その日届けられた荷物は、日本からの国際郵便だった。
宛先名は、沢田綱吉。差出人は、彼の母親だった。
ボンゴレ十代目を継承した青年は、母国の高校を卒業すると同時にイタリアへ渡った。彼がこの島にやって来て、二度目の夏が始まろうとしていた。
陽射しは日に日に鋭くなり、地表を焼く熱は容赦ない。しかし東の島国ほど湿度が高くないので、日陰に入ればそれなりに涼しい。スコールが降っても人々は傘を使わず、空の恵みに感謝して天然のシャワーを楽しんだ。
それもこれも、カラッとした陽気の所為だろう。強雨は瞬く間に過ぎ去って、顔を出した太陽が濡れそぼった人々を優しく乾かしてくれた。
もっとも、暑いことには変わらない。気温が最も高くなる時間帯、人々はやる気を失って働くのを拒否する。昼寝の時間は長く、その分一日が終わるのは遅い。
西の島出身の人間からすれば、東の人間は勤勉すぎる。
東の島出身の人間に言わせれば、西の人間は自堕落すぎる。
どちらが良いのかについては判断を保留するが、確かに綱吉は、気負っている面もあろうが、少々働きすぎだ。
「沢田殿」
女中も執事も、午後の休息を楽しんでいた。比較的真面目な運送屋が、苛々した様子で早くサインを寄越せとせっついてくる。何度も押される呼び鈴でやっと来訪者に気付いたバジルは、こめかみに青筋を立てている短気な男に頭を下げて、急ぎ手持ちのペンを動かした。
受け取りを済ませ、配達員が敷地の外へ出て行くまで見送る。トラックに乗り込んだ男は、バジルの視線に気付いて忌々しげな顔をして、ギアをバックに入れた。
ようやく静かになった玄関先で、彼は床に置かれた大きな段ボール箱に肩を竦めた。
観音開きのドアを閉める。鍵は自動的に掛かった。
「沢田殿は……」
仕事をサボっている女中達を責めるつもりはない。彼女らは自分の休息を、即ち己の身体を、仕事よりも大事にして、優先させただけの話だ。
身体を壊しては働けない、だから仕事は程ほどに。そんな考え方をする彼女らの気持ちも、バジルには充分分かる。
そしてそういった考え方が出来ない不器用な、腐るほどに真面目すぎるボンゴレ十代目の気持ちも、痛いくらいに分かってしまう。
元々バジルは、綱吉の父親である家光の部下だった。家光は日本出身の日本育ちで、仕事ぶりに定評はあったが、イタリア人に共通しがちな怠慢さは肌に合わなかったようだ。
昼休憩を削ってでも仕事に励む彼は、上司からは信頼されたが、部下には嫌われた。
彼を慕う者は多い。同時に、疎ましく思っている人間も相応の数に登った。
そのバジルは前者に相当し、家光の日本式の働き方にも触れてきた。だから綱吉が、たまに心配になる。
「この時間なら、まだ執務室でしょうね」
そうっと溜息をついて呟き、彼は腰を曲げて箱を抱えた。中身は、衣服、と書かれている。送り状の記述に相違ない重さに頷いて、彼はくるりと身体を反転させた。
正面玄関から左右に分かれた階段を登り、二階へ向かう。更に幾つかの角を曲がり、階段をまた登って廊下を進んだ先、警備システムも厳重な一画にその部屋はあった。
葡萄の蔦が絡みついているかのように見事な彫刻が施された分厚い一枚扉をノックしようとして、バジルは両手が塞がっている事に気付いて眉を顰めた。
一度床に置いて、と考えるがそれも失礼な気がする。仕方なく彼は、一抱えはあるそれを右手と右足で支えて、フリーにした左手で急ぎドアを叩いた。
ゴンゴン、といつもに比べて乱暴に。大きく響いた音に、中から即座に声がかかった。
「はーい?」
「沢田殿、失礼します」
思った以上に、段ボール箱を抱えたままの作業は辛い。落ちそうになったのを慌てて左手で捕まえて、彼は中にいる人に助けを求めた。
「お忙しいところ恐縮ではありますが、ドアを、開けてはくださりませんか」
