咳嗽

 並盛中学校で一番有名な生徒、と言われたら九割がた、同じ人物を挙げるに違いない。
 それくらいに有名なのに、反して誰も彼の私生活について知らなかった。土日祝日、夏休みなどの長期休暇でさえ毎日のように学校に顔を出し、弱い連中が群れるのを嫌って、トンファー片手に暴れまわる。そういう知識ならば皆持ち合わせているのに、自宅が何処なのかだとか、親がどういう仕事をしているだとかいう個人データは一部を除き、殆ど流布していなかった。
 部下ともいえる世話役ならばいるが、親しい友人などはいない。物凄く目立つのに、好んで傍に近付こうとする物好きな輩も殆どなかった。
 もっとも此処最近は、騒々しくも静かだった彼の周辺が、とある人物がうろつくことによって常に騒がしくなってきていた。
「あれえ……?」
 その、自覚のない騒動の中心人物が、閉ざされたドアを前に首を傾げた。
 ノックした時の形を保つ手を顎に持っていき、やや仰け反り気味に上を向く。応接室、と記された札が出ているのを確認して今一度ドアを叩いてみるが、目ぼしい反応はついぞ得られなかった。
 廊下はシンと静まり返り、空気は乾いていた。窓から差し込む光を受けて、細かな埃がきらきらと踊っている。通行人はいない。
 立ち尽くすブレザー姿の少年を気に留める存在は無かった。部屋の中からも応答が無い。留守なのだと己を納得するのに、彼は三十秒ばかり時間がかかった。
「ちぇ」
 面白くない、と頬を膨らませて拗ねて、苛立ち紛れにドアの下部を蹴り飛ばす。上履きを越えて衝撃がつま先に襲い掛かり、自業自得に涙して彼は渋々踵を返した。
 今朝から姿を見かけないので心配して訪ねてやったのに、不在とはいい度胸をしている。
 わざわざ貴重な昼休みを使ってやったのに無駄足を踏まされて、心の置き場が見付からない。本当は午後の授業をサボる口実を探していたのだが、そちらのあても外れてしまって、彼は荒々しい足取りで階段に向かい、教室に戻ろうとした。
 ひとつ上の階に移動して、一般教室棟に続く廊下を左に曲がる。
 直前、視界の右端に黒い人影を見た気がして、歩みが勝手に止まった。
 出かかった足を引っ込めて慌てて階段に戻り、壁に背中を張りつかせて角の向こう側を恐る恐る覗き込む。
「む?」
 瞬間、歩いていた大柄の男にぶつかりそうになった。
「うわ」
 吃驚して跳びあがり、挙動不審に首を振った彼を見下ろして、両手で大荷物を抱えていた男は小首を傾げた。小動物めいた動きをする少年に数秒逡巡し、その背後に控える下り階段を見て嗚呼、と頷く。
 裾が床につきそうなくらいに長い学生服を着て、重そうなリーゼントを庇の如く頭に生やした男は、やがて並盛中学校指定の制服を規則どおりに着こなす少年に柔和な笑みを浮かべた。
 相手が誰なのかを知り、少年もまた胸を撫で下ろして息を吐いた。
 一気に弾んだ心臓を撫でて宥め、衝突しかかったのを詫びて頭を下げる。
「いや、俺も注意散漫だった。すまんな、沢田」
「そんなこと」
 ところが逆に謝罪されて、二年A組に在籍中の少年は慌てて首を振った。
 普段は近付き難い存在として知られ、在校生から恐れられている相手に丁重に扱われるのは、正直くすぐったい。苦笑しながら頬を引っ掻いた綱吉は、二度ばかり瞬きをした後、鼻先を漂った白い湯気に目を丸くした。
 零れ落ちんばかりに大きく見開かれた琥珀色の眼に相好を崩し、並盛中学校風紀委員会副委員長である草壁は抱えているものを掲げて揺らした。
 それは土鍋だった。一人用の、小さいサイズの。蓋がされているが、湯気を完全に閉じ込められてはいない。
 上部の丸い部分には揃いの図柄のレンゲが置かれ、草壁の動きに合わせてカタカタ音を立てた。
「お昼ご飯ですか?」
「うむ。まあ、そんなところだ」
