契籠

 木漏れ日が降り注ぐ。陽射しは暖かく、風は緩い。
 頬を撫でて通り過ぎて行った悪戯な妖精に微笑み、沢田綱吉は手にしたテーブルクロスを勢い良く広げた。四角形の布を円形のテーブルに被せて、表面を撫でて皺を伸ばし空気を抜いて行く。
 傍には背凭れのついた椅子が一脚のみ。座っているのは黒髪の青年だった。
 同じ色の瞳を眇め、樹齢百年を軽く越える樹木越しに空を仰いでいる。眩しそうにする彼をちらりと盗み見て、綱吉は上機嫌に微笑んだ。
 鼻歌まで聞こえて来て、雲雀は長い足を組み、その上に頬杖を着いた。
「楽しそうだね」
「そりゃあ、もう」
 呆れ混じりに呟かれた台詞が嫌味であることにすら、彼は気付かない。満面の笑みで振り返って、堪えきれずにクスクス声を漏らした。
 さっきからずっとこの調子だ。付き合っていられないと、雲雀は再び晴れ渡る空を仰いだ。
 小鳥の囀りが聞こえてきた。どこから忍び込んだのか、野良猫が堂々と尻尾を揺らして歩いていた。
 季節の花が咲き乱れ、蜜を求める蝶が飛び交う。赤白黄と、チューリップではないが色とりどりの花びらが風にそよぎ、甘やかな香りを放っていた。
 のどかな午後だった。町の喧騒からは遠く離れ、猥雑な人の営みは感じられない。物情騒然とした世界から完全に切り離された空間に、今は彼らがふたりだけ。
 白亜の宮殿と呼んでも遜色ない屋敷を背景に、庭園は静かだった。
 綱吉はチェック柄の布を均して整えると、テーブルの足元に積み上げていた荷物を持ち上げた。頑丈な帆布で作られた鞄の蓋を開け、中からひと回り小さな布製のケースを取り出す。
 優雅な午後に、優雅な茶会を。
 傍から見ればそんな光景に見えそうなものだが、彼が広げたポーチの中に収められていたのは、間違っても見目麗しい茶器の類ではなかった。
 ファスナーを全開にして、横長だったものを縦長に作りかえる。理路整然と並べられていたのは、銀の輝きを放つ鋏の数々だった。
「大丈夫なんだろうね」
 中身を確認してにんまり笑った綱吉に、一抹の不安を抱いた雲雀が言った。脚を組み換え、腕組みをして小首を傾げる。合計五本の鋏をケースのまま抱きかかえ、綱吉は得意満面に頷いた。
「勿論です」
 自信たっぷりに返されて、雲雀は逆に不安を強めて溜息を零した。が、当の綱吉は気付かず、テーブルに向き直るとケースを寝かせ、鋏を左から順に抜いていった。
 切っ先は細く、鋭い。紙を切るための子供向けのものとは違い、明らかに業務用だ。
 専門職の人間しか持たないような鋭利な鋏をひとつ取り、彼は楽しげに目を細めた。
 続けて鞄から出て来たのは、巨大な鏡だった。一辺三十センチはあろうもので、持ち運びし易いよう取っ手がついている。外面は黒いが、中を開けば曇りのない鏡面が左右に出現した。
 他に櫛、ブラシ、水の入ったスプレー容器などなど。
 それらをすべてテーブルに並べ終えて、彼はひと仕事終えたとばかりに汗を拭った。
「これでよし、と」
 道具は揃った。短く息を吐いて頬をだらしなく緩めて、綱吉は椅子の上でげんなりしていた青年に手を叩いた。
「準備できましたよ、ヒバリさん」
「……そう」
 弾む声で告げられても、あまり嬉しくない。暗く沈んだ表情で相槌を打った雲雀は、ゆるゆる首を振って欠伸をかみ殺した。
 口元に手を当てて隠し、深く長い息を吐いて綱吉を見る。彼の手にはテーブルクロスとはまた別の、大きな布が握られていた。
 長方形で、一部にマジックテープが縫い付けられていた。表面は水を弾くコーティングがなされており、使い込まれて色はくすみ、柄も所々擦れていた。
「じゃ、始めますよー」
 上機嫌に言いながら布を肩に被せられて、雲雀はまたひとつ、溜息をついた。
「本当に大丈夫なんだろうね」
 もう何度目か知れない質問を舌に転がせば、首の後ろでマジックテープを重ね合わせていた綱吉は偉そうに胸を張った。
