Nerine

 足を一歩、また一歩と前に繰り出す度に、首に巻いた紐が胸の上で跳ねた。
 絞った裾が踝に当たって、そこだけ少し痒い。吐く息は熱を持ち、心臓はさっきから五月蝿くてたまらなかった。
「いた!」
 あちこち探し回り、ようやく見つけた背中。思わず声に出して叫んで、アリババは足を速めた。
 強く床を蹴り、興奮に頬を染める。通りすがりの若い文官が、何事かと立ち止まって振り返った。
 胡乱げな視線も無視して、彼はこの国で最も偉大な背中に駆け寄った。
「シンドバッドさん」
 名前を呼んで、顔を上げる。鋭い呼び声に即座に反応して、ターバンを巻いた男が振り返った。
 その向こうからもうひとり、クーフィーヤの青年がひょっこり顔を出した。
「おや」
 立ち話の真っ最中だったのだろう、白羊塔の回廊の一画に佇んだ男たちが、揃ってアリババに首を傾げた。
 速度を落とし、彼らから三歩ばかりの距離を置いて立ち止まる。にわかに緊張して、遠慮を表情に滲ませた少年に、シンドバッドとジャーファルは顔を見合わせた。
 その間も数人の文官が忙しく横を行き過ぎた。皆それぞれに巻物にした書物を抱え、王やその副官に気付くと黙って頭を下げた。
 ひとりだけ場違いな人間が混じっていても、誰も気にしない。それが却って居た堪れない気持ちを増幅させて、腰が引けたアリババは右の踵を浮かせ、後退しようとした。
「どうしましたか、アリババくん」
 話を中断させられたのに、気を悪くする様子もなくジャーファルが言った。
 呼びかけてきたのは彼なのに、一向に用件を言おうとしないので、助け舟を出したつもりなのだろう。が、大事な仕事を邪魔してしまったという意識が働いていたアリババには、その気遣いも逆効果だった。
 緩く首を振って、口篭もる。
「あの、えっと」
「俺になにか、用かな」
「いえ。あ、いえ、はい!」
「落ち着きなさい」
 なかなか口火を切れずにいる彼に苦笑して、今度はシンドバッドが口を出した。身体ごと振り返り、一歩前に出る。距離が縮まって、圧迫感を覚えたアリババはしどろもどろに叫んだ。
 その返答では用件があるのか、ないのか、判断がつかない。目を細めて笑われて、彼はカーッと赤くなった。
 シャルルカンとの修行の合間、昼食の後の休憩時間を使って訪ねて来たものの、シンドバッドたちはまだ仕事中の様子だ。自分の所為で中断させるのは申し訳なくて、アリババは俯き、首を竦めた。
 恐縮して小さくなった少年に、シンドリア国王は肩を竦めた。
「構わないよ、言ってごらん」
「はい。あの、……シンドバッドさんに、ひとつ、お聞きしたい事があるんです、けれど」
「俺に?」
 時間を作るのは用件の内容次第だと目で告げられて、それで少し安心したアリババが両手を胸の前に持って行った。左右の指を合わせ、押したり引いたりしながら小声で告げる。
 恥ずかしそうにしている少年に目を丸くし、シンドバッドは隣のジャーファル共々首を傾げた。
「なんだい?」
 いったい何が知りたいのかと、興味津々に問いかける。だがアリババは、重ねた両手をぎゅっと握り締めると、俯いて黙り込んでしまった。
 ちらりとそこに立つジャーファルを盗み見て、すぐに逸らし、顔を上げない。
 不審な態度に眉目を顰め、シンドバッドは怪訝にしている青年を肘で小突いた。すぐに気付いたジャーファルが、得心行った様子でひとつ頷いた。
「では、シン様。午後も政務に励んでくださいますよう」
「分かっている」
 咳払いを挟み、ちくりと嫌味を言って軽く頭を下げる。踵を返して歩き出した青年に、アリババがはっとした。
 急ぎ前を見るが、シンドリアの政務官は既に遠く、伸ばした手は空を切った。次の角を曲がってしまって、背中は瞬く間に見えなくなる。後には未だ頬の赤いアリババと、シンドバッドだけが残された。
 人通りは途絶えないが、本来昼休憩の時間帯というのもあって、往来は先ほどまでと比べれば随分と減っていた。
 壁際の日陰に立ち、ひとりになったシンドバッドが腰に手を当てた。
「さて、それで? 俺に聞きたいこととはなんだい」
「いえ、別に今すぐじゃなくても」
「そう言われると余計に気になって、午後の仕事に差し支えそうだ」
「ええ!」
 改めて問いかけるが、アリババは悪足掻きを止めない。なかなか切り出さない少年に焦れて意地悪を言えば、琥珀色の瞳がいっぱいに見開かれた。
 声を上擦らせた彼に、衆人の注目が集まった。元々文官ばかりの静かな空間だから、大声はかなり目立つ。浴びせられる眼差しに唇を噛み、アリババは黄金色の髪をくしゃりと握り潰した。
