開ければ、太い木の幹のような腕が見えた。
「ヒバリさん」
眠っていたはずの人が起きて、人の頬を撫でていた。ゆっくりとした動きで、何度も、何度も。
くすぐったさに身を捩り、綱吉はばつが悪い顔をして上唇を噛んだ。
「起きてたんですか」
「寝てたよ、ちょっとだけど」
独白を聞かれていたのかと思うと、かなり恥ずかしい。誤魔化そうと自分から水を向ければ、雲雀は音もなく手を引いてはにかんだ。
琥珀の瞳をぱちぱちさせて、綱吉が信じ難いと表情を曇らせた。一秒として同じ顔をしていない彼に目尻を下げて、青年は再び手を伸ばし、両手で柔らかな頬を包み込んだ。
眠っていたのは嘘ではない。
ただ予感がした。
だから目覚めた。
「君が泣いている気がしたから」
「な、泣いてなんかいません!」
からかわれて、綱吉は声を上擦らせた。動揺が感じられて、雲雀はさもおかしそうに笑った。
腹が苦しくなるくらいに楽しげに声を響かせ、呼吸困難に陥ったところで唾を飲む。膨れ面をしている恋人を上に見て、彼はふっ、と目を眇めた。
「死なないよ、僕は」
「ヒバリさん」
「だって君を殺すのは、この僕なんだから」
だから置いていったりはしない。
頬を擽りながらの痛烈な愛の告白に目を見開き、綱吉はやがてふにゃりと笑った。
2011/09/19 脱稿