Tuberose

 ふっと、息を吐くと同時に風が吹いた。
 ごく自然な、何気ない仕草であったはずなのに何故かはっとさせられて、ジャーファルは目を瞬いた。
 集中が途切れて、すらすらと羊皮紙の上を踊っていた筆がピタリと停まった。ペン先が引っかかったわけでもなく、綴りを間違ったわけでもない。中途半端なところで断ち切られてしまった文字が、どうしたのかと怪訝に彼を見上げた。
 慌てて筆を走らせて足りない線を補うが、そこから先が進まない。なんと記すつもりだったのかが、すぐに思い出せなかった。
 インクが垂れない程度に筆を揺らして、姿勢を崩す。珍しく頬杖をついた彼に、同室で作業中だった文官のひとりが首を傾げた。
「いかがなされましたか?」
「いや……」
 問われても、答えられない。答えを濁し、彼は緩く首を振った。
 気を取り直して執務に戻ろうとして、解放された窓から吹き込む風に頬を撫でられる。クーフィーヤの裾がひらひらと揺れて、注意を惹き付けるかのように背中を叩いた。
 外へ誘う悪戯な風に気を取られ、視線が自ずとそちらに向かった。日除けに布を被せただけの窓の向こう側から、それまで全く気にならなかった騒ぎ声が耳朶を打った。
 複数の笑い声に、何故か異様に心が騒いだ。
「ジャーファル様?」
 椅子を引いて立ち上がった彼に、先ほどの文官が呼びかけた。しかし返事を忘れ、彼は誘われるままに窓辺に歩み寄り、布を押し上げた。
 眩しい陽射しが視界を焼く。低く唸って右目を閉ざし、隻眼で眼下に注意を向ければ、建物の影に見え隠れする人影があった。
 遠いので姿ははっきりとしないものの、よく通る声のお陰で誰なのかはすぐに把握できた。陽光を反射する黄金色の髪に、ターバンを巻いた少年、そして赤い髪の少女。
 数ヶ月前にバルバッドで保護し、国に招き入れた客人たちだ。バルバッド第三王子にして迷宮攻略者のアリババに、マギのアラジン、そして戦闘民族ファナリス出身のモルジアナ。
 稀有な組み合わせだ。だからこそシンドバッド王も彼らに興味引かれ、食客として手元に引き込んだのだろうが。
 甲高い笑い声が青い空に吸い込まれていく。実に騒々しい限りだが、彼らの年齢を考えれば歳相応と許してやるべきだろう。
 特にマギのアラジンはまだ幼い。アリババと一緒にぶくぶく太っていた時を思い出して、ジャーファルは目を細めた。
 文官が苦笑して仕事に戻るのを背中に感じつつ、窓辺から離れがたくて彼は暫くそこに佇み続けた。小さな点でしかない子供たちを、色を目印に見分けて、会話の内容を想像して楽しむ。
 どうやらアラジンとモルジアナがアリババに悪戯をして、彼がそれに対して抗議を行っているようだ。
 良く動く少年に、顔が綻ぶ。足を踏み鳴らして悔しがるアリババに肩を竦めていたら、視界に異なる色が混ざりこんだ。
 赤い髪の、大柄の男。そして限りなく白に近い銀髪と、褐色の肌を持つ男だ。
「あのふたり……」
 親しげに手を上げたシャルルカンとは違い、マスルールは一定の距離をおいて足を止めた。モルジアナが駆け寄って、彼に何か耳打ちする。
 暗黒大陸出身のふたりは、こうやって見ていると本当の兄妹のようだ。マスルールは彼女を気に入って、シンドリアに戻った直後から毎日のように鍛錬に付き合っているし、寡黙なモルジアナも彼に対しては心を開いている。
 じりじりと後退して行くファナリスのふたりに対して、シャルルカンは騒ぐアリババに近付き、その肩にいきなり腕を回した。
 馴れ馴れしく距離を詰めて、アリババと一緒になってモルジアナたちに文句を言っている。その態度は微妙に偉そうで、まったく関係のないジャーファルまでもが何故だかムッとさせられた。
 と、シャルルカンがいきなりアリババを胸に抱え込んだ。
「……っ」
