Prunus Persica

 無意識だった。
「いってえ!」
 剣を握る右腕を強く弾かれ、体勢を崩された。斜めに傾いだ身体を踏み止まらせようと奥歯を噛み締め、腹に力を込めたところで視界にきらりと輝くものが飛び込んで来た。
 反射的に背に回していた左腕を前に伸ばし、手を広げて段々鋭くなる閃光を受け止めんと構えを取る。
 直後、焼け焦げるような痛みがアリババに襲いかかった。
 鮮血が散った。ざっくりと肉が裁ち切られる感覚が、なんともリアルに脳に伝わった。
 熱が、痛みを凌駕する。一瞬で感覚が麻痺して、肘から先が物言わぬ無機物に成り代わった。
「アリババっ」
 思わず握っていた剣を放り出して、蹲る。正面から響いた大声に返事をするのも忘れ、彼は真っ二つに切り裂かれた肉から溢れ出す赤い液体を呆然と見つめた。
 カシャン、という音が耳朶を掠め、荒く息を吐いたアリババは瞬きと共に視線を浮かせた。はっ、と一見落ち着いているように思える吐息を零して、靄がかった世界を前に眉間の皺を深める。
 彼の膝元に、男がひとり、滑り込んだ。
「この馬鹿、何やってんだ。素手で受け止めるとか、有り得ないだろ」
 早口に捲し立てたかと思えば、男は空の両手を慌ただしく振り回して、肩に羽織った上着の裾を乱暴に引っ掴んだ。
 幾何学模様の刺繍が施された緑色の縁取りを握り締めて、帯で固定されているところまでをぐっと引っ張る。ピンと伸びた布に向かって小さく首肯したかと思えば、彼は何を思ったか、視線を左右に泳がせた。
「……く、ぅあ……」
「痛いか。もうちょっと我慢しろ。あと、出来るだけ頭より高いトコまで持ち上げてろ。右手で、分かるか、脇の内側押さえんだ。急げよ」
 そうしている間もアリババの掌からは鮮やかな血潮が溢れ出し、勢いは一向に留まる気配を見せなかった。白い石を敷き詰めた鍛錬場の床が見る間に赤く染まり、石と石の継ぎ目に吸い込まれていった。
 升目の境界線が露わになっていく様にふと目をやって、漆黒の肌を持つ青年は背中に吹いた風に冷たい汗を流した。
 どくん、と強く胸が鳴った。一瞬覚えた嫌な予感を慌てて振り払い、ようやく見つけ出した、つい先ほど自分で投げ捨てた剣を拾おうと腕を伸ばす。
 膝立ちになった彼をぼんやりと眺めて、アリババは瞬きを繰り返した。
 言われた通りに左手を、右腕を支えにして高く掲げ上げる。心臓よりもずっと上に移動させれば、まるで太陽に向かって己の血を捧げているようだった。
 どこかの国で今もそんな儀式が行われていると、なにかの本で読んだ気がする。あれは確か、シンドバッドの冒険書の一幕ではなかったか。
 朧気な記憶が呼び覚まされて、アリババは手首を伝って流れて来る赤い雫に視線を集中させた。
 霞がかった景色は次第に色を取り戻し、輪郭を顕わにしていった。それに呼応する形で遠くに追い払っていた痛みまでもが一気に舞い戻って来て、彼を苦しめた。
 全身のありとあらゆる汗腺が開いて、生温い汗が一斉に噴き出した。
「ぐう、っあ」
 歯を食い縛るが、押し殺しきれない。呻き声を上げ、血を流す腕と共に前のめりになる彼を一瞥して、シャルルカンは漆黒の切っ先を己へと差し向けた。
 覚悟を決めて、ひと息に振り下ろす。
 ビリッ、と布が裂ける音が場に響いた。上着に切れ目を入れた彼は即座に剣を投げ捨てると、織り目に沿って真っ二つに引きちぎった。
 力業で分離させられた上着の一部だったものの端が、風を受けて不安定に揺れた。不揃いな幅の即席包帯を握り直して、シャルルカンは前傾姿勢で蹲る少年の前に躙り寄った。
 顔を寄せれば、ぜいぜいと苦しげな呼吸が聞こえた。
「アリババ」
「ってぇ、……です」
 師匠、と泣きそうな声で呼ばれて、彼はうっかり面映ゆげに目を細めてしまった。
