Milh

 まだ午前も早い時間だというのに、銀蠍塔には威勢の良い声が響き渡っていた。
 己の身の丈よりも長い槍を構えた兵士が、一列になって掛け声をあげながら上下に振り回しているのが見えた。複数人が一塊になって、合図を出し合い、動きを揃えようと躍起になっている。
 その向こう側では若い魔法使いが三人ほどで輪を作り、術の精度をあげるべく修練を重ねていた。
 皆元気良く、表情は希望に満ち溢れていた。
 眺めているだけでも清々しい気分になる。活力を分けて貰った気分になって、ジャーファルは目を細めた。
 靴底で固い床を踏みしめて、明るい日差しが照りつける通路を行く。二階から見下ろす景色は変化に富み、面白かった。
「精が出ますね」
 ひとり呟き、手摺りの下で繰り広げられる各々の修行風景に、またも視線を落とす。政務官としてこの国の運営に関わっている彼だけれど、本格的に文官の道を歩き出したのはさほど古い話ではない。
 数奇な運命もあったものだと、もう思い返すことも少なくなった過去をふと振り返って、彼は小さく肩を竦めた。
 たまには頭だけでなく、身体も動かしておかないと腕が鈍る。万が一の時に対処出来ないようでは、王の側近失格だ。
「そろそろ、誰かに相手をしてもらわないといけませんね」
 何気なく両手を握り、続けて広げて苦笑して、ジャーファルは前方に視線を戻した。
 運動不足解消をもくろむのは、もう暫く後になりそうだ。先に片付けるべきことがあると、当初の目的を果たそうと足を大きく前に繰り出す。
「まったく、何処に行ってくれたのやら」
 ちょっと目を離した隙に執務室からいなくなった男の影を追い、行方を求めて方々を歩き回っているが、ちっとも見付からない。逃げ足の速さも七海一ではなかろうかと、そんな愚痴を零していたら。
 角を曲がった先、鍛錬場の一画を望む回廊の先に、黒っぽいものが転がっているのが見えた。
 腰ほどの高さがある手摺りに身を屈めて寄りかかり、頭を半分だけ出して外を見下ろしている。
 ただでさえ大きい身体を小さくしている男の頭には、鳥の羽をあしらったターバンが巻かれていた。長く伸びた紫紺の髪が床に垂れて、通り掛かる武官たちはことの異様さに怯え、遠巻きにしながら通り過ぎて行く。ジャーファルでさえ、あまりの光景に唖然として、声を出すタイミングを掴めなかったくらいだ。
 頬を引き攣らせ、あんぐりと口を開く。外れそうになった顎を手で押し上げて戻して、彼は苦々しい顔をして首を振った。
 大事な政務を放り出して、いったいあの男は、こんなところでなにを油を売っているのだろう。
「シン!」
「どわあ!」
 苛立ちをそのまま声に出して怒鳴りつければ、残り一歩半のところまで迫っていたジャーファルに気付いてもいなかった男は素っ頓狂な声を上げた。跳びあがらんばかりに驚いて、腰を抜かして呆然とした顔をする。
 間抜けな姿を晒した彼にこめかみをヒクつかせ、ジャーファルは発作的に、隠し持っている武器を構えたくなった。
「シン、貴方は自分が王だという自覚を、まだ持っ――」
「しー、しー! しー!」
 即座に説教を開始し、周囲に響き渡る罵声を張り上げる。だが床に蹲る男――七海の覇王とも称されるシンドリア国王は、人差し指を口に押し付けると、黙るよう命令してジャーファルの袖を引っ張った。
 思わぬ力を加えられて、油断していた膝がカクンと折れた。稀に見る必死の形相のシンドバッドに目を瞬き、しゃがみ込んだジャーファルは怪訝に眉を顰めて口を尖らせた。
「シン」
「いいから、静かにしろ」
 いったい何事かと、口を塞ごうとする手を押し退けて問えば、焦れたシンドバッドが声を荒らげた。
 黙れという男に怒鳴られて、矛盾しているとジャーファルは肩を竦めた。
 こんな場所でこそこそと、外を窺っていたシンドバッド。物陰に隠れるにしてはあまり上出来とはいえない上司に呆れ、彼は言われる通り口を噤み、代わりに背筋を伸ばして手摺りから顔を出した。
