Dendrobium

 楽しい夢だった。
 豪奢な部屋の真ん中で、沢山の美しい女性に囲まれていた。目の前には金細工の食器が無数に並べられて、見たこともないような美味しそうな料理がはみ出さんばかりに盛り付けられていた。
 葡萄酒の匂いが仄かに漂い、派手に着飾った女性らが肩や腕や足を、頼んでもいないのに揉み解してくれた。口をあければ匙ですくった料理が自動的に運ばれてきて、顎をしゃくれば果実酒の杯が口元に添えられた。
 ただ座っているだけでよかった。なにもしなくてよい、こんな幸せな時間が現実にあって良いものかとさえ思った。
 甘く芳しい香りが鼻腔を擽る。パパゴラスの丸焼きが食べたくて目で合図を送って、アリババはこれまでで一番大きく、口を開いた。
 あーん、と黒髪の女性が匙を差し出してくる。彼はそのまま、ガチンッ、と強く顎をかみ合わせた。
 瞬間、夢がパッと弾けて消えた。
 そして今、彼はシンドリア王宮の庭先でひとり、途方に暮れていた。
「なんでこうなったんだろ……」
 ぼそぼそ独り言を呟いても、合いの手を返してくれる人はいない。いや、居るといえば居るのだが、生憎とこちらの声はあちらまで届いてはくれなかった。
 重く、しかし重過ぎない程度に左肩に圧し掛かっている男を横目で睨み、アリババは盛大にため息を零した。
 遠くからは兵士らが鍛錬に励む声が聞こえてくる。今からふた刻ほど前までは、彼もその輪の中にいた。
「ていうか、ここ、どこなんだ」
 掛け声が響く方角から凡その検討はつくものの、確信は持てない。視線を浮かせれば東屋の白い屋根の裏側に、見事なモザイク画が描かれているのが見えた。
 花をモチーフにしているのだろうか、親指の先ほどの大きさの色タイルが散りばめられて、鮮やかな絵が浮かび上がっている。ただ角度的に光が当たらないので、若干黒ずんで見えるのが残念だ。
 陽射しは六本の柱が支える屋根に遮られ、真ん中のベンチに腰掛けるアリババには届かない。足元を支える六角形の台座は大理石で出来ており、磨かれてつやつやしていた。
 師匠であるシャルルカンが心配しているかもしれない。なにせ休憩中、居眠りをしている間に銀蠍塔から勝手に抜け出してしまったわけだから。
 八人将のひとりに数えられる褐色の肌を持つ青年は、なにも直弟子たるアリババひとりに訓練をつけているわけではない。彼ら武官は直属の兵団を持ち、更にその下にシンドリア国軍が存在した。
 八人将直下の兵士達は、いわば次期八人将候補だ。選りすぐりの先鋭を更に強く鍛え上げるのが、シャルルカンやスパルトスの役目だ。
 だからアリババが金属器使いだからといって、他の兵士たちを差し置いてシャルルカンを独占して良いわけがない。彼がシンドバッドの客人だからという理由だけで、いつまでも特別待遇しているようでは、シンドリアの生え抜きの戦士達も面白くなかろう。
 そんなわけで今日は午前だけでシャルルカンとの鍛錬は終了して、午後の休憩を挟んだ後は自主練習となったわけだが。
 その自主的な鍛錬を予定していた時間に突入しても、彼はベンチから立ち上がれずにいた。
「どうしよう」
 東屋の置かれた庭園は四方が建物に囲まれて、出入り口は左右にふたつだけ。壁をくりぬいて作られたアーチ型で、扉はない。奥は薄暗く、どうなっているのかは見えなかった。
 シンドリアの王宮には沢山の中庭があるが、その大半は建物を繋ぐ廊にどこかしらで接していた。大体どれも開放的な空間を演出しており、こんな風に周囲を壁に囲まれている庭をアリババは知らなかった。
 立ち入りが制限されている区画以外は大体歩き回ったことがあるので、となれば此処は、必然的にアリババ個人では入れない場所にある、ということになる。そういう施設は数が少なく、故に候補もかなり絞られた。
 つまるところ、ここは紫獅宮の中だ。
 それも極端に私的な空間――そういった場を持つのが許されている人物の庭。