 アリババにそう呼ばれるようになって、まだ十日と経っていない。弟子を持つのが憧れだったとはいえ、未だにその呼称はどうにも慣れなくて、呼ばれる度に照れてしまう。
 だが今は嬉しがっている場合ではないと思い出して、彼は急ぎ自分を戒め、表情を引き締めた。
「見せてみろ」
 肩を丸めて小さくなっても、言いつけ通り右腕だけはなるべく高く、切った掌が上を向くように構え続ける根性は、認めてやっても良いだろう。脂汗を流し、痛そうに顔を歪めている新弟子に肩を竦め、シャルルカンは長さがちぐはぐになった上着の裾を払い除けた。
 右膝を床石に衝き立て、左膝は起こして上体を安定させる。細かく痙攣を起こしている手越しに目を凝らせば、琥珀の瞳いっぱいに涙を浮かべたアリババが見えた。
 そういう顔をしていると、年齢よりもずっと幼い。剣を取り、果敢に挑んでくる時とはまるで別人だ。
 傷に障らないよう注意を払ってそうっと手首を握るが、それでも痛かったらしい、アリババの顔に苦悶が滲んだ。
「ひぅっ」
 鼻を愚図らせ歯軋りした少年にふむと頷き、シャルルカンは傷を確かめんと背筋を伸ばした。
 手首の角度はそのままに、上から覗き込む。親指の付け根と人差し指のほぼ中間から手の甲に向かう一帯が、見事なまでにぱっくり裂けていた。
「うわっちゃぁ」
 これは見ているだけでも痛い。破れた皮膚から覗くピンク色の肉に青くなり、彼は急ぎ膝に添えていた細長い布を掴んだ。
「ししょ、ぉ……」
「悪ぃな。俺があと一寸でも早く、反応出来てたら」
 鼻声で痛みを訴えられて、焦りが大きくなる。早く手当てをしないと、と思えば思うほど、指先が悴んで動かず、空回りが続いた。
 アリババが避けるではなく、咄嗟に素手で剣を受け止めようとするのを見て、切っ先の軌道を変えられたら良かったのだが、一歩間に合わなかった。勢いに乗っていた反りを持つ曲刀は、そのままアリババの左手を切り裂いてしまった。
 もっともあそこでシャルルカンが何もせずにいたら、可愛い弟子の左手は最悪、本体から分離していただろう。そうならなくて良かったと、誰も知らないところで安堵の息を吐いて、彼は急ぎアリババの手首に布をぐるぐる巻き付けた。
 三重にして、端と端をきつく縛る。骨が軋む程に圧迫されて、新たに生じた痛みに琥珀色の双眸が涙に濡れた。
「我慢しろ。止血が先だ」
 腕は下げるなと再度きつく命じて、シャルルカンは恨めしげに睨んでくる瞳に肩を竦めた。
 二度も放り投げてしまった、命の次くらいに大事な剣を拾って表面をなぞれば、刀身に僅かだが血糊が残されていた。
 袖を通してはいるものの、着ているとは言い難い上着の裾にも少しだが、赤い色が染みついていた。
「いってえ。死ぬ……死にそうなくらい痛ぇ……」
「それくらいで死ぬか。男だろ、我慢しろ」
「師匠の鬼ぃ!」
 感覚が麻痺してきたのか、脳細胞が痛みを遮断したのか。兎も角時間が過ぎるにつれて、再度右腕の感覚は遠くなっていった。だが気を抜いて指の一本でも動かそうとすれば、途端に身体が木っ端微塵に砕けそうな激痛が四肢を駆け抜けた。
 悶絶してぴくぴく震えながら、少しでも気を紛らせようと怒鳴れば、切り裂いたのとは反対側の上着の身頃を掴んだシャルルカンが、控えめに微笑んだ。
「そうだな、悪かった。俺のせいで」
「え……」
 それまでの高圧的な態度が掻き消えて、不安になるくらいの神妙さで告げられた。呆気に取られて返す言葉を見つけられずにいるアリババを前にして、彼は上着の左身頃に切れ目を入れると、勢いつけて布を裂いた。
 血が少量付着した二本目の即席包帯を右手に構えて、顎をしゃくる。身を低くしろとの合図だと三秒後に理解したアリババは、ずきずきと疼く痛みを発する手を抱え、背中を丸めた。