 彼の後ろを窺えば、調理室の札が見えた。そこでこっそり土鍋を使って料理をしていたのだろうと予測を立てて、問う。変なところを見られたからか、草壁が若干気まずげにしながら首肯した。
 歯切れの悪い返答具合から、彼の昼食ではないとも推測できた。恐らくは草壁のすぐ上に立つ人物、即ち委員長の為に用意したのだろう。
 鼻をヒクつかせてみるが、あまり匂いはしない。中身が想像できなくて眉間に皺を寄せていたら、再び考え込んだ草壁が体型の割に小さめの目をスッと細めた。
 気配の変化に嫌な予感を覚え、綱吉はひやりと来た空気に尻込みした。
「そうだ、沢田。すまんが、ひとつ頼まれてくれんか」
「あ、いや。俺もうじき、授業が」
「なに、たいした仕事じゃない。これを保健室まで届けるだけだ」
 肩を竦めながら土鍋を上下に揺らした草壁に、綱吉ははっとして逃げ腰だった姿勢を戻した。背筋を伸ばし、息を飲む。
 茶目っ気たっぷりに笑った彼に三秒迷って頷き返し、少年は熱い鍋を受け取るべく、敷き布代わりにすべくブレザーの裾を抓んで引っ張った。

 大きな荷物を胸に保健室へ向かえば、扉は閉め切られ、入り口には立ち入り禁止と記された札がかけられていた。
 そうは言われても、入らなければ用事を済ませられない。草壁からの依頼品を中にいる人物に届けなければ、綱吉は教室に帰れない。
 覚悟を決めて、右足を前に出す。上履きの底を戸板に押し付けて右に蹴りだせば、滑り止めの効果もあって扉はシャッ、と音立てて逃げていった。
 両手が塞がっているので、この際行儀の悪さは見逃してもらおう。ベージュのジャケットを使い、底を支える形で土鍋を抱えた彼は、人に見付かる前にと急ぎ敷居を跨ぎ、またもや足で戸を閉めた。
 ガタンとひと際大きく音が響くが、構っていられない。腕に圧し掛かる重みに耐えながら室内を見回すが、部屋の主たる男の姿は見出せなかった。
 不在にしているらしい。シャマルのことだから、どうせどこかでサボっているに違いない。
 もしかしたら体育の授業を前に、女子更衣室を覗きにいっているのか。性別が女ならば年齢はあまり気にしないところがある男を思い出し、苦虫を噛み潰したような顔をして、綱吉はいそいそと足を前に運んだ。
 入室時に散々物音を立てているくせに、いざ歩く時は抜き足差し足と、出来るだけ雑音を立てないように配慮する。そんなところで努力したところで無駄と分かっているのだけれども、これから顔を合わせるだろう人物を思うと、足取りは慎重にならざるを得なかった。
 治療台やゴミだらけの机が置かれている区画と、ベッドが並ぶ区画の間には仕切りとしてカーテンが引かれていた。ベッドは全部で四つあるが、うち窓際のひとつだけが使用中らしく、白い布で囲われていた。
 綱吉はそちらに進路を取り、途中で土鍋を抱え直して肩を揺らした。
 レンゲがカタカタ音を立てた。開け放たれた窓から風が吹き込み、カーテンを撫でて通り過ぎて行った。
 ケホン、と咳が聞こえた。
「……哲?」
 酷く弱々しい掠れた声が中から聞こえて、思わずどきりとした。心臓が大きく跳ねて、口から飛び出しそうになった。
 慌てて唇を噛み締めて堪え、足元から駆け上ってきた悪寒にすくみ上がる。ぶるりと震えてから浮いた踵を下ろし、綱吉は短く息を吐いて更に一歩、距離を詰めた。
 哲、とは草壁の下の名前だ。彼をそう呼ぶ人はこの地上でも、一握りしか存在しない。
 ざっと話は聞いてきているものの、想像していたよりも酷いのか。返事がないのを訝り、誰が来たのかカーテンを開けて確かめようという気配すらなかった。
「……だれ」
 つい強く踏み出してしまい、右足が思い切り床を叩いた。本人ですらビクリとしてしまう音に反応して、そこにいるのが草壁でないとようやく悟った声がにわかに低く尖った。
 突き刺さる敵意に背筋を粟立て、綱吉は首を振って姿勢を正した。
「あ、あの。おれ、俺です」