「シンドバッドさーん?」
 これらの条件に当てはまる唯一の男の名を呟き、アリババは左肩に寄りかかっている男を睨んだ。
 反応はない。政務中は大抵被っているターバンを外して膝に置いて、紫紺の髪を肩から胸元に垂らした男は、呼びかけに目覚める気配もなくぐぅぐぅいびきを立て続けた。
 瞼は閉ざされ、その奥に潜む瑪瑙色の瞳も望めない。薄く開かれた唇から漏れるのは安定したリズムの寝息ばかりで、耳に心地よい低音は響かなかった。
 夢の中に埋没してしまっているシンドバッドに嘆息して、アリババは膝に投げ出していた両手を広げ、掌を重ね合わせた。
 指を互い違いに絡めて緩く握り、背筋を反らしてベンチの背凭れに体重を預ける。頭の重みに負けて自然と首が上向いて、モザイクで作られた名前も知らない花が目に飛び込んできた。
 タイル職人とて、こんな人目に触れない場所に飾って貰う為に、意匠を凝らしたわけではなかろうに。
 王という立場の傲慢さを垣間見た気がして、アリババは肩を竦めた。
「……んん」
「っ」
 心の中で零した愚痴が、寝入る男に伝わりでもしたか。そんなわけがないのにあまりのタイミングの良さにどきりとして、彼は心臓を縮こませた。
 実際のところは、枕にしていた肩が揺れた所為のだが、なかなかその事実に気付けない。冷や汗を流し、シンドバッドの瞼が開かないのを息止めて確認して、アリババは安堵に胸を撫で下ろした。
 バクバク言う心臓を宥めて落ち着かせて、額を拭う。四方が高い壁に囲われているのもあって、風は殆ど感じられなかった。
 温い唾を飲んで心を鎮めるが、聞こえてくるのは高い位置を飛び越えて行く銀蠍塔からの掛け声ばかり。王の私的空間というのもあって、近くを行く人の気配もまるで感じられなかった。
 こんなところに連れてこられた経緯を想像するが、結論は出ない。シンドバッドが何を考え、なにを企み、アリババを人の来ない場所に連れ込んだのか。あまり深く考えたくはなかった。
 彼の女好きは有名な話だが、幾らなんでも小姓でもない男にまで手を出すとは思いたくない。
 いや、小姓もありえない。同性も対象に入っているとは、あまり考えたくなかった。
 そういう趣味の人がいるのは知っているし、自分の性別を偽って生活している人たちだっている。偏見を持つつもりはない。シンドリアはそういった人たちにも寛容で、男なのに女の格好をして給仕してくれる店だって存在する。
 だがそれが自分の身に降りかかろうとしていたらどうする、と問われたら答えに詰まらざるを得ない。
 無論シンドバッドがどういう性癖を持ち合わせていようが、彼は長年憧れ続けた存在に違いなく、自分がどうこう言える立場でないのも弁えている。ただもし、本当に求められでもしたらどうしようか。
「って、ないない」
 頭を過ぎった可能性を声に出して否定して、では何故、とスタート地点に立ち返る。盗み見た寝顔は穏やかで、眠りはかなり深そうだった。
 そういえば彼の顔を、間近からじっくり見たことがあまりない。テーブルを挟んで対話したり、肩を並べて酒盃を掲げたりはしたが、どちらとも喋るのに夢中になって、彼の顔つきを冷静に観察している暇などなかった。
「長いな」
 呟き、アリババは人の膝にまで垂れている紫紺の髪を抓み上げた。
 毎日櫛で梳いているのか、毛先までサラサラだ。香油でも塗っているのか、鼻に近づけると少し匂いがする。
「そういや、モルジアナが言ってたな」
 彼からは香やなにやらの、よく分からない匂いがする、と。
 国王という立場から大勢の人と会って話をする機会の多い彼だ、そういった人たちの匂いが自然と彼に移って、シンドバッド特有の匂いを形成しているのだろう。
 対する自分はといえば。
「臭うかなあ」
 上着の上から腕の匂いを嗅いでみるが、イマイチ分からない。当然だ、アリババはモルジアナたちファナリスほど嗅覚が鋭くない。