 首から下を覆う布は丈が短く、雲雀の腰辺りまでしかなかった。脚が丸見えで、彼は右足を靴のまま遠くに蹴り上げ、後ろに立つ青年を見上げた。
 てるてる坊主か何かになった気分だった。綱吉も同じことを想像したのだろう、目があった瞬間に「可愛い」と言われてしまった。
「かわいいのは君だろう」
「二十四歳の男を指して、それはないと思いますけど」
「じゃあ、二十五の僕にもその言葉は不適切だね」
 言い返せば畳み掛けられて、雲雀はここぞとばかりに揚げ足を取った。前に向き直りながら不遜に言われて、綱吉ははっとして拳を戦慄かせた。
 皮肉の応酬は彼の負けに終わった。むしろ一度として勝てたためしが無い。もうかれこれ十年近い付き合いになるのに、未だに口げんかで彼に敵ったことはなかった。
 口以外の喧嘩でも、一方的に負けてばかりだけれど。
 本気を出せと言われても、出来るわけがない。雲雀も容赦が無い人だから、お互い本気でぶつかり合ったら周辺一帯が焦土と化してしまう。
 悔しげに歯軋りして地団太を踏み、綱吉は乱暴に自分の頭を掻き回して溜飲を下げた。
「嫌なら、やめてもいいんですよ」
「いや。宜しく頼むよ」
 疑いの気持ちで接せられては、綱吉も手元が狂いかねない。信頼してくれない相手にはしたくないといえば、雲雀は少し前の発言を意図も容易く撤回し、笑った。
 不遜に見詰められて、つい顔が赤くなった。
 汚れ避けの布の下で肩を揺らし、雲雀が目を細める。そういう顔をするのはずるいと悪態をついて、綱吉は青々した芝を蹴り飛ばした。
「じゃあ、文句言わずに大人しくしててください」
「はいはい」
「返事は一回です」
「失敗したら咬み殺すからね」
「うぐ。……気をつけます」
 胸の高鳴りを誤魔化して怒鳴れば、軽くあしらわれてしまった。こういうやり取りも、過去幾度となく経験している。雲雀にとって、綱吉のこの反応は簡単に想像できるのだろう。
 口篭もり、彼は小声で返事をして肩を落とした。
 もっとも、散髪の技術はそれなりに自信があった。
 ランボの髪の毛は、今は綱吉がセットしていた。まだ日本にいた頃は母の仕事だったのだが、それが息子に移った形だ。フゥ太も一時期は、綱吉が整えてやっていた。
 最近の彼はませてきて、有名な美容院を予約して通っているそうだ。いよいよ綱吉のカットも卒業かと寂しく思ったものだが、彼は見た目も爽やかで男らしいので、今後のことを思えた素人はだしよりもプロに任せた方が良かろう。
 此処最近はすっかり出番が減った散髪セットだが、久方ぶりに日の目を見た。彼らもきっと発奮してくれるに違いない。
「リクエストとかありますか?」
「そうだね。……うん、丸坊主じゃなきゃいいよ」
「あ、酷い」
 しばし逡巡し、雲雀が答える。あまりの言われように、綱吉は荒い鼻息を吐いた。
 口を尖らせた彼に目尻を下げて、雲雀は肩を揺らした。足を引き寄せ、椅子の下に左右共に押し込んで背凭れに深く寄りかかれば、涼しい風がふたりの間を流れて行った。
 枯葉がかさかさ音を立てて転がっていった。木の枝より落ちた一枚の葉も、いずれ腐って土に還り、新たな息吹の礎になろう。
 この世に不要なものなど、ひとつもありはしない。
 雲雀は伸び気味の黒髪を風に晒し、気持ち良さそうに目を閉じた。顎を引いて背筋を反らし、全身で空を受け止めようとする。
 もっとも今のてるてる坊主状態では、あまり格好はつかない。思い出して苦笑して、彼は傍で惚けている綱吉を蹴った。
「早く」
 こうしている間も、時間は緩やかに流れている。
 のんびりしているけれども、ふたりともこの後予定が立て込んでいた。夕刻になれば屋敷に客がひとり、やって来る。遥々東洋の島国から、周囲の目に怯えながら。
 今晩、彼を交えた三人が秘密裏に立てていた計画が、いよいよ実行段階に入る。
 最初で最後の打ち合わせだ。泣いても笑っても、今日が綱吉と雲雀が共に過ごす、最後の一日になる。
