年尾

 電線の上に雀が二羽、寒そうに縮こまって停まっていた。
 日本海側は大荒れ、というニュースがテレビで流れていたが、並盛町はお陰様で晴天が広がっていた。雪が降らなくて本当に良かったと、コートの上から突き刺さる冷気に震え上がり、綱吉は白い息を吐いた。
 白い雲がちらほらと散らばる青空は、夏場に比べると若干色が薄い気がした。
「うー、冷えるなあ」
 視線を前方に戻し、汚れが目立つスニーカーでアスファルトの地面を蹴りつける。ペースはゆっくりで、強い風が吹く度に歩みは止まった。
 顔を強張らせて寒風に耐え、徐々にずり下がるマフラーを都度持ち上げて口元を覆い隠す。両手にはしっかり毛糸の手袋を嵌めて、肌が露出する部分は極力減らそうと努力を欠かさない。
 だがあまりやり過ぎると、不審者になってしまう。奥がじんじんする鼻を撫でてため息を零し、彼は垂れそうになった鼻水を音立てて啜った。
 本当なら今もリビングで、コタツに入ってのんびり過ごしていられた筈なのに。
「リボーンの奴。なにが子供は風の子、だよ」
 冬休みに入り、昼間からテレビ三昧の生活は楽しかった。好きな時間に起きて、好きな時間に眠る。そんな自堕落な日々は、しかしそう長くは続かなかった。
 綱吉の家庭教師を自認する赤ん坊があまりの怠惰ぶりに痺れを切らし、今日になってついに重い腰を上げた。実力行使に出て、綱吉をコタツから追い出したのだ。
 曰く健康な中学生らしく、たまには外に出て運動をしてこい、だそうだ。
「自分がコタツに入りたかっただけじゃないのかよ。ちぇ」
 思い出すだけでも腹立たしい。ほんの十分ほど前の出来事に苛立ちを膨らませて、綱吉は偶々そこに落ちていた小石を蹴り飛ばそうとした。
 後ろに引いた右足を、勢いつけて前に踏み出す。爪先が宙を舞った。小石は、五秒後も変わらずそこにあり続けた。
「……キー!」
 石でなく地面を蹴ってしまうのを恐れて、無意識に力を加減していたらしい。空振りという嘆かわしい結果に歯軋りして、彼は地団駄を踏んだ。
 路上で挙動不審にしている少年に、通行人の女性が怪訝な顔をした。公道のど真ん中というのを思い出してハッとして、彼はもう誰も見ていないというのにわざとらしく咳払いを繰り返した。
 あの赤ん坊のせいで、さっきから散々だ。
「子供は、ってなら、自分だって子供なのにさ」
 赤ん坊は風邪を引いてはいけないから、家にいても構わない。そう堂々と言い放ったリボーンに口を尖らせて、綱吉は仕方無く休めていた足を前に繰り出した。
 家を放り出されても、行く宛てなどどこにもない。山本の家は仕事中だろうし、獄寺は居るかどうか分からない。京子やハルの家を訪ねるのは気恥ずかしいし、了平に捕まると厄介だ。となれば綱吉が骨休め出来る場所など、殆ど残らない。
 せいぜいコンビニエンスストアで、雑誌コーナーで立ち読みをして暇を潰すくらいしか選択肢がなかった。
「どうしよっかなー」
 店員の冷たい目を気にしつつ、チョコレート菓子のひとつでも買って場を濁すか。だがもう月末だ。財布の中身は、非常に心許なかった。
 困り果て、天を仰ぐ。広い視界に大きな鉄筋コンクリートの建物が紛れ混んだ。
 目的地を決めずに歩いていたからだろう、無意識に足は通い慣れた学校に向かっていた。
「いつの間に……」
 習慣というものは恐ろしい。実感して、苦笑する。視線を戻せば、遠くに聳える正門付近に複数の人影が見えた。