 反対の手で首から下がる紐を弄り、十秒近い逡巡を挟んで後、諦めたのか深い溜息をついた。
 失礼な態度に僅かにムッとしつつ、声に出さずにはおいて、シンドバッドは頻りに髪や服を触っている少年に肩を竦めた。
「おいで」
「シンドバッドさん?」
「立ち話もなんだ。ゆっくり出来るところがあるから、そこで休もう」
 顔見知りのジャーファルでさえ同席を嫌がる素振りがあったから、いつ、誰が通るかも知れない廊下では話し辛かろう。迅速に決断を下すと、シンドバッドは返事も聞かずに歩き出した。
 すたすたと真横を通り過ぎていった彼にきょとんとして、一秒後我に返ったアリババが右往左往して首を振り回した。
「待ってください。本当に俺、今じゃなくても」
 多忙な合間を縫って無理に時間を作ってもらうほど、大それた話ではない。声を大にして訴えるが、シンドバッドは聞き入れなかった。
 城の奥に向かって進む足取りは緩まず、距離はどんどん開いて行く。このままだと折角のチャンスを棒に振ることにもなりかねず、アリババは悔しげに床を一発蹴ると、覚悟を決めて駆け出した。
 南海の真っ只中に浮かぶ島国、シンドリアの王城は、門を潜った先に大きな庭があり、これを囲む形で建物が配置されていた。
 政務官が詰めるここ白羊塔の隣には各国の来賓やアリババのような食客が暮らす居住区があり、その奥が王や高官らが住まう紫獅塔だ。
 シンドバッドはどうやら、そちらに向かっているらしい。
 国の要人が暮らす場所というのもあり、警備は厳重だ。食客といえどそう容易く出入りできる場所でもないので、アリババもあまり足を踏み入れたことはない。
 カツカツ足音を響かせながら歩くシンドバッドは威風堂々としており、緊張して挙動不審になっているアリババとは天と地ほどの差があった。
 気さくな性格で誰に対しても分け隔てなく接してくる彼だけれど、矢張り王なのだと、強く実感させられた。
「すごいなあ」
 ぽつり呟く。
 擦れ違う人は誰もが彼を見た瞬間に足を止め、恭しく頭を下げた。そしてシンドバッドは畏まる皆に逐一手を振って返し、気遣いを忘れない。
「なにがだい?」
 ぼうっとしていたら急に声がして、アリババは竦みあがった。
 まさか聞こえているとは思っておらず、吃驚してしまった。咄嗟に返事が出来ずに頬を強張らせていたら、振り返ったシンドバッドが朗らかに微笑んだ。
 分かっていて聞いてくるのだから、意地が悪い。奥歯を噛んで渋い顔をして、アリババはそっぽを向いた。
 そうして目に入った光景に息を飲み、背筋を粟立てた。
「ああ、こっちだよ。そこは段差になっているから、足元に注意して」
 同じ景色に目を向けて、シンドバッドがゆったりとした足取りで進路を左に替えた。アーチが平天井を支える廊から抜け出して、南国の植物が色とりどりに咲き乱れる空間に踏み出す。
 広さは、アリババが借りている緑射塔の部屋と同程度といったところか。緑の葉を繁らせる木々が天蓋の役目を果たし、寝台の代わりに背凭れと肘掛けのついた長椅子が一脚置かれていた。
 城の外に広がる森や、果樹園が思い出された。その一部を切り抜いて、城の中に移植させた雰囲気がある。
 非常に贅沢な庭園に招かれて、アリババは遠慮がちに、ベンチに腰を下ろしたシンドバッドの傍に進み出た。
 バルバッドの王宮にも幾つも中庭があったが、方向性はまるで逆だ。あの城の庭園にあったのは小さな噴水と、ただ広いだけのなにもない空間だけだった。
 国が違うだけでこうも違うのかと、今更過ぎる感想を胸に抱いてシンドバッドの前に立つ。目を細めた国王が、さりげなく左手でベンチを叩いたが、アリババは気付かなかった。
「あの、……」
 ずっと胸に閊えていた思いを、ようやく外に吐き出せる。それは喜ばしい事のはずなのに、いざ言葉にしようとしたら舌が痺れてなかなか音になってくれない。
 躊躇し、唇を噛む。戸惑いを前面に押し出しているアリババに、シンドバッドが口を尖らせた。
 もう二度ばかりベンチの、あと一人は余裕で座れる空間を撫でる。
「座らないのかい?」
「え?」
 それでも気付かないアリババに痺れを切らし、訊ねる。全く目に入っていなかったアリババは何のことかと首を捻り、遅れて気取って背筋を粟立てた。
 バルバッド第三王子だったとはいえ、国を失った今、アリババの身分はそこいらの平民と同じだ。客人としてシンドリアに招かれているとはいえ、シンドバッドと肩を並べて座れるわけがない。
