Dyssodia

 人に慣れているのだろうか、手を伸ばせばその鳥は羽根を畳んでアリババの指先にそうっと着地を果たした。
 細い脚で器用に体重を支えて、チチチ、と鋭い嘴から可愛らしい声を響かせる。早速毛繕いを始めた図々しさに苦笑して、彼は琥珀色の目を穏やかに細めた。
 シンドリアの王城は、城門を潜った先に広い前庭が設けられていた。これを取り囲む形で様々な施設が配されて、建物同士はアーチに支えられた平天井の廊で繋がれていた。
 各所にも小さな庭園があり、ひとつとして同じ景観のものはない。美しい女性の彫像が飾られた噴水もあれば、南国の植物が賑やかに咲き誇る中庭もあった。ベンチや、六角形のドームを頂いた東屋も用意されて、景色を楽しみながら時間を潰すのが可能だった。
 アリババがいるのも、そんな庭園のひとつだった。
 モルジアナはマスルールと共に城の外に広がる森で鍛錬に励み、アラジンも新しい魔法の練習に熱心だ。本来ならアリババも、シャルルカン相手に剣を取り、修練に勤しんでいる筈だった。
「師匠の、馬鹿」
 チーシャンで出会い、バルバッドからずっと一緒だったふたりに先を越された気分だ。ひとり置いてけぼりを食らってしまって、拗ねて盛大に頬を膨らませる。
 吐き捨てた言葉の不穏さを気取ったのか、濃い緑色の翼を持った小鳥が勢い良く飛び立っていった。
「ああ」
 ばさりと風を叩く音がしたかと思うと、指先がふっと軽くなった。
 羽休めの場所を提供してもらっておきながら、礼さえ言わずに去っていった。名前も知らない小鳥にまで裏切られた気持ちになって、アリババは深く息を吐くとくしゃくしゃと金髪を掻き回した。
 抜け落ちた一本を息で吹き飛ばして、投げ出していた足を寄せて頬杖をつく。胡坐を掻き、背中を丸めれば、建物の作り出す影に身体がすっぽり収まってしまった。
「ちぇ」
 もうひとつため息をついて肩を落として、鼻の頭を小指で擦る。勢い余って横滑りした指の腹が、尖らせた唇を押し潰した。
 残る手は自然と胸元を辿り、腰に佩いた剣に向かった。柄を掴み、軽く揺らす。すっかり手に馴染んだ硬さが掌全体に広がった。
「なーにが、自主練習、だよ」
 聞こえはいいが、結局はサボりという事だ――シャルルカンの。
 鍔鳴りに愚痴を零し、アリババは右手を地面に落とした。尻の下敷きになっている青草を抓んで引っ張り、真ん中辺りで千切って風に流す。植物は乱暴されても無言で耐えて、辛抱強く彼が飽きるのを待った。
 同じ仕草を三度繰り返し、四度目に至ろうとしたところで、硬い繊維を引き千切る際の抵抗感に辟易していた手が放り出された。人差し指と中指の関節周辺が、他に比べて色を強くしている。赤らんだ指先を一瞥し、アリババはゆるゆる首を振った。
 一部だけすっかりはげてしまった芝を撫で、空を仰ぐ。先ほどまで此処にいたのとは別の鳥が、翼を広げて悠然と宙を泳いでいた。
「はあぁ……」
 口を開けば、出て来るのはため息ばかり。いつか、誰かに、幸せが逃げると言われた気がするが、止めようがなかった。
 今朝方、準備を終えてアリババはいつものように鍛錬場に出向いた。
 銀蠍塔はいつものように活気に溢れ、まだ早い時間だというのに兵士達は威勢の良い掛け声を上げていた。腹の底から搾り出される声は、聞いている側の心まで奮い立たせてくれる。今日もやるぞ、と気合いを入れなおし、師匠であるシャルルカンが来るのをひたすらに待った。
 黙って待った。
 しかし。
「なんだって、もう」
 緩く握った拳で太腿を殴り、アリババは両手を広げた。後ろに身体を傾けて、大の字になって寝転がる。背の低い芝で覆われた中庭は緑射塔の客室と同じくらいの広さがあり、装飾品の類も全く置かれていなかった。
 青草が茂るだけの空間が、白い屋根と柱を持つ廊にぐるりと囲まれて存在していた。
 その真ん中に寝転がれば、当然通り掛る人からも丸見えだ。ひとりで百面相している客人が暇を持て余しているのは、誰の目にも明らかだった。
