夜の子供たち

 時計の針は、草木も眠る、と言われている時間帯を指し示していた。
 屋根や軒、窓を叩く雨音は時に激しく、酷く心を波立たせる。今日ばかりは野に潜む獣たちも狩りを諦め、塒で寒さに震えているに違いない。
 スガタはふと、何かに呼ばれた気がして目を覚ました。すぅ、と音もなく瞼を開き、急浮上した意識と、精神から乖離した肉体の違和感に数秒間じっと耐える。
 やがて両者が完全な合致をみたところで、彼は額に手をやり、暗い天井をぼんやり見詰めた。
 寝入ってから、大体一時間半といったところか。記憶に残る最後の一瞬を振り返って、彼はこの後どうしようかでしばし迷った。
 通常考えれば、このまま目を閉じて二度目の眠りに突入すべきだろう。明日も学校がある。早朝の稽古は習慣というより最早義務であり、遅刻しないためにも早めに起床する必要がある。
 眠っていられるのはあと三時間程度だ。身体の疲れを癒し、慰め、翌朝に持ち越さない為にも、この時間は非常に貴重だ。
 分かっている。だが、何故だか直ぐに寝直す気になれなかった。
「……んん」
 目を閉じたら、朝が来ないかもしれない。いや、必ず太陽は東から空に昇る。ただスガタにとっての朝が来ない。そんな嫌な想像が、寝起きの頭を駆け抜けて行った。
 不吉すぎる未来に身震いして、彼は額に掛かる前髪を掻き上げた。ゆるりと首を振って、身を起こす。
 怖気づいたわけではないが、寝る気が一気に失せた。睡魔もどこかへ飛び去ってしまって、後には言葉にし難い気怠さと、消えることのない雨音ばかりが残された。
 厚い雲が空一面を覆い、月も星も見えない。南十字島のみならず、近隣の島々も同じように悪天候に襲われていることだろう。
 風も出ている。びゅん、びゅん、と庭に植えられた南洋植物が激しく唸り、互いの枝葉をぶつけ合わせていた。
 登校時間前に止んでくれればいいが、儚い願いだ。窓の外に思いを馳せて、スガタは静かにベッドを降りた。
 素足で床に立って、ひんやりとした感触を楽しむ。スリッパを探す気にはなれなかった。停電でもあったのか、屋敷中の照明が消えていた。
「水でも飲むか」
 言い訳がましい言葉を舌に転がして、記憶を頼りに部屋の出口を探す。長く住み慣れた自宅だから、視界が暗闇に覆われたところで、何処に何があるのかくらいは、簡単に思い出せた。
 手探りでドアノブを見つけて捻り、廊下に出る。タイガーもジャガーも寝床に入った後のようで、凛と冷えた空気に動く物の気配は感じられなかった。
 両側を壁に囲まれた内廊下なのもあって、雨音も一気に遠退いた。
「……」
 まるで別世界の、水底に沈んだ古代遺跡の中を彷徨っている気分になった。不気味さよりも切なさが胸を占めて、スガタは急ぎ、床板に張り付いていた右足を引き剥がした。
 ぺた、ぺた、と子供のような足音を響かせて真っ直ぐの道を進む。目測を誤って行き過ぎてしまった数メートルを戻ったところで、彼はぼんやり闇に浮かぶ光を見た。
 真っ先に目の錯覚と思い、次に夜盗の類を疑う。
「誰かいるのか」
 開けっ放しのドアの向こうは、リビングだ。絨毯が敷かれ、豪奢な応接セットが中央に陣取る。巨大なテレビが壁際に置かれて、両側にはスピーカーが。
 こんな夜更けに、いったい誰がいるというのか。
 シンドウ家は南十字島でも名の知れた名家だ。屋敷もそれ相応の佇まいで、部屋数は多い。
 それが不埒な旅人の目には、格好の獲物に映ったのかもしれない。
 警戒心を強めて鋭い声で叫び、リビングに一歩踏み込む。ダンッ、と強く床を蹴って音を響かせ威嚇すれば、案の定中に居た人物が窓辺でビクリと肩を強張らせた。
 目を吊り上げたスガタの怖い顔に怯えて、雨に濡れた窓にぴったりと張り付く。
「スガタ?」
「ム?」
 身を竦ませた相手に小声ながら名前を呼ばれて、彼は眉を顰めた。
 何故泥棒が自分の名前を知っているのかと考えて、五秒ばかり停止した後、真夜中の侵入者の正体を悟って肩を落とす。
 溜息をついて落胆している彼に、赤い髪の少年は憤慨して頬を膨らませた。
「なんだよ、急に。吃驚させないでよ」
「お前こそ。こんな時間に、どうしたんだ」
 ぷんすかと煙を吐きながら文句を並べ立てる居候に、スガタは苦笑を浮かべた。一転して優しい声で話しかけて、絨毯の感触を心地よく受け止めながら部屋を横断する。