 瞬間、少女と目があった。
「ああ……」
 丁度斜め上の、ふたりがいる場所を見上げていた赤髪の少女が、ジャーファルに気付いてぺこりと頭を下げた。会釈されてしまい、首を引っ込めるわけにいかなくなった彼の目に、他に数人の子供が映し出された。
 シンドバッドと似たようなターバンを巻いた少年に、短剣を帯に挿した少年だ。
「上の方が騒がしかったけど、なにかあったのかな」
「さあ……」
 上着の裾の片側を縛った金髪の少年に問われ、モルジアナと呼ばれた少女は首を振った。視線を外し、両手を背中に回して起立の体勢をとる。
 戦闘民族ファナリスの少女の耳ならば、今し方交わされたシンドバッドとジャーファルの会話も、すべて拾い上げたに違いない。だが敢えて口にしないところからして、どうやら彼女はもっと前から、シンドバッドの存在に気付いていたようだ。
 そういえばファナリスは、嗅覚も発達しているのだった。思い出して頷いて、ジャーファルは後ろを振り返った。
「なるほど」
 七つの迷宮を攻略してみせた英雄が、こんな場所で蹲っていた理由。
「彼ですか」
 状況をつぶさに理解して、彼は重い溜息をついた。
 下にいるのは、半年ほど前にシンドリアに食客として招いた三人組だ。否、招いたというよりは保護した、というべきか。
 どさくさに紛れる形で連れ帰った少年に、シンドリア王が執心している。そういう噂は、計らずとも王宮内の各所から聞こえて来た。
 恩を受けた人物の息子というのもあり、シンドバッドが彼に過保護になるのは致し方ないことかもしれない。ただ本当にそれだけかと聞かれたら、ジャーファルは返答に困る。
「こんなところで盗み見てないで、話しかければいいじゃないですか」
「やかましい!」
 嘆息交じりに言えば、余計なお世話だと怒鳴られた。唾を飛ばされて、ジャーファルは心底憐れむような目を長年の主に向けた。
 頭が痛い。こめかみに指を置き、彼は肩を竦めると同時に膝を起こした。スッと立ち上がり、裾についた汚れを払い落とす。シンドバッドは未だしゃがんだままだ。
 苦虫を噛み潰したような顔をして睨んでくる男を睥睨し、もうひとつ溜息を零す。改めて高い位置から見下ろした鍛錬場は、先ほど通り掛った区画とは違い、閑散としていた。
 バルバッドから海を渡って来た三人の食客は、鍛錬場の片隅に立ち、雑談に花を咲かせていた。
 話し声はするが、内容までは聞き取れない。主に喋っているのは、金髪の一部を跳ね返らせている少年だった。
 じっと見詰めていたら、気配を気取ったらしい。杖を持つ幼い少年が首をクン、と上向けた。
「あ、ジャーファルお兄さん」
 朗らかな日差しによく似合う、元気の良い弾んだ声で名前を呼ばれた。無視するわけにもいかず、右手を軽く挙げて返事をすれば、残るふたりも話を止め、上を向いた。
 シンドバッドが脛を叩いてきた。構わず蹴り返して、ジャーファルはにこやかに微笑んだ。
「おはよう。今日は、修行はどうしたんですか」
 隣の区画を見れば、相変わらず威勢の良い掛け声が響いている。上からの問いかけに、三人を代表してターバンの少年、マギのアラジンが両手を挙げて肩を竦めた。
「僕とモルさんはこれからだけど、アリババ君が」
「アリババ君が?」
 言いながら斜め後ろの少年を見た彼に、ジャーファルは首を傾げた。ちらりとシンドバッドを一瞥して、手摺りから僅かに身を乗り出す。
 アリババと呼ばれた少年は困った顔をして、照れ臭そうに頭を掻いた。
 彼は迷宮、アモンを攻略した金属器使いだ。マギによって王に選ばれた存在でもある。
 バルバッドの元第三王子で、目下シンドバッドがご執心と噂されている人物だ。彼は強くなるために、現在剣術を中心に学んでいる最中だった。
「それが、師匠が軍議に呼ばれちゃって」