 緑の縁取りがされた揃いの前掛をした役人が、四人ばかりの塊になって通り過ぎて行った。ジャーファルとほぼ同じ格好の集団を逆さまの景色で見送って、アリババは低く唸ってから目を閉じた。
 あの人も今頃、きっとお冠に違いない。
 剣術の師匠であるシャルルカンは、なんでも昨日、珍しく仕事を早く終わらせたシンドバッドと飲みに繰り出したそうだ。
 ふたりとも大酒飲みで、限度を知らない。酔っ払っても途中で止めたりせず、潰れるまで飲み明かしてしまう。
 そうして案の定、シャルルカンは朝になっても起きてこなかった。
 一時間ばかり待ってみたが一向に現れない師匠に痺れを切らし、訪ねて行った紫獅塔。衛兵の案内で連れて行かれた部屋で、シャルルカンは青白い顔をしてぐったりとベッドに横になっていた。
 胸焼けと頭痛が酷くて、吐き気もすると言っていた。いったい昨晩、どれだけの量を飲んだのか。途中で聞くのが嫌になって、アリババはお大事にとだけ伝えて部屋を辞した。
 結果、本日の鍛錬は中止となった。もっとも身体を動かしていないと鈍る一方なので、自主練習はするように、とは言われた。
「師匠の馬鹿たれ」
 草むしりを再開して、アリババは根まで引っこ抜いた芝を、付着していた土ごと遠くへ投げ捨てた。
 ひとりで出来ることは限られている。城の外郭沿いに走り込みをして、王宮剣術の型をひと通りなぞってみたところでネタが切れてしまった。対人戦を想定し、架空の敵を相手に剣をふるってはみたものの、どうにも身が入らない。矢張りこういう修練は、対戦相手がいてこその賜物だ。
 銀蠍塔の兵士達に声をかけてみたのだが、向こうはアリババが金属器持ちで、バルバッドの第三王子で、シャルルカンから直々に鍛えられているのを知っている。とても自分たちでは勤まらないと、そそくさと逃げられてしまった。
 モルジアナたちを頼るのも考えたが、彼女は足技が基本で、刃物を武器にやりあうのは気が引けた。否、彼女を相手にして勝てる気がしないからやりたくないだけだ。
 手加減を知らないファナリスの少女に苦笑して、身を起こす。背中についた草を払い除けて、アリババは抓んだ葉を空に流した。
 これがもう少し幅広だったなら、草笛に出来るのに。
 スラムにいた頃に教わった遊びをふと思い出して、彼は空っぽの手を握り締めた。
「どうしよっかなあ」
 図書館にでも行って時間を潰そうか。
 昼食までまだ少し時間がある。午後からの予定は全く目処が立っていない。
 後でもう一度、シャルルカンを訪ねてみよう。あれから二時間は過ぎているから、少しは回復しているかもしれない。
 大雑把だがこの後の計画を練って、彼は自分に気合を入れなおした。脇を締めて腹に力を込め、握り拳を作ってから右膝を起こして立ち上がる。
 剣をぶら下げる金具が擦れあい、カチャカチャと小さな音を立てた。背中だけでなく、ズボンや肩の辺りにまで張り付いていた草の切れ端を払い落として身なりを整えて、最後に首に巻いた赤い紐の結び目を斜め後ろへとずらす。
 垂れ下がる部分を肩から背中に回した彼は、ふと目に飛び込んできた光景に瞬きを繰り返した。
「ジャーファルさん!」
 気がつけば、叫んでいた。
 慌しい足取りで、庭園より一段高くなっている廊を駆け抜けていこうとしている人がいた。他の文官と同じ官服に身を包み、クーフィーヤを被って頭の大半を覆い隠している。灰色に近い銀髪は額から少しはみ出る程度で、鼻の周囲にはそばかすが散らばっていた。
 袂が広い上着を羽織り、腰で帯を締めている。床に着きそうなくらいに長い裾がリズミカルに揺れて、爪先の尖った靴が互い違いに見え隠れした。
 足音は極力殺して、しかし速度は落とさずに。背筋を伸ばして前ばかりを見据えていた青年は、思いがけない横からの呼びかけに一瞬肩をビクリとさせて抱えていたものを宙に躍らせた。
「おっと」
 落ちそうになった巻物をすんでで受け止めて、ゆっくりと振り返る。駆けよって来る少年を視界の真ん中に置いて、ジャーファルは嗚呼、と苦笑した。
「どうしたんですか、こんなところで」
 アリババは日中、武官が鍛錬に励む銀蠍塔に詰めている事が多い。一方のジャーファルはシンドリア国を動かす執政官のひとりであり、一日の大半を白羊塔で過ごしていた。