「い、いいです。俺は、このままで」
「君は、俺に立って話をしろと言うのかい?」
「まさか! そんなつもりじゃ……」
 相手が立っているのに、自分だけが座っているのは失礼に値する。そう言外に告げたシンドバッドに返す言葉が見付からず、アリババは口をもごもごさせた。
 上手い返し文句を探すが、見付からない。結局反論は諦めて、大人しく彼の左隣に腰掛ける。
「う、わあ」
 座ってみて初めて分かったが、植物は強すぎる陽光を遮りつつも、ベンチからなら青空が覗けるよう配置されていた。
 花の蜜に誘われた蝶が色鮮やかな羽根を広げ、優雅に通り過ぎて行った。生まれて初めて目にする美しい景色に見惚れて頬を紅潮させていたら、右から笑い声が聞こえてアリババははっとした。
 頬杖ついた王が目を細め、頬を緩めていた。楽しそうな表情に気恥ずかしさが膨らんで、アリババは居住まいを正し、肩を突っ張らせた。
 歳相応の少年らしい表情が掻き消えてしまった。少し残念に思いながら、シンドバッドは背凭れに身を預け、長い脚を自慢げに組んだ。
 横から覗き込んでくる視線を否応無しに意識させられ、アリババは膝の間に両手を挟んだ。どうにも喋り辛くて、スススと左に逃げて距離を広げ、ベンチの端に身を落ち着かせたところで深呼吸する。
 遠ざかられて、シンドバッドはつまらなそうに頬を膨らませた。年甲斐のない表情に苦笑して、アリババは四肢の強張りを解いた。
 唇を舐めて心を鎮め、本題に入る。
「お聞きしたいことが、あります」
 畏まった彼に、シンドバッドも背筋を伸ばした。
「なんだい?」
 白羊塔とは違い人は殆どおらず、故に中庭を訪ねて来る不作法者もいなかった。アーチが美しい回廊を、女中がたまに駆け足で通り過ぎて行くが、物陰に置かれたベンチに座るふたりには全く気付いていないようだった。
 誰かに聞かれる心配がないのに安堵して、アリババは左胸に手を添えた。
 どくん、どくんと鳴っている。長きに渡る懸念、胸に重くのし掛かっていた憂慮がこれで払拭されるのかと思うと、膝が砕けてしまいそうだった。
「俺の、……俺の、父は」
 バルバッドの王城が炎に包まれた翌日、先王は静かに息を引き取った。
 元々高齢であったこと、長期間病に伏して体力も衰えていたので一概にそうだとは言い切れないが、あの事件が引き金になったのは間違いない。ただでさえ残り少なかった彼の寿命を、アリババの迂闊な行いが奪い去ったのだ。
 その日のうちに、彼は城を出た。誰にもなにも言わず、僅かな荷物と路銀を手に、逃げるようにバルバッドを後にした。
 責任から目を逸らし、背を向けた。そんな情けない息子に、先王はきっと絶望したに違いない。
 会わせる顔がなかった。
 自分に胸を張れるようになりたくて、己の罪を清算するつもりで故郷に戻りはしても、結局なにひとつ救えなかった。我武者羅に突き進んでみたがひとりではどうにも出来ず、大勢の力を借りても尚、国を国として留めることが出来なかった。
 ひとりでも多く救おうとして、一番救いたかったものを守れなかった。
 今でも夜、ひとりになると思う。
 ほかにもっと良い方法があったはずだ、と。
「アリババくん?」
「シンドバッドさんは、俺達に会う前に父の、先王の墓前を訪ねたと――そう聞きました」
 黙りこくって空の右手を見詰める彼に、先を促しシンドバッドが呼びかける。それで意識を浮上させて、彼は背筋を伸ばし、右を見た。
 アリババが怪傑アリババとしてカシムたち霧の団と行動を共にしていた頃、バルバッド王家の人気は地の底に落ちていた。度重なる増税に国民は喘ぎ、その日食べるものにさえ困る始末。その反面貴族達は豪華な料理に舌鼓を打ち、己の悪行を恥じようともしなかった。
 人を人とも思わない風潮が、アリババがバルバッドから離れていたたった数年の間に出来上がってしまっていた。
「マスルールか」
「はい」
 教えたつもりのない事実を突きつけられて、シンドバッドは小さく舌打ちした。バルバッドに同伴させた臣下のうち、先ほどまで一緒にいたジャーファルではない方を思い浮かべて肩を竦める。
 アリババは首肯し、右膝を彼の方に突き出した。
 自ら広げた距離を少しだけ詰めて、瞳に力を宿す。
「俺は、父に顔向け出来ないままで、恥ずかしながら、まだ一度も。だから」
「それが、飯も食わずに俺を探してまで聞きたかったことかい?」
「……はい」
 お飾りとはいえ、国に弓引く盗賊の首魁を任されていたような人間が、どうして王墓を訪れられようか。ただでさえ恥知らずな行動を取り、王宮を危機に陥れた身だというのに。