 その彼を主に鍛えているのが、ジャーファルと同じシンドリア八人将のひとり、褐色の肌を持つシャルルカンだ。
 文官のジャーファルとは違い、同じ八人将のヤムライハ曰く、剣を振るしか能が無い。とはいえ、曲りなりにも国の大事を引き受ける猛者だ。国軍の会議があれば、当然出席しなければならない。
 言われてみれば確かに、今日は午前から軍議が予定されていた。政務官のジャーファルには関係ないことなので、すっかり失念していた。
 どうりで鍛錬場も、一部が閑散としているわけだ。納得だと頷き、彼は改めて、膝を抱えて小さくなっている男に目をやった。
 シャルルカンが不在と知って様子を見に来たまでは良いものの、話しかけるきっかけを掴めずにいたらしい。
 虫けらでも見る目を一瞬でにこやかな笑顔に切り替えて、ジャーファルは階下に意識を戻した。
「それで、修行相手を探していた、ということかな」
「そうです!」
 鍛錬はひとりでも出来るが、相手がいた方が格段に上達は速い。強い相手と競い合えば、尚更だ。
 拳を作って、アリババは強く頷いた。血気盛んな若者に目を細め、ジャーファルは長い袖を揺らした。
 裾を引っ張られて、右足を後ろに蹴り上げる。踵がシンドバッドの顎に激突した。うっ、と呻いた彼を無視し、ジャーファルはどうしたものかと素早く思索を巡らせた。
 このままシンドバッドを放っておくことも出来ない。かといって無理矢理連れて帰ったところで、上の空になるのは間違いない。
 効率よく仕事をさせるためには、どうするのが最適か。眉目を顰めた彼を斜め下から見上げていたアリババは、ふと思い立ち、目をぱちぱちさせた。
「ジャーファルさん」
「はい?」
「あの、ジャーファルさんがよければなんですけど。一度、手合わせをお願いできないでしょうか」
「僕が?」
 見上げながらでは喋り難いのだろう、三歩ばかり後退した彼に言われて、予想外の依頼にジャーファルはきょとんとした。
 シンドバッドは祭の夜、ジャーファルは政務官だが強い、と三人に向かって説明した。それを覚えていたらしいアリババに期待の眼差しを向けられて、彼は若干頬を引き攣らせた。
 後ろからどす黒い気配を感じる。見苦しい感情を垂れ流している男に肩を落とし、ついでにもう一発蹴りを追加して、彼は鼻の頭を引っ掻いた。
 興味津々の視線は、なにもアリババだけが放っているわけではなかった。アラジンも、モルジアナも、ジャーファルが本気で戦うところを一度も見た事がなかった。
「あー、もう。面倒臭いなー」
 ここで首を縦に振れば、アリババは喜ぶだろう。が、後が非常に面倒臭い。
 首を横に振れば、後ろで脹れている男は溜飲を下げるだろうが、それではアリババが困ってしまう。
 仕事をしない王様を探していただけなのに、厄介なことに巻き込まれてしまった。最良の妥協点を捜し求め、ジャーファルはそうと悟られぬよう溜息をついた。
「シン」
「いって!」
 床に円を描いていた指を踏み潰して、そうっと目配せする。悲鳴を上げたシンドバッドは、残念ながら気付かなかった。
 何故自分はこの男に従っているのか、一瞬疑問に思ってしまった。
「シン、出番ですよ」
「ジャーファル、止めろ。痛い」
「アリババ君、折角の申し出ですが、残念ながら僕はあまり時間が無いのです。ただ、君の相手に最適の人はいますよ」
「本当ですか!」
 表向きにこやかな笑顔を浮かべ、下に向かって告げる。疑うことを知らない少年は途端に目を輝かせ、期待と興奮に頬を赤らめた。
 純真な瞳に見詰められて、ジャーファルの心に少しだけ罪悪感めいたものが生じた。
 実を言えば、彼の剣術には少し興味があった。バルバッドの王宮剣術は他地域に伝わるものと比べて些か特殊であり、極めた者の数はさほど多くない。王家自体が滅びてしまった今、これを伝える人間も減りつつある。
