Buddleja

 遠くで誰かが声を張り上げている。良く通る低音に耳を傾け、アリババはそうっと息を吐いた。
 彼の動きを受けて、耳元でガサリと音が響いた。ハートの形をした緑濃い葉は、子供の顔ほどの大きさがあった。それらが密集した中に潜り込んでしまえば、外からだとなかなかに見え辛かろう。
 何故自分は、かくれんぼなどしているのだろう。身じろぐことすらままならない現状に眉を顰め、彼は痛むこめかみに指を置いた。
 そんな渋面のアリババの真後ろには、このような事態に陥る原因となった男が、まるで反省の色を見せずに朗らかに微笑んだ。
「行ったかな?」
 楽しげに呟き、静かに広げた葉の隙間から外を窺う。そこはシンドリア王城の中でも比較的広い部類に入る中庭のひとつで、南洋特有の植物が豊かに葉を生い茂らせる区画のただ中だった。
 耳元で羽虫が飛び交っている。ぶんぶん言わせながら飛び回るそれらを手で払い除けて、アリババは後ろから人を羽交い締めにしている男を軽く睨み付けた。
「シンドバッドさん?」
「うーん、駄目だな。まだしばらくは出られそうにない」
「あの。っていうか、放してくれませんか」
 呼びかけを無視してひとり思索の海に沈んでしまった男を肘で小突き、言葉を重ねる。流石に肋骨を打つ一撃は痛かったのだろう、紫紺色の髪に白いターバンを巻き付けた男は、金色の腕輪や首飾りをじゃらじゃら言わせながら胸元に視線を落とした。
 得意げに組まれた長い足の真ん中に、腰を沈める形で座っていたアリババは、ようやく向けられた瑪瑙色の瞳に物言いたげな眼差しを投げるに済ませ、膨らませた頬を凹ませて背中を丸めた。
 もっとも、己の膝を抱くところまでは小さくなれない。間にはシンドバッドの腕が挟まり、支え棒の役割を果たしていた。
 胸の前で結び合わせた両手を揺らし、この国の王たる男は首筋を赤く染めている少年に目を細めた。
「放したら逃げるだろう?」
「逃げませんよ、もう」
 あっけらかんと言われて、アリババは苦虫を噛み潰したような顔をした。短く吐き捨てて、そっぽを向く。琥珀色の瞳が、緑の葉のその先に向けられた。
 狭い視界で状況を再確認して、深々とため息を零す。諦めに似た吐息にシンドバッドは苦笑して、彼を抱く腕に、ほんの僅かに力を込めた。
 引き寄せられて、華奢な体躯が浮き上がった。
「シンドバッドさん」
「いいじゃないか、少しくらい」
 減るものでもないし、と言われて咄嗟に反論出来ない。甚だ迷惑そうな顔をして、アリババは額に掛かる前髪をクシャリと握りつぶした。
 はっきり言って、ちっとも宜しく無い。だがそれを正面切って言い放つには、少々どころかかなり気が引けた。
 先ほど聞こえて来た声の主は、聞き間違いでなければシャルルカンだ。きっと後でこっぴどく叱られるに違いない。なにせ八人将のひとりである彼直々の剣術指南の時間を、丸々棒に振ったのだから。
 彼を尊敬しているシンドリア国軍兵士達からすれば、打ち首級の失態だ。きっと明日から、銀蠍塔に出向いただけで冷たい視線に晒されるのだろう。
 考えるだけで気が重い。周囲からゴミ虫のような目で見られるのは、不本意ながら慣れているものの、この南国の楽園とも呼ばれる島で故郷と同じ目に遭うのはかなり辛かった。
 ぐるぐる回る頭を横から支えて、アリババは緩く首を振った。それを真後ろで見ていたシンドバッドが、ふっと気の抜けた笑みを浮かべた。
「っひゃ」
 突然首筋に生温い熱を感じて、アリババが小さな声で悲鳴をあげた。竦み上がった後、気付いて両手で口を塞ぐ。大きめの瞳だけを慌ただしく左右に揺り動かして、彼は目元に落ちた木漏れ日に渋面を作った。
 背中に人肌の温もりを感じた。先ほどまでよりずっと近い。ならば頸部に触れたものの正体がなんなのか、楽に類推可能だった。
 今日何度目か知れないため息を膝に落として、彼は俯かせていた頭部を後ろにぐん、と反らした。
