進取

 片付けを終えて教室に戻るべく歩き出した時にはもう、休憩時間は残り半分を切っていた。
「急がないと」
「ああ」
 体育の授業は、毎回憂鬱でならない。隣にその体育を心待ちにしている友人がいるので声に出すのは我慢して、綱吉は用具入れのドアの鍵を掌に躍らせた。
 誰かが勝手に入って道具を盗んだりしないよう、校庭端に設けられた倉庫には頑丈な南京錠が用いられていた。もっとも、スペアキーは人知れずあちこちに出回っているようであるが。
 いつだったか、どこかで耳にした噂話を振り返りつつ、綱吉はマスターキーを返却するべく、上履きに履き替えて急ぎ足で職員室に向かった。
 所定の場所に戻して一礼してドアを閉めると、目の前に山本が、同じく体操服姿で立っていた。
「待っててくれなくてもよかったのに」
 時間が無いのは、彼も綱吉も一緒だ。制服に着替える暇が無くなるかもしれないのに、山本は何てことないように笑って肩に腕を回してきた。
「なーに。ひとりぼっちより、ふたりの方が目立たなくていいだろ?」
「やだ。なにそれ」
 時間が足りなくなる前提で言われて、綱吉は苦笑して彼から逃げた。腕をすり抜けていかれて、山本はつんのめって壁に寄りかかった。
 ふらついても、転びはしない。見事なまでのバランス感覚を羨ましく思いながら、綱吉は上の階に続く階段を目指して廊下を突き進んだ。
 風紀委員に見付かると五月蝿いので走りはしないが、心持ち急ぎ気味に。だが歩幅の違いの所為で、呆気なく追いつかれてしまった。
 しつこく伸びてくる手を二度払い除けるのに成功して、三度目に失敗し、綱吉は後れ毛を抓まれて顔を顰めた。悪戯な指を叩いて睨み付けると、黒髪を短く切り揃えた青年は屈託なく笑った。
 なにがそんなに楽しくて、嬉しいのか、よく分からない。
 口を尖らせて剣呑な目つきをしていたら、何かを気取ったか、山本の顔がふっと真剣なものに切り替わった。
 鋭い眼差しは、彼が持つ時雨金時の刃を想起させた。全身を撫でるように見詰められて、知れず顔が赤くなる。
 恥ずかしさを咬み殺して、綱吉は俯いた。早く行かなければ、と気は急くのに、足取りは鈍って重くなった。
 立ち止まってしまった綱吉にあわせ、彼もまた歩みを止めた。そうして気まずげにしている友人を見下ろし、赤子をあやすかのように薄茶色の髪を掻き回した。
 頭を撫でられて、子ども扱いされるのを嫌がった綱吉がムッとする。
「いてっ」
 瞬間、狙いすました一撃をおでこに食らった。
 デコピンされて、首を仰け反らせた彼の耳に、呵々と笑い声が響いた。
「なに。まだ拗ねてんだ?」
「山本!」
「んーな、気にすんなって。失敗のひとつやふたつ、誰にだってあるだろ」
 お気楽ないつもの彼に戻って、あっけらかんと言い放つ。叩かれた場所に両手を重ねた綱吉は、あまりにも能天気な彼に腹を立てたが、真面目に怒るのもなんだか馬鹿らしく感じられて、押し黙った。
 むすっと膨れ面をしたまま、上目遣いに親友を見やる。
「俺、今日、三回転んだんだけど」
「だっけか?」
「そうだよ」
 正味一時間にも満たない、体育の授業の間だけで、合計三回。これを多いとみるか、少ないとみるかは人それぞれだが、運動神経が抜群の山本から言わせたらかなり多い分類に入るだろう。
 サッカーの紅白戦、ボールを追いかけて転び、飛んできたパスを顔面で受けて倒れ、タックルを喰らってまた転んだ。
 のろのろしているのが悪い、とクラスメイトから詰られて、最終的に邪魔だから端に寄っていろ、とまで言われた。
 だから体育は嫌いなのだ。個人競技ならばまだしも、団体競技になると他人に迷惑しかかけないから、余計に。
 獄寺が居れば、即座に綱吉を庇ってくれるのだが、生憎と彼は今日、学校を休んでいた。病気ではあるまい、単に朝目覚めるのが遅くて、登校するのが面倒になっただけだろう。
 クラスをふたつに分けての試合は、綱吉が配置されたチームの負け。
 圧倒的な点差をつけられてしまったのもあり、やる気をなくした当番は、お前の所為で負けたと言って綱吉に片付けを押し付けてきた。
 嫌だったのだが、断りきれなかった。
