媚薬

 窓から差し込む陽射しは暖かで、まるで一足先に桜が舞う季節がやって来たかのようだった。
 けれど壁に飾られたカレンダーが示すのは二月であり、手持ちの携帯電話の画面にも晩冬の日付が表示されている。一年で最も寒い時期は辛うじて過ぎたが、まだまだ朝晩の冷え込みは恐ろしい程に厳しい。
 ひとたび外に出れば、凍り付くような冷たい風にたちまち襲われることだろう。それでも太陽は明るい光を放ち、屋内は暖房も入って快適空間が維持されていた。
 硝子窓一枚だけでこうも環境が変わるのだから、文明の利器というものはなんとも有り難い代物だった。
「ナッツもそう思うよなー」
「ガウ?」
 ふかふかのソファの上でゆったり寛ぎながら呟いて、綱吉は膝に抱いた小さな生き物の頭を撫でた。なんの前触れもなくいきなり話を振られた方は不思議そうな顔をして、ふわふわの鬣を揺らしながら主人たる少年を仰ぎ見た。
 一見すると子猫と間違えそうだが、ナッツはこれでもライオンだ。それも未来の超技術を用いて生み出された、死ぬ気の炎を糧とする生物兵器だった。
 愛くるしい外見からは想像もつかないけれど、恐ろしい能力を秘めている。もっとも普段のナッツはやんちゃでだけど人見知りで、引っ込み思案な臆病者だった。
 ひとたび懐いた相手には腹を見せて存分に甘えるけれど、そうでない相手にはとことん恐怖心を抱き、すぐに綱吉の背中に隠れてしまう。それはそれで困るのだが、敵意を剥き出しにして襲いかかって行くよりはマシだろうと、飼い主もといご主人様も諦め気味だ。
「帰りたくないなあ」
 風が吹いているのか、見つめる先にある窓枠がたまにカタカタと音を立てた。一ミリの隙間もないくらいにぴったり閉められているので冷風が吹き込むことはないけれど、屋外の様子を想像するだけで背筋が震えた。
 鳥肌が立った腕を制服の上からなぞり、綱吉はぼそり、呟いた。
「泊まっていく?」
 その独白に、思い掛けず合いの手が入った。室内に朗々と響いた低い声に、彼はハッと息を吐いてナッツを抱き締めた。
 脇腹を擽られた天空仔ライオンが、くすぐったかったのかじたばたと身を捩った。小さな身体を器用に動かし、するりと束縛を抜け出して逃げていく。床に綺麗に着地して遠ざかっていくオレンジ色に、綱吉は出しかけた手を引っ込めて頭を掻いた。
 駆け寄って来たナッツの頭を撫でてやり、部屋の主たる青年がしっとりと微笑んだ。
 椅子を引いて身を屈め、腕を伸ばしてじゃれついてくる獣を抱き上げる。するとナッツは嬉しそうに頬を緩め、べろりと赤い舌を伸ばした。
「くすぐったいよ」
 顎を舐められて、雲雀が幾らか声を高くした。表情にさほど変化は見られないけれど、目つきは普段に比べれば格段に優しげだった。
 目下のところ、綱吉に次いで二番目にナッツに懐かれている青年は、執務机に転がった小動物の腹を擽り、綱吉を見て不遜な笑みを浮かべた。
 業務が一段落したのだろう、愛用のボールペンは卓上のペン立てに収められていた。
「むぐ、ぬ……」
「日が暮れてからだと、もっと冷えこむと思うけど」
「ヒバリさんが、ナッツに会いたいって言うから待ってあげてたのに」
 彼の手が空くのをじっと待っていたのに、ナッツに先を越されたのが悔しい。己の分身とも言える匣アニマルに嫉妬めいた感情を抱いて頬を膨らませて、綱吉は捲し立てると同時につーんとそっぽを向いた。
 両手は膝の上に揃え、背筋も伸ばし、首から上だけを明後日の方向にやる。なんとも可愛らしい拗ね方に苦笑して、雲雀は空いた手で机の抽斗を引っ張り出した。
 木で出来た家具が、狭い空間で擦れ合う。微かな物音に反応して、ナッツの耳がピンと立った。
「ガウ?」
 落ちない程度に端に寄って、彼が取り出そうとしているものを見下ろす。尻尾に宿った炎は上機嫌に揺れていた。楽しげな様子が気になって、綱吉はむすっとしたままひとりと一匹に向き直った。
 意地を張っていないで自分も見に行けば良いのにと思うのだけれど、ちっぽけなプライドが邪魔をして身動きが取れない。肘掛けに頬杖をついて見守るのが精一杯の彼の視界に、見覚えのあるパッケージが現れた。