 もれなくそこにあったものが押し出されて、ぶつけられて痛かったのか、微かな呻き声が残された。
「師匠との約束があるんですけど」
「シャルルカンなんか放っておけ」
「俺に強くなれって言ったのは、シンドバッドさんじゃないですか」
「それとこれとは、話が別だ」
「…………」
 なにがどう、違うのだろう。
 理屈の通らない国王の主張に辟易して、アリババは押し黙った。
 これ以上討論を繰り返しても無駄な気がした。だがこのままでは、彼はいつまで経っても解放されない。
 そもそもどうして自分が、シンドバッドに攫われる形で、こんな虫も多い茂みに身を隠さなければならなくなったのか。思い返すだけでも頭痛が悪化して、アリババは唇を噛み締めた。
「今度は何したんですかっ」
 故国を追われる形で船に乗り、辿り着いたシンドリア王国。未開の地とも言われる南洋の島に創建された新しい国は、行き場の無くなったアリババを暖かく迎えてくれた。
 ここに至って、既に半年以上が経つ。当初はバルバッドで失ったものの大きさに嘆き、後悔を滲ませて、結果酷い醜態を晒しもした。が、今では目指す道が朧気ながらに見え始めて、毎日が辛いながらも楽しくて仕方が無い。
 煌帝国を訪問していたシンドバッドが帰国してからは、小さな島国は以前にも増して大きな賑わいに包まれていた。巨大な海洋生物の討伐もあって、シンドリア王国とそこに住まう人々との距離もぐんと狭まったと感じていた。
 これまで物語の中でしか知り得なかった七海の覇王シンドバッドの本当の姿も、連日の如く、否応なしに目の当たりにさせられた。
 吐き捨てたアリババの赤いうなじを見下ろして、シンドバッドは肩を竦めた。
「なにもしていないさ。ちょっと休憩に抜け出して来たくらいで」
「…………ジャーファルさんはどこだろう」
「こらこら。待ちたまえ、アリババくん」
 飄々と、いっそ清々しいくらいにあっさり言い放った男に、アリババはぼそりと呟いて立ち上がろうとした。
 人を置き去りにしようとする少年の肩を慌てて掴んで、国王としての責任ある立場から逃亡して来た男は、些か顔色を悪くして無理のある作り笑いを浮かべた。
 力尽くで動きを封じられて、アリババは傍迷惑な男を心底蔑む目でねめつけた。
 侮蔑を含む冷たい眼差しにヒクリと頬を引き攣らせ、シンドバッドが頭を垂れた。俯いたまま首を左右に振って、右手を強く握り締める。
「誤解だ、アリババくん。悪いのはジャーファルの方で、俺は誓って悪くない」
 力強く訴えかけられて、その気迫に圧倒されそうになった。飛んで来た唾を手で避けて、アリババは遠くばかり見て目を合わせようとしない男に眉目を顰めた。
 訝しんでいると分かる態度に冷や汗を流し、シンドバッドが咳払いをする。
 直後。
「おっと」
「うっ」
 彼は大慌てで口を噤み、ついでとばかりにアリババの顎を節くれ立った手で掴んだ。
 奥歯がガチリと言って、鈍い痛みが頭蓋骨全体に広がった。危うく舌を噛むところで、突然の乱暴に抗議したいが声が出せない。
 鼻息荒くしていたら今度はもう片手でそちらまで塞がれそうになって、アリババは恐怖に青くなり、琥珀色の瞳を右往左往させた。
 生い茂る葉の隙間から注がれる日射しが、少しだけ形を変えた。
 太陽が傾いただけとは考え難い急激な明度の変化に瞬きを繰り返し、背後で息を殺している男の気配も一緒に窺う。足掻くのを止めた途端、シンドバッドの力は一気に緩んだ。
 呼吸困難に陥る危険がなくなり、アリババはホッと胸を撫で下ろした。唇を舐め、意識を研ぎ澄ます。ふたりが隠れている茂みからさほど離れていない場所を、槍を手にした兵士が駆け足で通り過ぎていった。
 追随する人影はない。脅威が去った瞬間、ふたりは揃って安堵の息を吐いた。
「――っ」