 遠目でも分かる特徴的な黒い制服は、並盛中学校の風紀委員の証拠だ。
「あれ。何してるんだろ」
 冬休みに入って数日が経つというのに、三人か、四人集まって、門の周辺でなにやら作業をしている。此処からでは良く分からなくて、綱吉は首を傾げつつ少しずつ距離を詰めていった。
 焦げ茶色のダッフルコートを揺らし、話し声が聞き取れるところまで近付いて足を止める。小柄な少年の存在に気付く事なく、中学生にしては大柄の男達が、緑色の竹や松を抱えて右往左往していた。
 藁で巻かれた土台に、先を斜めに切った竹を突き刺し、その周辺に松がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。形も大きさも全く同じものがもうひとつ、男達の向こう側に置かれていた。
「もう少し、右だ、右」
「この辺りか」
「ゆっくりやれよ」
 ひとりが離れた場所で指示を出し、残りの三人が抱えた物体を慎重に地面に下ろす。横に長い正門を挟む形で左右に並べられたそれは、門松に他ならなかった。
 それもかなり豪勢で、立派なものだった。
「でっか」
 思わず声に出して呟いてしまい、二秒後に我に返って両手で口を塞ぐがもう遅い。彼の存在をようやく気取り、風紀委員が露骨に嫌そうな顔をした。
「見世物じゃないぞ」
「終わった?」
 早く立ち去れと、犬猫を追い払うように手を振られてしまった。叱られて首を竦め、駆け足で道を渡ろうとした矢先。
 正門の中からこれまでとは違う、伸びやかな甘い声が響いた。
 出しかけた足を思わず引っ込めて、綱吉は振り返った。
「委員長!」
 案の定の人物に、琥珀色の目がまん丸に見開かれた。真っ先に飾られた門松に目を遣った青年は、ふと視線を感じ、黒色の瞳をスッと眇めた。
 車道を挟んで反対側に身体を向けている少年に気付き、一寸驚いた顔をして、すぐに表情を消してしまう。三分の一ほど開けてあった門を潜って外に出た彼は、門松の角度を確かめんと向かいの歩道に移動して、そのついでとばかりに綱吉を手招いた。
 呼ばれた以上、行かざるを得ない。無視したら後が怖いと腹をくくり、綱吉は風紀委員の視線を気にしつつ雲雀の傍へ歩み寄った。
 この寒空の下でも、彼は学生服に袖を通さず肩に羽織るだけだった。見ているこちらが寒いと身震いして、そろり、隣に来た人を窺い見る。
 雲雀は立派だがどこか地味な門松を眺め、満足げに頷いた。
「良いんじゃない」
「有り難う御座います!」
 どことなく嬉しそうな呟きに、固唾を呑んで見守っていた風紀委員が揃って安堵に頬を緩めた。近所迷惑な大声で礼を言い、誇らしげに胸を張る。
 彼らは本当に、委員長である雲雀を敬愛して止まない。
「中の手伝いに回って」
「畏まりました」
 ここはもう片付いたからと、次の指示を飛ばして雲雀が校舎の方を指差した。男達は首肯すると一斉に示された方に顔を向け、駆け出した。
 黒ずくめの一団が消えて、中学校の正門前は一気に静かになった。
 乾いた風が、砂を巻き上げて通り過ぎていく。新年が間近に迫っていると教えてくれる門松を前に、綱吉はこの後どうしようかで迷って身を捩った。
「あの。あれって」
 一応、話題に触れておいた方が良いのだろうか。このまま無言で立ち去ることも出来なくて、逡巡の末にどんと構えている門松に人差し指を向ける。すると雲雀はすたすた歩き出して、正門前まで戻ってしまった。
 置き去りにされて、怒りよりもショックが勝った。好奇心にも負けて、綱吉は大股で彼の元に駆け寄った。