 気持ちは自然暗く沈み、元から少なかった口数は輪をかけて減った。沈黙を尊ぶ雲雀の横顔を見下ろし、綱吉は手を泳がせ、テーブルの縁に触れた。
 手繰り寄せた櫛を握り、反対の手で艶やかな黒髪を掬い上げる。
 サラサラと絹の糸のように流れて行く髪を梳いてやれば、くすぐったかったのか雲雀が目を瞑ったまま笑った。
「どうかしましたか?」
「いや。君にこうされるのは、初めてな気がしてね」
「そうですっけ?」
 彼の髪に触れるのは、初めてではない。だから綱吉は特になんとも思わなかったのだが、雲雀は違ったようだ。
 膝枕中の彼の頭を手櫛で整えるのと、木製の道具を使うのとでは、また別なのだろう。気持ち良さそうにしている彼を最初は珍しげに、手が慣れ始めた頃には楽しげに見詰め、綱吉は黄楊櫛を置いた。
 続けて水の入ったスプレー容器を持ち、霧を余すところなく吹きかけて行く。
「冷たい」
「こうしないと、バラバラになっちゃう」
 文句を言うなと叱って髪を全体的に湿らせて、綱吉は雫を垂らすひと房を掌においた。
 真っ黒だ。脱色やパーマなど、一度も利用した事がないのだろう。艶めいた外見は、まるで鴉の羽だ。
 鋭い嘴を持つ鳥を想像して、綱吉はふるりと襲って来た寒気を堪えた。
 あれは不吉なものとして知られている。大きな羽根を広げ、ゴミを漁ったりもして、迷惑千万な輩だ。そんな不愉快極まりないものと彼とを同一に考えた自分に、綱吉は僅かながら腹を立てた。
 これから大切な話し合いを経て、互いに死地へ赴こうとしている自分たちにとって、なんともあり難くない空想だった。
 首を振って打ち消して、肩を落とす。
 幸先が悪すぎて落ち込みそうだった。隠し切れなかった溜息に、雲雀が右目だけを開いて首を傾げた。
「どうしたの」
「あ、いえ」
「どうしたの?」
 問われて誤魔化そうとしたが、重ねて訊かれて綱吉は降参だと両手を挙げた。
 雲雀に隠し通せるわけがない。彼を相手にする時は生半可な覚悟で挑むべきではないと、今更ながら思い出した。
「ヒバリさんの髪の毛が、黒くて。濡れてると余計に黒いから、なんか」
 カラスのようだ、と。
 正直に事の次第を告げる。彼だってこんな不吉な発言、聞きたくなかっただろうに。
 気を悪くさせたかもしれないと恥じ入っていたら、雲雀がふっ、と笑った。
「それはいいね。幸運の兆しだ」
「え?」
 予想と正反対の台詞を告げられて、綱吉は目を丸くした。瞬きを繰り返し、椅子の上で偉そうに踏ん反り返っている男を見下ろす。
 視線を受けて顔を上げ、彼は不遜に口角を歪めた。
「知らないの? カラスは、瑞兆だよ」
「ずいちょ……」
「ヤタガラスは神の遣いだ。君だって、一度くらいは聞いた事があるだろ」
 その単語ならば知っている。サッカーで、母国の代表チームがマスコットにもしていた、三本の足を持つ神話上の鳥のことだ。
 神の御遣い。迷いし者を正しく導くもの。
 彼の言葉に、綱吉の中にあった禍々しい雲が一気に晴れていった。
 景色に色が戻る。忌まわしきものにしか見えなかった黒が、一瞬にして美しく輝く神秘の色に変わった。
「……そうなんだ」
「そうだよ」
 暗く沈もうとしていた心が急浮上して、綱吉は水面から顔を出して新鮮な空気をたっぷりと吸い込んだ。瑞々しさが胸に満ちて行く。恐怖や不安といったマイナスの感情は風に飛ばされ彼方へ去り、欠片も残らなかった。
 小さく頷いた雲雀が再び目を閉じて、椅子を軋ませた。綱吉は掌に残る湿り気を払い落とすと、咳払いひとつで気持ちを切り替えて、手入れが行き届いた鋏を利き手に構えた。
 左手に櫛を持ち、少しだけ下から掬い上げる。
「短くしすぎない方が?」
「君が一番格好いいと思える長さに」
「知りませんよ、どうなっても」
「いいさ。君の所為だと言いふらすから」
 仕上がり具合を丸投げされて、無責任だと口を尖らせれば呵々と笑われた。今日の彼は良く笑う。珍しく感情が豊かだ。