 会いにいけるわけがない。
 声を落とし、アリババは俯いた。肩が小刻みに震えている。今にも掻き消えてしまいそうなくらいに酷く頼りなげな姿に、シンドバッドは目を細めた。
 深く息を吸い、ゆっくりと吐き出して空を仰ぐ。
「荒らされてはいなかったよ」
「!」
 恐らくは今一番、彼が知りたがっているだろう事を推測し、言葉にして告げる。
 彼は瞬時に顔をあげた。予想はどうやら、正しかったらしい。
 零れ落ちんばかりに見開かれた琥珀がシンドバッドを映し出し、瞬きのないまま十秒が過ぎた辺りで強張っていた頬が緩んだ。しどけなく笑い、よかった、と唇が無音を刻む。
 心から安堵しているのが感じられて、シンドバッドは微笑んだ。
「毎日掃除もされて、花も沢山手向けられていた。慕われていたんだよ、君の父上は」
 アブマドの悪政に、人々は苦しめられていた。恨み辛みが積もり、その怒りは国王のみならず貴族、そしてこれに仕える国軍にまで向けられていた。
 スラムでは王家に対する憎しみの声しか聞かれなかった。そんな中で先王の話題など出せるわけがなく、王墓がどうなっているのかも確かめようがなかった。
 肩を叩かれて、アリババははにかんだ。目尻に浮いた涙を慌てて拭って、恥ずかしそうに下を向く。
「よかった」
 今度こそ声に出して呟いて、彼は赤い帯が目を引く胸元を撫でた。
 バルバッド歴々の王が眠る霊廟は、王城のあるあの街から一日ほど離れた場所にある。馬を使えば直ぐだが、徒歩だと結構な距離だ。そのため、霧の団ですら襲撃の候補地には一度もあがらなかった。
 恐れ多い、という意識が少なからず働いていたのかもしれない。
 煌帝国とて、いきなり墓地を掘り返すような真似はすまい。これから先も、先王は静かに眠り続ける。
「そっか。そうだったんだ」
「丁重に葬られたと、そう聞いている」
 先王の死は、急だった。それでも王宮側としては宝物庫を賊に襲われた事実を出来るだけ隠しておきたかったから、葬儀は大々的に執り行われた。かつて自棄になりかけていた頃に国というものについて教わり、世話になった恩があるシンドバッドは報せに驚き、駆けつけようとしたが間に合わなかった。
 航海は風が頼りだ。時に人の思い通りにいかないこともある。
 それでも悔しかったと、シンドバッドは前を見据えて言った。
 膝の上に肘を突きたて、重ねた両手に顎を載せて背中を丸める。端整な横顔を眺め、アリババは不意にクスリと笑った。
「なんだい?」
「ああ、いえ。なんだかすごく、嬉しくて」
 聞こえたシンドバッドが即座に振り返った。見詰められて、アリババははっとして慌てて手を振った。
 手を緩く握り、膝に置く。積年の憂いが晴れたからか、表情は清々しかった。
「嬉しい?」
 背筋を伸ばしたシンドバッドが、首を右に倒した。身体を斜めにして向き直れば、また可愛らしい笑い声を響かせたアリババが、眩しそうに目を細めた。
 あどけない笑顔は、バルバッドで腐っていた頃の彼とは全くの別人だった。
「はい」
 見惚れられているとは露とも知らず、アリババは無邪気な子供に戻って首を縦に振った。身体を前に倒し、シンドバッドとの距離をぐっと詰めて琥珀色の瞳をきらきら輝かせる。
「父の話を、父を知っている人と出来るのが、とても」
 それは今まで叶わなかったことだ。
 王城を抜け出してひとりになって、故郷のことは忘れるつもりでいた。郷愁は心を抉る。自分で傷に塩を塗る必要は無いと、記憶は奥深い場所に鍵を掛けて封印した。
 長く閉じ込めていた思い出に花を咲かせられる開放感。昔を懐かしみ、笑顔で語り合えるのは、なによりの喜びだった。
「どんな人だったか、聞いても良いですか」
「君の方が詳しいだろう」
「俺が知らない父を、知りたいです」
 厳しい人だった。会話はそう多くなかった。いつも遠くから眺めるばかりで、その腕に抱き上げられることもなければ、背負われた記憶も無かった。
 それでも今際のことばから、愛されていたのは強く感じた。あのひと言のお陰で、王城での辛い日々は報われたのだ。
 期待の眼差しを受けて、シンドバッドは目元を綻ばせた。考え込み、顎に手をやる。視線を浮かせれば、南国の花が真っ赤に咲き誇っていた。
 堂々とした姿に、自然と笑みが零れた。
「そうだな。素晴らしい人だった」
「どんな風に?」
 真っ先に唇から零れ落ちた感想に、アリババが食いついた。表現が抽象的過ぎて、イメージが沸かないのだろう。