 そして此処は、紫獅塔と白羊塔のほぼ中間に位置して、食客らが寝起きする緑射塔の裏手に当たった。
 銀蠍塔からは離れており、間にある建物群が邪魔をして掛け声も聞こえてこない。鳥の囀り、風の声、そして忙しくしている女中や文官たちの足音ばかりが耳朶を打った。
 涼しい風がアーチを通り抜けて行く。背に垂らしたクーフィーヤをはためかせ、ジャーファルは重い荷物を抱え直して小首を傾げた。
 一番下に一抱えはある木箱を、その上に四角い盆を置いて分厚い巻物を何本も積み上げて、腕に抱え込んでいる。巻物は全部で十本以上ある。運んでいる最中に位置がずれたのか、何本か今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
 箱の中身がなにかまでは分からないものの、かなり大変そうだ。喉の近くにまで巻物が来ているので、視界も下半分が塞がれている格好だ。
「持ちましょうか?」
「はい?」
 いかにも大変そうなのに、ジャーファルはまるでおくびにも出さない。見ている方がハラハラさせられて、アリババは余計なお節介かと思いつつ声を潜めて問うた。
 聞こえなかったのか、ジャーファルが目を瞬かせて反対側に首を倒す。荷物の所為で見え辛いのだろうと判断して、アリババは彼の正面から右横に移動した。
 普段は袂の広い袖に隠れがちの手が、しっかりと箱の底を掴んで支えていた。インクの汚れか、指先と手の甲が少し黒い。
「運ぶの、手伝いましょうか」
「ああ。大丈夫ですよ」
 ほっそりとした外見に関わらず、以外に骨太な指から目を逸らし、言い直す。今度はちゃんと音を拾い上げたジャーファルが、小さく首肯して目を細めた。
 初めて顔を合わせた時のような獰猛さは微塵も感じられない、優しい目つきだった。見慣れない武器を手にカシムに襲い掛かったのは別の誰かだったのではないか、とさえ思えてくる。
 肩を揺らしたジャーファルに、アリババは次に続ける言葉を見失って数秒停止した。開けっ放しだった口をゆっくり閉じて、やり場に困った手で頭の後ろをかき回す。
 右の爪先で固い床を叩いた彼に首を傾げ、ジャーファルは鐘の音を探して視線を浮かせた。
「シャルルカンはどうしたんですか?」
 鍛錬は終わったのかと暗に問うた彼に、アリババは肩を竦めて首を振った。シンドリアに渡る直前に増やした左耳のピアスをなぞり、右手で鞘に収まった剣に触れる。
 俯いた彼の旋毛を見下ろして、ジャーファルはピンと来て深く頷いた。
「そうでしたね。彼は昨日、シンと」
「まあ、……はい」
 多くを語らずとも、彼はすぐに事情を察してくれる。非常に話し易い。
 言葉少なに首を縦に振ったアリババに苦笑して、ジャーファルは深々とため息を零した。
「まったく、あのふたりは」
「あはは」
 過去にも似たような事を繰り返しているのか、彼の言葉には並々ならぬ呆れが含まれていた。
 笑うしかあるまい。アリババはこの国に来てまだ日が浅いが、ジャーファルはその数倍もの時間を彼らと共に過ごしているのだ。
 実感の篭もった呟きに頬を緩め、両手を背中に回す。右足の爪先で床に穴を掘る彼に改めて目をやって、ジャーファルは表情を引き締めた。
「では、今日は?」
「城の周りを走って、あと、型の復習と。でも師匠がいないと、なんだかしまらなくて」
「でしょうね」
 どうやって今まで過ごしていたのかと問われて、指折り数えながら告げる。折れ曲がることのなかった中指を左手で弄りながらの台詞に、ジャーファルは荷物を抱えなおしながら呟いた。
 立ち話を継続するのなら、一旦荷物は下ろしたほうが良かろう。だがまた抱えあげる労力を思うと、いっそ喋りながら歩くのが一番な気がした。
 彼が目指す方角に顔を向けたアリババに、ジャーファルは長く休めていた足を前に繰り出した。
「持ちます」
「重いですから、いいですよ」
「だったら尚更、手伝います」
 ゆっくり歩き出した彼に合わせ、アリババも右足を前に出した。靴底で床を蹴り、進む。