 雲雀の掌中にある製品名が脳裏を過ぎった瞬間、琥珀色の瞳が驚愕に染まった。
「ヒバリさん!」
 全身の産毛がぶわっと逆立ち、風もないのに前髪が膨らんだ。足許から頭の天辺目掛けて悪寒が走り抜けて、衝動のままに彼は立ち上がった。
 三人は楽に腰掛けられるソファをガタゴト言わせて、常より二オクターブは高い声を響かせる。包装紙を破ろうとしていた雲雀は突然の大声に目を見張り、興味津々に鼻をヒクつかせていたナッツはビクッと大仰に身を強張らせた。
 艶やかな鬣を毛羽立てたナッツ越しに応接セットを見やって、雲雀が数回、瞬きを繰り返す。
 全力疾走をしたわけでもないのに呼吸を乱し、鼻息荒くしている少年に首を傾げていたら、綱吉は肩を怒らせたまま大股に距離を詰めて来た。
 ガッ、ガッ、と荒っぽい足音を響かせて、呆然とする彼を睨み付けて利き腕を伸ばす。
「ガウゥッ」
 いきなり首根っこを掴まれて、ナッツが苦しげに悲鳴をあげた。
 空中に吊り上げられて、観念したのか早々に抵抗を諦めてしまう。だらん、とだらしなく四肢を垂らした獣は可愛らしいのだけれど、それを摘み上げている少年の顔は少々怖かった。
 まん丸い目を吊り上げて、怒りの表情を繕おうともしない。無言で威圧的に睨まれて、雲雀もムッとして彼の方に身体を向き変えた。
 抽斗を閉めて、出したものを机に置く。厚みのない長方形の物体は銀色の包み紙に覆われて、更に黒っぽい紙が巻き付けられていた。
 綱吉も過去に何十回、何百回と目にして来たものだ。コンビニエンスストアに行けば、いくらでも手に入る。
「苦しがってる」
 ぶらぶら揺れているナッツを指差し、雲雀が若干凄みを利かせた声色で言った。
 その、自分がなにをしようとしていたのかまるで理解していない態度に腹を立てて、綱吉は残る手で彼の机を思い切り叩いた。
 ばちぃん、と大きな音が室内に轟く。当然、綱吉の手に跳ね返る衝撃も、凄まじい。
「いづっ!」
 硬い天板に平手打ちを喰らわせたらどれくらい痛いのか、知らなかったわけではない。それでもやらずにはいられなかった。肘から肩まで登って来た痺れに奥歯をカタカタ言わせて、彼は胸に留めていた息を一気に吐き出した。
 風圧で机上の書類の端が浮いた。飛んで行きはしなかったが横にずれて、それ以上行かないようにと雲雀が素早く上から押さえ込んだ。
 机の前で軽く膝を折り、身を屈めた少年が懸命に歯を食い縛って痛みに耐える。眉間に寄った皺が徐々に薄くなっていくのを眺めて、雲雀はやれやれと言わんばかりに首を振った。
 人間に飼われている状態に近いとはいえ、元々はライオン。野生の本能を発揮させたナッツがこの隙にと身動ぎ、小さな身体を大きく揺すって強引に拘束を振り解いた。
「あっ」
 綱吉が気付いた時にはもう遅い。四本足で机に降り立った獣は、乱暴な主に向かって威嚇するように牙を覗かせると、この場で最も自分に味方してくれる存在に擦り寄らんとして狭い机上を横断した。
 大振りの椅子に座る男を恨めしげに見やって、綱吉は痛みの残る手首を振った。空を横薙ぎに払うが如く振り回して、なにかを掴んで胸元に引き寄せる。
 目を瞬き、雲雀は自分の前から消えた品に気付いて口を尖らせた。
「ちょっと」
「これは駄目です」
「どうして」
 一枚の、板チョコレート。値段も手頃なその一品を胸に抱いて、綱吉は右手を空振りさせた雲雀に奥歯を噛み締めた。
 綱吉の匣アニマルであるに拘わらず、ナッツまでもが雲雀に同調して、身を低くして唸り声をあげていた。いったい誰の為にこんな行動に出ていると思っているのか、親の心子知らずな天空ライオンに切なさを抱き、彼は歯軋りの末にがっくり肩を落とした。
 目に見えて落胆している姿に、雲雀の表情が曇った。
「沢田?」
「ヒバリさん、これ、どうするつもりだったんですか?」
 怪訝に名前を呼べば、綱吉が銀紙の端が一寸だけ破れたチョコレートを肩の高さで揺らした。