 どことなく不満げな様子を横目で窺い、シンドバッドは己の胸にどん、と手を押し当てた。
「俺が理想とし、目標にするくらいの素晴らしさ、かな」
 右も左も分からなかった若造に手を差し伸べてくれた、数少ない権力者。国を建てるという難事業に立ち向かおうとするシンドバッドを笑わずに、熱心に耳を傾けて話を聞いてくれた。
 彼がいたから、シンドバッドはこうして此処にいられる。シンドリアという国も、今や世界中が無視できない存在となった。
 大国から圧力をかけられもがく国があれば、内政干渉だなんだと詰られようとも、これに積極的に関与していく。嘗てそうやって、自分が救われたように。
「言いすぎです」
「真実だよ」
 己の父について語っているのに、まるで自分が褒められた気分になった。照れ臭さを誤魔化して口を尖らせれば、シンドバッドは生真面目に告げて、目を眇めた。
 肩から胸元に垂れていた髪を掬い上げ、掌からさらさらと零して行く。流れ落ちる紫紺の糸をじっと見詰め、遠い過去へと思いを馳せる。
「もっと話をしてみたかった」
「シンドバッドさん」
「国について、世界について。あの人の考えを、もっと沢山聞いておきたかった」
 七海連合を組織し、その頂点に君臨するシンドバッドは、今や各方面から意見を求められる立場だ。
 常に難しい懸案を幾つも抱え、頭を悩ませる毎日が続いている。考えても正しい答えが見出せなくて、途方に暮れる夜もある。
 導となるのは、先人の遺した多くのことば。アリババの父であり、バルバッド先王が語り聞かせたことばも、その中に多く含まれている。
 ただ状況は刻々と変化し、過去から学ぶだけでは限界がある。そんな時、どうすればいいか。
「……」
 目で問われて、アリババは口を真一文字に引き結んだ。
 鋭い眼光に、決意が滲む。満足げに頷き、シンドバッドは手を伸ばした。
「君は、矢張り先生の息子だな」
「からかわないで下さい」
 子供をあやすように頭を撫で回されて、アリババは頬を膨らませて太い腕を払い除けた。
 ひとりで考え込んだところで、行き詰るだけだ。ひとりでやろうと張り切ったところで、途中で挫けて無駄死にするだけだ。
 何の為に仲間がいるのか。心を許しあった友がいるのか。
 アリババはその意味を、バルバッドで身をもって知った。学んだ。永遠に忘れることはない。
「誰かに頼るのは、悪いことではない。人は誰しも完璧でなく、必ずなにかしら足りない部分を持っている。それを補う術は、分かるね」
「はい」
 追い払われても挫けず、シンドバッドはまた手を伸ばして来た。艶やかな金髪をひと房掬い取り、親指を撫でつけながら解放する。
 目の前をサラサラ流れる髪越しに偉大な王を見詰め、アリババは相好を崩した。
 年齢相応の顔をして、屈託なく笑う。晴れやかな表情をしているけれども、その奥深い場所にはまだ僅かに、暗い影が隠れていた。
 息を潜め、シンドバッドが手を広げた。白い陶器のような肌をなぞり、頬に触れて包み込む。
 思いの外熱いのに驚き、少年は肩を跳ね上げた。
「シ……」
「会いたいかい?」
 緑の木々を揺らして、派手な色合いの鳥が甲高い声をあげて飛び立った。
 ばさりと枝が揺れて、葉が擦れ合う音が喧しく続いた。
 凍りついた彼を見詰め、シンドバッドが手を下に滑らせた。膝に投げ出された小さな掌を掴み取り、握り締める。
 込められた力にびくりとして、アリババは瞬きを繰り返した。長く忘れていた呼吸を再開させて、忙しく胸を上下させて酸素を肺に送り出す。
 凍り付いている彼の返答を辛抱強く待って、シンドバッドは半眼した。
 暗くなった視界に、遠い景色が浮かび上がった。
 整備されてまだ間が無いと分かる霊廟は静かで、見張りの兵士も入り口にひとり立っているだけだった。
 金を握らせて中に入れば、冷えた空気の中に石の棺桶がひっそりと横たわっていた。生前の功績を讃える碑文などは一切なく、小さなドームを頂いた建物は酷く質素で、物悲しかった。
 棺は想像していた以上に小さかった。あんなにも大きく見えた人が、と無性に悔しくなったのを覚えている。
 アリババがゆっくり目を逸らした。顔を伏し、目元を隠して自嘲気味に笑う。歪んだ口元に、シンドバッドは指の力を強めた。
「アリババくん」
「駄目ですよ、シンドバッドさん。貴方がそんなこと言っちゃ、いけません」
 強く促す彼を遮り、アリババは首を振った。
