みんな誰かの愛しい人

 以前。
 なんの時だったかはもう覚えていないけれど、彼の事を「小猿のようだ」と表現した事があった。
 我ながら的を射ていると思ったのだが、本人にはいたく不評だった。一緒に居たワコが腹を抱えて大爆笑していたので、それで恥ずかしかったのも多少は影響していただろうが。
 真っ赤になって中身の残る缶ジュースを振り回し、零して盛大に制服を濡らしたところまで思い出して、スガタはふっ、と気の抜けた笑みを浮かべた。
 昼休みの開始を告げるチャイムが鳴って、食堂に誘おうと席から立ち上がろうとしたところで、もう既に彼の姿は窓辺の席に無かった。瞬間移動の術でも心得ているのかと思って前を見れば、四時間目の授業で使った教材を片付ける手伝いを、頼まれてもいないのに買って出ていた。
 本日の日直の女子が、面倒見の良すぎる彼に頬を染めながら礼を言っているのが見えた。
 社会科の授業で使った世界地図は、黒板の半分を占めるくらいに大きかった。シモーヌ・アラゴンの身長では、背伸びをしても一番上まで手が届かない。
 見かねて協力を申し出て、手際よく取り外して丸めて小さくしたものを差し出したタクトは、なにかひと言、二言、彼女に囁いた。それに碧眼の少女が驚いた顔をして、紅色の頬を恥ずかしそうに俯かせて深く頭を下げた。
 受け取ったものを大事に胸に抱え込んで、彼女が急ぎ足で教室を出て行く。早く準備室に返却して来ないと、昼食を取る時間がどんどん減って行くからだ。
 手を振って見送るタクトを黙ってじっと観察していたスガタは、ふと視線を感じ、机に預けていた腰を浮かせた。
 寄りかかっていた姿勢を真っ直ぐに正し、二メートルばかり離れた場所に佇む女性に眉を顰める。
 長い緑色の髪の毛に、今にも制服がはち切れそうな豊満なボディ。同年齢でありながら成熟した雰囲気を滲ませるミセスワタナベの傍には、黒髪の一部が若葉のように跳ねている少年が、傅くようにして控えていた。
「どうも有難う」
「……?」
 旧時代の貴族を思わせる優美な口調で礼を言われ、スガタは眉を顰めた。
 整った色白の顔に不信感を露わにした彼に、カナコは口元を隠しながらクスクス笑った。
 礼を言われる筋合いなどなくて、戸惑いを隠せない。何に対してかを懸命に考えている彼を察して、カナコはふっくらして柔らかそうな唇を小突いた。
 その指で、教室前方を示す。視線だけをそちらに投げたスガタは、ルリとワコに呼び止められて話し込んでいる少年を見つけてそっと嘆息した。
 途切れ途切れに聞こえる会話から、ルリの弁当を褒めているのが分かった。料理上手な彼女のことだから、新しいメニューを考案でもしたのだろう。
 しきたりにより定められた許婚であるワコも、とても幸せそうな顔をしている。朗らかなやり取りに気を取られて、スガタはカナコに話しかけられていたことを危うく忘れるところだった。
「……で?」
 何の話だったかと水を向ければ、同じ光景を眺めていた美女が楽しそうに顔を綻ばせた。
「うちのシモーヌが、そちらのタクト君に親切にしていただいたようだから」
「別に、タクトは僕のじゃ」
「ええ。でも、今は貴方のところでお世話になっているのでしょう?」
 妙に引っかかりを覚える言い回しをされて、スガタは訂正しようとして遮られた。人差し指を突きつけた彼女に、再確認するように囁かれて、一瞬で距離を詰めてこられたスガタは目を丸くした。
 人の唇をちょん、と小突いて離れた彼女がまとう空気は独特だ。免疫のない男がもし同じ事をされようものなら、一発でノックアウトされてしまうだろう。
 驚きこそすれ、顔が赤くなることはなかったスガタの反応は面白くなかったのか。カナコは呆気なく退いて、息を切らして戻って来たシモーヌに優雅に手を振った。
 昼食を共にする約束でもしていたらしく、シモーヌはカナコの笑顔にホッとした表情を見せた。連れ立って、廊下へと出て行く。
 遠ざかる三人連れから意識を逸らし、スガタは自分を見ているタクトに気付いて小首を傾げた。
「タクト、昼はどうする」
「ああ、うん」
 呼びかけられてはっとした彼は、緋色の目を嬉しそうに細めて頬を緩めた。
 自席で弁当を広げているワコとルリに別れを告げて、出口に近い席で待っているスガタの元へトトト、と駆けて来る。
 すばしっこく、小動物めいた動き方は、矢張り小猿に通じるものがある。だが言うと拗ねると分かっているので、抱いた感想は胸の奥にそっと仕舞いこみ、スガタはダイ・タカシが閉めたばかりのドアを開けた。
「スガタは、食堂?」