 名前を名乗りもせず、声だけで判断するよう求めてしまう。後から気付いて失敗したと焦ったが、どうにか通じたようだ。
 カーテンが不自然に揺れた。中から触れたのだろう、だが開かない。
 レールの上を自在に踊るはずの布が当て所なく揺れただけなのを見て、綱吉は不安を強め、歩みを早めた。
「ヒバリさん」
 呼びかけながら、土鍋を抱えている為に自由の利かない手で、苦心の末に布の端を抓む。身体ごと移動して道を開けば、同時に痰の詰まった咳が轟いた。
「ぐえっほ! えほっ、へほ、けふ」
 苦しげに息を吐き、最後に唾を飲みながら吸い込んで、枕に頭をこすり付ける。どことなく虚ろな眼を宙に彷徨わせ、並盛中学校で強権を振るう男がベッドの上で頬を引き攣らせた。
 呆気に取られている綱吉を見て、笑いたかったのだろうが、巧く出来ていない。額に掛かる前髪は汗を吸ってぐっしょり濡れて、肌にへばりついていた。
 見るからに辛そうだ。色白の肌はどこもかしこも赤らみ、汗で湿っている。胸元まで布団を被り、右手は伸びた状態でベッド端に向かって倒れていた。
 氷枕も使っていなければ、濡らしたタオルを額に置いてもいない。単に上着を脱いで横になっただけだ。
 ぐじ、と鼻を啜る音がした。いつもは固く引き結ばれている唇が、今はしとどに濡れてだらしなく開かれていた。
 は、は、と短い間隔で息を吸って吐いている。非常に珍しい光景に、綱吉はしばし見蕩れてしまった。
「なん、……で、きみ」
 途切れ途切れの声は普段以上に低く、妙に艶っぽかった。問いかけにはっとして目を瞬かせて、綱吉は急ぎ、抱えているものを置く場所を探して右往左往した。
 が、そこはベッドが並ぶだけの簡素な空間。土鍋を転がさずに済む棚など、ありはしなかった。
「ええと、あの。俺、草壁さんに、そう、頼まれて」
 赤い顔をしている雲雀を急に直視できなくなって、彼はしどろもどろに告げてくるりと反転した。仕方なく隣のベッドの上に灰色の土鍋を置き、落ちかけたレンゲを拾って上に添え直す。
 綱吉の身体越しにそれを見て、雲雀は眉間の皺を深めて咳を堪えた。
「哲が?」
 喋ろうとするだけで喉がヒリヒリして、口の中が引き攣った。直ぐに垂れそうになる鼻水を堪えて息を飲み、ぐしょ濡れのハンカチを鼻腔のすぐ下に押し当てる。
 両手を空にした綱吉が振り返って、途端に渋い顔をした。
「ティッシュとか、使わないんですか?」
「ヒリヒリするからいやだ」
 この期に及んで随分とお上品な返答をされて、苦笑を禁じ得ない。とはいえ、咳をする際に飛んだ唾液やらなにやらで汚れているハンカチをいつまでも使い続けるのは、衛生面でいかがなものか。
 肩を竦め、彼は一旦ベッドサイドから離れてシャマルの領地に手を伸ばした。
 ダメダメのダメツナとして知られている彼は毎日どこかしら怪我をしており、保健室の常連でもあった。しかも保険医のシャマルは、男は診ないというポリシーの持ち主なので、自分で治療をしなければならない。
 幸い道具は貸してくれるので、消毒薬やタオル、包帯がどこにあるのかはおおよそで把握していた。
 他にも氷嚢や湿布の在り処も分かる。もしかしたら綱吉の方が、シャマルよりも物の置き場所について詳しいかもしれなかった。
 無断で借りることになるが、もとはといえば病人がいるのに席を外している彼が悪いのだ。職務放棄中の男に腹を立てつつ、綱吉は洗濯済みのタオルを二枚引っ張りだし、洗面台の下から氷嚢を取り出して、冷凍庫の扉を開けた。
 冷たさを堪えて氷を鷲掴みにし、ゴム製の袋にまとめて放り込む。水を足して金具で口をきつく締めて、ひっくり返して零れないのを確認してタオルで包むと、もう一枚と一緒に雲雀の元へと戻る。
 勝手知ったる様子を横になったまま眺めていた雲雀は、準備を終えた彼が近付いてきた瞬間、出そうになった咳を必死になって押さえ込んだ。