 年下の子供に説教されて、今や世界に名を轟かせる王がハッと息を吐いた。唇を噛み締めた少年が視界に飛び込んでくる。目尻に浮いた涙が喜怒哀楽のどの感情に起因するものか、彼には分からなかった。
 右手を掴むシンドバッドの手に左手を重ね、アリババは肩を突っ張らせた。懸命に感情を押し殺して、時間をかけて息を吐く。
「俺は自分の立場くらい、ちゃんとわきまえてますから」
 辛そうに顔を顰め、奥歯を噛みながら言葉を紡いで行く。背中を丸めて重ねた両手に額を押し当て、嗚咽を堪えて瞼を閉ざす。
 世界から光を追い出す。暗闇の中に身を沈め、血の味がする唾に吐き気を堪える。
 バルバッド王国は解体された。アリババがそう望み、その通りになった。
 しかし実際はどうだ。共和国などという名称は所詮飾りでしかなく、実際は煌帝国の属領と大差ない。自治権が認められ、七海連合の仲間入りを果たしたとはいえども、国民自身に委ねられた権限は非常に少ない。
 アリババたち王子たちは、シンドバッドの好意によりシンドリアに保護された。だがそれはあくまでもアリババたちの言い分であり、煌帝国から言わせれば追放に他ならなかった。
 最早二度と、彼らがバルバッドの地を踏むのは叶わない。
 もし身分を隠して入国し、これが露見した場合、アリババが捕らえられるだけで事は片付かない。彼を監視下に置いていたシンドバッドもまた、不味い立場に置かれるのは明白だ。
「アリババくん」
「シンドバッドさんは、シンドリアの、王でしょう。そんなこと、言っちゃ、絶対に、ダメなんです」
 一言一句を噛み締めながら、アリババが肩を震わせる。気を抜けば零れそうになる涙を必死に堪えて、両の拳を強く握り締める。
 指の筋が引き攣り、手の甲に血管が浮き上がる。掴まれたままの手首に爪が食い込んで、シンドバッドは小さな痛みに無言で耐えた。
 彼の言う通りシンドバッドはシンドリア国王であり、多くの民を率いる立場にある男だ。そんな人物が軽々しく口にして良い台詞では、決してない。これは己の首を絞めるだけでは済まない、非常に危険な囁きだ。
 悪魔に魅入られた気分に陥って、一瞬頷いてしまいそうだった。厳しく自分を律して耐えて、アリババは弱々しくかぶりを振った。
 見るからに辛そうな姿に、シンドバッドの瞳が翳る。出した手を引っ込めれば、拘束は瞬時に解かれた。
 爪の跡が赤く刻まれた腕を撫でて、彼は俯いて動かない少年をじっと見詰めた。
 膝頭を強く握り締めて、表情は前髪で隠れて見えない。噛み締められた唇だけが、シンドバッドの目に辛うじて映った。
 確かに一国の主としての立場からは、絶対に告げてはならない甘言だった。聞いていたのがアリババひとりだったから良かったものの、もし逗留中の外交官の耳に入ろうものなら、それだけで大騒ぎになっていたに違いない。
 煌帝国に正面から喧嘩を売るにも等しい行為だ。
 半年以上が経過したとはいえ、バルバッドの動乱は人々の記憶にまだ新しい。それに共和制に移行したからといって直ちに政治が安定するわけがなく、素人の寄せ集めがどこまで自治権を主張し続けられるかなど、未知数な部分はまだ多い。
 近々また大きな騒乱に発展するのではないかというのか、という見解も依然根強く残っている。
 そうなれば帝国は、今度こそ武力でもってあの地に介入してくるだろう。そうさせないためにも、シンドバッドは七海連合の代表者をかの地に派遣して、国政の補助に当たらせていた。
 いつかアリババには、新しく蘇った素晴らしい故郷を見せてやりたい。その為になら、出来ることはすべてやる所存だった。
「アリババくん」
 彼は先ほど、自分の立場は弁えていると言った。
 亡国の第三王子として、故郷の土を二度と踏めない覚悟を固めてしまっている。諦めている。国民に立ち上がれと言いながら、発起人であるはずの彼が最初に輝かしい未来に背を向けてしまっていた。
「これは、シンドリア王シンドバッドとしての言葉ではない。一介の、君の父君に世話になった事のある冒険者崩れの言葉だと思って欲しい。そして君は、一旦自分の出自を忘れ、ただのアリババ・サルージャとして聞いてくれないか」
 嗚咽を漏らす少年の頬に手を添えて、指を静かに上向かせる。目尻の涙を攫われて、アリババはゆっくり顔を上げた。
 濡れた琥珀の瞳に、僅かな光が灯った。微笑み、シンドバッドは目を閉じた。
「君は、会いたくないのかい?」
 風が奔る。意識をルフの流れに委ねれば、瞼の裏に浮かぶのはこれまでに通り過ぎて来た幾多もの時間だ。
 様々な出会いがあり、別れがあり、哀しみの縦糸に喜びの横糸が交差して、記憶が鮮やかな色を伴い織られていく。