「購買でもいいけど」
「じゃ、僕もそっち」
 昼休憩のスタートダッシュに乗り遅れたので、食堂は大層混んでいるはずだ。長い列に並んだ末に、座る席を探して右往左往するよりは、多少品目が減っていようとも、食いっぱぐれる心配の少ない購買部の方がいい。
 それに今日は、天気がいい。中庭の芝の上に寝転がるのも楽しそうだ。
 この後の計画を指折り数えるタクトに相好を崩し、スガタは階段の手摺りを掴んだ。
「きゃっ」
「大丈夫?」
 先に段差に足をかけた彼の後ろで、不意に女生徒の甲高い悲鳴が上がった。
 そこに、タクトの心配そうな声が重なり合う。振り向けば彼の視界に、ふわりと紙が舞った。
 床に大量に散らばったプリントと、それを避けるようにして進む赤い髪の少年。向かう先にいるのは、俯いてしゃがみこんでいるひとりの少女。
 どうやら、運んでいたプリントを転んでぶちまけてしまったらしい。
「ご、ごめんなさい」
「いいって。怪我はない?」
 進みながら落ちている紙を拾い集めるタクトに、少女は慌てふためき声を高くした。飛び退いて逃げようとする彼女に苦笑して、タクトは束にしたものを差し出し、人好きのする笑顔で問いかけた。
 少女の顔が見る間に赤く染まっていく。またか、と呆れ混じりに嘆息して、スガタもプリントを拾うのを手伝ってやった。
 恐縮して小さくなる少女をなにかと気遣い、もう転ばないように言葉をかけて送り出したタクトは、とても満足げな顔をしていた。一方で腕時計を盗み見たスガタは、昼休みの残り時間を計算し、肩を落とした。
「うーん、いいことしたー」
「優しいね。誤解するよ?」
「ほ?」
 呑気に言い放って伸びをしたタクトと合流して、満面の笑みに水を差すような事を口にする。聞き取れなかったのか、彼はきょとんと目を丸くして、横を行く親友を見詰めた。
 南の空で燦々と照る太陽、その眩いまでの輝きを思わせる瞳に苦笑を返し、スガタは踊り場までの残り二段を一気に飛び降りた。
 購買部までの道程の、まだ半分にも到達していない。この調子でタクトがあれこれお節介を焼きに走り回ったら、着く頃に休憩時間が終わってしまう。
 肩を竦めて呟いてみせるが、タクトは納得し難いのかムッと口を尖らせた。
「で。誤解、ってのは?」
 人助けをするのにだって、腹は減る。消費したエネルギー分だけでも確保するには、この先寄り道をせずに真っ直ぐ目的地を目指す必要がある事くらい、タクトにだって分かっている。
 嫌味に頬を膨らませた少年を盗み見て、スガタはふたりの少女を順に頭に思い起こした。
 だが、結果的に浮かびあがったのはふたりだけに留まらなかった。
 ワコに始まり、カナコや、ベニオに、ケイトまで。実に大勢の、スガタとも交流のある女子が次々に現れては消えていった。
 細波が押し寄せて、スガタの足取りを覚束なくさせた。ふらついて手摺りに体重を預けた彼は、吃驚しているタクトに手を振り、肩を竦めた。
「だから」
「うん」
「……あんまり優しくすると、彼女らが誤解するだろう?」
「なにを?」
 踊り場で見詰めあいながら声を潜めるが、タクトは意味が分からなかったのか、不思議そうに目を丸くした。
 聞き返されるとは思っていなかったスガタは面くらい、ちょっと間を置いて天を仰いだ。
「なるほど」
 彼は下心があって何かをするタイプではないから、そういう方面にも疎いのだ。頬を染めていた少女らに幾らかの憐憫を抱き、スガタは緩く首を振って、タクトを追い払った。
 犬猫にやる仕草をされて、彼はむすっと口をヘの字に曲げた。
「なんだよ、スガタ」
 早足になった友人を追いかけ、タクトは急ぎ階段を曲がった。地上階に到達した後は陽光をたっぷり取り入れるデザインの吹き抜けを通り、外へと。
 食堂や購買があるのとは全くの逆方向に進んでいるにも関わらず、タクトはスガタを追いかけるのに夢中で、その事実に気付かない。
 なんと単純で、お目出度い頭をしているのか。
 洋上で輝く太陽を眩しく見上げて、彼は椰子の木の下で足を止めた。
 南国を象徴する樹木は細身なので、日陰としてはあまり役に立たない。白と黒の縞模様の中に佇むスガタに、タクトは目を吊り上げたままずかずか歩み寄った。
「スガタ」
「馬鹿正直にも程があるな」
「?」
 声を張り上げて怒鳴るように呼ぶと、彼は目を細めて笑った。
 呟かれたひと言の意味を取りあぐねてきょとんとしている少年を見据えて、スガタは青い髪を掻き上げた。
 正門に近い場所は、流石にこの時間だ、他に誰もいない。混雑や喧騒とは無縁の場所に立って、彼はふっと、空を見上げた。