 噛み締めた歯の隙間から息を吐き、色の薄い前髪の間から前方を注視する。
 常から身に纏う楽観的な雰囲気を何処かへ放り出して、シャルルカンは真剣な表情でアリババの傷を睨んでいた。
 なにかに怒っているようであり、なにかに哀しんでいる。
 複雑に入り組んだ感情を垣間見て、アリババは息を呑んだ。
 直後。
「――いって!」
「暴れんな。ちょっとの辛抱だろ」
「そんな、こと、……っても。あうっ」
 ふわりと風を受けた包帯を、当初に比べればかなり流血が収まりつつある傷口に押しつけられた。固まりつつあった血液を押し潰し、創傷を覆い隠す。
 今度は二重に、傷口全体を包むように巻き付けられて、アリババは身体中の血液が沸騰する錯覚に寒気を覚えて身震いした。
 堪え切れなかった涙が一粒零れて、紅に色付いた頬を伝い落ちて行った。
 しゃくり上げた彼を上目遣いに見やり、シャルルカンは簡単に解けないよう包帯を固く結んだ。少しの隙間も出来ないよう切創を外側から圧迫して、先に手首に巻いた分はほんの僅かに緩めてやる。
 元より白い肌がもっと白くなっていた指先に、幾らか赤みが戻った。
「もう、ンな無茶はするなよ」
「しま、せ……ん、よ」
 氷のように冷たくなっていた肌にも温もりが戻ったのを確かめ、シャルルカンが茶化して言った。額をコツンと小突かれて、上半身を前後に揺らしたアリババは盛大に頬を膨らませた。
 長く投げ出したままだった足を引き寄せ、膝を起こしてそこに寄り掛かる。左腕を下げようとしたら、まだ駄目だと怒られてしまった。
「痛いです、師匠」
 掌に巻かれた包帯に血が滲んだのは最初だけだった。小手に残る血の痕を右手で擦れば、乾きかけていた液体が薄く表面に広がった。
 痛みはまだある。だが、一時期に比べればずっと楽になっていた。
 出血量に驚かされたが、傷自体は思った程深くなかったようだ。痺れている指先を動かそうと、痛みを堪えて力を込める。若干ぎこちないながらも、五本とも全部思う通りの反応をみせてくれた。
 神経にも、異常はみられない。確認を済ませた刹那、脱力感に襲われてアリババは首をぐらぐら揺らした。
「いたいですー。もー、師匠のバカー!」
 気が緩んで、また涙が零れそうになった。そちらは引き締めて、代わりに恨み言を口に出して右足を前に蹴り出す。
 座ったまま膝を攻撃されて、上着の所為ですっかり見窄らしくなったシャルルカンはムッと口を尖らせた。
「なに言ってやがる。元はといえば、お前が変な事すっからだろ。このバカ弟子」
「あいたっ」
 先ほどと同じ場所を、二度立て続けに弾かれた。赤くなったおでこを右手で庇って、アリババは乱暴極まりない男を憎々しげに睨み付けた。
 確かに彼の言う通り、怪我の発端はアリババの不注意だ。受け止めるのでなく後ろに跳んで避けていれば、こんなにも痛い目に遭わずに済んだのだ。
 咄嗟の判断の難しさに、自分の経験不足を思い知る。ただそれをあからさまに指摘されるのは、たとえ本当の事であっても、素直に受け入れるのは難しかった。
「師匠が上手く剣を退いてくれれば良かったんですよ」
「なっ、あ……むぅ」
「そういう事もきちんと出来て、本当の一人前なんじゃないんですか?」
「だ、あー。くそっ。偉そうに言ってんじゃねーよ、このチビ」
「俺はそんなに小さくないです」
「うっせえ。俺より小さい奴はなあ、みんなチビなんだよ」
「ちょっと、止めてく……だあぁっ!」
「あ、やべ」
 反発して言い返せば、負けじとシャルルカンが怒号を上げた。本筋から段々逸れていく口論の末、相手が怪我人だというのもすっかり忘れて、彼はアリババの手を取った。
 辛うじて傷口には触れなかったものの、包帯の結び目を掠めた爪先から衝撃が伝わり、アリババは左肘を抱き締めて身悶えた。
