約定

 蕁麻疹がどういうものなのか、過去に患ったことがないのもあって、綱吉には良く分からなかった。
 山本曰く、身体中にぶつぶつが出来ることだという。獄寺が言うには、出来た場所が痒くてならず、引っ掻き過ぎると皮膚が破れて血まみれになるのだとか。
 ふたりして綱吉を驚かし、怖がらせることばかり口にした。要するにあまり罹りたい病気ではない、という事らしい。もっともどんな病気であれ、床に伏すのは出来るなら勘弁願いたい。
 風邪をこじらせ入院、という前科のある雲雀だが、遭遇した綱吉の目にはとても元気に映った。
 そもそもあの男が、風邪ごときで体調を崩すとは思えない。あれもどうせ、仮病だったのだ。
 思い返していたら嫌な記憶までが蘇って、綱吉は寒くも無いのに身震いした。いや、実際少々肌寒い。教室にいる間は感じなかったが、昼間でも気温はあまりあがらず、晩秋の気配は濃厚に空気に満ちていた。
 あと少しすれば冬と言っても過言ではない季節になる。校庭の木々も枯れ色が目立ち始め、通学路には枯葉が散乱していた。
 そんな最中にもたらされた、不吉な知らせ。
「……よし」
 拳を作って気合いを入れて、綱吉は道を塞ぐ扉を力強く睨み付けた。
 人気の乏しい特別教室棟の一角、頭上には応接室の札。沈黙するドアを前にして、彼は臆したがる心を奮い立たせて唇を噛み締めた。
 勇気を振り絞り、軽く二度、ノックする。だが十秒待って、一分が過ぎても、返答は一向に返ってこなかった。
「あ、あれ?」
 てっきり中にいるものとばかり思っていたので、当てが外れた。素っ頓狂な声をあげて首を捻り、彼はもう一度、今度は少し強めに扉を叩いた。
 ごんっ、と想像していた以上に大きな音が響いてしまい、心臓がきゅっと縮こまったが、それでも中から応対の声は聞かれなかった。どうやら本当に、誰もいないらしい。
 琥珀色の目を歪めて、綱吉はむん、と口を尖らせた。
「参ったな」
 貴重な昼休みを潰してまで訪ねて来たのに、空振りさせられるとは思っていなかった。こんな事ならもっとゆっくり、味わって弁当を食べてくればよかった。
 教室で広げた奈々手製の昼食を思い浮かべ、制服の上から腹をなぞる。急いで食べた所為か、量はそれなりにあったはずなのに、満腹感はちっとも得られなかった。
 勿体無い事をしてしまった。応接室と記された札を見上げて肩を落とし、綱吉は深々とため息をついて前髪を掻き上げた。
 蜂蜜色の毛先をくしゃりと握り潰して、後ろへ流す。重力を無視してピンと跳ねた髪の毛は、ちょっと手で押した程度では折れ曲がったりしない。どれだけ強力な整髪剤を使おうと、ドライヤーを手に格闘しようとも、少しも言う通りの形になってくれなかった。
 変な頭、と笑われた日が急に蘇った。僅かに頬を赤く染めて、綱吉は悔し紛れにドアを足で蹴り飛ばした。
「うあっ」
 すると閉まっていた扉がひとりでに内側に吸い込まれ、道を開いた。
 どうやら部屋の主が外に出る際に、あまりしっかり閉めなかったらしい。キィ、と蝶番が軋む音が耳朶を打ち、彼は慌てふためいて左右を見回した。
 並盛中学校を実質的に支配している風紀委員長の、その根城である応接室に狼藉を働いたと知れたら、大変だ。誰にも見られていないかどうかを忙しく確かめて、依然人気のない廊下にホッと胸を撫で下ろす。
 安堵の息を吐いて冷や汗を拭い、綱吉は半端に開いたドアに生唾を飲んだ。
「え、えっとー」
 入室を許可されたわけではないが、ドアが勝手に開いてしまったのだから仕方が無い。閉めようとして間違って中に入ってしまうことだって、きっと世の中には沢山前例があるはずだ。