 偶々話を聞いていた山本が手伝いを買って出てくれなければ、綱吉は今もまだ用具倉庫に居残っていたに違いない。何も関係ないのに快く引き受けてくれた彼の存在は、なんとも頼もしく、ありがたかった。
 そして時々、どうしようもなく憎らしい。
「気にするよ」
 転んで擦った膝を長ズボンの上から撫でさすって、綱吉は爪先で床を蹴った。
 土汚れがひと際酷いそこは、度重なる転倒の摩擦で布が薄くなっていた。あと少ししたら、破れて穴が空くかもしれない。
 そうやってダメにした体操服が、既に数着。運動部でもないのに、新品への交換頻度はかなりのものがある。
 うち何枚かは、リボーンによって死ぬ気弾を撃ち込まれての復活劇によるものだが、そうでない分も相当な数に登った。
「山本はいいよね」
「ん?」
「羨ましいよ、そういうトコ」
 綱吉に胸を叩かれた彼は不思議そうに目を丸めて、首を右に傾けた。両手は頭の後ろにやって、意味を理解しないままに白い歯を見せて笑う。
 屈託無いその態度が、皆から好かれる要因のひとつなのは確かだ。誰に対しても平等で、呑気で、大らかで、細かい事は気にしない。彼に任せればどんな困難だって軽々乗り越えられる、そんな雰囲気が滲み出ている。
 一緒にいると楽しい。あまりにも気持ちよく笑うものだから、つられてこちらまで嬉しくなってしまう。
 綱吉とは、なにからなにまで正反対。唯一の共通点といえば、勉強がからきし、という事くらいか。
 何故彼とこんなにも親しくしていられるのか、つくづく疑問だ。同情されているだけかと疑りの目を向けると、山本はどう誤解したのか、照れ臭そうに頬を掻いた。
 なんとも気の抜けた態度に、綱吉は肩を竦めて苦笑した。
「山本って、なんでも出来ていいね」
「なんでも、ってのは語弊があるなあ」
「そんな事ないって。俺なんか、とてもじゃないけどあんなに綺麗なシュート、撃てないよ」
 山本とは、別のチームになってしまった。綱吉のチームが大敗した理由は、綱吉の愚鈍さ以上に、彼の功績が大きい。
 野球だけでなく、サッカーまでそつなくこなしてしまう。長い脚から繰り出されるシュートは、見事敵陣のゴールを突き破っていった。
 格好良かった。後ろから見ているしか出来なかった綱吉にとって、彼の背中は憧れそのものだった。
 だが当の山本はケラケラ笑うばかりで、綱吉の憧憬めいた視線も掌で遮ってしまった。
「俺だって、最初はへったくそだったぜ?」
「うっそだー」
 肩の高さで手を振った彼に、綱吉は即座に口を尖らせた。
 そんな事を言われても、到底信じられない。野球部でも次のキャプテン候補筆頭で、先輩からも後輩からも人望に厚く、リーダーシップに溢れ、皆をぐいぐい引っ張っていくバイタリティたっぷりの彼が、いくら自分を卑下しようとしても、冗談にしか聞こえない。
 茶化さないでくれと笑い飛ばした綱吉だったが、向けられる視線は至って真剣だった。
 口をあけたまま右の頬をヒクリとさせた彼に、山本ははにかんだ。
「ほんとだって。練習して、頑張って、出来るようになったんだ」
 綱吉が言うような天才肌などではないのだと、彼は緩く握った拳を広げた。
 潰れた肉刺の跡が、すべての指に残されている。間近でじっくり見たことなどこれまでなくて、綱吉は思った以上に肌荒れが激しい指先に息を飲んだ。
 ガサガサしていて、細かい傷も多い。真新しい肉刺が中指に出来ていて、痛そうだった。
 首を竦めて顔を顰めた綱吉に苦笑して、山本は手を引っ込めた。
「かっこ悪いだろ?」
「そんなこと」
「いいや、格好悪いさ。みんなに置いていかれないように必死に頑張って、その頑張ってるところを誰にも知られたくなくて隠してるんだ。だっせーよな、俺って」
 他の連中には内緒だと、人差し指を唇に立てた彼が屈託なく笑う。特に獄寺には教えてくれるなと念押しされて、綱吉は苦笑と共に首肯した。
 獄寺はなにかにつけて山本を敵視して、突っかかっていく。彼の攻撃材料になるような弱みは知られたくないという気持ちは、綱吉にもよく分かった。
「でも、やっぱり凄いと思うよ。山本には才能あるよ」
 ほうっと息を吐き、早口に告げる。綱吉の言葉に、彼は照れたのかそっぽを向いた。