 身体を前後左右に振って暴れる彼に目を見開き、直後に状況を思い出してシャルルカンは口元を覆い隠した。こめかみに汗を滴らせて、ぜいはあと肩で息をしている弟子を恐る恐る窺う。
 涙で潤んだ琥珀の眼に、射殺されそうな勢いで睨み付けられた。
「しっしょーの、ぶぁーかーっ!」
「悪かったよ。悪かった、今のは完璧に俺が悪かった。だから泣くなって」
「泣いでなんがいぶぁじぇん!」
 鼻が詰まっているからか、声がくぐもって呂律も回っていない。妙に濁音の多い怒鳴り声に肩を竦ませ、シャルルカンは言葉とは裏腹にぼろぼろ涙を流す少年の頭を軽く叩いた。
 跳ね上がっている毛先を押し潰して掻き回し、嫌がって逃げようとする彼にからからと声を高くして笑う。
 人好きのする笑顔を向けられて、アリババは涙を拭い、むぅ、と押し黙った。
 拗ねた彼に目を細め、シャルルカンは一部が赤黒く変色している包帯に視線を落とした。
 傷口は布に隠れているが、流れ出た血はそのままだ。肌にこびり付き、一部乾いた場所には細かいヒビが入って欠片がぽろぽろと足許に落ちた。
「まだ痛いか」
「いたいに、きまって、……、ます」
「そうか。んじゃ詫びに、早く治る呪いでもしてやるよ」
「まじない?」
 親指の腹をなぞりながら訊かれて、アリババが愚図りながら途切れ途切れに嫌味をぶつけた。
 これまでと違い、穏やかな声が投げ返された。意味深な台詞に眉を顰め、彼は傷に響かない程度に首を右に倒した。
 怪訝にしている弟子を呵々と笑って、シャルルカンが首肯した。
 呪いと、魔法はどこが違うのか。彼は剣術こそ得意だが、ヤムライハのような魔法は一切扱えなかった筈だ。
 ここ数日で得た情報を総動員してみるが、さっぱり分からない。頭の上にはてなマークを生やした彼を前にクッ、と喉を鳴らして、シャルルカンは包帯まみれの手を下から掬い上げた。
 身を屈め、顔を伏して。
 瞼を閉ざし、薄く唇を開く。
 ぺろり、と。
「――――――…………っっっっっ!!!」
 生温く、それでいて柔らかい感触を傷口の真横に感じ取り、アリババは声にならない悲鳴をあげて総毛立った。
 首を倒したまま、シャルルカンが瞳だけを上向かせた。赤く伸びた舌が、蛇のように蠢いていた。
 もう一度。今度は更に強く、時間も長く。
 そこにこびり付いている血汚れを舐め取ろうとでもしているのか、何度も、丹念に。
 その度に背筋を粟立て、アリババは青くなった直後、ぼふん、と煙を吐いて真っ赤になった。
「なっ、な……、なに!」
「あれ、お前知らねえの。こういうのは、舐めときゃ治るんだって」
「知りません!」
 生まれて初めての経験に狼狽し、動揺激しく叫ぶアリババにしれっとした顔でシャルルカンが答える。その美丈夫の額を思い切り押し返して、彼はあたふたしながら身を起こした。
 立ち上がろうとして転びかけて、どうにか踏み止まって左腕を庇いつつ鍛錬場を駆け出す。騒動を遠巻きに眺めていた兵士達が、慌ただしく首を振るのが面白い。
 慌てふためいている弟子の背中を見送り、シャルルカンも遅れて立ち上がった。徐々に小さくなり、やがて完全に見えなくなった姿に相好を崩して、まだ舌の表面に残る感触と味を唾と一緒に飲み下す。
 血など、美味くない。それは幼い頃から身に染みて知っている。
 だのに。
「う……と。やべえ。癖になりそう」
 緋色を強めた唇をなぞってひとり呟けば、思い掛けず深みにはまろうとしているのを強く自覚させられる。
 当惑したまま目を泳がせれば、きらりと光るものが見えた。拾い上げ、シャルルカンは表面をそっと撫でた。
 鋭い切っ先を持つバルバッドの宝剣が、なにか言いたげに彼を見つめていた。

2012/01/20 脱稿