 それに、かの地でシンドバッドも言っていたように、この先彼が王としての道を歩み続けるのであれば、いずれその命を狙うものが現れるだろう。アル・サーメンだけが敵ではない。彼の王としての器を危険視する人間は、必ず現れる。
 過去の自分のような暗殺者がアリババに仕向けられないという保証は、ひとつもない。ならばその時に慌てないよう、対処方法をあらかじめ教えておくべきだ。
 されど。
「ほら、シン」
「やめないか、ジャーファル。ばかすか蹴るんじゃない!」
「あれ、シンドバッドさん?」
 視線だけを左に流し、ジャーファルは無邪気に慕ってくれるアリババへの感情に蓋をした。
 目下解決すべき問題は、他にある。アリババへの鍛錬は、別に機会を設ければいい。
 もう何度目か分からない蹴りを顔面近くに入れられたシンドバッドが、痺れを切らして怒鳴った。場所も忘れて立ち上がり、髪を振り乱して唾を飛ばす。
 耳を塞いで巧く避けたジャーファルの足元遥か下から、きょとんとした声が飛んだ。
「本当だ。おじさんだ。いつからいたの?」
 アリババとアラジンが、不思議そうにシンドバッドを見詰めていた。モルジアナだけがやっと出て来たか、と言わんばかりの顔をしていた。
「あ、しまった」
 見付かってしまって、シンドバッドは慌てた。頬を引き攣らせ、慌てて反対側に首を向ける。
 まさかずっと此処に隠れていたとは、流石に言い出せまい。どうするのかとジャーファルがモルジアナ同様に冷たい眼を向ければ、腐っても七海の覇王だけあってか、彼が動揺を顔に出したのは最初の一瞬だけだった。
 コホンとわざとらしい咳払いをして背筋を伸ばし、手摺りに左手を添えて身を乗り出す。
「いや、な。実はさっきから……だが」
「嘘は良くないと思いますよ」
「喧しい」
 右手で頭を掻きながら豪快に笑い、誤魔化したシンドバッドの横でジャーファルがボソリと言った。仕返しだと階下の子供達には見えない場所で蹴り返されて、シンドリアの国政の多くを取り仕切っている男は深々と溜息をついた。
 緩く首を振り、近くで見れば充分ぎこちない笑顔を浮かべている男から視線を下に戻す。アリババは、先ほど以上に目を輝かせ、嬉しそうにしていた。
 それを微妙に悔しく思いながら、ジャーファルは真横に立ったシンドバッドに掌を向けた。
「言っておきますが、一戦だけですよ」
「分かっている。……後で褒美を取らす。欲しいものを言え」
「そんなもの要りませんから、少しは真面目に仕事してください」
 アリババに向けて親指を立てたシンドバッドに、こそこそと小声で嫌味を忘れない。
 耳の良いモルジアナが見るからに呆れた顔をして、付き合っていられないとばかりにそっぽを向いた。アラジンは大きく手を振っているシンドバッドに、少し不審な顔をしていた。
 気付いていないのはアリババだけだ。
「いいんですか、シンドバッドさん。本当に、本当に?」
「ああ、少しだけだが付き合おう。上がってきなさい」
 彼にとってシンドバッドは幼い頃からの憧れであり、命の恩人であり、父親であるバルバッド先王と同じくらい尊敬する存在だ。その彼自ら手合わせを申し込んできたのだから、アリババが有頂天になるのも無理なかった。
 これまでにないくらいの笑顔を見せて、彼は大きく頷いた。続けて一緒に居た仲間に手を振り、一秒でも早く二人の元に向かおうと勢い良く駆け出した。
 後に残されたモルジアナとアラジンは、揃って肩を竦めて苦笑して、再び上に顔を向けた。
 無言でぺこりとお辞儀されて、ジャーファルも手を振り返した。シンドバッドはといえば、アリババが来る方角が気になるようで、落ち着きなくそわそわしていた。
「本当に、一戦だけですからね」
「分かっている」
「それが終わったら、仕事ですよ。ただでさえ進みが遅いのに」
 あまりにも情けない姿に涙さえ出そうになって、ジャーファルは心のどこかで諦めつつ、念押しした。