 期せずしてタイミングが被って、熱風を浴びせられたアリババはわけもなく赤くなった。折角引きかけていた朱色が瞬く間に頬に戻って、バクバク言う心臓を服の上から握り締める。
「行ったかな」
 彼の動揺など露知らず、シンドバッドが葉を少しだけ押し下げて呟いた。頭の上に落ちてきた低い声に首を竦めて、アリババは悔し紛れに目の前にあった手首の、皮の薄い部分を狙って爪で抓み、捻ってやった。
 ズキリと来る痛みに眉を顰め、シンドバッドは悪戯を働いた少年に小首を傾げた。
「アリババくん」
「シンドバッドさんは、王様なんだから。ちゃんと仕事をしないのはどうかと思いますけど」
 王とは国を導く存在であると共に、国民の規範となるべき存在だ。それなのにシンドバッドは職務を放棄して、こうやって部下から逃げてこそこそ身を隠している。
 とても褒められたものではないと淡々と言葉を並べ立てれば、首の後ろでふふっ、と笑う気配があった。
「手厳しいなあ、君も」
 苦笑いと共に述べられて、誰かと一纏めにされたアリババは一寸だけムッとした。
 今のシンドバッドが誰を思い浮かべているのかなど、考えるまでもない。自分が何故腹を立てているのか、その理由については一切追求せず、彼は頬を膨らませて子供じみた顔で口を尖らせた。
 急に拗ねてしまった彼にきょとんとして、シンドバッドは相好を崩した。
 脇に垂らしていた腕を持ち上げて、アリババの綺麗な金髪に張り付いている羽虫を追い払ってやる。そのまま下にずらして、彼は再び成長期真っ只中の少年を膝に抱えこんだ。
「シンドバッドさん?」
 襟刳りの広いシャツから覗く肩に額を載せて、静かに目を閉じる。ふたりの距離がゼロになって、顔を引き攣らせたアリババは咄嗟に逃げようとして藻掻いた。
 だがあまり派手に動けば、壁になってくれている木の葉を盛大に揺らしてしまう。視界の大半を占める緑に舌打ちして、彼は伸ばそうとしていた利き手を膝に戻した。
 力なく横たわった手首が、腰に吊した剣の柄に触れた。
 それは少し前に、シンドバッドがアリババに譲り渡したものだ。
 元々は彼が若かりし頃、アリババの父親でもあるバルバッド先王から託されたものらしい。それが如何なる因果か、巡り巡って今は息子である少年の手に委ねられた。
 柄や鞘の飾りは、流石国に古くから伝わっていた宝剣なだけあって意匠も見事で、きっと市場に持って行けば相当な額で売れるに違いない。もっとも彼がこれを端金の為に手放すことなど、未来永劫、ありはしないのだが。
 指先を掠めた冷たい感触に目を見張り、アリババは瞠目の末に睫毛を震わせ目を閉じた。
「王様なんだから。シンドバッドさんは」
 国の為。
 民のため。
 彼には成すべきことが山ほど残されている。
 アル・サーメンの事は積年の懸念材料だろう。破竹の勢いで領土を拡大し、着実に勢力を伸ばしつつある煌帝国の存在もまた、頭の痛い問題だ。
 だがそれらは、いくら考えたところで容易く答えが出るものではない。迂闊に手を出せば、火傷をするのはこちらの方だ。
 敵に回した組織は、シンドバッドの尽力によっても未だ全容が見えない。こうしている間にも大勢の人々から夢や希望、祈りや願いを吸い上げて、絶望の種を植え付けているというのに。
 口惜しい。悔しい。かといって無策のまま飛び出していったところで、どうにかなる話でもない。
 今の彼に出来る事といえば、自ら立ち上げた国をより栄えさせ、戦乱で傷ついた人々の心を癒し、笑顔の花を咲かせる事に他ならない。
 当面は、目に見える範囲から。手の届く近い場所から、地盤をより堅固にしていくより術が無く。
 滔々と語るアリババの説教に耳を傾けつつ、どこかうんざりした顔をして、シンドバッドは深い溜息の末に項垂れて背を丸めた。
「でもねえ、アリババくん。俺だって、王である前にひとりの人間なんだよ」
「それは、……まあ、そうでしょうけど」