 窓辺はフローリングが露出しており、再び冷えた床板に温かな足の裏が張り付いた。
 一歩ごとに、足の皮が引き剥がされていくようだ。そのうちに足どころか身体全部が無くなってしまうのではないかと、そんな事を考えながら、薄い赤色のパジャマを羽織った少年の傍へと進み出る。
 迫り来る他者の気配に尻込みして、タクトは右肩を窓ガラスに擦りつけた。
 触れたところから体温が逃げて行く。幾つもの雫を垂らした窓は、彼の熱を受けてうっすら曇っていた。
 トン、トン、と軒を打つ雨音が五月蝿い。庭に建てられた太陽光発電のライトが照らす世界で、風が唸って木々を揺らしていた。
「タクト」
「別に、なんでもないけど」
 丑三つ時に、ひとり、寝室を離れて。
 理由を言おうとしない彼を急かし、スガタは手を伸ばした。
 左頬に触れられて、慣れない他人の体温にタクトが首を竦めた。亀のように小さくなって、小刻みに震える。だがそれはなにも、スガタに怯えているから、というわけではなかった。
 いったいどれくらいの時間、此処にひとりで立っていたのだろう。タクトの身体は、すっかり冷え切っていた。
 強張っている筋肉を解すように撫でてやり、最後に出っ張っている鼻をピンッ、と弾いて手を離す。首を後ろに仰け反らせた少年は、勝気な目をして口を尖らせた。
「なにするんだよ」
「で? どうしたんだ」
 文句を言われても謝らず、逆に聞き返す。答えを教えるまで逃がさないと、雰囲気がそう告げていた。
 スガタは人が良いように思えて、実際はかなり性格が捻くれている。意地悪で、頑固で、我が儘で融通が利かない。
 嫌な相手に捕まったものだ。誰とも会わずに済ませようと思っていただけに、それなりにショックでもある。
「タクト」
 上目遣いに睨んでいたら、せっつかれた。急かす声にむすっとして、タクトはふいっ、と顔を背けた。
「それを言ったら、スガタだって、どうしたのさ。こんな夜中に」
「目が醒めてしまったから、水でも飲もうと思ってね」
 なにも後ろめたいことがないなら、堂々と言えるはずだ。その見本を示すように、迷いもせずに即答した青年に愕然として、タクトは苦虫を噛み潰したような顔をして、肩を落とした。
 雨粒が窓の外側を伝い、落ちて行く。長い軌跡を残し、次々と。
 止む気配は今のところ感じられない。風で飛ばされてきた木の葉に木の枝、不法投棄されたゴミなどが散乱している庭を想像して、スガタはひっそり眉を顰めた。
 険しい表情を作った彼を誤解して、タクトは胸の前で両手の指を絡ませ、持ち上げて額に押し当てた。
 顔の上半分を隠して、天を仰ぐ。
「雨が、さ」
 祈るようなポーズにも見える。しかしいったい、何を願って神に縋るのか。
 赤い髪は湿気で撓り、毛先は外を向いていた。細い首から突き出ている喉仏が、彼が息をする度に小刻みに震えた。
「五月蝿いな、確かに」
 前日の夕方から降り始めた雨は、今も勢いを弱める事無く大地を鞭打ち続けていた。玄関には四人分の傘が並べられて、雨に濡れた靴が早く乾くようにと斜めに壁に立てかけられている。
 嵐が続けば、本土からの定期船が止まる。物流がストップすれば、島民の生活にも被害が及ぶ。
 早く止めばいい。そんな願いを込めて呟いたスガタだったが、タクトはふるふると首を振った。
「ちがうよ」
「うん?」
 かすれるほどの小声で告げて、今度は俯く。解かれた手が宙を彷徨い、スガタの青色のパジャマを掴んだ。袖を引っ張られて、彼は怪訝に眉を顰めた。
 窓から差し込む薄明かりだけでは、互いの顔さえはっきりと見えない。轟々と唸る風の声に邪魔されて、スガタはタクトの言葉を聞き損ねた。
 違う、とそう言っていたように思うが、確証が持てない。もう一度と頼むが、拒否されてしまった。
「タクト」
 一旦は戻した手をまた伸ばし、今度は肩に触れる。年齢相応の、鍛えられてはいるけれども線の細さが目立つ骨格が、肌越しに感じられた。
 触れられた瞬間ピクリとして、彼は窺うようにスガタを見た。
「音じゃなくて。なんていうか、さ。空が、……見えないのが」
「空?」
「月とか、星とか。晴れてたら、銀河さえ手に届きそうに思えるのに」
 言って、タクトはスガタの手を取って下ろさせた。ふたりして窓の外に目をやるが、見えるのは暗闇に飲まれそうな庭木たちと、唸り声をあげる嵐ばかりだ。