 両手を伸ばしながら手助けを申し出るがやんわりと断られて、その言葉尻を取り、彼は頬を膨らませた。
 重い荷物を抱えて大変そうだから手伝いたいのに、その断り方は本末転倒甚だしい。琥珀色の瞳で睨まれて、あまりに子供っぽい拗ね方にジャーファルは呵々と笑った。
 弾みで巻物が一本落ちそうになって、彼は慌てて上体を後ろへ反らし、右足で箱の底を支えた。
「おっと」
 巧みにバランスを取って、落下を寸前で防ぐ。見事な体裁きに、アリババは出し掛けた手を慌てて引っ込めた。
 受け止めてやろうとしていたのに空振りさせられて、微妙に気恥ずかしい。口を尖らせてそっぽを向いた彼に相好を崩し、ジャーファルはそろりと浮かせた足を下ろした。
 箱ごと盆を揺すって巻物を安定させてから、首筋を紐と同じくらいに赤く染めている少年に呼びかける。
「では、少しお願いしましょうか」
「ジャーファルさん」
「崩れちゃっている分だけで構いませんので、持ってくれますか?」
 廊は終わりに近づき、白羊塔の入り口はもう目の前だ。中から出て来た文官が、ジャーファルを見つけて軽く頭を下げた。
 会釈を返してから、身体ごとアリババに向き直る。早く取るよう急かされて、彼は若干気後れした様子で手を泳がせた。
「え、っと」
 どれを取ればいいのかで、迷う。下手に下の方を引き抜けば全体が崩れてしまいかねないし、かといって彼の言う通り積み上げた分から零れ落ちて、盆の縁に引っかかっている分だけを選べば少なすぎる。
 どこから行こうか逡巡しつつ、爪先立ちになって右腕を高く掲げる。一番上の、ジャーファルの視界を最も邪魔しているものをまず掴み取って、次に彼が選んだのは先ほど落ちかけた分だった。
 他に数本、全体の形を壊さないよう注意しながら胸に抱えて行く。
 合計で、六本。これ以上は腕が足りない。
「有難う御座います」
「いえ」
 本当は盆ごと引き受けてやりたかったのだが、巻物の塔を維持したまま下ろせるとはとても思えなかった。
 果たして自分は彼の役に立っているのか。甚だ疑問ではあるが、盗み見たジャーファルは嬉しそうだった。
「……ま、いっか」
 目を細めて優しく笑う彼につられて、自然と顔が綻ぶ。頬を緩めて絞まり無く笑い、アリババは縦に構え持った巻物を落とさぬよう、きつく胸に抱き締めた。
 白羊塔の中は外からの光が壁に遮られるためか、少し薄暗かった。
「どこへ運べばいいんですか?」
「上の階です」
 一階は朝議も行われる広間で、二階から上が役人達の仕事場だ。ジャーファルやシンドバッドの執務室も、この建物の中にある。
 余り馴染みが無いので、アリババは内部構造には詳しくない。ひとりで歩き回っていたら、迷ってしまいそうだ。
 ジャーファルの答えに緩慢に頷き、遅れないように後ろについて歩く。巻物六本だけでも結構な重労働なのに、彼の足取りは少しも乱れず、重さを感じていない雰囲気があった。
 緑の縁取りがされた前掛をぶら下げて、文官たちが大勢廊を行き交う。沢山並んだ扉に眩暈がした。剣を腰にぶら下げているアリババの姿は、他の人たちと大きく違うのもあって非常に目立った。
 場違いな空気を肌で感じ取る。此処にいてはいけない気がして来て、視線は自ずと足元に向いた。
「アリババくん」
「あっ、はい」
 俯いてとぼとぼと歩いていたら、不意に名前を呼ばれた。慌てて顔を上げれば、肩越しに振り返ったジャーファルが意味深に微笑んでいた。
「前を見ていないと、危ないですよ」
 一定の距離を置いて歩いていたはずが、知らない間に彼の背中は目の前にあった。あと一歩踏み出していたら、間違いなく正面からぶつかって鼻を潰していた。
 もしかしたら立ち止まって、タイミングを見計らって声をかけてきたのかもしれない。だのにアリババは、彼が歩みを止めたのにすら気付かなかった。
「すみません」
「謝らなくていいですよ。ああ、あそこです」
 抱えた荷物ごと頭を下げると、朗らかな笑みと共に言われた。
 萎縮せずに、堂々としていればいいと言われたような気がした。不思議とそれまでの偏屈な感情も消え失せて、アリババはふにゃりと、気の抜けた笑みを返した。