 少々無理のある言い訳を心の中で繰り返し、好奇心に背中を押されて前に出る。銀色のノブは掴まず、木の板をそっと押せば、何の抵抗もなくドアは更に内側に滑っていった。
 人ひとりが楽に通り抜けられるだけの隙間を作って、上履きで敷居を跨ぐ。中は廊下ほど冷えていないものの、空気は乾いていた。
 部屋の主は長時間留守にしているようで、人がいた気配はまったく読み取れなかった。
 カーテンは開け放たれており、穏やかな日差しが燦々と降り注いでいるので、照明がなくとも充分に明るい。机の上は綺麗に片付けられていた。応接用のソファやテーブルにも、埃ひとつ落ちていなかった。
 壁際に並ぶ棚には過去から現在に至るまで、並盛中学校に在席した生徒が獲得したトロフィーや盾が所狭しと飾られていた。剣道部の名前がひと際目だっている。もれなくとある先輩の顔が頭に浮かんで、消えた。
 入り口に背中を向ける形で置かれているソファも覗いてみたが、肘掛けを枕に寝転がる人の姿はなかった。
 よく校歌を口ずさんでいる小鳥も、鋭い棘を担いでいるハリネズミもいない。
 ひっそり静まり返った室内に、時々外からの歓声が響き渡る。食事を終えた学生が、グラウンドではしゃぎまわっているのだろう。
 外は寒いのに、元気だ。とても真似できないと身震いして、綱吉は己を抱き締めた。
 足踏みしながら上腕を撫でさすって摩擦熱で身体を温め、短く息を吐く。鼻を啜って唾を飲んで、彼はゆるゆる首を振った。
「何処行ったんだろ」
 彼がじんましんに罹ったという話は、黄色いおしゃぶりのアルコバレーノ、リボーンから聞かされた話だ。
 現在綱吉は、不可思議な七人の赤ん坊に関わる重大事件に巻き込まれている。七色のおしゃぶりの所有者のうち、ひとりだけが呪いを解かれて元の姿に戻れるようになる、という話だ。
 だが具体的になにがどうなるのか、イマイチよく分からない。あのリボーンが、昔は七頭身の色男だったのだと言われても、赤ん坊の前が大人であるわけがない。彼の語る話は全く以て奇想天外で、意味不明だ。
 だが頼まれた以上は、やらねばなるまい。ディーノもイタリアから遥々呼ばれてやって来たわけだから、協力は惜しまないつもりだ。
 獄寺に山本、了平も手を貸してくれる。後は雲雀さえいれば、鬼に金棒だ。
「蕁麻疹、絶対俺の所為だよな」
 だのにその頼みの綱であった雲雀に、仲間入りを拒まれてしまった。
 直接交渉したのはリボーンで、綱吉は結果を聞かされただけ。ことの仔細は聞かされていないが、リボーンに好感を抱いている彼が断るくらいだから、余程蕁麻疹は酷いのだろう。
 綱吉の力が足りないばかりに、雲雀には迷惑を掛けてばかりだ。
 炎真たちと争いあっていた頃、戦う目的を見失っていた綱吉に喝を入れてくれたのは彼だ。ヘリコプターで駆けつけてくれた。最後まで一緒にいてくれた。
 彼の助力がなければ、綱吉は今頃此処には存在しない。ボンゴレとシモンが和解できたのも、彼の労力があってこそだ。
 だがその結果、群れるのを嫌う雲雀に無理をさせてしまった。
「……謝りたいのにな」
 全身にぶつぶつが出来ている雲雀を想像して、しゅんとなる。ボソリと呟くが、聞く相手はいなかった。
 礼を言って、そして謝罪をしたかった。その上でもう一度、常に一緒でなくても構わないので協力してもらえないか頼みたかった。
 リボーンやディーノが駄目でも、自分の訴えならば聞き届けてくれるのではないか。そんな魂胆も、少なからずあった。
 俯いて床を蹴り、ぐじ、と鼻を啜る。口元を袖で乱暴に拭って唇を噛んで、彼は深いため息と共に肩を落とした。
「そうだ」
 応接室にいない以上、探しようがない。他に雲雀が行きそうな場所はないかと考えを巡らせて、綱吉はピンと来て両手を叩き合わせた。