「バジル君?」
仕事中に申し訳ないと思いつつ、呼びかける。弱りきった声色に、室内から甲高い声が響いた。
二十秒程経って、ドアノブがひとりでに回転した。かちゃり、と音がして、厚みのある木の板がスッと動いた。
十五センチ程度の隙間から外の様子を窺って、琥珀色の瞳が輝く。目があって、バジルは箱を抱えたまま肩を竦めて苦笑した。
手がいっぱいなのだと暗に示されて、綱吉はドアの開きを大きくした。左にずれて道を譲って、バジルが中に入るのを待って戸を閉める。鍵は、かけない。
廊下側とは打って変わって装飾も殆どない質素な扉を背景に、綱吉は眉を顰めて首を傾げた。
「どうしたの、それ」
「沢田殿に、お届けものです」
「俺に?」
「はい。日本からです」
箱を軽く揺らして示し、置く場所を探して視線を泳がせる。綱吉の机は目下資料の山で埋もれており、スペースを開けてくれとはとても言えなかった。
応接セットのテーブルは空いていた。急な来客がない限りは大丈夫だろうと判断して、彼はそちらに足を向けた。
「なになに」
懐かしい母国の名前に興味を示し、綱吉が駆け寄って来た。先回りしてソファに腰を下ろし、置かれた箱の送り状を覗き込んで目を輝かせる。
実母の名前を見つけて嬉しそうに顔を綻ばせ、彼は座ったばかりだというのに立ち上がって、鋏を探しに執務机に駆け込んだ。三分後、戻って来た彼の手には良く切れそうなカッターナイフが握られていた。
箱は、長期間の旅にも耐えられるように頑丈に出来ていた。厳重に封がされて、行き先を示すシールがべたべた貼られている。
中に詰められたものを傷つけないよう注意しながら、綱吉は一寸だけ歯を出したカッターナイフで、慎重に梱包テープに切れ目を入れた。
「なんだろう」
「さあ」
衣料とあったが、わざわざ日本から送ってくるくらいだ。着物かと期待したバジルであったが、残念ながら彼の予想は外れた。もっとも、和服という括りに入れるのなら、あながち間違いともいえない。
濃い紺色の布で作られた涼しそうな衣装に、綱吉もバジルも目を瞬いた。
「甚平だ」
「ジンベイ?」
「知らない?」
上下の揃いで、少しずつ柄が違うものが合計三着も入っていた。同封されていた手紙には、奈々の字で、お友達にも分けてやるように、との言葉が記されていた。
昔から変わらない丸みを帯びた女性特有の文字に苦笑して、綱吉は物珍しげにしているバジルに目を細めた。
「着る?」
「宜しいのですか?」
上司だった家光の影響もあろうが、バジルは結構な日本好きだ。知り合った頃も和室に興味津々だったし、洗濯するのだって時代錯誤もいいところの洗濯板を愛用していた。
ちょっとピントがずれた日本フリークの彼が嬉しそうにするのを見て、綱吉は奈々の気遣いに感謝しながら深く頷いた。
「いいよ。っていうか、実は俺、もう持ってるし」
異国に渡る際に、奈々が持たせてくれたものが既にある。ただあまり袖を通す機会がなくて、長い間クローゼットの奥の方で眠ったままになっているが。
今夜辺り、久しぶりに着てみようか。そんな事を考えながら、綱吉は透明な袋に入れられた甚平を取り出した。
封を切って丁寧に引き抜き、衿の内側に取り付けられたタグを確認する。値札は当然だが外されているので、サイズを調べるにはそこの記述を頼るしかなかった。
「……母さん」
そうして彼は、遠く離れた場所で暮らす母の余計な気遣いに項垂れた。
「沢田殿?」
がっくり肩を落としてしまった彼に、バジルが怪訝な顔をした。どうしたかと問えば、綱吉は力なく首を振ってソファに座り直し、真新しい甚平を彼に手渡した。
見てみろ、と指で示されたので視線を下向けたバジルは、綱吉の落胆の正体を悟って苦笑した。
「これは、拙者は入らないですね」
「ごめん」