 肩の力が抜けた彼に目尻を下げて、ジャーファルは再び歩き出した。顎で示した扉を目指し、カツカツと一定のリズムで足音を響かせる。
 両手が塞がっている彼の代わりに扉を開けてやれば、埃っぽい空気をまともに食らってアリババは噎せた。
「大丈夫ですか?」
「へーき、れす」
 長い間使われていなかったのか、空気が濁っていた。そう広くない部屋に窓はひとつしかなく、しかも小さい。壁にびっしりと棚が置かれて、木箱やら書物やら、何なのか分からないものまで所狭しと詰め込まれていた。
 入り口で惚けていたら、ジャーファルがいつまで経っても入れない。思い出して道を譲り、彼を先に中に通してからアリババは扉を閉めた。
 一気に暗くなった。己の手元さえ覚束ない状況に追い込まれて、迂闊に足を踏み出せない。だがジャーファルは慣れているのか、飄々としながら床に積まれているものを避け、奥に向かった。
「ここ、なんですか?」
 埃と黴の臭いに混じり、インクの匂いも僅かに漂っている。眉目を顰めたアリババの問いに、ジャーファルは振り返らずに口を開いた。
 持って来たものを置いて両手を空にして、肩を交互に揺らして骨を鳴らす。
「備品庫、と言えば聞こえは良いですが、要するにただの物置です」
 更には両手の指を互い違いに絡めて握り、腕をぐーっと上に伸ばす。背筋を反らした彼の袖が肘を抜け、肩の近くまでずり下がった。
 露わになったのは、思いの外逞しい上腕。しかも手首から肩に向かうに連れて、無数の傷跡が刻み付けられていた。
 後ろから、しかも暗い中なのではっきりとは見えないけれども、まるで蛇にでも絡め取られたかのような細い痣が腕全体を覆い尽くしている。切り傷、刺し傷と思われる痕も散見し、肘の辺りの皮膚は黒く変色していた。
 息を飲んだアリババを知らず、ジャーファルは指を解くと乱れた着衣を手早く整え、箱に重ねていた盆を脇へ退かした。
 巻物類には手を触れず、箱の蓋を外す。下駄の歯のように木の板が裏側に並べられており、それが止め具の役割を果たしていた。
 彼は中から幾つかの小物を取り出すと胸に抱えて、収納場所を探して視線を泳がせた。
「政務に必要な小道具と言いましょうか、筆や墨といった備品をまとめて保管してあるのです。こうやってたまに補充しておかないと、必要な時に足りないという事にもなりかねませんし」
 口ぶりから、彼が運んでいたものは墨の入った壷だったらしい。それならば重いのも頷ける。数がまとまれば、余計に。
 一瞬だけ見えたジャーファルの腕から、彼がここに至るまでに辿った道程がうっすらとだが窺い知れた。シンドリア国王のシンドバッドとは冒険者時代から付き合いだったとも聞いている。彼が国を興すのに際して、大きな争いがあったとも。
 アリババは無意識に自分の腕をなぞっていた。ぶかぶかの上着の上から肘を抓み、意外に伸びる皮とたぷたぷした感触に愕然とする。
「アリババくん?」
「は? あ、いえ。なんでもありません。手伝います」
 ショックを受けていたら、振り返ったジャーファルに名前を呼ばれた。怪訝に首を傾げられて、我に返った彼は慌てて取り繕うように言って、置かれている椅子や机を避けて彼の元に歩み寄った。
 とはいえ、具体的に何をすればいいか分からない。抱えていた荷物を盆の上に転がして、試しに蓋が外れた箱を持ち上げようとしたら。
「うぐっ」
「ひとつずつ渡してくれれば良いですよ」
「……はい」
 腰がゴキッと言って、肩が抜けそうになった。
 見ていたジャーファルに笑われて、恥ずかしくて顔も上げられない。抱えられないこともなかろうが、中身を全て棚に移し変える前に、アリババの体力が尽きてしまうのは確実だった。
 よくぞこんな重いものを、あんなにも軽々と運べたものだ。
 庭園近くの廊での会話が蘇って、アリババは渋い顔をした。
「重いでしょう?」
「ジャーファルさんって、結構」
「君くらいなら担げますよ。やってみます?」
「ええっと。遠慮します」