 彼の言うような星月は分厚い雲に阻まれ、地上には光すら届かない。
 南十字島は南洋に浮かぶ孤島であり、視界を塞ぐ大きな建物は少ない。大気汚染の影響も少なく、タイミングが合えば満天の星空を拝むことも可能だ。
 実際、そのような光景を求めて島を訪れる人もいる。
 だが今日に限っては、星の瞬きなど望むべくもない。空は暗く、重く、湿っている。
 首を傾けてコツンと窓を叩き、タクトは物憂げな表情を浮かべて視線を外に固定した。半透明の彼の姿が、左右を逆にしてガラスに浮かび上がっている。
 ふたりに分裂してしまったようだ。そして、本物の元気溢れるツナシ・タクトは鏡の向こうの世界に行ってしまって、此処にいるのはスガタの知らない、別のタクトなのではなかろうか、とさえ。
 馬鹿な妄想を、首を振って追い払い、スガタは右手を腰に当てた。
「雨が止んで、雲が晴れれば、いつでも見られるだろう?」
 偶々、今夜は嵐に見舞われたけれど、ずっとこんな天気が続くわけではない。愚図る子供をあやすように優しく言い聞かせれば、タクトも分かっているのだと照れ臭そうに笑った。
 はにかんで目を細めて、窓ガラスに手を当てて押す。寄りかからせていた身体を起こして、肩の力を抜いて深呼吸をひとつ。
「そうなんだけどさ。なんていうか、……迷子に、なりそうで」
「迷子」
「そう。迷子」
 奇妙な事を言うと、スガタは目を瞬いた。が、タクトはそうは思っていないようで、はっきりと響く声で繰り返し、頷いた。
 道を見失い、家に帰れなくなってしまった子供。頭の中にふっと現れた森の中で泣いている幼児は、タクトと同じ顔をしていた。
 鼻水を垂らして泣きじゃくるその姿に、スガタはぷっ、と噴き出した。
「あー、なんだよ。笑うなよ」
 人が真剣に話しているのに、なんと失礼な男なのだろう。
 憤慨して拳を振り上げたタクトだったが、呆気なく躱されてしまった。素早く後退して距離を取ったスガタは、肩を怒らせている少年に目尻を下げて、苦しい腹を撫でて呼吸を整えた。
「なんだ。お前、寂しいのか」
「――なっ」
 普段見えているものが珍しく見えないから、不安になっただけだ。
 日頃の元気印がなりを潜めていると思えば、どうという事はない。声に出して言うと、また笑いがこみ上げてきて、スガタは殴られないよう注意しながら肩を揺らした。
 腹を抱える家主に奥歯をぎりぎり言わせ、タクトは癇癪を爆発させて両の拳を振り上げた。
 襲い掛かるが、流石はシンドウ流古武術の師範代なだけはある。至極簡単に避けられてしまって、悔しいやら哀しいやら、あったものではない。
「むきー」
「なんなら、添い寝してやるぞ」
 猿のように吼えたタクトに向かって、スガタが余裕綽々と言い放つ。勝ち誇った笑みを向けられて、赤い髪の少年は、今度は栗鼠を真似て頬を膨らませた。
 百面相が面白くて仕方が無い。涙を堪えて笑いを噛み殺し、スガタは時間をかけて息を吐き出した。
 心を落ち着かせ、窓辺で横からの薄い光を浴びている少年を真っ直ぐに見詰める。挑みかけてくる彼に反発し、タクトもまた眼力を強めて睨み返した。
 今は照明器具も発達して、夜でも昼の明るさが簡単に得られる。だが遠い昔、この島が未開の地だった頃、雨と嵐に飲み込まれた夜空を仰ぐ人々は、どんなにか不安だっただろう。
 それこそ、タクトの言う通り、迷子になりそうで怖かったのではなかろうか。
 光とは導。
 道標。
 けれど光は、何も太陽や月、星の輝きだけではない。
「タクト。おいで」
「スガタ?」
「おいで」
 ふっ、と気の抜けた笑みを浮かべて手招く。タクトは最初こそ警戒して嫌がったが、しつこく呼ばれて渋々一歩前に出た。
 更に一歩、冷え切った空気が漂う窓辺を離れる。
「わっ」
 もう半歩、それで距離がゼロになる。摺り足分を躊躇していたら、腕を取られた。
 引っ張られて、問答無用で胸に抱きかかえられた。体重を受け止めて、スガタの身体も後ろに傾いだが、左足を退くことで堪えて、倒れるような事態にはならなかった。
 同じ年の、同じ日に生まれたのに、どうしてこうも違うのだろう。
 身長もそう変わらないし、体重でいけばスガタの方が細いくらいだ。だのに力は、彼の方が圧倒的に上。