ぬか喜びさせてしまったと恥じた彼に頭を下げられて、バジルは気にしないで欲しいと目を細めた。
気持ちだけありがたく貰っておくと、Sサイズの甚平を入っていた袋へと丁寧に戻す。念のため残る二着も調べてみたが、どれもサイズは同じだった。
離れて暮らす弊害が、こんなところで出てしまった。
「母さんってば、俺のこと、いったい幾つだと思ってるんだよ」
これでももうじき二十歳になるのだ。大人としての階段だって、着実に登っている。
積み重ねられた甚平に向かって愚痴を零し、八つ当たりでチョップを叩き込む。真ん中で凹んだ布の塊に溜飲を下げて、彼はソファに深く身を沈めた。
彼の言う通り、綱吉は背が伸びた。着ようと思えば入るだろうが、肩が少し窮屈かもしれない。ズボンの方も、膝小僧が丸出しになろう。
「お母上からすれば、沢田殿はいつまでもあの頃のままなのだと思いますよ」
「それにしたってさ」
毎週のように国際電話をして、毎月のよう近況を記した手紙や葉書を送っているのに、どうして気付いてくれないのだろう。背が伸びた報告も、しっかりしておいたはずなのに。
奈々を擁護するバジルの言葉に頬を膨らませ、綱吉は投げ出した足をばたばたさせた。
もう少しで二十歳になる青年が、なんとも子供っぽい態度だ。埃を立てる彼に肩を竦め、バジルは緩衝材代わりに丸めて詰め込まれていた新聞紙を広げていった。
甚平以外にも、下着や、普段着に出来そうなシャツなどが何点か入っていた。靴下に、ネクタイまで。
わざわざ高い運賃を払ってまで送ってくる意味が分からない。生活用品の大半は、空輸しなくてもこちらで幾らでも手に入る。
「お元気そうで、なによりです」
「まあ、ね」
お節介なところも変わっていない。心配してくれているのだろう、とそういう事にして、奈々の若干ピントがずれた心遣いに感謝しながら、綱吉はテーブルに山積みになった衣類に相好を崩した。
綱吉がこちらに移り住むのと入れ替わりで、家光は職を退いた。今は並盛町で、愛する妻と悠々自適に過ごす毎日だ。
同居していた子供達も揃って綱吉についていくことになったので、一気に寂しくなると案じていただけに、父親の判断は意外だったものの、嬉しかった。
「後でお礼の電話、しておかないと」
「それはとても良いことだと思います」
ボソリといえば、聞こえていたバジルが満面の笑みと共に言った。
無事に荷物が届いたという報告と、サイズへの苦情も忘れてはいけない。もう中学生ではないのだと、いい加減奈々も気付いてくれてよかろうに。
本当に、バジルの言う通り、彼女の中の綱吉像は、未だ小さな子供らしい。手がかかって、なんでもかんでも母が助けてやらねばならないような、そんな年端も行かない子供のまま。
本格的な夏に突入して、時間が取れるようなら、久しぶりに帰ってみようかとも考える。家光のにやけた顔を見るのは腹が立って仕方が無いが、母が喜んでくれたらそれで帳消しだ。
遥々日本から運ばれてきた、あまり有り難くはないけれども嬉しい品々を順番に手にとって、綱吉はせっせとはこの片付けをしているバジルに目をやった。
「おや?」
彼は段ボールに残っていた新聞紙をすべて片付けて、最後に底に残っていたものに首を傾げた。
まだなにか、入っていた。真っ白い箱はほぼ正方形で、大きさは掌に載せると角が少しはみ出る程度。
取り出したバジルが綱吉に向けて差して、彼もまた怪訝にしながら両手で受け取った。奈々の手紙は甚平の件にしか触れておらず、この箱についての記述はなにもなかった。
「なんだろ」
さほど重くないが、軽いわけでもない。試しに振ってみるが、特に音はしなかった。
爆弾等という物騒なものであるとは、思いたくない。第一航空便で届いたのだから、税関で危険物が紛れていないかどうか、しっかり確認されているはずだ。