 常人離れした脚力や腕力を思うと、苦笑しか出ない。せめて十分の一程度で構わない、彼女の腕力と体力が自分に宿っていたなら、もう少し金属器だって巧く扱えただろうに。
 酒宴でそんな愚痴を零せば、シャルルカンは呆れて肩を竦めてくれた。
 生まれた時から存在する差異を語ったところで、どうにもならない。悔しいと毛の先ほどでも思うのであれば、日々精進するのみだ、と。
 確かに彼の言う通りであり、アリババも肉体的な不利を補おうと毎日剣を振るっている。今日もそのつもりであり、出来れば早く師匠たる男の元に戻りたいのだが。
「シンドバッドさん」
 依然左肩は塞がったままで、一寸でも位置をずらせば彼は頭からベンチに落下だ。
 折角気持ちよく寝入っているところにそんな真似をされたら、いくらなんでもかわいそうだ。かといってこのまま彼が自然と目を覚ますのを待っていられるほど、アリババは辛抱強くない。
 二者択一、究極の選択に思い悩み、彼は持ったままだった紫紺の髪を握り締めた。
「んぅ」
「あ、あばっ」
 無意識に力んで、引っ張ってしまった。頭皮を刺激された男が呻いて、気付いたアリババは急いで両手を広げた。
 ひと束の髪の毛がバサバサと膝に落ちた。最初は握ったときの指の形が残っていたが、時間が経つに連れて紫紺の糸は自然真っ直ぐになり、人の膝で気持ち良さそうに寝息を立てた。
 いったいいつから伸ばしているのだろう、その長さは軽く腰に届くくらいだ。
「親父もそういや、長かったな」
 あまり記憶にないが、バルバッド先王であるアリババの父の髪も、背に届くくらいの長さだった。
 王というものは、長髪でなければならない決まりでもあるのか。しかし父の後を継いだ兄は短かった気がするので、人それぞれなのが実情だろう。
 これまであまり深く気にしてこなかったが、思えばアリババの周囲には髪の長い人が多い。シンドバッドは言わずもがなだが、アラジンだってかなり長い。ヤムライハだってそうだし、シャルルカンも長髪の部類に入るだろう。
 自分も伸ばしてみようか。そうすれば彼らみたいに強くなれるのではないかと、一瞬あらぬ妄想が頭を過ぎった。
「でも面倒臭そうだよなあ、手入れ」
 髪同士が絡まらないように毎朝晩欠かさず櫛を入れ、風に乱されぬよう編むか纏めるかして、毛先が痛まないように花の種から抽出した油を丹念に塗りこむ。
 考えるだけで気が遠くなる話だ。洗うのだって大変だし、乾かすのも時間がかかる。
 寝る前の寛ぎの時間を、髪の手入れだけで終わらせるのは辛い。幼い頃は切るのが面倒臭くて伸びるに任せていた時期もあったが、段々鬱陶しくなって来たのである日思い切ってばっさりやってしまった。
 矢張り自分は、今くらいの長さが丁度いい。金糸の前髪を抓みあげ、アリババは息を吐いた。
 風を浴びせられて、毛先がふよふよと宙を泳いだ。まるで綿毛かなにかだと苦笑して、はたと我に返って隣に座る男を窺う。
 軽い震動程度で目覚めないのは、先ほど確認済みだ。すこぶる良く眠っている。ベンチに腰掛け、腕組みをして、男の肩に寄りかかりながらよくぞここまで熟睡できるものだと、違う意味で感心しそうになった。
 神経が図太いというか、図々しいというか。
 もしや彼は、銀蠍塔の木陰で居眠りをしているアリババを見つけて、枕代わりにする為だけに此処に連れて来たのだろうか。
「シンドバッドさんだよなあ」
 他の誰かがアリババを攫い、此処に置いて行った可能性はゼロではないが、限りなく低いと思われた。シャルルカンやピスティ辺りなら面白がってやりかねないが、そのシャルルカンは兵士たちを鍛えるのに夢中だし、ピスティは小柄すぎてアリババを担ぎ上げられまい。
 他に紫獅塔へ自由に出入り出来る人間で、且つ人をひとり楽々抱えて移動出来る存在となれば、数は限られる。意味もなくアリババをこんなところに放り出す趣味の悪い兵士がいるとは、あまり考えたくない。