 もっとも、無意識下で動く筋肉の収縮を止める術など、ありはしない。
「ぐ……げぼっ」
 これまで以上に胸が苦しくなって、彼は咄嗟に反対を向いて息を吐いた。
 飛び散った唾が白いシーツに小さな染みを作った。大きく口を開けてぜいぜいと呼吸するが、鼻は依然詰まったままで、腫れ上がった口蓋垂は空気が触れるだけで鋭い痛みを発した。
 口の中で毬栗を転がしているような感じだ。どうにか鼻呼吸を再開させようと試みると、ずご、と変な音がして、どろりとした液体が喉を撫でた。
 不快感が深まる。詰まっている痰を吐き出したいのを我慢していたら、綱吉が汗で湿っている枕を引き抜き、入れ替わりに氷枕をベッドに置いた。
「お薬、飲みました?」
「……ない」
 声を潜めて問えば、ぶっきらぼうなひと言が投げ返された。
 掠れて、聞き取り辛い。飲んでいないのか、それとも薬自体が無いのかについては分からないけれども、ともあれ彼は保健室を占領した以外、これといった行動を起こしていないのは伝わった。
 風邪薬はあっただろうか。流石にその辺りまでは、シャマルに聞かないと分からない。
 ほかに出来ることはと考えたところで、綱吉はそもそも何故此処に来たのか、根本的な理由を思い出した。
「朝御飯は食べましたか?」
 訊ねながら腰を捻り、後ろへ手を伸ばす。レンゲを左手で取り、右手で蓋を掴んで持ち上げれば、土鍋の中の粥が一斉に白い湯気を放った。
 まだ温かい。ふやけた米が、まるで空を覆う雲のようだ。
 所々から覗いている黄色い花びらは、溶き卵だ。ほかに刻んだ青菜が散りばめられて、真ん中には日の丸の如き梅干が。
 草壁の自信作だという粥に、昼食を食べたばかりの綱吉でさえ唾が出た。
「おいしそう」
「……なに?」
 思わず呟けば、聞き取れなかった雲雀が氷枕の上で首を傾けた。目はとろんとしており、熱の所為で頭もまともに働いていないらしい。
 鍋に蓋を被せ、綱吉は浅い呼吸の彼に目を細めた。
「お粥、草壁さんが作ってくれたやつ。食べられそうですか?」
 薬は後回しにするとして、先ずはなにか食べて胃袋を満たしておかなければ。身体が栄養を摂取しない限り、体調は回復しない。腰に手を当てて胸を張った彼に、雲雀は五秒近く黙り込み、ゆるゆる首を振った。
 途中で目を閉じて伸びをして、口をヘの字に曲げる。
「ヒバリさん?」
「いらない」
 長い息を吐き出して、最後に搾り出されたことばに綱吉は目を見張った。
 仰け反ってから直ぐに前のめりになって、ベッドに左手を置いて身を乗り出す。だが雲雀は背中を向けて、彼を見ようともしなかった。
 食べなければ治るものも治らないと言っているのに、なんと聞き分けのない子供だろう。折角草壁が案じて、食べやすいようにと粥を用意してくれたのに、人の好意をいったいなんだと思っているのか。
「たのんでない」
 早口に説教を垂れれば、たった一言だけ吐き捨てられた。
 舌がもつれて呂律が回りきっていないものの、しっかりと音を拾った綱吉は奥歯を噛み締め、情けないと頭を振った。
「ヒバリさん」
「僕は風邪なんか引いてな――っぐぇほ!」
 心底落胆し、それでもどうにか食べるよう説得を続ける。そのあまりのしつこさに腹を立て、雲雀は急に起き上がって怒鳴りつけた。
 が、途中で案の定咳き込み、寄せた膝に額を擦り付けて激しく噎せた。両手を口元に持っていき、げほごほと地の底から湧き出るような咳を繰り返す。
 詰まっていた痰が飛び出して、掌がぐっしょりと濡れた。見るに見かねて綱吉が余っていたタオルを差し出す。素早く奪い取り、彼は手を拭うと丸めて反対側に放り投げた。
 癇癪を起こした子供に等しい。家にいる喧しい五歳児を思い出して、綱吉は肩を竦めた。
「どう見たって風邪でしょう」
「ち、……う」