 これが鍛錬を重ねて来た年数の違いか。タクトとて祖父相手に鍛えられてきたが、本格的に修行を開始したのは、この島に来てから。
 悔しい。膨れ面を俯いて隠していたら、スガタの手が左の頬を包み込んだ。
 ずっと寒いところにいたからか、身体は本人が思う以上に冷えていた。温かな熱は嫌なわけがなくて、彼は心地よさげに喉を鳴らし、甘えるようにすり寄った。
 だがタクトの思いとは裏腹に、スガタはすっと、手を上に素通りさせてしまった。
「タクト。なにが見える?」
 前髪を掻き上げながら問う彼に、タクトは眉を顰めた。髪の毛が払われたので視界はいつも以上にクリアだが、光源が遠ざかったのもあって室内はかなり暗かった。
 辛うじて、質問者の顔が見える。目を凝らして、タクトは口を開いた。
「おまえが」
「なら」
 短く告げれば、スガタは満足げに頷いた。その上で押さえつけていた赤い髪を解放した青年は、ゆっくりと手の位置を下にずらした。
 額を越えて、目を塞がれた。
 左右共に、指と掌に隠されてしまった。眼球を抉られる恐怖に負けて咄嗟に瞼を下ろして、タクトは息を飲んだ。
 はっきりと身を強張らせた彼を笑い、スガタが先ほどの質問を繰り返した。
「なにがみえる?」
 その質問は滑稽だ。物理的に視界を覆われてしまっているのだから、見えるとしたらその壁であるスガタの掌くらいしかない。
 答えは分かりきっている。だから恐らく、彼が聞きたいのはそんな当たり前の回答ではないのだろう。
 息を止め、唇を舐めて、薄く開いた唇から吐息を零す。僅かな沈黙の後、タクトはお手上げだと首を振った。
 束縛は解けない。スガタはまだ手を外そうとしなかった。
「なにも」
 目を閉じても、開いても。
 タクトの眼に映るのは一面の闇だ。
 道を見失い、帰る家を忘れ、途方に暮れている哀れな子供。
 あまりにも大きすぎる暗闇に畏怖して立ち尽くす彼に目を細め、スガタはならば、と質問を変えた。
「なら、僕は何処にいる?」
「は?」
 それもまた、あまりにもあんまりな質問だった。
 洒落を利かせてやるべきかと一瞬思い悩んだタクトだったが、スガタの声は真剣だった。冗談を言って良い空気なのかどうかくらい、幾らなんでも理解している。
 若干の気まずさを覚えて奥歯を噛んで、彼は逡巡の末に右手を伸ばした。
 手探りでスガタのパジャマを見つけ出して、裾をちょい、と抓む。
「此処に、……いる」
「そうか」
「うん」
 短いやり取りを経て、スガタが手を下ろした。タクトは瞼を持ち上げることなく、目を閉じ続けて彼に寄りかかった。
 肩に顎を預け、胸を重ねて背中に手を回す。出来上がった輪に閉じ込め、閉じ込められて、いつしかふたつあった鼓動はひとつになった。
 雨音は消えない。空は暗い。
 だけれど瞼の裏に、はっきりと光の柱が見えた。
「なにかみえるか?」
「お前が」
「まだ迷いそうか?」
「うんにゃ、全然」
 堪えきれずに笑って、タクトは久しぶりに目を開いた。正面からスガタを見つめて、白い歯を見せて相好を崩す。
 互いに首を前に倒して額を小突き合わせて、声を殺して密やかに笑い合う。
「添い寝は必要か?」
「必要なのはスガタの方だろ」
「どうして」
「だって、……探してたんだろう?」
「お前こそ、僕を呼んだだろう」
 スガタがリビングに来た理由は、寝床に居ない自分を探していたからとタクトが言う。
 思わぬ濡れ衣に、スガタは目覚めた原因を振り返って声を荒げた。
 覚えのない嫌疑をかけられた少年はボッと顔を赤くして、そんなわけがないと罵声をあげた。
「スガタの方が」
「タクトだろう」
 ふたりして譲らず、至近距離で睨みあう。バチバチと火花を散らして獣のように唸ること数分。
 いがみ合っている自分たちが急におかしくなって、彼らは揃って噴き出した。
「ふふ」
「あはは」
 もう一度額をコツンとやって、はにかむ。
「寝るか」
「よし、寝よう」
 とっくに日付は変わっている。夜明けまで、あと少ししかない。
 知らぬ間に、雨の音は静まろうとしていた。風も収まって来ているのか、窓を叩く雨粒も数を減らしていた。
 温かな寝床を求め、どちらからともなく手を繋いで歩き出す。互いの中に確かな光を見つけた今、彼らが道に迷う事はない。
 嵐はじき、止むだろう。

2011/06/26 脱稿