 朝の登校時に会えたら捕まえようと思っていたのだが、そちらも見事に空振りだった。正門前にいたのは風紀委員ではなく、粛清委員のアーデルハイドだった。
 彼女が転校してきてから、風紀委員会は微妙に朝の検問をサボっている。
 なにかとしゃしゃり出て来る彼女と無益な争いをしないよう、あえて回避しているのかどうかは定かではないが、登校時間にずらりと正門に居並び、生徒を威圧するあの光景がなくなったのは、ホッとすると同時に何故か少し寂しい。
 胸を張って立つリーゼントの列から少し外れたところにいる、他とは違って学ランを羽織るだけの青年を見つけるのが楽しみと化していただけに、姿が見えないのは面白くなかった。
 もっともそれも、蕁麻疹で臥せっているからだとしたら、納得が行く。
「そうだよ。保健室だよ」
 どうしてもっと早く気がつかなかったのかと、綱吉は数分前の自分を責めて地団太を踏んだ。こうしている場合では無いと、急ぎ足で敷居を跨ぎ、応接室のドアを閉める。
 特別教室棟のこの階は、応接室があるという理由だけで人通りが殆どない。目撃者の心配は、あまりせずに済んだ。
 それでも念のため警戒を怠らず、綱吉は左右を挙動不審に見回してから、一階に下りるべく階段目指して駆け出した。
 本当は走ってはいけないのだが、時間が惜しい。幸運にも誰からも見咎められないまま、二段飛ばしで階段も駆け下りて、両足揃えて着地する。流石にここまで来ると、昼休み後半の雑多な空気が肌で感じられた。
 職員室に出入りする生徒に、教員たち。寒さに負けてグラウンドから戻って来る男子生徒も見受けられた。体育館へ移動中なのは、ジャージの色からして三年生だ。
 ごちゃごちゃした猥雑さは、学校特有のものでもある。大勢の中に紛れて潰れてしまわないよう心がけながら、綱吉は近付いて来る上級生の集団を避け、足早に保健室を目指した。
 その部屋も、応接室ほどではないが、生徒があまり近付こうとしない場所だった。
 なにせそこに陣取っている保険医が、まともではないのだ。男子生徒は姿を見ただけで追い返し、女子生徒はかすり傷ひとつでも大仰に歓迎して、治療のお礼にとキスを迫る次第。
 よくぞ問題にならないものだと、心底呆れてしまう。もっとも、少し前にその男女差別が甚だしい校医は休職願いを提出し、結婚相手を探す旅に出てしまっていた。お陰で保健室は、此処暫くは保険医不在。
 治療してくれる相手がいなければ、矢張り生徒は足を向けない。サボりに行こうとする生徒は何人かいたようだが、風紀委員が毎時間見回りに行っているようで、不届き者もいつしか姿を消した。
 この学園の秩序は、風紀委員が支配している。彼らに逆らいさえしなければ、案外過ごし易い学校なのかもしれない。
 そんな事を何気なく考えながら、綱吉は上履きをかぱかぱ言わせて廊下を突き進んだ。職員室の前を通り過ぎ、印刷室を越えて、更にその先。校舎の奥まった場所に見えた保健室という札に顔を綻ばせ、勢い良く閉まっていたドアを開く。
「ヒバリさっ……あれ?」
 中に病人がいるかもしれないのに、すっかり忘れて元気一杯に呼びかける。しかし戸口から身を乗り出した彼の目に映ったのは、がらんどうの空間だった。
 シャマルが使っていた机も一応は片付けられて、吸殻が山盛りの灰皿も廃棄されていた。窓には白いカーテンが掛けられて、中は少し暗い。右手奥に並ぶベッドも、全て空っぽだった。
 仕切りのカーテンも端に集められて、布団は折り畳まれて積み上げられている。空気は応接室以上に埃っぽく、澱んでいた。
 またしても読みが外れた。こうも立て続けに空振りさせられると、超直感というものが本当に自分に宿っているのか、疑問に思わざるを得ない。