「ヒバリさん」
「僕の学校に相応しいと思わない?」
「……そうですね」
 最も高い場所で、綱吉の背丈くらいありそうな門松を前に得意げに聞かれて、答えに詰まる。変だ、とは流石に言えなくて、適当な返事で誤魔化したら不満そうにされてしまった。
 むすっと拗ねた顔をされて、子供っぽい反応に苦笑が漏れた。
「お正月の準備ですか?」
 長期休暇に入ってから、会うのはこれが初めてだ。一週間近く顔を合わせていなかったと考えると、妙に新鮮な気分だった。
 中学校に門松、とはなかなか見ない光景だ。季節のイベント事など群れる連中が増えるだけ、と言い放って久しい彼なのに、正月だけは別格らしい。
 うきうきしている雲雀の心が乗り移ったのか、綱吉までそわそわしてしまう。斜め下からの問い掛けに、彼は鷹揚に頷いた。
「そうだよ。……君、時間ある?」
「ああ、はい。暇ですけど」
「なら、少し寄っていくと良い。今、中で餅搗きやってるから」
「えええっ」
 自慢げに言って、少しの間を置いてから訊ねかける。綱吉は思いもしなかった提案に素っ頓狂な声を上げ、本日二度目、手袋で口を塞いだ。
 琥珀色の瞳を驚きに染めて、不遜に笑っている黒髪の青年をいっぱいに映し出す。
 言われてみれば確かに、耳を澄ませばどこからともなく、威勢の良い掛け声が聞こえた。
 いったいどこでやっているのかと、招かれるままに正門をくぐり、開店休業状態の学校に入る。校舎の中ではなく建物沿いに暫く進み、案内されたのは体育館だった。
 開け放たれた扉の向こう側で、大きな杵を担いだ半裸の男が、汗を散らしながら一心に餅を搗いていた。
 臼の前には男がもうひとり、水を張った容器を傍らに置いてしゃがみ込んでいた。素早く水に浸した手で餅を返し、そこに杵が打ち付けられて、凹んだ餅がまたひっくり返される。
 目にも留まらぬ早業と、場内に立ちこめる冬場とは思えぬ熱気に、綱吉は圧倒されて唖然となった。
「見た事ないの?」
「テレビでなら、何度か」
「君の家、町内会に入って無かったっけ」
「俺、こういうイベントに殆ど参加したこと無いから……」
 簀の子が敷かれた入り口で完全に足が止まってしまった綱吉に、雲雀が戻って来て問い掛けた。
 前を塞がれて見えなくなってしまい、仕方無く敷居を跨いで体育館に入る。板敷きの床の上には濃い緑色のシートが敷かれて、土足で動き回っても問題ないようになっていた。
 綱吉のダメダメっぷりは、なにも中学生になってから始まったものではない。小学校、いや、幼稚園に入る前から既に、かなりの駄目人間だった。
 運動神経ゼロ、勉強も駄目で、致命的なまでに不器用。口下手で、話のセンスもない。
 何をやらせても凡人以下の彼を遊びに誘ってくれる奇特な存在はおらず、町内会の集まりに出向いても常にひとりぼっち。そんな寂しい思いをするくらいなら、最初から行かない選択をする方が何十倍もマシ。
 そんな幼少期を過ごして来たものだから、当然の如く餅搗き大会にだって参加した経験はなかった。
 あまり自慢出来ない過去だから、自然と声は小さくなった。言い辛そうに口をもごもごさせる少年に、しかし雲雀はあまり興味が湧かなかったのか、ふぅん、と気のない返事をして両手を腰に当てた。
 関心が無いのか。だけれど、「可哀想だね」などと言われて同情されるよりは、ずっと良い。