 犯人はシンドバッドで決まりだろう。それに銀蠍塔には大勢の兵士がいた。いくら木陰で涼んでいたとはいえ、アリババが連れ出されるところを誰も目撃していないわけがない。
 勝手な事をしても騒ぎにすらならない人となれば、ここで呑気に高いびき中の男をおいて、他にありえない。
「なに考えてるんだか」
 強くなれと言ったのはシンドバッドなのに、アリババの修行の邪魔をして。
 枕が欲しければもっと柔らかくていい匂いのする、可愛い女の子の膝を借りればいいのだ。何を好んで、汗臭い十七歳の男子を選んで連れて来たのか。
「ほんと、意味わかんないんだけど」
 愚痴を零し、そろりと隣を覗き込む。注意を払ってはいたが、姿勢は自然と前屈みに。肩の位置もずれて、寄りかかっていたシンドバッドの頭がガクリと揺れた。
 首がぐらぐらしたかと思った瞬間。
「――うわっ」
 どすん、と大きなものがアリババの膝に落ちた。
 思わず悲鳴をあげて、飛びあがった。太腿にかかる負荷で尻は浮こうとした手前で停止した。両手だけが跳ね上がって、万歳のポーズで凍りつく。
 だらだらと冷や汗を流す彼を知らず、落下の弾みで腕が解けた以外、シンドバッドにさしたる変化は現れなかった。
 思い切り頭をぶつけただろうに、まだ起きない。形の良い眉が僅かに歪んだけれども、瞼は依然閉ざされたままだ。
 腰を急角度で折り曲げて、先ほどまで以上に器用な体勢で眠っている。苦しくないのだろうかと心配になるが、かといって揺り動かすのも悪い気がして、アリババは行き場を失った手で仕方なくシンドバッドの肩を撫でた。
 紫紺の髪が白い衣の上に散らばり、波紋のように広がっていた。首からぶら下げた装飾品が重なり合い、斜めを向いてアリババの膝にまで垂れ下がっていた。
 彼の膝にあったターバンはどうなったか。気になって探したら、案の定足元に落ちて皺になっていた。
「ああ」
 拾ってやりたいところだが、生憎と届かない。腰をかがめようにも、膝に乗った男の身体が邪魔だ。
 まさか彼を押し退けるわけにもいかず、アリババは肩を竦めて苦笑すると、長く同じ体勢を取り続けた所為で凝った肩を緩く回した。
 骨がポキポキと小気味良い音を響かせた。ついでに背筋も反らして首を後ろに倒すと、遙か上空に白い綿雲が見えた。青空が半分埋め尽くされて、太陽も隠れたのか降りてくる空気が冷たい。
 あとどれくらいの時間、ここでこうしていれば良いのだろう。あんなに激しく頭をぶつけた癖に、図々しくまだ高いびき中の男に視線を戻し、アリババは琥珀色の目を細めた。
 倒れた時の弾みで散らばった髪の毛が、耳を越えて頬から口元を覆い隠している。このままでは息苦しかろうと掬い取ってやり、気まぐれに梳いてもやる。
 紫紺の髪は指通り滑らかで、まるで癖が無い。そのくせ一本一本がまるで意志でもあるかのように指に絡みつき、アリババに擦り寄った。
「引っかかったりしないのかな」
 気持ち良さそうにしている顔の上から髪を取り払ってやって、そうっと前を覗き込む。じゃらりと重い首飾りが斜めを向いて、歪な楕円形を作っていた。
 意匠は見事で、感嘆の息しか出ない。しかも全て金属製なので、かなりの重量がありそうだ。
 それらを彼は常日頃から、当たり前のように首にぶら下げて歩いている。腰に佩いた剣だけでも充分重いだろうに、とアリババは己の金属器である故国由来の短剣に目を落とした。
 ジンの金属器は、その名が示す通り金属に宿る力だ。迷宮を攻略し、王の資質を認められた者にだけ与えられる力だ。
 シンドバッドはその力を、総じて七つも手にしている。つまり、金属器が七つ。言い換えるなら常に持ち歩かなければならない装飾品や武器が、合計で七つ。
 バルバッドで全部盗まれるという珍事もあったが、すったもんだの挙句、無事持ち主のもとに戻って来たのは素直に喜ばしい。
 金属器は重い。その力も、果たすべき役目も。