 酷い恋人だと腹を立てつつも仄かな温もりを胸に感じて、綱吉は嘆息した。
「みんなきっと、納得しますよ。さすがダメツナだって」
「自分で言うものじゃないな」
「そうですね」
 心を引き締めて務めて明るく切り返し、黒髪に鋏を入れる。じょき、と重い手応えが指先に伝った。
 雲雀に別れを告げた髪が綱吉の手元から滑り落ち、汚れ避けのカバーに引っかかった。自らの重みで急峻な傾斜を駆け下りて、緑が一面を覆う台地に吸い込まれていく。
 これらもまた、いずれ土に還るのだろう。輪の中で巡り行く命を想いながら、彼は一定のリズムで鋏を動かし続けた。
 たまに櫛で梳いて全体のバランスを確認し、遠くから眺めたりもして切りすぎていないかを確認する。目の前に鏡があるわけではないので、雲雀にはどうなっているのかさっぱり分からない。
 今のところ失敗したという声は聞こえないから、問題ないのだろうと判断する。
「よっし」
 軽く十分か十五分が経過した頃、右側から気合の篭もった声が響いた。
 座っているだけというのは退屈で、うつらうつらし始めていた雲雀はそれでハッと我に返った。息を吐き、首を振って瞼を開く。間近に人の気配を感じて顔を上げれば、散髪道具を手に、綱吉が嬉しそうに笑っていた。
「おわったの?」
「後ろはだいたい。後は前だけです」
 得意げに胸を張られて、雲雀は肩を回した。
 長く同じポーズを取り続けていたのもあり、凝っている。骨を鳴らして解しながら、彼はカバーを内側から捲って後頭部へと伸ばした。
 触れてみた最初の感想は、湿っている、だった。
「ちゃんと出来てるの?」
「出来てますよ! ほんと、信用ないなあ、俺って」
「信じてるよ」
「じゃあ、そんな事言わないの」
 どれだけ触れてみたところで、現在頭がどんな形になっているのかなど、分からない。少なくとも丸坊主にはなっておらず、爆発してアフロになっているわけでもなかった。
 刈り上げ頭にもなっていない。かなり短くなったとは思うが、切り過ぎて頭皮が覗いているところはなかった。
 手を膝に戻してやれば、動いた余波で膝元に溜まっていた黒髪が落ちた。
 少し前まで自分の一部だったものが、本体に別れを告げて大地に散っていく。名残惜しいわけではない、ただ少し不思議だった。いつかこうやって、自分だったものが千々に砕けて無に帰すのかと考えると、何故己はこの世に産まれてきたのかと考えてしまう。
 綱吉が鋏を交換して、構えを取った。雲雀は促され、瞼を下ろした。
 いずれ死ぬ運命にあるのに、どうして自分達この世界に現れたのだろう。偉い学者ですら未だ明確な答えを出せないでいる、そんな永遠の謎に雲雀が答えを与えるのだとしたら、それは「何かを為すため」としか思えない。
 その為すべき事を、これからやろうとしている。断髪式めいたこの儀式は、ひとつの区切りだ。
 これまでの古い自分を棄てて、新しい雲雀恭弥になる一歩を踏み出すために。
 額に掛かる分を切ろうとしているからか、綱吉の動きはいつになく遅かった。緊張しているのがひしひし伝わってきて、雲雀は笑みを零した。
「やりすぎないでよ」
「喋りかけないで!」
 何度も何度も額を掠める櫛がいい加減鬱陶しい。口を開いて念押せば、集中が乱れると文句を言われた。
 仕方なく口を閉ざし、代わりにこっそりと瞼を持ち上げる。盗み見た青年はなんとも言い難い真剣な顔をしていた。
 琥珀色の目は充血して赤くなり、頬は引き攣ってヒクヒクしていた。手も小刻みに震えており、違うところを切ってくれそうで微妙に怖い。
「ヒバリさん」
 これは目を閉じていた方が無難だ。思っていた矢先、切った分が目に入るのを案じ、綱吉が瞑目するよう促した。
 素直に従い、目も口も閉ざす。残る感覚が研ぎ澄まされて、触れ合っているわけでもないのに彼の心音まで聞こえてきそうだった。