「あれ、え」
 扉に右手を残したまま敷居を踏んで中に入る。干乾びた唇がひりひり痛んだ。
 潤いを与えんとして舐めて、よろめきながら奥へ向かう。触れた布団からは消毒薬の臭いがした。これではとても安眠できない。
「いない……」
 今更の事を声に出して呟けば、より強く実感させられた。愕然として、綱吉は全身に鳥肌を立てた。
「あれ。あれえ?」
 応接室は無人で、保健室も無人。ならばあの男はいったい、どこにいるというのか。
 早く見つけないと、昼休みが終わってしまう。ただでさえ出席日数が危ういのだ、これ以上サボったら来年の進級にも関わる。
 中学生で留年はしたくない。あまりにも恥ずかしすぎる。もし進級できたとしても、今の学力で高校に進学してやっていけるのかについての疑問は残るが。
「いやいや、そうじゃなくて」
 今考えるべきは雲雀の行方であり、綱吉の成績ではない。
 その場で足踏みして、彼は頭を掻き回した。落ち着きなく身を捩って、天を仰いで両手で顔を覆い隠す。
「えー……」
 蕁麻疹を発症したと聞いたが、まさか学校にも出てこられないくらいに悪いのか。
 此処に至って初めて、通学していない可能性に行き着いて、綱吉は低い声で呻いた。
 後ろに反り返らせていた身体を前のめりに戻して膝を折り、しゃがむ。頭を抱えてゆるゆる首を振って、ため息で指先を湿らせる。
「お見舞いに……って、俺、ヒバリさんの家がどこか知らないし」
 ハッとして顔を上げて、直ぐに廃案にして益々項垂れて小さくなる。そもそも今日は平日で、昼休み中で、あと十分足らずで午後の授業が始まる。
 これ以上授業をボイコットするわけにいかないのは、先にも確認した通り。もし住所を知っていたとしても、学校を抜け出すのは至難の業だ。それに制服のまま町をうろついていたら、非常に目立つ。
 雲雀だって、学校をサボって出て来たと知ったら、怒るに違いない。
「もう、どうすりゃいいんだよ~」
 しかも尚悪いことに、今日がアルコバレーノの代理人戦争の開始日に指定されていた。あの笑い上戸の男の説明に嘘が無いとしたら、いつ、どこでスタートが宣告されるかは分からない。
 綱吉がボスウォッチを装着するよう言われたのだって、日中は学生同士で集まりやすいからというのが理由だ。
 だからリボーンからは、なるべく固まって行動するようにいわれていた。くれぐれも周囲に黙って単独行動はするなと、とっくの昔に釘を刺されている。
 勝手をすれば、皆に迷惑がかかる。
 一対一ならばまだしも、ひとりでいるところを集団で狙われたらひとたまりも無い。それに戦闘開始が移動中で宣言されたら、住宅街のど真ん中でバトルしなければならなくなる。
 一般人に目撃されるような真似は、極力避けたかった。
「ああ、もう。なんだって」
 ひとりじたばた足踏みして埃を撒き散らし、噎せて咳き込んでいるうちに涙が出て来た。残り時間は少ない。昼休憩が終わってしまう前に、なんとしてでもあの人の行方を掴まなければ。
 せめて草壁辺りに話が聞けたら、今日登校しているかどうかくらいなら分かるだろうに。
「そうだ。草壁さんだ」
 あちこち放浪して居場所が定まらない委員長よりも、副委員長を捕まえる方がよっぽど的確だ。
 風紀委員会の唯一の良心たる男を思い浮かべ、綱吉は無意識にガッツポーズを決めた。
 未来に飛ばされる以前はなかなかに接し難いところがあったが、十年後の世界で垣間見た草壁はとても心優しく、親切で、一寸お茶目なところもある良い人だった。さすがは暴君雲雀の側近を長年勤めているだけの事はあり、辛抱強くて世話焼きで、なんとも甲斐甲斐しかった。