 優しいのか冷たいのか、判断がし難い態度に自嘲の笑みを浮かべ、綱吉は忙しくしている風紀委員と思しき面々を左から順に眺めていった。
 火を使うからか、餅米を蒸す作業は外で行われていた。
 湯気を放つ蒸籠を抱えた男が、駆け足で横を通り過ぎて行った。準備を整えていた空の臼に中身を盛大にぶちまけて、役目を終えた白い布巾や簀の子を次々外に放り出していく。
 新たな熱気が体育館の中に湧き起こった。耳を劈く掛け声は、勇ましいというより他にない。
「うわ、あ」
 別の一画では長テーブルが幾つも並べられて、搗きあがった餅を小さく千切り分ける作業が行われていた。
 三人ばかりが一塊になり、小分けにされた餅に白い粉をまぶして、形を丸く整えている。慣れているのか実に手際よく、長方形の木箱には次々と丸餅が並べられていった。
 出来上がった餅には蓋がされて、別のテーブルにうずたかく積み上げられていた。今すぐ食べるのではないのかと不思議に思っていたら、肩をトントン、と叩かれた。
「やってみる?」
「ふえ?」
「あれ」
 意識が完全に他に向いていた。振り返った先に居た雲雀が何を言っているのか一瞬分からなくて、首を傾げてしまう。言い足され、ついでに指も向けられて、綱吉はやっと彼が何を言いたいのかを理解した。
 餅つきに挑戦してみるか、と聞いているのだ。
 並盛中学校の指定制服でなく、ましてや風紀委員の制服でもなく。ジーンズにコートというラフな格好で現れた少年に、作業中だった面々は最初、一寸ばかりざわついた。
 だが隣には委員長が居る。雲雀が許したのであれば、他の委員達は文句を言う権利などない。
 雲雀の提案に聞き耳を立てていた黒服の一団は、内心穏やかではなかっただろう。尖った気配に囲まれて、綱吉は苦笑いを浮かべて首を振った。
「や、止めておきます。俺がやったら、その。なんていうか。床に穴があきそう」
 両手も顔の前で振って、未だ手袋をしたままだったのを思い出して急ぎ取り払う。落とさないようコートのポケットにねじ込んで、彼は空笑いを浮かべて頭を掻いた。
 雲雀は予想外の返答に唖然としてから、急に顔を背けてぶごっ、と変な音を立てた。
 口元を手で覆い隠し、肩を小刻みに震わせている。どうやら先ほどの音は、なにも豚の鳴き声を真似たわけではなくて、笑いを堪えようとして失敗して出たものらしい。
「それ、君なら充分あり得そうだ」
「ちょっと、酷いです。そんなに笑わないでくださいよ」
 くくく、と声を堪えつつ雲雀が呟く。
 周りには風紀委員が大勢いる。筋骨隆々とした上半身を晒している人までもが、杵を振る手を休めて何事かとこちらを見ていた。
 先程までの痛い視線とはまた異なる眼差しを向けられて、綱吉は見られていると意識した途端にカーッと赤くなった。
「ヒバリさんってば」
 恥ずかしくて、居たたまれない。照れを誤魔化して拳を作り、ぽかすか背中を殴ってやれば、痛かったのだろう、深呼吸を三度繰り返した雲雀が乱暴な手を払い除けた。
 後ろにふらつき、たたらを踏んで、綱吉は叩かれた手首を労って撫でた。
 はち切れんばかりに膨らんだ頬にクスリと笑みを零して、雲雀は拗ねている綱吉の頭を突然、くしゃくしゃに掻き回した。重力を無視して跳ね返っている毛先に指を入れて、ただでさえ酷い髪型をもっと酷くする。
 上から押し潰されそうになり、綱吉は懸命に首に力を込めて奥歯を噛み締めた。
「あのう、委員長」
「なに?」