ふたりして不思議そうに箱を見詰めるものの、そんな事をしたところで透視が出来るわけではない。
綱吉はがっちり封がされている蓋に爪を立て、テープに切れ目を入れて指を隙間に捻じ込んだ。
「よっ、と」
少々乱暴な手段で開封して、中身を取り出す。白い緩衝材に包まれた球体に、またもやふたりは目を瞬いた。
「なんなの」
マトリョーシカではないのだから、と若干苛立ちながら端を留めているテープを剥がす。引っ張ると、包まれていたものがコロン、とテーブルに転がった。
完全な球形ではなかった。突起があり、反対側に大きな穴が開いている。透明な短い棒が一本、赤色の紐に結ばれていた。
突起を抓んで持ち上げれば、紐に繋がった棒が空洞をぐるりと掻き回した。ちりりん、と軽やかな音色が部屋の中に涼しい風を呼び起こした。
目を見張る。紐を抓んで棒を揺らせば、先程よりも幾らか大きく、音が響いた。
よくぞ旅の最中で割れなかったと、感心してしまった。
「風鈴だ」
「知っています。確か日本の、夏の風物詩ですね」
呟かれた綱吉の言葉に大袈裟に反応して、バジルが身を乗り出した。
折角綺麗に広げて重ねた新聞紙を派手に散らかして、三秒後に我に返って慌てふためく。珍しい彼の姿に呵々と笑って、綱吉は軽やかな音色を奏でる風鈴に息を吹きかけた。
透明な球体の中で、金魚が二匹、仲睦まじげに泳いでいた。
扱いも乱暴な通常の宅配便で、よくぞ無事だった。恐らくは沢山詰め込まれた衣類に包んで、衝撃が届かないようにしていたのだろう。
と考えれば、あれだけ大量に、無駄とも思える衣類が箱にひしめいたのも納得が行く。奈々が本当に届けたかったのは、甚平ではなくこちらではなかろうか。
見た目にも涼しげな風鈴をじっくり眺めて、綱吉はそれを大事にテーブルに置いた。
「バジル君は、見たことなかったっけ」
「はい」
知識としてなら知っている、という顔のバジルが、若干照れ臭そうに頷いた。
確かに彼が日本の、沢田家に居候していたのは夏も終わった、秋だった。ザンザス率いるヴァリアーと、ボンゴレリングの継承を巡って闘った日が、随分と懐かしく感じられた。
思えばあの辺りから、綱吉の運命は大きく狂った。
マフィアのボスなど御免被ると言い張っていたのに、そうも言っていられなくなって、結果的にこうなった。
吃驚するくらいの値段がするだろうソファにゆったり腰掛けて、綱吉はオーダーメイドのワイシャツの襟を引っ張った。
「吊るさないのですか?」
早速飾り付けるものとばかり思っていたバジルが、そわそわと落ち着きなく問うた。もう少し寛いでいたかった綱吉は、投げかけられた質問に苦笑して肩を竦めた。
「どこに?」
「ですから、此処に」
「えー。けど風鈴って、騒音問題にもなってたんだよ?」
ちりん、ちりん、と優しい音色を響かせる風鈴は、バジルの言う通り日本の夏に欠かせないアイテムといえた。しかし昨今はなにかと騒音に過敏な人が増えており、窓辺に吊るされたこの品が奏でる音までもが、不快と受け止められるようになっていた。
だからか、音のしないものまである。ただそれでは風鈴としての存在価値が半減してしまう。
風鈴は、風に揺られて音を響かせてこそ、風鈴だ。
足を肩幅以上に広げ、間に両手を置いた綱吉が身を乗り出して言った。
「そうかも、しれませんが」
勢いに負けて、バジルが哀しげに顔を伏した。切なそうな表情にうっ、となって、綱吉は口を尖らせ、やりきれない思いを飲み込んだ。
夏場、執務室は基本的に窓を開けない。冷房を入れているからだ。だから風が吹くとしても自然が作り出したものではなく、人工的な微風が頬を撫でるくらい。
空調を切って窓を開けて仕事をするなど、とてもではないが無理だ。
「う……」
上目遣いに見詰められて、綱吉は一分近い逡巡の末、降参だと両手を挙げた。