 彼なら、雲雀の居場所も把握しているに違いない。
「そうと決まれば……」
 この時間なら、風紀委員は大抵学校内の見回りに出ている。上背があり、尚且つ庇のように長いリーゼントの彼は遠目からでもかなり目立つ。
 雲雀を探して闇雲に走り回るよりも、ずっと効率的だ。
 意を決すると、綱吉はちらりと壁の時計を見上げた。秒針が刻々と右回りに進むのを睨みつけて、気合いを入れ直して保健室を飛び出す。丁度通り掛った下級生とぶつかりそうになって、よろけるがどうにか踏み止まった。
「ごめん!」
 大声で謝罪して、ドアも閉めずに廊下を突っ走る。最早校則違反がどうだとか、関係なかった。
 いっそ風紀委員に発見され、現行犯で捕まる方が良い気さえしていた。どうしてその案がもっと早く頭に浮かんでくれなかったのかと、効率が悪すぎる自分に辟易して奥歯を噛み締める。
 正面玄関前に戻ると、人の流れは一気に加速した。グラウンドから教室に戻る人波に逆らって、下駄箱に駆け寄って沢田の名前が記されているボックスを開ける。
 土の臭いが鼻腔を擽った。泥汚れがこびり付いている靴に慌しく履き替えて、生温い上履きを代わりに放り込む。
「どこか、どこだ……うん、こっち!」
 学内の不良のたまり場は、大抵が昼間でも薄暗い場所。そしてあまり生徒が寄り付かない一帯と相場が決まっている。
 ならば風紀委員もそちらを重点的にチェックして回っているはずだ。現に綱吉は過去に数回、不良たちを薙ぎ倒している雲雀をそういう場所で発見している。
 とばっちりを食らって殴られた記憶までついでに蘇って、後頭部がずきりと痛んだ。苦笑して首の後ろを撫でて、彼は晩秋の風が吹き荒れる屋外に身を躍らせた。
 寒い。
「ひぃぃっ」
 校舎から出た直後に浴びせられた冷風に竦みあがって、全身に鳥肌が立った。背中を駆け抜けた悪寒をやり過ごして鼻を啜り、今すぐ校内に戻りたがる自分を制して校舎裏を真っ先に目指す。
 候補は他に体育館裏と、用具倉庫と、裏庭辺り。すべてを回っている暇はない。
 直感を頼りに、綱吉は風を切って走った。全身の筋肉を行使し、血液を隅々まで行き渡らせる。寒さを覚えたのは最初だけで、走っているうちに段々と熱が溜まり始めた。
 腿の裏側がもれなく痒くなったが、構っている時間も惜しい。息を切らし、彼は第一候補としていた校舎裏に飛び込んだ。
「っと、ええー?」
 日の光が遮られて、世界は一気に暗さを増した。明度の変化に眼が追いつかず、何度も瞬きをして肩で息を整える。
 ここでもし本当に不良がたむろしていて、風紀委員が介入していなかった場合、綱吉は蛸殴りの憂き目に遭う可能性が非常に高かった。けれど頭の中は雲雀のことでいっぱいで、自分の身に危険が降りかかるなど、これぽっちも考えていなかった。
 いや、考える必要さえなかった。
 気色ばんで駆けつけた校舎裏、しかしそこに待ち受けていたのは枯れ色に覆われたもの寂しい空間だった。
 誰も居ない。誰かが通った形跡も見当たらない。
 学校の敷地を囲む塀と校舎の間には、沢山の木が植えられていた。背が高いものもあれば、低いものもある。常緑樹に混じり、落葉樹も多数見受けられた。
 枯葉で覆われた地面は不可思議なモザイク模様を作り出して、綱吉を出迎えた。一般教室棟のざわめきが、此処まで聞こえて来た。
「もー!」
 また予想が外れた。風紀委員どころか不良のひとりすらいない現実に腹を立てて、彼は頭から煙を噴いて枯葉の山を蹴り飛ばした。
 ここから近い不良のたまり場は、他にどこがあっただろう。
 会いたいのに、会えない。
 探しているのに、見付からない。
 会えないからこそ余計に会いたくなって。