 言わずもがな、チョコレートは食べ物だ。生き物が食べる為に存在しているものだ。そして補足を入れると、雲雀は基本的に甘い物が苦手だった。
 つまり雲雀は、チョコレートなど好んで食べない。となれば、これは誰かに――なにかに与える為に購入したとしか考えられない。
 綱吉は今日、ホームルームが終わった後に応接室へ寄るよう言われていた。理由は特に聞かなかったが、小さくて可愛らしい生き物が好きな彼の事だから、ナッツに会いたいのだろうというのはなんとなく想像がついた。
 今日は十四日。古くは如月と呼ばれた月の、十四日目。
 だからチョコレートなのだろうとそこまで推測して、綱吉は疲れた顔で肩を落とした。
「どうするって、そりゃ」
「あのですね。ナッツは、ライオンなんです」
「ガウ?」
 雲雀が彼の手元と、机の上で仁王立ちしている猫にも見える生き物とを見比べながら口を開いた。それを途中で遮って、綱吉はチョコレートの端で自分の額を小突いた。
 食べ物を粗末に扱う彼にムッとして、雲雀が返却を求めて手を広げた。掌を上にして差し出されて、それこそ心外だと綱吉は口を尖らせた。
 彼がこれをどうするつもりだったのか、その結果どういう未来が待ち受けているのか、綱吉には全てが見通せてしまった。その上でこれを彼の手元に戻すなど、天地がひっくり返っても出来るわけがなかった。
 歯を食い縛って爆発しそうな怒りを堪えている彼に、雲雀は不機嫌な表情を崩さない。何故そんな目で睨まれるのかも分からなくて困惑していたら、思いが通じたのか、ナッツが高らかに吼えた。
「ガウッ」
 百獣の王らしく胸を張って、主に向かって牙を剥く。子猫の俊敏さで飛び跳ねた獣に、綱吉は慌てて肩を引いて避けた。
 チョコレートを狙って躍りかかったナッツを躱して後退して、奪われぬよう大事に両手で抱き締める。その際、力を入れすぎたのだろう、薄い板チョコがパキッと真ん中で折れる音がした。
 元々切り分け易いように筋目が入っていたのだから、それも仕方の無いことだ。しかし自分が用意したものを他人に好きにさせるのは腹立たしくて、雲雀の表情は一気に不機嫌に染まった。
 足許でぐるぐる回っているナッツにも困った顔をして、綱吉は降参だと天を仰いだ。
「そうじゃなくてー……」
 自分も説明が足りなかったと反省して、唸っている小動物を抱き上げようと手を伸ばす。身を屈めた彼の手にあるものを狙いに行ったナッツだったが、直前で気付いた綱吉がサッと遠ざけたので、短い爪は敢え無く空を切った。
 横に飛び跳ねた天空ライオンに肩を竦めて、綱吉は彼を捕まえるのを諦めた。一歩半前に出て、机の前で不満げにしている男へと奪い取ったものを返却する。
「なにがしたかったの」
 受け取って、雲雀が目を眇める。睨まれて、綱吉は臑を引っ掻いてくる獣を足で転がした。
「ヒバリさんって、その。動物とか……飼ったこと」
「無いけど?」
 嘴が横に長い小鳥は勝手に懐いてきているだけと公言して、雲雀はさらりと言い切った。ハリネズミのロールもまた、彼にしてみればペットとは違う扱いなのだろう。
 間髪入れない即答に苦笑して、綱吉は頬を掻いた。ならば知らなくても無理は無いかとひっそり嘆息して、構って欲しそうにしているナッツを今度こそ抱き上げる。
 逃げられないようぎゅっと両腕で包み込んで、彼は愛おしい獣に頬を寄せた。
「ガウ、ガウゥ~~」
 苦しいけれども嬉しいようで、ナッツは少し前までの怒りも忘れ、上機嫌に吼えると自分からも綱吉に擦り寄っていった。
 携帯電話のカメラを向けたくなる光景に、雲雀は一瞬手を泳がせてから気付いて思い留まった。行き場を失った手を戻して、机上のチョコレートを人差し指で叩く。
 割れてしまった所為か、真ん中が端に比べて膨らんでいた。銀色の包み紙にも太い皺が一本走っており、彼の指はそれを押し潰す形で上に向かった。
「それで? チョコレートと、動物の飼育経験と。なにか関係あるの?」
「大ありです」
 一向に進まない話の再開を求めて質問を投げかければ、ぬいぐるみと間違えそうなサイズのライオンを抱いた少年がふんぞり返って言い切った。