 結果の見えている力勝負を楽しんでいたふたりに、申し訳なさそうに声が掛かった。即座に雲雀が反応し、腕を引く。突然圧迫感が消えて、綱吉は吹っ飛びそうになった。
 仰け反って両手をじたばたさせる傍で、雲雀がいつの間にか現れた草壁になにかを耳打ちされていた。声は聞こえない。どうにか踏み止まって胸を撫で下ろした綱吉は、またも人を放置して歩き出した風紀委員長の背中にムッとなった。
 誘ったのは彼なのに。
 反感がむくりと首を擡げる。ただこのまますごすご帰るのは、なにかに負けた気がして嫌だった。
 意を決し、ふたりの後に続く。辿り着いたのは、並べられた長テーブルのうちのひとつだった。
「うわ、でっか」
 背が高い草壁の横からひょっこり顔を出して覗き込んで、見えたものに思わず声が出た。ついて来た彼を一瞥して、雲雀は巨大な餅を前に顎を撫でた。
 表面を滑らかに整えた、人の顔ほどある餅と、それより若干小ぶりの餅。どちらも綺麗な円形で、厚みはかなりのものだ。白い粉が塗せられて、所々に塊になって張り付いていた。
 木製の餅箱にどん、と収められており、隙間は殆ど無い。先ほどまで臼の中で杵に搗かれていたものだから、表面はまだ乾ききっていなかった。
 このまま焼くには、少々どころかかなり大きい。ただ切り分ければ、かなりの数の小餅が出来上がりそうだ。
 いったいこれはどう調理するのかと興味津々に目を輝かせる少年を脇に置いて、雲雀は手空きの委員をひとり呼び、小声でなんらかの指示を出した。
 暫くして、その委員がなにかを手に戻って来た。
「入る?」
「大丈夫のようですね」
「ですが、やはりもう少し小さくした方が宜しいのでは」
 穴の空いた台座に四角い木枠を載せた、盆と呼ぶには持ち辛そうなアイテムに、綱吉はきょとんと目を点にした。一方で雲雀達風紀委員の面々は餅とその台座を交互に見比べ、ああでもない、こうでもないと論議を交わしている。
 話にさっぱりついていけなくて、綱吉は頭をぐるぐる回した。
「食べないんですか?」
 餅つきと聞いた時、真っ先に熱々のお汁粉や黄な粉を塗した甘い餅を想像した。丁度おやつ時というのもあって、お腹は空いている。だのにいつまで待っても餅を焼く匂いすら漂ってこない。
 予想と異なる状況に痺れを切らし、話の間に割り込んで、シンと静まりかえった空気に彼ははてなマークを量産させた。
「あれ?」
「何を言ってるんだ、沢田」
 己を取り巻く異様な雰囲気に、冷や汗が流れた。
 真っ先に草壁が口を開いて、彼を中心にどよめきが体育館全体に広がっていく。訳が分からなくて混乱して、助けを求めて雲雀を見るが、彼もまた額に手をやって項垂れていた。
 忍び笑いが聞こえた。なにも間違った事は言っていない筈なのに馬鹿にされて、恥ずかしさと悔しさで頭の中は滅茶苦茶だった。
 困惑と動揺が入り混じった表情にため息を零し、雲雀は目を細めて相好を崩した。
「違うよ、小動物。これは今食べるんじゃなくて、鏡餅にするんだ」
「かがみもち……あっ」
 滔々と告げられて、鸚鵡返しに呟く中で適合する漢字を見つける。両手を打った彼に肩を竦めて、雲雀は机に置かれた三方を示した。
 確かに言われてみれば、あの台座は鏡餅を置くのに使うものだ。思い出して頷き、綱吉は改めて餅箱の中身と巨大な三方を見比べた。
「見た事ないの?」
「そりゃありますけど。……あ、いや。やっぱ無いかも」
「?」
 負けん気を働かせて言い返すが、途中で訂正して口籠もる。歯切れの悪い彼に眉を顰め、雲雀は草壁と顔を見合わせた。