 気もそぞろに返事をしたシンドバッドの顔が、目に見えて輝いた。息を切らして駆けて来る少年に、仏頂面だったジャーファルも自然と微笑みを浮かべていた。
「お待たせしました!」
 声を弾ませ、ふたりの前でアリババが足を止めた。肩を大きく上下させて、はっ、はっ、と乱れた呼吸をゆっくり整える。
 本当に急いで来たのが感じられて、その純真さが眩しくてならない。額の汗を払い除けた彼に、シンドバッドは目を細めた。
「始める前からそんなに疲れていて、大丈夫かい?」
「平気です。シンドバッドさんと手合わせできるなんて、感激です」
 握り拳を胸に押し当てて、アリババは元気良く言った。
 嘘偽りのない、飾らない台詞に頭がクラリと来る。こうも無条件に慕われて、嬉しくないわけがなかった。
 感動に胸を詰まらせ、シンドバッドは隣で冷めた目をしている部下にも白い歯を見せた。気持ち悪いものを目にしてしまって、ジャーファルは一寸だけ吐きそうになった。
 こめかみの鈍痛を堪え、早く行けとばかりに手を振る。
「では、参ろうか。アリババくん」
「はい!」
「あー、いたいた。おーい、アリババー?」
 面倒臭いことからは早く解放されるに限る。見切りをつけて溜息をついたジャーファルだったが、その耳に第三者の声が混じって背筋を粟立てた。
 ぎょっとなったのは、なにも彼だけではなかった。
 アリババの肩をそれとなく引き寄せ、屋上の鍛錬場に向かおうとしていたシンドバッドもまた、ぴしりと音を立てて凍りついた。
「師匠?」
 唯一自由に動けたアリババが、耳覚えのある声に反応して振り返った。遅れてジャーファルも、小走りに近付いて来る影に顔を向けた。
 褐色の肌に銀に近い白い髪を持つ男が、垂れ下がり気味の目を丸くしながら駆けて来た。
 シンドバッドの手から逃れたアリババが、数歩戻って現れた男に歩み寄った。不思議そうに見上げて、可愛らしく首を捻る。
「シャルルカン、貴方、軍議は」
「どうしたんですか?」
 ジャーファルの声が微かに震えていた。続きを補ったアリババから顔を上げて、シャルルカンは珍しいものでも見るように、居合わせたふたりに笑顔を零した。
「王サマと、先輩こそ、こんな場所で珍しい。どうかしたんですか?」
「色々と事情があるんです。それより、軍議は」
「スパルトスに任せてきた!」
 完全に固まっているシンドバッドをちらりと見て、ジャーファルが事情の全てを端折って手短に答える。若干苛々している彼に気付くことなく、シャルルカンは胸張り、あっけらかんと言い放った。
 そのあまりに無責任なひと言に、シンドリアの政務官はぽかんとなった。
「任せ、……って、貴方!」
「だってよー、俺が出たところで意味ないじゃん。どうせ俺、殆ど聞いてないし。だったら可愛い弟子の稽古つけてるほうが、断然楽しいし、有意義な時間の使い方でしょ?」
 微妙に可愛い、の部分を強調して言って、彼は太い腕をアリババの首に回した。体重をかけられて、押し潰されそうになった少年は急いで膝に力を込めて耐えた。
 親しげな態度に、遠慮はまるで感じられない。
「師匠、苦しいです」
「どうした? これくらいでギブアップか?」
 絡み付いてくる腕を叩いてアリババが抗議するが、呵々と笑うシャルルカンはまるで力を緩める様子が無い。逆に距離を詰め、一部が跳ねている金髪をくしゃくしゃに掻き回した。
 仲の良さを見せ付けられて、シンドバッドの顔が引き攣った。小刻みに肩が震えている。唖然と開かれていた口は時間をかけて閉じられて、一瞬泣きそうに歪んだかと思えば、一気に表情が消えた。
 次に現れたのは、笑顔だった。
「シャルルカン、アリババくんが苦しがっている。やめたまえ」
「ってか、王サマこそこんなところで油売ってていいのか?」
 誰に対しても奔放で、臆面の無い彼に逆に聞き返されて、シンドバッドはまた凍りついた。