 だが彼は甘んじてそれを受け止めて、務めを果たそうとしている。
「綺麗な顔してるよなあ」
 ボソリと呟き、アリババは抓んだ髪を指に巻き付けた。
 軽く引っ張ってみるが、これしきのことで起きてくれるはずがなかった。分かっていたので落胆はせず、少し癖がついた毛先を開放してまた手櫛で梳いてやる。
 同じ事を何度も繰り返して、寝入る男の横顔をじいっと、深く考えもせずにただ眺める。
 後ろから見上げる限りでは広い背中も、こうしているとさほど大きいと感じない。近付くだけでもおこがましい偉大なる王も、眠っている時はただのひとりの男だということか。
「いいなあ」
 ヒナホホまで、とは流石に贅沢は言わないが、せめてジャーファルくらいの背丈は欲しい。腕も、マスルールを目指すのは無理でも、今よりもっと太くしたい。
 そうやって考えると、シンドバッドと言う男の体型はなんとも理想的だった。
 剣を扱うにも、誰かを受け止めるにも、支えるのにも。
 モルジアナに抱き上げられているようでは駄目なのだ。上着の上から腕を抓んで引っ張ってため息を零し、アリババはふるふると首を振った。
「あれ。……あ、そっか」
 今一度、改めてシンドバッドの顔を凝視する。こういう時でしか、まじまじと近くから観察など出来ないからと、遠慮も忘れて食い入るように見詰める。
 そうして閉ざされた瞼のもっと下、睫が縁取る目の周囲にうっすらながら黒い色素が沈殿しているのに気がついた。
 汚れかと思ってなぞりそうになって、寸前で違うと悟って慌てて手を引っ込める。
「隈だ」
 寝不足の時に現れる、あれだ。
「疲れてるのかな」
 自分も、バルバッドから渡って来た直後は眠れなくて、よく隈を作ってジャーファルに心配させていた。数ヶ月前の日々を思い出し、アリババは肩の力を抜いて背中を丸めた。
 彼の寝不足の原因は、凡そだが見当がつく。シンドリアは島国で、国土は狭い。しかし移住希望者は後を絶たず、また農地が少ないので食料の大半は輸入に頼らざるを得ない。
 悩みの種は尽きないだろう。ジャーファルも毎日忙しく走り回っているが、シンドバッドもそれは同じだ。
 むしろ王として、誰よりも大きな責任を背負っている。
「仕方ないな」
 早く起きて欲しいのが本音だが、起こすのは忍びない。
「俺の膝でいいのなら」
 ぽんぽん、と、遠い昔母がそうしてくれたように肩を撫でるように叩いてやって、アリババは目を細めた。
 後でジャーファルに叱られても責任は持てないが、彼がぐっすり眠って疲れが取れるのならば、膝くらい貸してやろう。そう決めて、相好を崩す。
「ん……」
「へ? うわっ」
 するとまるで返事するかのようにシンドバッドが鼻を鳴らし、横になったまま伸びをしてごろり、寝返りを打った。
 地面に向かって投げ出されていた脚が片方持ち上がり、ベンチの座面に乗りあがった。もれなく不自然に曲がっていた腰が伸びて、紅色の唇が意地悪い笑みを形作った。
 髪と同じ色の睫が風もないのに揺れる。僅かな表情の変化を間近で確かめて、アリババは背筋を粟立てた。
「起きてますね!」
「ははは」
 ぞわりと走った悪寒を堪え、大口を開けて叫ぶ。途端にシンドバッドが、耐え切れなかったのか全身を揺らして笑い出した。
 瞼は依然閉ざされたままだが、この反応からして間違いない。しかも、どうやらそれなりに前から意識は覚醒済みだったようだ。
 独り言も全部聞かれた。恥ずかしさがこみ上げてきて、アリババは耳まで真っ赤になった。
「なっ、なに考えてるんですか」
 どういうつもりで銀蠍塔から連れて来たのか。一番の疑問を真っ先に口に出した彼を見上げ、膝を占領した男は不遜に笑った。口角を歪め、右腕を伸ばす。
 触れた白い頬は艶やかで、滑らかで、瑞々しさに溢れていた。嫌がって首を振ったアリババを追いかけはせず引っ込めて、シンドバッドは地面を向いていたもう片方の足もベンチに登らせた。