 とくん、とくんと穏やかなリズムを刻む心臓の音色を聞くのも、今晩が最後になるかもしれない。綱吉はじき、死ぬ。いや、本当に死ぬわけではないのだが、それに限りなく近い状態に置かれることが決まっている。
 すべては敵を欺くために。
 どこまで騙せるかは未知数だが、暫くはそれで時間が稼げよう。敵の注意が他所に向かっている間に、雲雀はこの世界にやって来るであろう子供を鍛え、この時代でも闘えるように仕向ける。
 無限大に存在する未来の可能性の中で、唯一生存が叶うかもしれないこの世界で。
 雲雀も綱吉も、己が産まれてきた意味を全うし、為すべきことをなそうとしている。
 もちろん、もうじき此処にやって来るだろう青年も、また。
「ねえ」
「はい?」
 鋏が動く。はらりと落ちた髪が鼻先に触れた。
 息を吐き、雲雀が目を閉じたまま瞳を上向けた。
 映るのは闇ばかり。それでも瞼越しに、太陽よりも眩いオレンジの炎が見えた。
 慎重に慎重を期して、綱吉が伸び気味の前髪を掬った。一度に切るには多すぎるからと手首を振って量を減らし、人差し指と中指で真ん中辺りを挟んで持つ。
 ここさえクリアできれば、あとは簡単だ。
 自分に言い聞かせながら、彼は乾いた唇を舐めた。
 雲雀の呼びかけに返事はしながらも意識は向けず、ゆっくりと切っ先を黒髪に押し当てる。
「結婚しようか」
 ジャキン、と。
「ぎ……ぎぃやあぁぁああぁあ!!」
 淡々と告げられたありえないひと言に、手が滑った。
 凄まじい悲鳴に驚き、目を開けた雲雀の前を黒髪がはらはらと舞った。心なしか、長い。
 嫌な予感を覚え、彼は恐る恐る手を伸ばした。今し方切られたと思われる前髪の根元を抓み、捩じり、ゆっくり先端に向けて移動させる。
 そうして指は、唐突にすっぽ抜けた。
 膝に落ちた右手に呆然として、瞬きの末に前を見る。鋏を手にした綱吉が、馬鹿みたいに縮こまって震えていた。大粒の目をゆがめて涙を浮かべ、小動物めいた動きで首を振る。
 額の半分もいかない場所で揺れている毛先に、鳥肌が立った。
「……え?」
「だだだ、だ、だって。だって! ヒバリさんが急に変な事言うから!!」
 唖然としていたら、我に返った綱吉が大声を張り上げた。なんとか責任を回避しようと早口に捲くし立て、鋏をブンブン振り回す。
 当たらない距離ではあるけれども危なっかしくて、雲雀は止めるよう言って肩を落とした。
 随分と短くされてしまった。他を長いまま残しておいては、バランスが悪く余計に笑いものにされる。諦めの心境で溜息をついて、雲雀は続きをやるよう彼を手招いた。
「うぅぅ」
 作業はまだ途中だ。時間も押していることだし、早く終わらせてもらわなければならない。
 泣き言を呻く綱吉を宥め、雲雀は背凭れに身を委ねてかなりよくなった見晴らしに苦笑した。
「色々、良く見えるよ」
「ごめんなさい……」
「それ、どっちの返事?」
 裁ち落としてしまった分を糊で貼り付けるのも無茶な話だ。髪ならば放っておけばいずれ伸びる。さほど気にしていない様子で笑って、雲雀は目を眇めて問うた。
 櫛で鋏を入れていない部分を梳いていた綱吉が、きょとんと目を丸くした。
「は?」
「だから、どっちに対するごめんなさい?」
 なにを聞かれているのか分からなくて目を瞬かせ、彼は首を右に倒した。怪訝にされて、雲雀の眉間に皺が寄った。
 聞かれるまでもなく、前髪を切りすぎたことへの謝罪のつもりだった。他にいったいなにがあるのかと、不機嫌な顔を向けられた綱吉は頬膨らませて考え込み、少し前に耳朶を擽った囁きを不意に思い出した。
 甘やかな呟きが、柔らかな風となって彼を包み込む。
「え……?」
 結婚、しようか。
 同じ台詞を再び言葉に紡がれて、綱吉は凍りついた。手にした鋏を足先すぐ傍にボトリと落とし、青白かった顔色をもっと白くして目をぐるぐる回す。
 そのうち倒れるのではと雲雀が危惧した矢先、ついに頭の火山が爆発した。
「ひえ、ええ? ええ、えええええ!」