 疲れた時は休みたい。寝台でぐっすり眠りたい。たまにはのんびり、ひなたぼっこに興じたい。酒だって飲みたい、遊びたい。
 泣き言に近い愚痴を耳元で零されて、アリババは腹の奥底で唸った。
 気持ちは、分からないでもない。アリババだってシャルルカンとの連日の特訓に辟易して、たまに逃げ出したくなることがある。もっともサボれば後日どんな酷い目に遭うか知っているので、実践した試しは今のところ一度しかないけれど。
 あの時は本気で死を覚悟した。思い出し、アリババは寒気を覚えて身を竦ませた。
 縮こまった彼を両側から抱き抱え、シンドバッドは慰めを求めて擦り寄って来た。
 上着越しに背中に頬摺りされて、摩擦で生じた熱に何故か悪寒が強まった。
 ぶるりと大きく身震いして、彼は生唾を飲んで剥き出しの腕を撫でた。
「ほんと、シンドバッドさんって……」
「うん?」
 物語に描かれていた姿と、少し――いやかなり、イメージが違う。
 ぼそりと呟かれた言葉を耳聡く拾い上げて、シンドバッドが顔を上げた。ずい、と肩越しに乗り出してこられて、耳朶と顎に触れた他者の体温に、彼は大仰に竦み上がった。
「ぎゃ」
「俺が、なんだい?」
「別に、なんでもありません」
 全身を毛羽立てて悲鳴をあげた少年に目を細め、更に距離を詰める。逃げようと藻掻いてじたばたするものの、十秒としないうちに諦めてしまったアリババが、投げやりとも取れる台詞を吐き捨てて両手を結び合わせた。
 膝の上に転がった掌には、無数の傷痕が刻まれていた。
 もし彼がバルバッドの第三王子になど産まれていなくて、マギのアラジンに見出されて迷宮アモンの攻略を成し遂げていなかったら、この手はもっと綺麗なままでいられたのだろうか。
 彼の未来に待っているだろう様々な艱難辛苦を想像し、そこに自らを重ね合わせる。光に満ちた世界に黒い闇がじわりと侵食を開始して、シンドバッドは祈る気持ちで頭を垂れた。
 首に巻き付けられた赤い紐に額を押し当て、その柔らかくも硬い感触に淡く微笑む。
「なら聞くけれど。アリババくんが思う理想の王様っていうのは、どういうものだい?」
 彼がシンドバッドを捕まえて「王らしくない」と言うのであれば、如何なる存在が「王」らしくあるのだろう。意地悪な問い掛けに、アリババはきょとんと目を見開いた末に困り果てた顔をして、唇を浅く噛んだ。
 口をもごもごさせて、弱り切った表情で視線は慌ただしく宙を彷徨う。
 明確な答えが出せない質問にどうにか応じようと、少年は必死に頭を捻り倒した。
 真剣に唸っている横顔に、シンドバッドがひっそりと笑んだ。
「ええと、……なんていうか。そうだな。うん。まず、強くて」
 起こした膝に左手の平を擦りつけたかと思えば、指折り数えて語り出す。右手は伸ばした指に添えて、折り曲げる際の手助けにした。
 遠くを見ながらゆっくり語る声は緊張に震えて、それでいてどこか楽しげで、嬉しそうだった。
「強い以外には?」
「頭が良くて、知識が豊富で。けど一方に偏らなくて、公平に物事を判断出来て。大勢の話に耳を傾けて、良いところと悪いところをちゃんと区別出来て、指摘出来て。自分の悪い点も素直に認めて、改めることが出来て」
「ほかには?」
 次々に折り曲げられていく、左手の指。親指から始まって小指に至り、今度は畳んだ先から伸ばしていく。
 語るうちに気持ちが昂ぶったのか、アリババの頬は朱を帯びて鮮やかな色に染まった。
 彼が挙げる王の条件に、シンドバッドはうんうん何度も頷いた。余計な茶々は入れず、彼が言葉に詰まっても大人しく続きを待つ。
 王たる者は常に優しく、強く、志は高く。
 民に慕われ、臣下に忠義を尽くされ、国を愛し、その領土の外に住まう人々にまで心を砕き、思いを巡らせる。
 己を犠牲にするを厭わず、己の掲げる理想に殉じる覚悟を秘めている。誰よりも崇高で、尊く、しかし屈託無く笑い、自身が王であるのを鼻にかけない。