 見た目は細いくせに、思いの外筋肉質で逞しい。呵々と笑いながら言われて、アリババは苦虫を噛み潰したような顔をした。
 これまでにも何度となく、女であるモルジアナに担ぎ上げられているのだから、今更男の沽券だとかなんだとか言ったところで説得力はないに等しい。拗ねてしまった少年に顔を綻ばせ、ジャーファルは小ぶりの壷を壁の棚に押し込んだ。
 両手を空にして戻って来た彼に、アリババは箱から抜き取った分を差し出した。
 中に液体がみっしり詰め込まれているのだろう。その上陶器で出来ているので、ひとつひとつが重い。万が一落として割りでもしたら、大惨事だ。
 自分ひとりだけならばまだしも、此処にはジャーファルもいる。彼に迷惑はかけられない。
 左手で壷の底を支え、右手は窄まった首を掴む。蓋の変わりとして木を削って作った栓が押し込められていた。鼻を寄せると、隙間から仄かにインクの匂いが漏れ出していた。
 受け取ったジャーファルがくるりと反転して、棚へと手を伸ばす。彼が背伸びをしている間に、アリババが次の壷を取り出して待つ。
 カタコトと木箱が音を立てた。闇に目が慣れて来たのか、時間が経つに連れて部屋の中の隅々までが見渡せるようになった。
「でもどうしてジャーファルさんが?」
 最後のひとつを胸に抱えて、ふと脳裏を過ぎった疑問が音になって外に溢れた。呟くつもりはなかったのに、声を出してからはっとして、アリババは肩越しに向けられた視線からサッと目を逸らした。
 後退されて、ジャーファルの指が宙を横切った。空振りした手を振って、アリババとの距離を一気に詰める。
 気がつけば目の前を塞がれていて、アリババは瞠目して唇を戦慄かせた。
 視界が暗くなって、ハッとしてまた後退しようとしたところに手が伸びて来た。指先が重なり合う。冷えていた肌に伝った体温にどきりとして、心臓が竦んだ。
 そのままぐいっと引っ張られて、上半身が前に傾いだ。倒れそうになったのを堪えて顔を上げれば、ジャーファルはちょっと目を見開き気味に、アリババを見詰めていた。
「どうしました?」
「え? あ、あっ」
 ぐい、ともう一度陶器の器ごと引きずられて、ようやく彼が何をしようとしているのかが分かった。アリババは慌てて手の力を緩め、ジャーファルに壺を譲り渡した。
 意識しすぎて不審な動きになってしまった。赤い顔を隠して額に手をやったアリババに微笑み、ジャーファルは彼に背中を向けた。
「確かに、普段はこんな事、しないんですけれど」
 備品の補充など、部下にやらせればいいのだ。なにも政務官自らがやる必要はない。
 疑問の内容を的確に見抜かれて、そんなに自分は分かり易いかとアリババは項垂れた。下ろした手で箱に蓋をして、崩れている巻物を交互に積み上げていく。
 手持ち無沙汰にしている彼に肩を竦め、ジャーファルは最後の一個を棚に押し込んだ。指先に付着した汚れを前掛に擦り付けて落とし、肩を竦める。
「たまには動かさないと、鈍りますから」
「ああ」
「それに、どうせ今日一日、王は使い物になりませんし」
「……ああ」
 日頃は政務官として忙しくしているジャーファルだけれど、彼とて元は冒険者だ。小型の、柄のない刃に紐を結びつけた特殊な武器を操る姿を、アリババも何度か目撃している。
 筋肉は、使わないと衰えて行く。手にした技術も、用いなければ錆びて行くばかりだ。
 かといって、業務を放棄して荷物整理に勤しんでいていいのかどうか、アリババには分からない。いくらシンドバッドが二日酔いで動けないからとはいえ、ジャーファルには他にも多々、仕事が用意されているだろうに。
 次に浮かんだ疑問が顔に出たか、彼は口をヘの字にしている少年に目を細めた。
「少し反省してもらわないと、ね」
 にっこりと、実に楽しそうに言われてアリババは頬を引き攣らせた。冷や汗が首を伝う。今後出来る限り彼を怒らせないようにしようと、固く心に誓う。
 二日分、ふたり分の仕事を押し付けられるシンドバッドは気の毒でならないが、もとはといえば翌日に響くくらいに飲み過ぎたのが悪いのだ。自業自得なのだから、諦めてもらおう。