 左手を腰に当てて胸を反らせる、若干偉そうな態度に雲雀が口を尖らせた。頬杖ついて、目を逸らす。人の話を真剣に聞く様子が見られないのにムッとして、綱吉は咄嗟に出かかった怒号を慌てて喉の奥に押し戻した。
 ここで喧嘩口調になってしまったら、進む物も進まなくなってしまう。今は我慢の時だと自分に言い聞かせて、彼はわざとらしい咳払いで場を誤魔化した。
 ナッツの喉を擽り、最近得たばかりの知識を胸の中で諳んじる。
「えっと、あの。ナッツって、猫じゃないですか」
「ガウウ!」
 どう説明するかで迷いつつ、言葉を探して目を泳がせて口を開く。ぽろりと零れ落ちたひと言に過剰な反応を示して、ナッツが途端に大暴れを開始した。
 人の言葉はある程度理解出来ているようだ。猫扱いされたと知って、激しく抵抗して飼い主の腕を引っ掻く。
「うわあ。って、違うよナッツ。別にお前が猫ってわけじゃ……猫科って意味でさ。分かってる、分かってるから。お前はライオンだって」
 急な反抗に驚き、綱吉は寸前に自分が言った台詞を思い出して急ぎ訂正を加えた。それでも怒りが治まらないネコモドキを懸命に宥めて落ち着かせ、しらけた目を向けてくる相手には気まずげに微笑みかける。
 結びあわせた手の上に顎を置いて、雲雀は呆れ混じりに肩を竦めた。
「で?」
 思わぬ邪魔で中断してしまった説明の再開を促して、眇めた黒い瞳を上向ける。冴えた眼差しにドキリとしたのを隠して、綱吉は視線を若干右にずらした。
 まだ怒り心頭でいるナッツの頭を撫でながら、消し飛んでしまった記憶を探して地団駄を踏んだ後、
「……そう、そう。えっと、猫……科の生き物は、駄目なんです。チョコレート」
 どこまで喋ったかをまず思い出してから、彼は早口で捲し立てた。
 猫、という単語が出た瞬間にナッツがピクリと反応したが、それは抱き上げている綱吉にも伝わったのだろう。頬を引き攣らせて無理のある笑顔を浮かべて、最後は自分の発言に力強く頷いた。
 雲雀は予想通り初耳だったようで、切れ長の目を丸くして、驚いた顔をしていた。
「そうなの?」
「犬と、あと……他にも色々、ダメなんだそうです、動物って。カカオの成分の、なんだっけかな。テ、テオ……テオブロ、ミン? だかなんとかっていうのが中毒を引き起こすらしくて」
 訊き返されて、綱吉は少し自信なさげに、されとちょっぴり得意げに言葉を重ねた。
 十年後の世界から無事に帰還を果たした子供達には、救われた未来からの贈り物とでも言うべきだろうか、死闘を共に潜り抜けた匣アニマルが与えられた。綱吉にナッツを見せられた奈々は、この小さな生き物をすっかり猫だと信じ切っており、いつしか沢田家には猫グッズが散乱するようになっていた。
 そして初めてペットを飼うのだからと、猫の飼育本まで複数冊用意された。
 その中に、注意事項として大きな字で書かれていたのだ。飼い主としての心構えの項目に、どの本にも重要なポイントとして記されていた。
 下手をすれば命に関わるから、たとえ少量でもチョコレートを与えるべきではない、と。
「ふぅん」
 ひと通り聞き終えて、雲雀は緩慢に頷いた。一応は納得してくれたようで、綱吉も安堵の息を吐いて肩の力を抜いた。
 今後のこともあるので、知っておいて損はなかろう。綱吉が居ない時に、雲雀がナッツに与えてしまう危険性はこれで回避される。
「なるほどね」
「ヒバリさんでも知らない事、あるんですね」
 理解を示し、椅子の背凭れにぐーっと寄り掛かった雲雀が伸ばした手でチョコレートを引き寄せた。折角用意したのに無駄になってしまったと、額に翳して天井から注ぐ照明を遮る。
 何気なく呟かれたひと言に眉を顰めて、彼は心持ち嬉しそうにしている少年を睨んだ。
 普段は教えられる側ばかりなので、逆の立場に立てたのが余程嬉しいらしい。にこにこと満面の笑みを浮かべられるのが少し腹立たしくて、雲雀は仕返しをしてやろうと椅子を軋ませた。
 背筋を伸ばして座り直し、未だ封が破られていないチョコレートの端を唇に押し当てる。