 命は巡るものだ。大いなるルフの流れから生まれ、やがて還って行く。けれど大地に綴られた思い出はいつまでもそこに留まり、奥深くに刻まれて褪せることはない。
 立場を忘れ、ただのひとりの人間としての望みを。
 誰も聞く者はないと諭せば、アリババは瞠目していた眼を伏し、血の滲む唇にまたも牙を立てた。
 首を二度左右に振って、大きく開いた口から息を吸う。
「――……くない」
 ずっと堪えていた涙がひとつ、はらりと零れ落ちた。
「……ない、わけが」
「うん」
 音を立てて息を吐いて、吸って、声にならない声を絞り出す。上手く紡げない想いに喘ぐ彼を、シンドバッドが静かに見守る。
 ひっく、とアリババがしゃくりあげる。
「会いたくないわけが、……――ないじゃないですか!」
 怒鳴る、城中に響き渡りそうな大声で。
 肩を跳ね上げ、目を吊り上げて荒々しい感情を隠しもせず。
 押し殺し、目を背け続けてきた自分自身に向けての苛立ちを露わにして。
「会いたい。会いたいですよ。会いたいに、会いたいに決まってるじゃないですか!」
 唾を飛ばして叫び、ぼろぼろと透明な雫を頬に流す。
 会いたい。会えない。会いたくない。
 会わせる顔が無い。どんな顔をして会いにいけばいいか分からない。
 国を壊した。守って欲しいと頼まれていたのに、約束は果たせなかった。罪の重さに耐えきれず、責任から逃げ出した。そんな臆病で情けない息子の顔など、見たくないに決まっている。
 いいや、分かっている。とっくに許されていることくらい。
 アラジンが見せてくれた父王の姿はとても穏やかで、目つきは優しかった。
 許せないのは自分自身だ。軽はずみな行動の所為で、あの人の寿命を奪い取った自分を許したくないだけだ。
 もっと話がしたかった。聞いて欲しかった、聞かせて欲しかった。シンドバッドに自慢の息子だと得意げに話すくらいなら、直接そう言って頭を撫でて欲しかった。
 叱って欲しかった。馬鹿者と詰られても構わない、殴られたっていい。
 もっとちゃんと、父子らしいことをしたかった。
 バルバッドに帰りたい。帰れない。
 馬鹿な自分の所為で、もう帰れない。
 あそこにはカシムやマリアムや、それになにより母が眠っている。皆と過ごした時間が、たとえ街自体がなくなってしまったとしても、見えない場所に刻み付けられている。
 貧しかったけれど楽しかったスラムでの日々、寂しく辛かったけれど実りの多かった王宮での生活。
 アリババ・サルージャという人間を育んだ国だ。どこにいても、どんなに離れていても、心は必ずあそこに還る。
 鼻を啜り、手の甲で乱暴に涙を拭って肩で息をする。しゃくり上げる少年を見詰め続けた男は、やがてふっと表情を和らげて目尻を下げた。
「そうか」
 心なしか嬉しそうに笑って、両手を広げる。ぞんざいに肩と、上腕とを掴まれて、アリババは踏み止まれずに前に倒れこんだ。
 分厚い胸板に受け止められて、確かに聞こえた自分以外の心音にトクンと鼓動を弾ませる。みっともなくも泣いてしまった事実を今更ながら認識して恥ずかしさにかーっと赤くなるが、もがいても束縛は振り解けなかった。
 一頻りじたばた暴れて、無駄と悟って大人しく抱き締められる。
 左の肩口に顎を置いて、シンドバッドは華奢な背中をぽんぽんと撫でた。
 子ども扱いされているようで面白くないけれど、不思議と安心できた。誰かに抱き締められるのだって随分と久しぶりで、肌に触れる温もりがどうしようもなく心地よかった。
 気がつけばまた新しい涙が溢れ出して、アリババはくしゃりと顔を歪め、ひっく、としゃくり上げた。
「そうか、分かった。よく分かった」
「なにが、……ですかっ」
「いつか君を、俺が必ず、あの国に連れて行く」
 気前良くうんうん頷かれて、反発して怒鳴りつける。上唇を噛んだ子供に朗らかに笑いかけて、王はターバンの羽飾りを揺らしてあっけらかんと、それでいながら力強く断言した。
 きっぱり言い切られて、アリババは唖然となった。
 涙まで止まった。代わりに鼻水が垂れそうになったのを啜って、はっと息を飲む。
 真ん丸に見開かれた琥珀色の瞳を楽しそうに見詰めて、シンドバッドは満面の笑みで頷いた。
「ば……――馬鹿王!」
 思わずそう怒鳴っていた。
 失礼極まりないが、ほかにどう表現すればいいのか。ジャーファルでも乗り移ったかのような罵声に、シンドバッドは少しだけたじろいで口を尖らせた。
「アリババくん。君という子は、人が真面目に」