 天性の素質があり、驕らず、努力し続ける根性があるから、山本は凄いのだ。その点、綱吉はそういった熱血漢的なところとは無縁の生活を送っており、気合だって足りない。
 京子の兄である了平の熱さには、とてもではないがついていけない。
 すべての事を冷めた目で、一歩どころか三歩も引いた場所から眺めている。
 輪に混じろうとしたところで、周囲に迷惑しかかけないのなら、最初から距離を置いておいたほうが自分も楽。誰からも期待されず、空気のように流されるままに生きていれば、難しく考える必要も無く、責任を負わされることもない。
 だから最近の、リボーンによるあれこれが鬱陶しい。
 お陰で色々な方面に顔が売れて、知り合いが一気に以前の数倍に膨らんだけれども、騒がしいのだって本当は好きではなかった。
 望まないのに、無理矢理人の輪の中心に蹴りいれられてしまっている。抜け出したいのに、見た目赤ん坊の門番が怖くて逃げられない。
 頬を膨らませてぶつくさ不満を並べ立てた綱吉の頭をそうっと撫でて、山本は目を細めた。
 乾燥した指先に髪の毛が引っかかるが、引っ張られてもあまり痛くない。綱吉はささくれ立っていた心が和み、ほっこり温かくなるのを感じながら、恥ずかしそうに首を竦めた。
 堪えきれずに噴き出した彼を見下ろし、山本は視線を浮かせた。
「けど。小僧が来てから、お前さ、よく笑うようになった」
「ん?」
「今日のだって、ツナ、自分からボール取りに行こうとしただろ?」
「げっ」
 遠くを見詰めながら呟いた彼につられ、綱吉も視線を浮かせる。即座に下向いた山本に言われて、琥珀色の瞳が零れ落ちそうなくらいに見開かれた。
 口も一緒にあんぐり開いて、驚きを隠そうともしない。面白い顔になった綱吉に肩を揺らし、彼は無防備なおでこをちょん、と小突いた。
 まだ少し赤い場所を攻撃されて、我に返った綱吉が両手で患部を庇う。蜂蜜色の髪の毛を押し上げて広い額を晒した少年は、実年齢以上に幼く見えた。
 頬を膨らませて警戒心を露わにされて、山本は困った顔で首の後ろを掻いた。
「違うか?」
「なんで、……分かるの」
「お前が落ち込んでたから、かな」
 最初からやる気が無かったなら、チームメイトに邪険に扱われても気落ちなどしない。本人なりに真剣に取り組んで、それでダメだったからこそ、綱吉は惨憺たる結果に拗ねていた。
 お調子者の口調であっさり言われて、綱吉は唇を噛んだ。
 まさか見抜かれていたとは思わなくて、恥ずかしい。
 珍しくやる気を出したのに、空回りばかりして結局迷惑しかかけられなかった。邪魔者扱いされて、居ないものとして扱われて、惨めになっただけだった。
 鼻の奥がつんとして、息苦しい。慰めるように落ちてきた山本の掌が、跳ね放題の頭をくしゃくしゃっと掻き回した。
「だから言ってるだろ。失敗のひとつやふたつ、どうってことねーって」
「山本が言うと、嫌味にしか聞こえない」
「けど、また頑張ろうって思えるだろ?」
 出来る人に言われたからといって、はいそうですか、と納得は出来ない。
 それでも彼の言葉には妙な説得力があって、これくらいでへこたれてなるものかと、そんな気持ちにさせる力があった。
「諦めなきゃなんだって出来るさ」
 下向いていた顔を、前に向けさせるなにかがあった。
「……変なの」
「俺が?」
「そそ」
 それこそが山本武を山本武たらしめている原動力であり、他の誰も持ち合わせていない、唯一無二の彼の特技だ。
 彼の隣に居るのは誉れ高く、そしてとても照れ臭い。茶化して誤魔化し、綱吉は呵々と笑って廊下を蹴った。
 チャイムが鳴るまでもう時間が無い。急がないと、本当にふたりだけ体操服で授業を受けることになる。
「別にいいじゃん。ペアルックでいこうぜ」
「えー?」
 駆け出そうとした綱吉の後ろで、山本が呑気に言い放った。そうしている間に本当にチャイムが鳴り始めて、綱吉は気の抜けた笑みを浮かべた。
 ペアルックも何も、制服だって一部を除き、全校生徒お揃いではないか。
 そう思ったが、口にはしない。制服だらけの中で体操服が自分たちだけの光景は、それはそれで素敵な気がした。

2011/07/19 脱稿