 苦笑して、アリババは綺麗に積み直した巻物を指差した。
「これは、どうするんですか?」
「それは部屋に持って行きます」
 黒塗りの盆は四角形で、中身が零れ落ちないよう縁が上向きに反り返っている。木箱がなければ、ひとりで持ち運ぶのも容易だろう。
 これでアリババが手伝えることはなくなってしまった。強いて言うなら空箱を外に運び出す事くらいか。
 頼まれる前にと、一気に軽くなった箱を引き寄せる。机と底が擦れ合って、ガタガタと喧しく響いた。
「じゃあ、俺はこれで」
「ありがとう。とても助かりました」
 真っ直ぐに礼を言われて、心がポッと淡い光に包まれる。良い事をしたと、置いてけぼりを食らって落ち込んでいた気持ちも一気に浮上した。
「俺なんかでよかったら、いつでもお手伝いしますので」
「そんな事を言われると、また頼んでしまいますよ?」
 照れ臭そうに返した少年に目を眇め、ジャーファルが悪戯っぽく呟く。片目を閉じながら言われて、アリババは恐縮して首を竦めた。
 ジャーファルはシンドリアの国政を担う、シンドバッドの腹心だ。その彼の手伝いをするなど、なんと恐れ多いことか。
 だが誰かの役に立つのは嬉しいし、感謝されるともっと嬉しい。お前は此処にいてもいいのだよと、そうお墨付きを貰った気分になれるから。
 我ながら卑屈な考え方だというのは自覚している。生れ落ちたスラムでも、引き取られたバルバッドの王城でも、逃げ出した先のチーシャンでも、自分の居場所を確保するのに必死だった。
 故郷を失った今、アリババにはシンドリア以外に帰れる場所がない。一時は食客としての立場に甘えて食べては寝る生活を送っていたが、あの頃の自分は思い返すだけでも顔から火が出そうだ。
 シンドバッドに叱責されて、目が醒めた。
 与えられるばかりではない、自分も誰かになにかを与えられる存在になりたいと思うようになった。
 将来自分が王になるのか、それとも違う道を行くのかは、まだ分からない。決められない。けれど少しずつ自分に出来る事を増やしていけば、シンドバッドにも恩を返せる日だって来るだろうし、進むべき道も見えてくるかもしれない。
「へへ」
 気恥ずかしげに笑って頭を掻く。日の光を閉じ込めたかのような金髪が鮮やかに輝く。細められた琥珀色の瞳に微笑み返し、ジャーファルは木箱を抱え込んだ彼にそっと手を伸ばした。
 癖のない髪を優しく梳いて、跳ねている一部を指で押し潰す。遊んでいる彼を上目遣いに見やって、アリババは肩を揺らした。
「ああ、そうです。お礼をしないと」
「えっ、いいですよ」
 運ぶのを手伝った礼は、既に先ほど貰っている。これ以上のものは不要だと、アリババは慌てて首を振った。
 だがジャーファルは顎に手をやり、真剣に考え込んでまるで耳を貸そうとしない。聞いてくれない彼に段々居た堪れない気分が膨らんで、アリババは落ち着きを失ってその場で足踏みをした。
 いっそなにか渡される前に逃げてしまおうかと考えるが、それはそれで失礼に当たる。どう対処するかで迷っている間に、腕を下ろしたジャーファルが袖をあさり始めた。
 シンドリアの官服は袂が大きく、そこに小物やらなにやらを収納出来るようになっていた。もっとも中に入れたものによっては袖が凸凹するので、私物を入れる巾着袋を用意して帯にぶら下げている人もいる。
 ジャーファルの袖は真っ直ぐで、平べったかった。とても中になにか、例えば仕事中に抓むような菓子の類が入っているようには見えない。
「うーん、なにもありませんね」
 案の定、筒口の中は空っぽだったようだ。左右を確かめて、最後に帯を上から叩いた彼は困った顔をして低い声で唸った。
「いいですよ、本当。俺、この箱片付けてきますね」
「ああ、待ってください。アリババくん」
 ジャーファルはシンドバッドには辛らつだが、年下にはめっぽう甘いところがある。このままでは本気で駄賃を押し付けてきかねない。
 気持ちだけ受け取って、有り難く辞退しようとアリババは声を高くした。抱えた箱を掲げて物置と化している部屋を出ようとしたら、後ろから伸びた腕に肩を掴まれた。