 素っ頓狂な声をあげ、狼狽激しく右往左往する。落とした鋏を踏んでその感触に驚いて跳びあがって、尻餅をついたかと思えば突如背中を向けて丸くなった。
 震えて小さくなっている彼に、動けない雲雀はムスッと口を尖らせた。
「なんなの。嫌なの?」
「そ、そうじゃないです。けど。けど!」
 そんな話をするような雰囲気ではなかった。急に言われても心の準備が出来ていないので、返事など出来ない。
 嫌かどうか聞かれたら、嫌なわけがない。むしろ嬉しい。天にも登る心地とは、こういう事を指すのだろう。
 声が上擦る。鼻を大きく膨らませ、綱吉は振り返って唇を噛み締めた。
 気を抜くと頬が緩む。目が笑う。堪えていたら、雲雀が盛大に噴出した。
「変な顔」
「ぬああ!」
 指摘されて、二度目の爆発に綱吉は真っ赤になった。目尻に涙を浮かべて鼻を愚図つかせ、いきなり意地悪になった男を恨めしげに睨み付ける。
 まるで迫力のない双眸に目尻を下げて、雲雀は見晴らしよくなった世界の真ん中に彼を置いた。
「保険だよ」
「ほけ……ん?」
「そう」
 綱吉はこの後、死地に向かう。雲雀もまた、課せられた役目をこなして身を引く。
 次に会うときは、すべてが終わった後だ。その瞬間にふたりは立ち会えない。もし計画が失敗に終われば、ふたりの時は永遠に止まったまま。
 だが彼が言う保険とは、止まった時間が動き出す前の話ではない。十年バズーカに導かれて未来にやってくる子供達が、事を成し終えた後の話だ。
 意味が分からないと首を捻る綱吉に笑いかけて、雲雀は気になるのか、前髪を弄った。抓んで引っ張り、指に付着した細かい屑を払って落とす。
「燃え尽きないようにね」
 大きな事を成し遂げた後、急にやる気が減退してなにも手がつかなくなることがある。
 全力でやりつくして、気力が尽きてしまうのだ。次の目標を定める気にもなれず、身動きが取れない。
 だからそうならない為に、と悪戯っぽく言って、彼はスッと手を伸ばした。
 握手を求められた。綱吉は彼の手と顔を交互に見て、千切れた芝を払いながら立ちあがった。
「それで、なんで結婚になるんですか?」
「楽しそうじゃない?」
「……」
 訊けばあっけらかんと返されて、綱吉は絶句した。
 暇潰しに付き合わされる方としては、たまったものではない提案だ。障害も多い。仲間はきっと許してくれまい。
 だがその困難をひとつずつ攻略して、ゴールに辿り着くのは、確かに彼の言う通り楽しそうだ。
 薔薇色の、とまではいかないけれども賑やかな生活を想像して肩を揺らし、綱吉は拾った鋏の汚れを拭い取った。テーブルに置いて、雲雀の手を握る。掌は思ったよりも冷たかった。
 表に出てこない彼の緊張が感じられて、綱吉は問う目に微笑みかけた。
「返事は?」
 催促されて、彼は小さく舌を出した。
 死地に赴くとはいえ、まだ死んでやるつもりはない。幼い自分はきっと期待に応え、やり抜いてくれるだろう。だから信じる。未来を、自分を。雲雀を。
 目を瞑り、開き、真っ直ぐ見詰める。真顔だったのに、彼のギザギザになっている前髪を見た瞬間笑ってしまって、喉が引き攣った。
 態度も表情も気に入らなくて、雲雀がムッとした。拗ねる彼に手を振って謝罪して、綱吉は咳払いを二回も繰り返した。
 機嫌を直してくれるよう頼んで、両手は背中に。
 爪先立ちで深呼吸、その末に、彼は。
「返事は、俺が帰って来てからで、いいですか?」
「僕は待たされるの、嫌いなんだ」
「はい。だから出来るだけ早く、かえってきます」
 茶目っ気たっぷりにウィンクして、彼は両手を広げた。座ったままの雲雀の首に回してそうっと抱き締めて、寄りかかる。
 頭をぶつけてきた彼に声を出して笑う。
「貴方の髪が、伸びすぎてしまう前には」
 次から雲雀の髪を切るのは、自分の役目。他の誰にも譲らない。
 小さな独占欲をちらつかせた彼に苦笑して、雲雀はやれやれといった風情で目を閉じた。

2012/01/03 脱稿