 つられて首を上向けたタクトは、すかさず横から飛んできた蹴りに呆気なく足を払われ、もんどりうって地面に倒れこんだ。
「うおっ」
「隙だらけだぞ」
「いっつ、つー……なにするんだよ、スガタ」
 辛うじて受身は取ったが、擦った肘と手が痛い。どこも擦り切れていないかを素早く確認して身を起こしたタクトは、ぶつくさ文句を言いつつも差し出された手を迷わず握り返した。
 今し方自分を蹴り倒した相手なのに、疑おうともしない。
 根っからの正直者で、誰にでも平等に優しくて、己に迷いがない。
「罪無きものたちを惑わせた罰だ」
「意味、わかんないんですが」
「解らないでいるから、罰を受ける羽目になるんだ」
「さっきから、どうしちゃったの」
 禅問答を受けている気分だと嘯き、タクトはズボンに散った埃を払った。制服の乱れを手早く整えて、微笑んでいながら能面にも通じる無表情の青年を窺う。
 仮面の裏側がどんな風になっているのかは、想像するより他に術が無い。
「どうもしないさ」
「誤解する、云々って……やつ?」
 はぐらかされて、タクトが噛み付いた。過ぎた話を蒸し返して、彼の不機嫌の原因を探る。
 自分の不注意な発言から彼が機嫌を損ねたのだとしたら、謝りたかった。どことなく自信なさげな発言を受けて、スガタは苦笑した。
「優しくされたら、誰だって期待するだろう?」
「そう……?」
「お前だって。知ってるだろう」
 親切にしてくれるのにはなにか理由があると考えて、真っ先に思い浮かぶのは自分への好意だ。
 好いてくれているから、優しく接してくれる。気遣いを勘違いし、そんな風に考える人間は、世の中には大勢居る。
 聞き返されて、タクトはむすっとした。解るが、分かりたくない。そんな感情が表に現れていた。
 胸の内がすぐ顔に出る彼を呵々と笑って、スガタは右足を蹴りだした。前に大きく踏み出して、校舎へ戻る道を辿り始める。その腕を掴み、タクトは言葉を捜して視線を泳がせた。
「あのさ。よく……わかんないけど。好きだよ、僕は」
「タクト?」
「みんなのこと、好きだから。自分が優しくされたら嬉しいから、人に優しくするってのは、そんなにいけない事、かな」
 自分の中にある理念を丸ごと否定された気分で、彼はたどたどしく言った。
 目を逸らし、足元を見る彼は萎れた花のようだ。いつだって太陽に向けて緑の葉を広げる、向日葵のような彼なのに。
 尻すぼみに声が小さくなって行く。最後の一音を拾い上げて、スガタは彼の手を振り払った。
 たたらを踏んだタクトに幾分冷めた目を向けて、喉を鳴らす。
「なにものにも差別しない、等しい神の慈悲は、残酷さの裏返しだと思うよ」
 誰にでも優しい彼は、誰からも好かれる。
 誰からも優しくされる彼は、全てを均等に愛し、愛を配分する。
 特別は存在しない。
 誰もが、平等。
 努力は報われない。与え、与えられながらも、そこから何かが産まれることは永遠にない。
 ひと息に捲くし立てたスガタに、タクトは短い間隔で呼吸を繰り返した。握った拳を解いてはまた握って、汗ばむ肌をスラックスにこすり付ける。
 立ち尽くす彼を置いて歩き出した背中が急に遠く感じられて、タクトはハッと目を見開き、奥歯を噛んだ。
「だったら!」
 もし、世界が木っ端微塵に砕けるようなことになって。
 もし、見知った仲間達が揃って崖から落ちそうになっていたとして。
 均等に愛を配分するタクトは、きっと誰も救えない。ひとりしか選べない状況で、身体はひとつきりしかないタクトは、全員を見捨てるより他に選択肢が無い。
 スガタのその認識を打ち破りたくて、彼は声を張り上げた。
 三メートル先で、スガタが足を止めた。振り返り、鼻息荒くしている熱血漢に目を見張る。
「だったら、僕はお前を選ぶ」
「タクト?」
 差し向けられた掌に唖然として、彼は声を上擦らせた。タクトは唇を噛み、力強く大地を踏みしめた。
「お前を選んで、それで。そうすりゃ、手は四本になるだろ」
 目の前で窮地に立たされている人がいたら、助けたい。誰も傷つかずに済む方法を見つけたい。
 自分ひとりで手が足りないのなら、手の数を増やす方法を探せばいい。
 両手を広げて堂々と言い放った彼に唖然として、数秒後、スガタはぷっと吹き出した。
 腹を抱えて笑い、タクトらしいと頷く。
 目尻に浮いた涙をそっと拭い、深く息を吸って。
「それは、……優しくないな」
 心底呆れた口調の彼に、タクトは照れ臭そうに笑った。

2011/05/31 脱稿