「馬鹿だから、馬鹿だって言ってるんです。冗談やめてください、あなたは俺の話を、さっきの……聞いてたんですか」
 腕から抜け出し、両手を振り回しながら捲くし立てる。うん、と躊躇もなく首肯されて、アリババは重い溜息をついて顔を覆い隠した。
 緑の木々の間から青空を仰ぎ、首をぐるんぐるんと回して、最後に力尽きたのかがっくり項垂れてベンチに凭れ掛かる。
 あまりにも不敬な態度に腹を立てて、シンドバッドは憤然としながら腕を組んだ。
「俺はバルバッドを追放された身です。確かに父の墓前に詣でたい気持ちはあります。けどそれで、シンドバッドさんやシンドリアの国に、要らぬ争いの種は持ち込みたくない」
「それくらいは分かっている。話は最後までちゃんと聞きなさい」
 子供でも分かる話を引っ張りだされて、シンドバッドは冷たく一蹴した。
 現在のバルバッドは自治権を認められているとはいえ形だけで、実際は煌帝国の占領下にある。かの国の軍隊が駐留し続ける限り、バルバッドはいつまで経っても共和国として自由に羽ばたけない。
 シンドリアは帝国と矛を交えるつもりはない。それに片や海洋国家、片や大陸の大半を支配する一大帝国だ。両者の首都は遠く離れており、となれば万が一の自体に陥ったとしても、互いの領土だけが戦場になるとは限らない。
 踏み荒らされるのはどちらの国にも属していない土地と、そこに暮らす無関係の人々だ。それはシンドバッドの望むところではない。
 諭されて、アリババは押し黙った。ぐっと腹に力を込めて、居住まいを正してベンチに座りなおす。
 畏まった彼に肩を竦め、シンドバッドは上目遣いの視線に白い歯を見せた。
「帝国の中枢には、今、アル・サーメンが入り込んでいる。皇帝を裏で操り、国を動かしているのも連中だと思ってまず間違いないだろう。なら、もしこれを打ち破れば、どうなると思う」
 右手を広げ、掌を上にする。丁度そこに木漏れ日が落ちて、温かな陽射しが彼を照らした。
 目を瞬かせ、アリババはぽかんと口を開いた。
 少々間抜けで、愛くるしい表情に目を眇める。はたと我に返ったアリババが、恥ずかしそうに唇を引き結んだ。
 濡れた頬を叩いて表情を引き締めて、シンドバッドの思惑を読み取って深く頷く。
「約束しよう」
 陽光の中で手を差し出された。アリババは一旦浮かせた右手を、思い直して引っ込めて上着の中に突っ込んだ。ごしごし擦って汚れを拭い、改めて持ち上げて握り返す。
 左手も共に添えて、久方ぶりに微笑む。
「俺にも手伝わせてください」
「ああ、無論だとも」
 彼の願いは壮大だ。敵がいかに大きいかが分かる分、幾多もの困難が待ち構えているのも容易に想像がつく。
 覇王と比べれば、アモンの金属器ひとつさえまともに扱えずにいる自分などちっぽけな存在かもしれない。だが、とアリババは思う。
 誰かに頼るのは悪いことではない。自分ひとりで出来ないことがあっても、仲間と協力し合い、知恵を出し合えばなんだって叶えられるのだと、今なら迷わずにそう言える。
 全部シンドバッドが教えてくれたのだ。
「俺も、父に、必ず会いに行きます」
 今はまだ駄目なところばかりの情けない息子だけれど。
 一度も面と向かって言えずにいた、「貴方を愛している」と伝えるためにも。
 貴方の子供に生まれてよかったと、そう。
 胸を張って言えるように。
「へへ」
 照れ臭そうに告げて、頬を掻く。今はまだ小さい手をしっかり握り締めて、シンドバッドは相好を崩した。
 静か過ぎる霊廟でひとり酒を煽り、酔いの勢いで王墓に向かってあれこれ捲くし立てたその一部を思い出す。
 見せたかった。自分が打ち建てた国が豊かに繁栄し、勢い盛んにして笑顔に溢れている姿を。
 見せてやりたかった。アル・サーメンの脅威が消え去り、地上に生きる全ての人が生きる幸せを感じ、日々の楽しみを存分に味わっている姿を。
 何故死んだのかなどと、なにも知らなかったから平気で詰りもした。そこは反省しようと思う。ゆっくりと瞼を閉ざし、シンドバッドはアリババの手に額を寄せた。
「シンドバッドさん?」
「もう一度誓おう、君に。今度こそ、先生との間で果たせなかった約束を果たすと」
 ひとつは叶った。もうひとつは、これからだ。
 だが必ず、いつの日か。
「一緒に、報告にいこう」
 自慢の息子と生徒を持てた事を、至上の喜びにしてもらえるように。
「はい」
 アリババが幸せそうに頷く。
 その瞳はどんな宝石よりも眩しく、美しく輝いていた。

2011/10/29 脱稿