 幼い足では、追い掛ける事すら叶わなかった。
 成長を遂げた今なら、手を伸ばせば届く。否、手を伸ばす必要すらない。
 会話の機会をあまり持てなかった父の姿が瞼の裏から消えて、真後ろに陣取る男の、妙に腹の立つ笑顔がアリババの脳裏にどっかり居座った。
「…………」
 一頻り語り終えて押し黙った彼の髪を、シンドバッドが気まぐれに梳いた。
「そんな人間が本当にいるのかな」
 わざとらしく問われて、産毛を擽る指の感触に浅く唇を噛む。くすぐったいのだが振り払う程のものでもなくて、アリババは鼻の奥がむずむずするのを気にして息を止めた。
 出そうになったくしゃみを誤魔化し、初めてシンドバッドの冒険書を手にした時の興奮を蘇らせる。
 心が震えた。こんな世界があるのかと、驚くと同時に執筆者にして主人公の男に俄然興味を抱いた。
 ある種の恋とも呼べる感情だった。王城に居た時から片時として手放さず、バルバッドを去った後も生活費を削って新作が出る度に買い揃えていった。
 一章から最終章まで、何も見なくても諳んじられる。一介の冒険者が仲間を増やし、難敵を倒して迷宮を次々攻略していく様は、若くして人生の岐路に立たされ、路頭に迷いかけていたアリババを確かに、救ってくれたのだ。
 ぐっと腹に力を込め、彼は下唇に牙を衝き立てた。
「アリババくん?」
 前のめりになった彼に、シンドバッドが怪訝にした。顔を覗き込もうとして避けられて、首飾りをしゃらしゃら言わせながら背筋を伸ばす。
 アラジンはアリババを王にすると言った。
 マギは彼を王に選んだ。選定者が、アリババを認めたのだ。
 実感は湧かない。今の自分に出来る事はあまりにも少なすぎて、バルバッドに残して来た多くの民草になんの手も差し伸べてやれないのが悔しい。
 もっと力があれば。
 もっと智慧があれば。
 仲間が居れば。簡単には挫けないくらいに、心強くあれたなら。
 束縛が緩んだ。今なら楽に逃げ出せる。けれど彼はシンドバッドに膝に居残り、深く息を吸って肺の中に留めた。
「俺、の」
 言葉と共に吐き出す呼気が荒くなった。上擦って、一部が裏返った。
 緊張をありありと感じさせる口調に、シンドバッドが眉目を顰めた。
 名を呼ぼうとして思い留まり、小刻みに増えている少年に目尻を下げる。愛おしさが一気にこみ上げて来て、頬がだらしなく緩んだ。
「俺の、理想の王様は」
 父の顔が胸を過ぎった。
 彼もまた、賢王と呼ぶに値する存在だったに違いない。しかしアリババは、彼以上に深い悲しみを知り、それ故に世界を守ろうと力を尽くしている人がいるのに気付いてしまった。
 深呼吸を挟み、アリババが背筋を伸ばした。振り返ろうと腰を捻り、残る言葉を紡ぎ出そうと口を開く。
 その瞬間。
「シ――わあっ」
 歯の隙間から息を吐いたところにがばりとのし掛かられて、身長も体重も劣る少年は呆気なく押し潰されて地面に転がった。
 頭の上でガサガサと木の葉が喧しく音を立てた。木漏れ日の配分が変わり、日射しを眩しいと感じた直後に世界は暗闇に転じた。
 変な風に倒れてしまった。腰から下を右側に投げ出して、上半身は地面に水平に転がって視線は上に。捻っている腰に負荷が掛かって、内臓が圧迫されてキリキリ痛んだ。
 姿勢を真っ直ぐにしたいのに、邪魔が入って出来ない。顔の両側に衝き立てられた逞しい両腕が、ゆっくり動いてアリババの頭を抱え込んだ。
 静かに引っ張り上げられた。これまでは背中側から抱き締められていたのが、今度は胸と胸が重なり合う。互いの心音がより一層近付いて、アリババは知れず赤くなった。
「し、シンドバッドさん」
 慌てて押し返そうとするけれど、間に合わなかった。ぺたんこに折れ曲がった腕が挟まれて、藻掻いた手が彼の上着を握り締めた。
 皺だらけのくしゃくしゃになった布越しに、鍛えられた胸板を感じた。