 見付からないから、哀しくなって。
 身体は熱いのに、頭の芯は冷えて行く。切なさに胸が締め付けられて、痛くてたまらない。
「ヒバリさん……」
 どうしてだろう。
 いつもは濃厚に感じられる彼の気配が、今日に限って並盛中学校の何処からも感じ取れなかった。
「ヒバリさん、どこ行っちゃったの」
 なかなか見付からない憤りが哀しみに変わり、次に不安が押し寄せてきた。まさか既に敵の手に落ちたか、または別組織に勧誘されてそちらに加わった後なのか。
 嫌な予感が汗となって背中を伝う。ゾクリと来て、綱吉は自分自身を抱き締めた。
「まさかね」
 そんな筈が無い。そんなわけが無い。
 だって彼は、雲の守護者だ。群れるのはいやだなんだといいながら、結局綱吉が危機に瀕したときは駆けつけて、助けてくれた。お陰で蕁麻疹などが出たわけだが、そうまでしてでも彼が味方してくれるだけの絆が自分たちの間にはあると、綱吉は信じて疑わなかった。
 本当に嫌だったのなら、守護者に任命された時に断っていたはずだ。
 一度要らない、と捨てたそうだが、結局彼の手元に戻って来たとかで、以来ちゃんと身につけてくれている。十年後の未来でも、彼はボンゴレと共に在った。
「……そうだよ」
 ミルフィオーレの白蘭が好き勝手して、世界を破滅させようとしているのを防ぐ為、綱吉たちは未来に導かれた。
 その計画の実行者は成長を遂げた綱吉と、入江正一と、そして雲雀恭弥。
 綱吉は十年先でも彼と一緒に、なにかを成し遂げようとしていたのだ。
 白蘭は倒した。彼の危険性は封じられた。だからだろうか、二度と会うまいと思っていた彼とも思いがけず再会する羽目に陥ったが、もう以前のような怖いだけの存在ではなくなっていた。
 そんな風に、哀しい出来事で埋め尽くされていた未来は新しく生まれ変わった。綱吉たちが過ごしたあの時間は、もうどのパラレルワールドを探しても、きっと見付からない。
 かといって、綱吉と雲雀との結びつきが完全に消えてしまうとは思えない。
 無意識に左手が右手に触れていた。中指に嵌めた大振りの指輪をなぞり、乱れた呼吸を整える。
「そうだよ」
 同じ台詞を繰り返して、彼は弱気を振り払った。
 雲雀は強い。綱吉が知る人の中で誰よりも、格段に。
 だから彼は簡単に負けたりはしない。敵に後れを取るなんて事はない。ましてや、綱吉を裏切るなど。
「やっぱり、蕁麻疹が酷くて今日は休んでるんだ」
 きっとそうに違いない。自分に強く言い聞かせ、彼は両手をぎゅっと握り締めた。
 そんなわけがなかろうと嘲笑う声には耳を塞いで、うん、と深く頷いて腕を下ろす。丁度頭上でチャイムが鳴った。この予鈴の後、本鈴が鳴ったら午後の授業が始まる。
 それまでに教室に戻って、席についていないと遅刻扱いだ。
「やっば」
 急がなければ間に合わない。気持ちを切り替え、彼は後ろ髪引かれる思いを振り切って走り出した。来たばかりの道を戻り、正面玄関のドアを潜って下駄箱で履き替えて、階段を駆け上る。
 瞬く間に見えなくなった小さな背中に、赤い胴衣を着た子供は眩しそうに目を眇めた。
「良かったのですか」
 学校内でも特に胴回りが太く、枝ぶりも立派な楠の上。空に向かって高く腕を伸ばすその枝の一本に直立不動で立っていた青年は、頭上から降って来た問いかけにムッと口を尖らせた。
 不機嫌な表情にからからと笑って、編んだ黒髪を背に垂らした赤子がひょい、と身軽に枝から飛び降りた。その真下、青年が立っているのと同じ枝に移動して、並んで立つ。
 背丈が膝辺りまでしかない赤子に見上げられて、雲雀は益々機嫌悪そうにしてそっぽを向いた。