 引き止める力は思った以上に強く、振り解けなかった。
「ジャーファルさん」
「生憎と、今手持ちがひとつもなくて」
 振り向けば、手は離れて行った。但し、もしまた迂闊に動こうとしたら、次はどうなるか分からない。ジャーファルは特殊な暗殺術の使い手だと、シンドバッドも言っていたではないか。
 背中に薄ら寒いものが流れて行った。生唾を飲んだアリババの緊張を知ってか知らずか、彼は朗らかに微笑み、目を細めた。
「えっと。じゃ、じゃあ今度でいいので」
「でもそれだと、忘れてしまいそうですし」
「大丈夫です。俺、記憶力良い方なんで」
 受け取ってはいけないものを渡されそうな気がした。自分の直感を信じて冷や汗を流したアリババの頑なさに焦れたのか、ジャーファルは少しだけムッとした。
 口を尖らせた彼に鳥肌が立った。ふるふる首を振ったら、八人将のひとりに数えられる男は口角を僅かに持ち上げた。
「では今ここで受け取るのと、後日三倍になって渡されるのと、どちらが良いですか?」
「ぐっ」
 手持ちは何もないと言っていたくせに、この場で『何か』を渡すつもりでいる。嫌な予感しかしないが、後日の三倍返しはもっと恐ろしい。
 選択のしようがなくて、アリババは呻き、顎を引いて俯いた。
「い、いま、……で」
 消え入りそうな声で返す。聞こえただろうにジャーファルは耳に手を添えて、大きな声で言うように指示した。
 意地悪な彼に唇を噛んで、アリババはぐっと腹に力を込めた。
「今、ください!」
「はい」
 半ばやけっぱちになって、怒鳴る。罵声をまともに浴びているのに、ジャーファルはとても嬉しそうだった。
 屈託ない笑顔を向けられて、それ以上何も言えなくなってしまった。押し黙ったアリババの頭をもう一度撫でて、ジャーファルは傷跡の残る指で傷ひとつない顎を掬い取った。
 瞼をきつく閉ざしている彼に苦笑して、少しだけ前に出る。
「ン」
 軽く唇に触れれば、与えられた熱に竦んだのか、箱を抱く手がピクリと震えた。
 いつまで経っても慣れてくれない。初々しくて可愛らしいが、毎回初めてかのような反応をされると、流石に少し傷つく。
 顎を解放してやれば、赤く濡れた唇から安堵の息が零れ落ちた。緊張の糸が切れて、四肢のこわばりが解けて行くのが十二分に伝わって来た。
「……っ」
 くちづけた直後にまた俯かれて、どうにも居心地が悪い。笑いかけるなりしてくれればいいのだが、経験不足で慣れない所為で、それも難しいのだろう。
 もっともジャーファルとて、そう経験豊富な方ではないのだが。
「アリババくん」
「っ、はい」
「取って食ったりしませんので、そう固まられると、ね」
「ぅあ、あ、あっ。すみません!」
 ただこればかりは、シンドバッドに教えを請う気になれなかった。真っ赤になってうろたえるアリババに声を立てて笑って、ジャーファルは跳ねている金髪を撫でて押し潰し、窓の外に目を向けた。
 鐘の音が高らかと響き、空に吸い込まれていく。唇を噛んでいる少年の耳にも触れて、彼は肩の力を抜いた。
 時間はある。構える必要もなかろう。
「お昼、一緒に食べましょうか」
「えっ」
「折角ですから、ふたりだけで」
 人差し指を唇に当てて、悪戯っぽく微笑みかける。思いがけない誘いに驚き、アリババは目を丸くしてから照れ臭そうにはにかんだ。
「はいっ」
 先ほどまでの大人しさが嘘のように元気な返事をして、顔を綻ばせる。心底嬉しそうにしている彼に相好を崩し、ジャーファルは先に荷物を片付けてしまおうと盆を担ぎ上げた。
 待ち合わせの場所を決めて、アリババに開けてもらった扉を潜って廊に出る。
「今日だけは、シンを許してあげましょうかね」
「なにか言いましたか?」
 酒癖の悪い王には迷惑を掛けられっぱなしだが、お陰でひとつ、いいことがあった。
 隣を行くアリババが、聞こえなかったのか小首を傾げながら訊ねて来た。彼はゆるゆる首を振り、肩を竦めた。
 人差し指を伸ばし、唇に押し当てる。
「内緒です」
 口を塞がれたアリババは目を丸くして、直後真っ赤になって煙を吐いた。

2011/11/23 脱稿