ホールドアップのポーズを作って、風鈴を手に立ち上がる。カーテンレールに吊るせばよかろうと、適当な紐を探して風鈴上部の孔に通し、端はまだ結ばない。
部屋中をちりんちりん言わせながら動き回る綱吉を目で追って、バジルは底を開いた段ボールを畳んでソファに立てかけた。
ひと通り片付けてから、急いで綱吉の元へ向かう。彼は執務机の前から椅子を引っ張りだしてきて、白いレースのカーテンが掛かる窓を見上げていた。
冷房はいつの間にか切られていた。空気はまだ冷たいが風が止んで、動いているとうっすら汗が浮かんだ。
綱吉が執務机に近い大窓を開けた。ぶわっとカーテンが膨らんで、正面から体当たりされた青年が小さく悲鳴を上げた。
「わ」
「沢田殿」
後ろ向きにたたらを踏んで、椅子を蹴って転びそうになる。急いで駆け寄って背中を支えてやれば、衝撃を受けた風鈴が抗議するように喧しく鳴り響いた。
この音量が頻繁に続くようなら、確かに騒音と言われても仕方が無い。思ったよりも大きい音色に、バジルは息を飲んだ。
ふわりと鼻腔に甘い匂いが香って、俯けば綱吉の頭があった。放せ、と肘で胸を押されて、バジルは苦笑しながら両手を広げた。
自力で立った後も、彼は何故か憤然としてバジルを見ようとしなかった。椅子を引き寄せ、靴を脱いで上に乗る。
「よっ、と」
バランスを取りつつ目線の通常よりもずっと高くした彼は、思った以上に怖い、と内心怯えつつ、踊り狂うカーテンを避けてレールに手を伸ばした。
しかし、足場が不安定なのもあって、なかなか思うようにいかない。椅子を置く位置が遠かったのか、背伸びをしてもなかなか届かなかった。
「沢田殿」
「もちょ、い」
片手でレールを掴んで、もう片手に持っていた風鈴を寄せる。後は紐を絡めて外れないよう結ぶだけなのだが、舞い上がるカーテンにも邪魔されて、ままならなかった。
べちん、と顔を叩かれて、彼は目を吊り上げた。
「ああ、もう!」
「沢田殿。拙者がやります」
癇癪を爆発させた彼を見かねて、下でうろうろしていたバジルが助け舟を出した。綱吉に降りるよう促して、風鈴を受け取るべく右手を伸ばす。
折角身長差が逆転したのに、見下ろされている気分になった。綱吉は拗ねて盛大に頬を膨らませて、奥歯を噛み締めてそっぽを向いた。
「俺がやる」
「ですが、沢田殿では届かないではありませんか」
「そんなことない」
諦めるよう説得を続けるバジルに耳を貸さず、綱吉は懸命に椅子の上で背伸びを繰り返した。爪先だけで体重を支えて、ぷるぷる震えながら紐を結ぼうとする。
指が汗で滑って、紐がすっぽ抜けた。
「あっ」
「危ない!」
風鈴が、重力に引かれて真っ逆さまに落ちる。紐は孔に通しただけだ。綱吉の右手は急に軽くなった。
咄嗟に叫んだバジルが、綱吉の横から飛び出して両手を広げた。空中でキャッチして、バランスを崩して窓に激突した綱吉に首を竦める。
窓枠にぎりぎり手が届いたので、バルコニーに転落という憂き目を見ずに済んだ。心臓がバクバク言って、口から飛び出してしまう寸前だった。
瞠目して汗を流す彼に肩を竦めて嘆息し、バジルは今度こそ椅子から降りるよう、彼に強い口調で提案した。
「うぅぅ……」
哀しげに呻いて、綱吉は渋々バジルに場所を譲った。身長差が元に戻って、麦の穂色の毛先が綱吉の目の前で揺れた。
脱いだ靴を並べたバジルが、椅子を一寸だけ前に出して座面に飛び乗った。タイミングを計って腕を真上に伸ばし、風鈴の孔に紐をサッと通してレールに結びつけてしまう。
人が背伸びをしてやっと届く高さを見下ろしている彼に、綱吉はひとりむくれた。
椅子を蹴り倒してやりたくなったが、殺人の容疑者にはなりたくないので止めておく。作業を終えた彼を避けて後退して、綱吉は耳に響いた軽やかな音色に苦笑した。
ちりん、ちりん、ちりりりりん。