 トクン、と胸が高鳴る。自分よりも大きな存在に正面から抱き締められるなど、そう経験があるわけではない。じわじわとこみ上げて来る恥ずかしさに居たたまれない気持ちが膨らんで、顔をあげることすら出来なかった。
 首の裏まで赤くなっている彼に相好を崩し、シンドバッドは幼さが抜けきらない背中を少し乱暴に叩いた。
 バシバシとやった後、慰めるように撫でてやる。大きな掌を上下に、時間を掛けて揺り動かす。
「そう言ってくれるのは、君くらいだな」
 囁かれたひと言は、独白に近かった。
 自嘲の混ざった呟きに、アリババが弾かれたように顔を上げた。琥珀色の瞳をまん丸に見開いてから、物言いたげな唇を戦慄かせて首を振る。
 そんな筈がないと否定したいのに、言葉が出て来ないのだろう。
 首飾りごと上着を握り締めてくる手が震えていた。可哀想なくらいに白くなっている指を一本ずつ解してやって、シンドバッドは俯いた少年の頭をくしゃくしゃに掻き回した。
「アリババくんは、優しいな」
「そんなこと」
 はぐらかされてしまった気がして、アリババは頬を膨らませた。不満を露わにして、しつこく触れて来る手を押し退ける。
 シンドバッドは逆らわずに素直に従って、嬉しそうに破顔した。
 白い歯を見せて笑う男を上目遣いに睨んで、アリババが居心地悪げに身を捩った。
 言わされた感満載だが、告げた内容に嘘偽りはない。たとえ本物のシンドバッドがいかに呑兵衛で、女にだらしなく、机仕事が嫌いの道楽好きであろうとも、幼少期から築き上げて来たアリババの抱く理想の男が彼である事実は、決して変わらない。
 お世辞で言ったのではないのに上手く伝わらない歯痒さに、彼は奥歯を噛み締めた。
 肩に力が入っている彼の頭をゆっくり撫でて、シンドバッドは面映ゆげに目を細めた。
「……うん」
 なにかに納得したような、そんな表情でひとつ頷いて改めてアリババの細い身体を抱き締める。バルバッドで出会った時に比べれば、栄養状態が格段に違うからだろう、筋肉もついて骨格も随分しっかりして来ていた。
 遅まきながら成長期が始まったと、そんなところだろうか。
「ひゃわっ」
 大人への階段を登り始めている体躯を確かめ、背にやった手をずり下げて腰の窪みに至ろうとした頃、アリババが不意に甲高い声を上げた。朱に染まった顔を隠さんと右往左往して、さわさわと同じ場所を撫で回すシンドバッドから必死に逃げようとする。
 くすぐったいのかと悪戯を繰り返していたら、脱出を諦めた彼に上腕を力一杯叩かれた。
「酷いな」
「あ、あの。変なとこ、触らないでください」
 背中を撫でていただけのつもりだが、そんな風に反論されると勘ぐってしまいたくなる。頬を膨らませる少年に苦笑して、シンドバッドは静かに彼を解放した。
 両腕を下ろして、肩を鳴らして首を回す。ぽきぽき骨が音を立てるのを聞いて、ようやく自由を取り戻したというのに、アリババは急に不安げな顔をした。
 疑り深げな眼差しにスッと目を細め、シンドバッドは彼の、重力に逆らって尖っている毛先を上から押し潰した。
「ありがとう。悪かったね、だけど君のお陰で元気が出たよ」
「シンドバッドさん」
 いつまでも此処に隠れているわけにはいかない。そろそろ執務室に戻ろうという雰囲気を感じ取って、アリババは胸元をすり抜けていった冷たい風に身を震わせた。
 少し前までは早く立ち去りたくて仕方が無かったのに、今は無性にこの場から――シンドバッドの傍から離れ難い。
 奇妙な感情に下唇を咬んだ彼を見下ろし、シンドバッドは肩に掛かる髪を背中に払い除けた。
「君の理想に叶うよう、頑張ってくるとしよう」
「あ」
「それに、そろそろジャーファルに角が生える頃だ」
「えっ」
 緑の葉を押し退け、シンドバッドが立ち上がる。遠くなった彼の気配に心細さが膨らんだが、次に発せられたひと言に、アリババの瞳は途端輝きを取り戻した。