 意地悪く眇められた瞳は、ゾッとするくらいに綺麗だった。
 どことなく恐ろしげなのに美しい表情に胸を高鳴らせ、綱吉は息を呑んだ。目を見張った彼の胸元で、抱く力を強められたナッツが苦しげに呻いた。
「え、あっ、ごめん」
「それにしても、ねえ」
 爪で軽く手首を引っ掻かれ、俯いた綱吉が慌てて腕を緩めた。ケホケホ言っている背中を撫でていたら、左肘を机上に突き立てた雲雀が蠱惑的な声色で囁いた。
 僅かに身を乗り出して、手にしたチョコレートを上下に揺らす。彼の手元か、顔か、それともナッツか。どこに意識を集中させて良いか分からぬまま、綱吉は戸惑いに瞳を彷徨わせた。
 雲雀が椅子を引いた。無駄の無い動作で立ち上がり、ゆっくり靴音を響かせながら机を回り込む。
 その手には未開封の甘い菓子が握られたままだった。歩み寄る彼には、特別変わった様子は見られない。だのに雰囲気に臆して、綱吉は半歩後退した。
 対するナッツは高らかに吼えて、雲雀に向かって右前足を伸ばした。じたばたする彼に焦り、上から押さえ付けようと胸元に意識を向けた隙を狙って、雲雀が一気に距離を詰める。
「君って」
「うぐ」
 目の前に降った影にハッとした時にはもう彼は其処に居て、綱吉の口目掛けて手にしたものを突き出した。
 包装されたままのチョコレートを唇に押し込まれて、突然の事に彼は目を白黒させた。舌で押し返そうにも加えられる力は強く、両手は暴れるナッツを抱き締めるのに使用中。銀紙ごと噛み砕くわけにもいかなくて、綱吉は口の端が裂ける恐怖と戦いつつ上目遣いに男を睨み付けた。
 生意気な眼差しを嘲り、雲雀が悪戯っぽく笑う。力を緩めてやれば、薄く歯形が残る銀紙と綱吉の間に唾液の橋が架けられた。
 艶めかしい空気が漂い、細い糸が千切れると同時に霧散した。
「うっ」
 飛び散った水滴が冷たくて、綱吉は思わず首を竦めた。縮こまった彼に目を細め、雲雀はとって返したチョコレートを自分の下唇にそっと重ねた。
「本当に。君はどうして、学校の勉強に関係無いことばかり詳しくなっていくんだろうね」
「ふぐ……む、うぅぅ」
 チョコレートに含まれる成分など、家庭科の授業でも扱っていない。何故教科書の内容を覚えず、余計な雑学ばかり記憶して行くのか。
 並盛中学校全体を取り仕切っている風紀委員長の問い掛けに、彼は言葉を喉に詰まらせ、悔しさと恥ずかしさが入り混じった顔で俯いた。
 みるみる紅色に染まる頬を楽しげに眺め、雲雀はチョコレートに手を伸ばすナッツのサンバイザーを上から押さえ込んだ。
「君は、ダメ」
「ガウ~」
「さて、これはどうしようかな。折角用意したけど、無駄になったし」
 犬猫には与えてはいけない食べ物として、雲雀の記憶にはチョコレートがしっかりインプットされた。匣アニマルにも当てはまるのかどうかは別として、綱吉の機嫌を損なわない為にも、今後は注意するに越した事はなかろう。
 今日という日の心遣いも無駄となってしまったと、わざと大きめの声で呟く。視線を向けた先では、二月のカレンダーが物寂しげに佇んでいた。
 格別、これといってなにも記載されていない平日、十四日。
 同じ物を目の端に見て、引き結んでいた口を大きく開いて息を吸い、綱吉はガチリと音立てて奥歯を噛み締めた。
「あの、ヒバリさん」
「知ってる?」
 身体の底から熱が湧き上がってくるのを耐えて、意を決して呼び掛ける。それを遮り、雲雀が甘い香りを放つチョコレートを顔の横で揺らした。
 意味深な微笑みを浮かべて、薄く開いた唇から赤い舌を覗かせる。艶めいた仕草にどきりとして、綱吉は耳元で囁かれた言葉にカーッと顔を赤くした。
「ガウ?」
 聞こえたようで聞こえなかったナッツが、小首を傾げて可愛らしく鳴く。
 無邪気な小動物を抱き締めて、綱吉は底意地の悪い男に向かって大声で怒鳴りつけた。
「ヒバリさんの、エッチ!」
 ナッツごと振り上げた手で肩を叩かれて、彼は心底楽しそうに笑った。

『知ってる? チョコレートって、催淫効果もあるらしいよ?』

2012/02/01 脱稿