 違う、といいたかったのだろうが途中で息が詰まってきちんと音にならなかった。悔しさを誤魔化して歯を食いしばり、雲雀は氷枕に頭を置いて再び横になった。
 ぼすん、と勢いつけて寝転がった彼に、綱吉は力なく笑った。
「あー、もう。はいはい、分かりました。風邪じゃないです。ヒバリさんは、風邪じゃありません。でも咳が出て、あと……喉も痛いんですね? 風邪引いたんじゃなくても、具合が悪いことに変わりはないんですから、きちんと食べたほうがいいですよ」
 小さい子供に言い聞かせる気分で偉そうに講釈を垂れて、人差し指をくるくる回す。その勢いで触れた土鍋は、まだ温かかった。
 冷めてしまう前に食べて欲しい。これ以上意固地になられる前にと過去の教訓を生かし、綱吉は彼が跳ね飛ばした掛け布団を掴み、引き上げた。
 汗もかなりかいているから、本当は着替えさせた方がいいのだろう。しかし替えの制服など学校にはないし、あったとしても綱吉は収納場所を知らない。後で草壁に確認してみようと、他にもあれこれ考えながら、そっぽ向いて拗ねている青年の肩に布団を掛けてやる。
 濡れタオルの用意もしなければ。自分に出来る事を探して視線を浮かせ、綱吉はベッドに寄り掛かって意識を遠くへ投げた。
 その無防備な手を。
「うわあっ」
 雲雀がいきなり掴んだ。
 捻られ、力任せに引っ張られた。たたらを踏んで太腿をベッドの縁にぶつけた彼は、あまりの痛さに星を散らして唇を噛んだ。
 腕を奪い返そうと綱引きを回避するが、病人のくせに雲雀の力は強い。全力を出し切って綱吉をベッドに引きずり込んで、彼が小鼻を膨らませているのを見て楽しげに笑った。
 下にいる人物を潰さないよう、咄嗟に自由の利く腕をつっかえ棒にした少年は、肘を外向きに突っ張らせて盛大に頬を膨らませていた。
 今にもはじけてしまいそうな風船に相好を崩し、続けて三度ばかり咳をして、雲雀は深く長く、息を吐いた。
 新たに噴出した汗が額で玉となり、緩やかな傾斜を流れていった。反射する光が眩しくて、綱吉は思わず目を閉じた。鼻先に、火傷しそうなくらいの熱風を浴びせられた。
 ぞわりと背筋が粟立った。関係のない爪先に痺れが走って、彼は息を飲んだ。
「ヒバリさん、なにして」
 瞼を持ち上げれば、赤い顔をした雲雀の、熱の所為で僅かに潤んだ瞳があった。
 近い。あと数センチで触れる距離にいる自分を意識して、彼は羞恥から頬を赤く染めた。
 表情の変化を楽しみ、雲雀が呵々と笑った。
「うつせば治る、……かもね」
「ちょ、待っ――」
 息継ぎ代わりの咳を間に挟み、悪戯っぽく笑って目を閉じる。顎を引いて後頭部を氷枕に押し当てた青年に、綱吉は顔を引き攣らせた。
 非難の声は途中で塞がれてしまった。雲雀とは逆に目を見開いた少年は、寸前まで嫌がってかぶりを振り続けたものの、抵抗は無駄な足掻きに終わった。
 唇に熱が押し寄せてきた。
 湿った感触が柔らかな肉にかぶりつく。隙間から浴びせられる呼気は、いつにも増して荒い。
「んぅっ」
 止めるように言いたいのに、口を塞がれている所為で喋れない。唇を開こうものなら、その瞬間に待ち構えている蛇の舌が内部への侵入を果たすだろう。
 あれだけ自分は風邪など引いていないと言い張っていたのに。なにが伝染せば治る、だ。そんな俗説を持ち出すなど、いったいどういうつもりなのか。
 気まぐれもいい加減にしてくれないと、振り回される身としてはたまったものではない。口を固く閉ざしたままで、息継ぎもままならない状態の綱吉は怒りに拳を固くして、一発殴ってやろうと身じろいだ。
 ベッドに寝そべっていた雲雀は、突然どん、と背中側から殴られたかのような衝撃に海老反りになった。
「ふっ、ンん、……?」
 鼻から息を吐き、吸った綱吉がやけにビクビクしている彼を怪訝にも下ろした。右の瞼だけを持ち上げて、狭い視界で状況を確かめようとする。
 その瞬間だった。