 シャルルカンの手はアリババの頭に置かれたままで、残る腕は肩に回され、逃げないよう束縛していた。最早これは、背中から抱き締めているといっても過言ではなかった。
 しかもアリババは、抵抗こそすれど、顔はあまり嫌がっていなかった。
「師匠、本当に平気なんですか?」
「んー? 心配いらねーって。それより、やんだろ。上行くぞ、上」
「はいっ。あ、でも」
 むしろ喜んでいるようにすら見える。じゃれ付くシャルルカンに自分から擦り寄っていき、声を高くした彼は、威勢の良い返事の後にハッとして、申し訳なさそうにシンドバッドに視線を送った。
 すっかり蚊帳の外に置かれてしまったシンドリア王は、向けられた琥珀の瞳にどきりとして、唇を戦慄かせた。
 言えばいい、彼は先に自分と約束をしていたのだと。
 大事な軍議を抜け出してきたシャルルカンを咎め、アリババを取り返せばいい。
「どうした?」
 乗り気だった弟子が急に大人しくなったのを見て、シャルルカンは首を傾げた。首に巻き付けた鎖をジャラジャラ言わせて、アリババの視線の先にいる男に目を眇める。
 怪訝にした後、数秒停止したかと思えば不遜に笑んだ男を盗み見て、ジャーファルはそっと溜息をついた。
 折角巧くまとまりそうだったのに、全部ひっくり返されてしまった。頭の痛い問題に巻き込まれたと、己の不運をひたすら嘆き、肩を落とす。
「いえ、シンドバッドさんが稽古をつけてくれる、という話をしていたので」
 シャルルカンが会議で席を外しているので、その間のつなぎ役を買って出てくれたのだと、シンドバッドを指差しながらアリババが説明した。相変わらず彼の背にべったり張り付いているシャルルカンは、ふんふん頷いて口角を歪め、実にいやらしい顔で笑った。
 勝ち誇った顔を向けられて、シンドバッドの顔が明らかに引き攣る。いい加減離れろ、と言葉ではなく手で命令するが、まるで聞き入れられない。
 それどころか彼は、両腕を使って愛弟子を懐に閉じ込めて、柔らかな白い頬に褐色の肌を擦りつけた。
「っっっ!」
「師匠?」
「けど、王サマだって忙しいだろ。無理させたら悪いしな」
「まあ、そうですよね……」
 見ているしか出来ないシンドバッドが、声にならぬ悲鳴を上げた。全身の毛を逆立てた彼の隣で、ジャーファルが付き合っていられない、と背中を向けた。
 アリババは過剰なスキンシップにも平気な顔をして、耳元でのささやきに頷いた。
 聞いていたシンドバッドの顔色が、みるみる青くなって行く。そんな事はない、アリババの相手をする時間くらい幾らでもあると、そう言いたいのに言葉が出てこない。
 ジャーファルの登場を待たず、さっさと自分だけで行動を起こしておけばよかったのだ。迷宮攻略者として、シンドリア国王としての判断力を駆使し、行動力を発揮していたなら、こんな惨めな目にも遭わずに済んだだろうに。
「シンドバッドさん、お気遣い有難う御座います。でも、師匠が来ちゃったので、手合わせはまたいずれ」
「あ、ああ」
「王サマは、王サマのお仕事頑張ってね~」
 拘束を抜け出したアリババが、畏まって頭を下げた。にこやかな笑顔につい心が和らぐが、続けて後ろから発せられたシャルルカンの呑気な声に、シンドバッドはピシリと笑顔にヒビを入れた。
 会議をサボっている人間に言われたくない。だが言い返す暇も与えず、彼はアリババの肩を再び抱くと、半ば引きずるように上階に通じる階段に向かって歩き出した。
 ぽつんと置き去りにされたシンドバッドは、まるで燃え尽きた灰のようだった。
「なあ、ジャーファル」
「なんですか、シン」
 賑やかなふたり組みが去り、回廊はすっかり静かになった。
 その中でぼそりと、シンドバッドが口を開いた。
「あいつ、八人将から罷免していいか」
「……駄目です」
 遠くを見詰めながら呟かれた言葉を瞬時にたたき落とし、ジャーファルは疲れ切った顔をして首を振った。

2011/09/30 脱稿