 沢田家の鏡餅は、スーパーなどで売られているプラスチック製のものだ。中に袋入りの小餅が詰め込まれており、封を開けて取り出せるようになっている。
 今はまだ積み重ねられてはいないものの、こんな風に出来たての餅を用いた鏡餅は見た覚えが無い。
 成る程、完成前はこんな風なのか。感嘆の息を漏らして感心しきりに頷く少年に、場に居合わせた雲雀及び風紀委員たちは可笑しいやら呆れるやらで、なんとも複雑な表情を浮かべた。
「その様子じゃ、正月に鏡餅を飾る理由も、知らないんじゃない?」
「え?」
 苦笑混じりに雲雀が呟けば、綱吉は案の定はてなマークを生やして首を傾げた。
 横で見ていた草壁がぷっ、と噴き出した。雲雀に睨まれて慌てて背筋を伸ばし、視線は緩やかなアーチ状の天井に放り投げる。
 餅搗きはまだ続いていた。大きい鏡餅はこれひとつのようで、別の長机ではもっと小さい、掌に載る大きさの餅が次々に作られていた。
 覚えたての空腹感を遠くへ追い払い、綱吉は続きを促し雲雀の靴を蹴った。
 踵に近い部分で軽い衝撃を受け止めて、黒髪の青年は穏やかに微笑んだ。
「鏡餅はね、歳神への供え物だよ」
「お供え、ですか」
「お年玉の語源でもあるね。昔は、お金じゃなくて餅だったんだ」
 歳神は一年の始まりにやって来る、神。玄関に飾られる門松は歳神の依り代であり、目印だ。
 床の間に飾られた鏡餅は供物であり、歳神の魂を宿す。その鏡餅を分け与えるのが、お年玉のはじまりではないか、と言われている。
 淀みなく告げられる内容に、綱吉は分かったような、分からなかったような顔をして首を捻りつつ頷いた。喉の奥で低い唸り声をあげて、難しい事を考えた所為で痛むこめかみに指を置く。
 うんうん言っている彼に、雲雀は盛大にため息をついた。
「君、一応日本人なんだよね?」
「そうですよ!」
 遠い祖先にイタリア人がいたのは確かだが、綱吉自身は並盛生まれの並盛育ちで、生粋の日本人だ。
 呆れ混じりに確認されて、ついムキになって反論する。体育館に怒号が響き渡るが、風紀委員等ももう慣れたのか、誰も作業の手を止めなかった。
 唯一草壁だけが、ふたりから少し離れた場所に控えて苦笑していた。
 唇を噛み締めて睨み付けてくる少年に、雲雀はやれやれと言わんばかりに肩を竦めた。
「だったら、もう少し日本についての風習を知っておくべきだね。そんなんじゃ、外国に行った時、自分の国を上手く説明出来ないよ」
 己が生まれ故郷を熟知もせず、外つ国を知って生きて行こうなど、烏滸がましい。
 そう言わんばかりの台詞に綱吉は目を見開き、一秒半後には嫌そうに顔を顰めた。
「別に、良いもん」
「沢田?」
「俺、一生並盛から出るつもりないし」
 日本という国の、並盛町という狭い地域から外に出て行く自分など、想像がつかない。
 リボーンや獄寺はボンゴレにボスになれと五月蠅いくらいに言い張るが、綱吉にはそのつもりは毛頭無い。未来の自分など全く想像出来なくて、思い描く夢といえばごく平凡で、けれど幸せな家庭を築くことくらいか。
 たとえるなら、今の自分の家のような。
 膨らませた頬を凹ませて、彼はちらりと隣を見た。雲雀は、内心なにを思っているのか、にやりと口角を歪めて笑った。
「ヒ……」
「なら、僕と一緒だね」
 馬鹿にされると直感し、遮ろうと口を開く。だがそれよりも早く告げられて、綱吉は前歯の隙間から吐いた息を思い切り吸い込んだ。