「――ぐぇっほ、げほ、ふ、はっ」
「うひゃ」
 突然突き飛ばされて、綱吉は仰け反ってベッドから崩れ落ちた。尻餅をつき、頭の上を駆け抜けて行く凄まじい咳にぽかんと目を瞬く。
 それは間違いなく雲雀の声なのだが、喉をやられているのもあって少し違った響きだった。擦れているくせに声量は大きくて、聞いているだけで胸が苦しくなった。
 思わず自分の喉に触れて、恐る恐る膝立ちでベッドの上を覗き込む。
 白いシーツの上で、雲雀がぜいぜいと喘ぎながらのた打ち回っていた。
 胸元を掻き毟り、大きく口を開けて必死に酸素を掻き集めている。そういえば彼は鼻づまりの真っ最中だったのだと、他人の熱が残る唇をなぞり、綱吉は肩を竦めた。
「無茶しすぎです、ヒバリさん」
「う、る……ざっ」
 鼻声が酷すぎて、きちんと発音できていない。文句のひとつさえまともに言えずにいる彼は珍しすぎて、急に可愛く、愛おしく思えて来た。
 だがこれ以上症状を悪化させるわけにもいかない。幸か不幸か、今の乱暴なキスひとつでは、綱吉に雲雀の風邪は伝染ってくれなかった。
 口を塞いで必死に咳を押し留めようとする彼の背を撫でて、もう一度布団をかけてやり、壁の時計を見る。午後の授業が始まるまで、あと五分を切っていた。
 立ち去ろうという気配を漂わせた彼に、初めて雲雀が不安げな顔をした。
「さ――」
「お粥食べて、早くよくなってくださいね」
 だが綱吉は気付かず、草壁が持たせてくれた土鍋を指差しながらあっけらかんと言い放った。
 宙を泳いだ雲雀の手が、ぽとりとシーツに落ちた。なにかを掴もうとして失敗し、半端に折れ曲がった指もそのままの彼を見下ろして、罪深き少年は満面の笑みを浮かべた。
 両手を後ろにやって、
「でなきゃ、キスもちゃんとできないでしょ?」
 軽やかに告げられて、落胆に意識を沈めかけていた雲雀が途端に瞠目し、起き上がろうとした。
 支えにした腕が途中で折れてしまって果たせなかったが、彼が大袈裟なくらいに反応したのは充分伝わった。綱吉はケラケラ笑って手を伸ばし、湿って萎びている青年の髪に触れた。
 額に張り付いている分をそっと払い除けて、不思議そうにしている眼を気にしながら首を前に倒す。
 熱に喘いでいる彼は妙に艶っぽく、見ているだけでどきどきさせられた。
 けれど綱吉は、体調不良で寝込んでいる彼よりも、傲岸不遜を絵に書いたような活力に溢れる彼の方が好きだ。
 汗を拭ってやり、軽く触れる。ちゅ、と可愛らしい音を響かせた彼に呆然と息を吐き、雲雀は頬の紅色を強めた。
「はやく元気になってください」
 キスしたばかりの額に、今度は額で触れて熱を測り、囁く。少しでも辛さが自分に乗り移ってくればいいと願いながら、彼はゆっくり、身を起こした。
 ベッドの上の雲雀が、無理のある、けれど皮肉とは違う笑みを浮かべた。
「善処しよう」
「はい」
「キス以外もしたいしね」
「ばっ!」
 気の所為か、雲雀の声がいつもの調子を取り戻してきていた。不敵に言われて竦みあがり、綱吉は五秒置いてから口の両端に指を引っ掛けた。
 外向きに引っ張って「いーっ」として、反転して駆け出す。上履きで床を蹴る音が喧しく、ばたばたと響いた。
 巻き起こった風に、カーテンが揺れた。純白の向こうへと、ベージュのブレザーが遠ざかる。
 ドアが開き、閉ざされる音が立て続けに鼓膜を震わせて、意識を保ち続けるのが限界に来ていた雲雀は仰向けに姿勢を整えた。左手を顔に落とし、袖で汗を拭う。
 熱い息を吐く。食欲は沸かない。折角草壁が用意立ててくれた粥だが、食べるのは暫く後になりそうだ。
「はやく治さないと、ね」
 ひと眠りして、次目覚めた時にはきっと熱は下がっているに違いない。
 待つのも嫌いだが、待たせるのも嫌いだ。
 赤い顔の少年を思い浮かべ、彼は静かに目を閉じた。

2011/10/24 脱稿