 穏やかな外見のあのジャーファルが、冒険書にあるように角を生やし、火を吐くところを拝めるかもしれない。考えるだけでもワクワクして、興奮に胸が高鳴った。
 そわそわし始めた彼に肩を竦め、シンドバッドは周囲に人の気配が無いのを確かめてから手を伸ばした。
「君も」
「わわわっ」
 無防備な手を捕まえて、引っ張りあげる。それなりに体重もあるのに軽々と釣り上げられてしまって、アリババは急ぎバランスを取って爪先から地面に降り立った。
 同じ男として、ちょっとどころかかなり、悔しい。
 軽く落ち込んで俯いていたら、また頭を撫でられた。子供扱いされるのも腹立たしくて唸っていたら、呵々と笑ったシンドバッドが手をするりと下に滑らせ、髭が生える兆候も見られない顎を掬いとった。
 無理矢理上向かされて、アリババが口を真一文字に引き結ぶ。強気の眼差しに笑顔を返し、彼は下唇のすぐ下を親指で何度も擦った。
 往復する指の爪が、視界の端に辛うじて見えた。
 なにか言わなければならないと思うのに、言葉がなにも浮かんで来ない。困惑して次第に歪んで行く琥珀色の瞳を見据え、シンドバッドが先に口を開いた。
「シャルルカンは、剣術に関しては俺よりも信頼がおける。だが時々やり過ぎる事があるから、酷い目に遭ったら、いつでも俺に言いなさい」
「あ、……はい。でも、大丈夫ですよ」
 褐色の肌を持つあの男は、確かに剣を握らせるととんでもなく凶悪な性格に豹変するが、根は優しくて実直だ。愛弟子が出来たと嬉しがって、必要無いところまでアリババの面倒を見ようとする。
 毎晩飲みに行こうと誘われるのは鬱陶しいが、逆に考えればそれは好かれている証拠だ。純粋に、嬉しい。
 照れ臭そうに笑ったアリババに、しかし何故かシンドバッドはほんの少しムッとした。波立つ感情を理性だけで押し留めて、表面上は笑顔を保ったままアリババの肩をそうっと撫でる。
 気遣ってくれる大人への感謝を込めて、彼は首を竦めてはにかんだ。
「シンドバッドさんも、お仕事、がんばってくださいね」
 年相応の――否、実年齢よりも遙かに幼い笑顔で告げる。陽光を吸い込んできらきらと輝く黄金色の髪と瞳に魅入られ、シンドバッドは三秒と少々、停止した。
 息苦しさからハッと我に返り、意味も無く咳払いを繰り返してアリババに不思議がられる。クスリと控えめに笑われて、彼は羞恥から頬を赤くした。
 赤面など、久しぶりだ。額に手をやり、彼はむず痒い鼻の頭を掻いて肩の力を抜いた。
「長々と付き合わせてすまなかった」
「いえ、そんな」
「これは侘びと、……礼だ。受け取ってくれ」
「――はい?」
 十歳以上も年下の若者に感情を振り回される事になろうとは、少々信じ難い。目の前にある落とし穴に気づきもせずに進んで、ずっぽり嵌ってしまったような気分だった。
 やられたままというのは、正直気に食わない。ならばとやり返してやるべく心の中でほくそ笑み、シンドバッドは無邪気にしている少年の左肘を軽い力で握り締めた。
 引き寄せ、きょとんとしているアリババの。
 その顔の中心に。
「………………~~~~~~~っ!」
 鼻の頭に軽くキスを落として、即座に離れる。腕を解放して半歩下がれば、出来上がった隙間をアリババの右拳が駆け抜けていった。
 空振りした一撃に唇を噛み締め、他人の熱が色濃く残る箇所をもう片手で押さえ込む。琥珀色の双眸に艶が増したのを確認して、シンドバッドは高らかに笑った。
「では修行、頑張りたまえ」
 実に楽しげに言い残して、背の高い男は踵を返して中庭から出ていった。足早に建物の中に入り、姿は瞬く間に視界から消えた。
 緑に囲われた空間に取り残されて、バルバッドの第三王子がなかなか引かない火照りに奥歯を噛み締める。その彼よりもずっと赤い顔をして、シンドバッドは暗がりで壁に寄り掛かり、困り果てた顔で口元を覆い隠した。
 

2011/12/23 脱稿