 噎せそうになり、ぐっと腹に力を込める。下唇を突き出して飛び出ようとした息を引き留め、自分だけを見つめている眼差しに言い表しがたい表情を作る。
 青くなった直後に赤くなり、トータルで紫色になった少年はじたばた足踏みして、最後に息苦しさに負けて十回近く深呼吸を繰り返した。
 茹で蛸よりも赤くなっている綱吉に、雲雀が声を堪えずに笑った。
「変な顔」
「だっ、がっ! ご……っ」
「日本語で御願い」
「ヒバリさんの馬鹿!」
 おでこをちょん、と小突かれて、言葉にならない声をあげる。茶化されて、綱吉は声の限り叫んだ。
 罵倒された青年よりも、周囲にいた風紀委員の方がぎょっとした。そんな事を言って、ただで済む筈がない。一秒後に響き渡るトンファーの打撃音を想像して誰もが息を呑む中、体育館に楽しげな笑い声が響き渡った。
 皆が凍り付く中でひとり腹を抱えて肩を震わせて、雲雀は煙を吐いている綱吉の鼻の頭を軽く抓み、斜め上へと引っ張り上げた。
「ふがっ」
「あんまり生意気言うと、その口、塞ぐよ」
「っ!」
 釣り上げられてじたばた暴れる彼にそうっと耳打ちすれば、少年は直ぐさま大人しくなった。
 恥ずかしそうに身を捩り、浴びせられる数多の視線を思い出して背中を丸めて小さくなる。真っ赤になって湯気を立てている姿は誰の目から見ても愛らしくてならず、雲雀が沢田綱吉に構う理由を悟り、委員の多くは得心がいった顔をして深く頷いた。
 両手で頬を覆い隠して俯く彼に肩を竦め、雲雀は目だけで草壁になにかを合図した。
 口で説明されずとも指示の内容を理解した男が、瞬時に踵を返して駆け出した。副委員長の動きには気付かず、綱吉はどどど、と激しく脈動する心臓に唾を飲み、前方に佇む青年を上目遣いに見つめた。
 穴があったら入りたい気分だった。
 こんなに大勢の前で無知ぶりを晒してしまった。出来るものなら五分前の世界に戻って、自分の馬鹿な口を塞いでやりたかった。
 後悔を滲ませて奥歯を噛み締めている彼に目を細め、雲雀は袋を抱えて戻って来た草壁に手を伸ばした。
 荷物を受け取り、中身を確認せぬまま綱吉へと差し出す。
「……これは?」
「君の部屋にでも飾りなよ」
 スーパーなどで使われているような、無地の白いビニール袋。持ち手の部分を掴んで広げれば、底の方に丸い、まだ柔らかい餅がふたつ、沈んでいるのが見えた。
 片方は大きく、もう片方は少し小さい。
 顔を上げ、綱吉は傍らの机を見た。餅箱の中で乾燥待ちの大きな餅がふたつ、仲よさげに並んでいた。
 鏡餅は、雲雀曰く新年にやってくるという歳神への供え物。
 供え物無くして神は訪れず、神が来なければ供え物の意味が無い。
 この餅に見合う三方は家にあっただろうか。帰ったら奈々に聞いて、押し入れを探してみなければ。
 間もなくに迫る新しい年に一気に期待が膨らんで、綱吉は興奮に頬を紅色に染めた。
「食べられないようにね」
「あは」
 食欲旺盛な子供達に見付かって、盗み取られないように気をつけなければ。言われて思い出し、楽しげに微笑む。
 今年も、残すところあと僅か。
 想像していた餅搗きとはちょっと違っていたが、予想を上回る土産が手に入った。嬉しさに頬は緩む一方で、あまりにもだらしない表情に雲雀は肩を竦めた。
 新しい年の始まりには、きっと綱吉の部屋に、黒い学生服を羽織った歳神が現れることだろう。
 残り日数を指折り数え、彼は今年一番の笑顔を浮かべた。

2011/12/27 脱稿