風に煽られた赤い紐に繋がれたガラス管が、風鈴の縁を叩いて元気良く笑っていた。
聞いていると、怒っているのが馬鹿らしくなってくる。が、椅子を降りたバジルに前に立たれた途端、上機嫌は吹き飛んでしまった。
「ずるい」
「はい?」
開口一番言われて、意味が分からなかったバジルは目を点にした。靴を履いて椅子を元の場所に戻し、長い前髪を払って後ろへ流す。
この数年で伸びた後ろ髪は、馬の鬣のようだった。獄寺がよくそうしているように、邪魔にならないようひとつにまとめて縛っている。
伸びたのはなにも、髪の毛ばかりではない。
奈々が送ってくれた甚平は、男性向けで一番小さいサイズ。綱吉なら辛うじて入るが、目の前にいるこの男は――
「だって、昔は俺と、同じくらいだったのに」
出会った当時、ふたりはまだ中学生だった。
身長も、体重も、殆ど同じ。当時、同い年でも背の高い仲間ばかりだった綱吉にとって、視線の高さが揃う彼はとても心強い仲間だった。
ところが一年が経ち、二年が過ぎ、三年を越えて、五年目を数えた今となっては、どうだ。
「そう言われましても……」
不満げな眼差しを向けられて、バジルは困った顔をして頬を掻いた。
その背丈は軽く百八十を越え、獄寺に並ぶほどだ。女の子のように愛らしかった顔立ちも今ではすっかり大人びて、一人前の男のそれになってしまっていた。
綱吉など、童顔が祟って正しい年齢を言い当てられたことがないというのに。
細身で華奢なところは変わらないが、綱吉に比べれば骨の太さからして違う。雨後の筍宜しくむくむく伸びられて、置いてけぼりを食らった身の哀しさといったら、あったものではない。
「ずるい。ずるいったら、ずるい。ちょっと分けて」
「それは、流石に無理です」
膨れ面で主張する綱吉に愛想笑いで応じて、バジルは目尻を下げた。
「それに、沢田殿。背が高いと不便なことだって、あるのですよ」
「どんな?」
「え、えと……」
男として、人より大きいのは矢張り嬉しい。だがそれを言えば綱吉が余計に拗ねる。なんとか宥めようと適当な事を言ったら追求されてしまって、彼は視線を泳がせた。
答えに窮していたら、険しい視線を向けられた。思い切り睨まれて、バジルはそれらしい言い訳を探して頭を働かせた。
「そうですね。例えば、天井に頭がぶつかったり」
「嘘だ。どこにそんな天井の低い家があるのさ」
「バスに乗るときに」
「バスに乗らないじゃない」
「車に……」
「それは俺だって屈まないと乗れないんだけど」
「沢田殿」
「嘘つき」
ああいえば、こう言う。悉く論破されて、バジルはいよいよ弱りきった表情を浮かべた。
きつい口調で罵られて、正直ちょっと腹立たしい。だが綱吉が長く身長のことで悩み、プライドを傷つけられてきているのを知っているだけに、逆ギレを起こすことも出来なかった。
リスのように頬を膨らませた青年を前に、彼は天を仰いだ。
そうしてふっと、重ならない目線の高さに哀しい思いをした記憶を蘇らせる。
「嘘ではありません。不便ですよ、背が高いのも」
「うそだー」
「では試してみましょうか?」
それは三年ほど前の、秋。綱吉がまだ日本に居た頃。
長期休暇を利用して訪ねて行ったバジルは、思いの外開いてしまった身長差に驚き、感覚のずれに戸惑わされた。
「試す?」
なにを、と疑問に思った綱吉が怪訝に聞き返した。バジルは鷹揚に頷いて、綱吉の前で膝を折った。
軽く屈んで、久方ぶりに同じ目線の高さに立つ。
「不便です」
こうしないとキスも出来ない。
そんな事を囁いて、そうっと、赤く塗れた唇に触れる。
思ってもいなかったくちづけにボッと真っ赤になって、綱吉は思い切りイタリア男の頬を叩いた。
痛みを耐えて苦笑するバジルを慰めて、風鈴がちりりん、と鳴った。
2012/01/03 脱稿