 予鈴が鳴り終わる。聞きなれたメロディがいつまでも耳朶を擽った。
 にわかにざわめきを増した校舎を物珍しげに眺めて、長い袖に両手を隠したフォンが肩を竦めた。首から提げた赤いおしゃぶりを揺らして、両足を揃えてジャンプすると同時に膝を曲げる。
 太い枝に腰を下ろした赤子に呆れ顔を向けて、雲雀はゆるゆる首を振った。
「いいんだよ」
「彼は、貴方を探していたのではないのですか?」
「話すことなんかなにもない」
 綱吉はそろそろ、教室に駆け込んだだろうか。息せき切らしてドアに寄りかかり、倒れそうになりながら自席に向かう姿が楽に想像できた。
 その腕には、アルコバレーノの代理戦争参加者である証の時計が巻きつけられている。ごつごつしたデザインは、色白で細い体躯にはなんとも不釣合いだ。
 腕時計だけではない。天空ライオンのナッツを模ったボンゴレギアもまた、あの小さな手には無骨すぎて、あまりにも似合わない。
 オレンジ色の鬣を持つ仔ライオンは可愛らしいが、それとて元々は兵器だ。見た目の愛くるしさに騙されると、痛い目を見る。
 愛らしい小動物は小動物らしく、愛でられるだけの存在であればいい。小さいものが弱いとは言わないが、小さいものを戦地に送り込むほど雲雀は廃れてはいない。
 あの子も、同様だ。
「似合わないんだよ、本当」
「私は彼について詳しくは知りませんが、概ね同意します」
 同年代に比べて小さい体躯、母親譲りの女顔に、大きすぎる瞳。
 眉間に皺を寄せて拳を振るうよりも、友人の輪に混じって笑っている方がよっぽど似合う子だ。誰かの為に全力を惜しまないくせに、自分を守るのは二の次で、いつだって誰にも言えないところで傷ついている。
 そのくせ、泣き言は言わない。
「どうして引き受けるんだろうね、あの子は」
「リボーンだから、でしょうね」
「そういうの、ムカつくんだけど」
「概ね、同意します」
 争い事が嫌いな沢田綱吉を、騒乱のど真ん中に蹴落としたがる連中がいる。その筆頭がボンゴレというマフィアであり、綱吉の家庭教師役を引き受けているアルコバレーノのひとり、リボーンだ。
 戦いは、戦いが好きな奴だけがやっていればいい。嫌々戦場に立って生き長らえられるほど、この世界は甘くない。
 それなのに綱吉は、結局断りきれずに引き受けてしまう。
「好きにはさせない」
 リボーンの思惑も、ボンゴレも、全部叩き潰してやる。
 沢田綱吉の世界にこれ以上争いごとを持ち込まないためにも、彼を傷つけようとするものは全て排除する。
 綱吉の持つボスウォッチを破壊さえすれば、リボーンのチームは参加資格を失う。この代理戦争で、彼が狙われる理由もなくなる。あの子を巻き込んだリボーンに一矢報いることにも繋がる。
 懲りずに綱吉を付けねらう六道骸も、ボンゴレの次期当主を巡って綱吉に思うところがあるヴァリアーも、未来で綱吉に深い傷を負わせた白蘭も。
 ひとり残らず、この手で血祭りに上げてやる。
「簡単ではないかも知れませんよ?」
「僕を誰だと思っているの」
「……そうでしたね」
「キキッ」
 どこで遊んでいたのか、小猿のリーチが緑濃い葉を掻き分けて姿を現した。遅れて上空から、翼を広げた黄色い鳥が彼らの元に舞い降りた。
 良く似たふたりの会話など露知らず、可愛らしい小動物が戯れあう。
 綱吉もこの絵の中に加えたい。ロールとナッツも一緒になって、仲良く笑っていればいい。
「あの子を泣かせる奴らは、この僕が許さない」
 呟き、瞼を閉ざす。本鈴が鳴り響くのを黙って聞き流して、彼は右手首に左手を添えた。
 そこに巻きつけられた大振りの腕時計に触れて、口元に笑みを浮かべる。
 戦いの火蓋が切られるまで、あと僅か。

2011/12/05 脱稿