 一番楽な体勢で寝転がった彼を、出来ることなら蹴落としてやりたい。危険な衝動をどうにか押しとどめ、アリババは長い息を吐いて全身から力を抜いた。
 背凭れに寄りかかった彼を追い、シンドバッドが更に寝返りを打った。胸に顔を押し当てられて、ついでとばかりに腰に腕を回されて、甘えてしがみ付いてくる大人に少年が目を見開く。
「シンドバッドさん」
「君が悪いんだ」
「はあ?」
「あんなところで、気持ち良さそうに眠っているから」
「……あの、意味が」
 格別なにかしたつもりはないのに、いきなり責任を押し付けられた。素っ頓狂な声を上げたアリババになおもしがみ付いて、シンドバッドはくぐもった声を零した。
 ぎゅうぎゅうに締めあげられて、正直苦しい。緩めて欲しくて頭を撫でれば、意図を察したのか、彼は少しだけ力を緩めてくれた。
「俺だって寝たい」
「はあ」
 そのついでに呟かれて、アリババは分かったような、分からなかったような顔をして相槌を打った。
 どうせ彼のことだから、ジャーファルに仕事が終わるまで休憩なし、とでも言われたのだろう。その苦行に根を上げて、こっそり抜け出してきたところに昼寝中のアリババを見つけた、と。
 なんとも迷惑な話だ。
「俺、関係ないじゃないですか」
「いいや、ある。あんな寝顔を見せられたら、誰だって眠くなる」
「……はいはい」
 逃げの口上を述べれば、駄々を捏ねられた。
 理不尽な言い分に論じ返す気も起きなくて、アリババは適当に返事をして大人気ない男の髪を手で優しく梳いてやった。
「それで。俺はもう帰って良いんですか?」
 それなりに夢の世界は楽しめた筈だ。わざと意地悪く問えば、シンドバッドは露骨に顔を顰め、ふて腐れた表情で口を尖らせた。
 三十歳手前とは到底思えない姿に肩を竦め、アリババが天を仰ぐ。見事なモザイク画に感嘆の息を漏らした彼を見上げて、シンドリア王は。
 腕を伸ばし、無防備な肩を掴んでぐいっと引き寄せた。
「わっ」
 油断していたわけではないが不意を衝かれたアリババが、甲高い悲鳴をあげて背を丸めた。
 ふたりの距離が狭まる。あまりの近さに目眩がして、彼は琥珀色の瞳を歪め、瞬きの末に目を逸らした。
 気恥ずかしげにしている少年を呵々と笑って、シンドバッドは頭を揺らした。引き締まった、けれどそれなりに弾力のある太腿に首を据えて安定させて、逃すまいと腰に腕を絡みつかせる。
「シンドバッドさん」
 密着してくる男に狼狽えて、アリババは声を高くした。弱り切った表情を楽しげに見つめて、シンドバッドは瞼を閉ざした。
 近くに居座っていた睡魔を手招き、欠伸を零す。
「ジャーファルが来たら、適当に追い払っておいてくれ」
「無茶言わないでください」
「なぁに、平気だよ。あいつはあれで、君に甘いから」
「俺を巻き込まないでください」
「おやすみ」
 吐息に混ぜて囁かれて、アリババが反論するが聞き入れられない。人の意見に耳を貸さぬまま、シンドバッドはすっかり寝入る体勢に入ってしまった。
 最初から、彼の狙いはそれだったのだ。
 ジャーファルに見付かった時用に、自分のサボタージュを正当化する為にアリババを巻き込んだのだ。
 本当にどうしようもなく我が儘で、身勝手で、図々しくて。
 だのに何故だか、嫌いになれない。
「もう寝ちゃいましたか?」
 艶やかな髪を撫でつつ小声で問い掛ける。返事は無い。代わりに穏やかな寝息が、遠く響く号令のリズムに合わせて耳朶を擽った。
 心なしか、最初に見た時よりも隈も薄くなった気がした。
「しょうがないなー」
 膝を貸してやると決めたのは自分だ、今更捨て置いて立ち去るなど出来ない。
 諦念の境地に立ち、アリババは目尻を下げた。左右を確かめるが、今のところ庭を覗く人の姿はない。
 安堵して、上を向く。
 色鮮やかな大振りの花が、優しく彼に微笑みかけていた。

2011/12/08 脱稿