 瞬時に膨らみ、尖ったジャーファルの気配に、仕事中だった文官たちが一斉にビクリとした。筆や文鎮が落ちる音が室内に響き渡ったが、彼は振り返りもせずに窓を覆う布を握り締めた。
 八人将のひとりに数えられ、剣技だけならばシンドバッドを凌ぐとも称されるシャルルカンは、目下アリババに剣を教える立場にあった。
 直々の弟子が出来たのが余程嬉しいようで、アリババには名前でなく「師匠」と呼ばせている。剣術についてはまったく以て申し分ない男であるが、性格に若干難ありと言わざるを得ない。
 小難しい事を考えるのが苦手で、剣のことしか頭の中にない、要するにただの馬鹿。だがアリババも、気さくな彼に親しみを感じているようで、日中の修行の後はよくふたり連れ立って、城下の酒場に繰り出しているという。
 あちらも、肌や髪の色さえ考慮しなければ仲の良い兄弟に見えなくも無い。
 少々馴れ馴れしすぎる傾向はみられるが。
「……気に入りませんね」
 少し前まであの位置にいたのは、ジャーファルだった。
 無自覚に呟いて、カーテンを手放す。視界が白に閉ざされても尚、彼は暫くそこから動こうとしなかった。
 シンドバッドはバルバッドから戻るとすぐに人員をまとめ、船団を組んで煌帝国に向かって出立した。留守を命じられたジャーファルの役目は国を守る以外にもうひとつ、かの地の内乱で心に深い傷を負ったアリババとアラジンを慰め、彼らを元気付けることだった。
 もっとも、帰国したシンドバッドにはやりすぎだとこってり怒られてしまったが。
 傷を癒してやれと言ったが、甘やかせとは言っていない。それがシンドバッドの言い分だが、彼だって十二分なくらいにアリババたちに甘い。
 歴史の浅い国なので城詰めの兵士や文官にも年若い者は多いが、彼らにはそれぞれ仕事があり、役目がある。
 対するアリババは食客というのもあり、基本的に自由だ。
 仕える側と、上に立つ側との差が明確になっていないので、彼らは他の面々に比べてジャーファルたちに遠慮が無い。甘やかしていたつもりはないのだが、彼らが無条件に慕ってくれるものだからつい、要らぬと思えるところまで手を伸ばしてしまった。
 今思えば、確かに少しやり過ぎていたかもしれない。転んで、ひとりで起きられない幼子であるまいし、アリババは自分できちんと考え、前に進んでいける。
 そうであってもらわなければ困る。
「ああ、けれど」
 同時にそれはつまらないとも思えてしまって、ジャーファルはひとりごちた。
「ジャーファル様」
 城内で、あそこまで親しみを込めて笑顔で接してくれる相手は、彼ら以外ほかにいない。長年の付き合いがある相手ならばまだしも、知り合って数ヶ月でありながら朗らかに笑いかけてくれる人間は、片手で余る程だ。
 だから可愛くてならなくて、ついつい世話を焼いては、ことある毎に様子を見に行った。
 アリババの方も時間を見て、訪ねてきてくれていたのに。
 そういえば最近の彼は、剣の修行が忙しいからか、あまり近付いてこない。最後に話をしたのがいつだったのかも、すぐに思い出せなかった。
 呼びかけにも気付かずに愕然としていたら、もう一度大きな声で名前を呼ばれた。はっとして目を瞬き、振り返る。惚けて立つ彼を、文官たちが不思議そうに見詰めていた。
 気がつかないうちに人数が増えていた。諸国から届いた親書を持った文官が、部屋の真ん中で怪訝にしていた。
「あ、ああ」
 はたと我に返り、彼は小さく舌打ちした。空事に没頭していた自分に恥じ入って僅かに顔を赤くして、急ぎ執務机へと戻る。
 椅子に座れば、訳もなく苛立っていた心がスーッと薄れていった。
 仕事に戻る。転がしたままだった筆を取って所定の場所に戻し、机の上を広げれば、親書の載った黒盆が恭しく差し出された。
 顔を伏した文官を一瞥すれば、ぴりぴりとした空気が嫌というくらいに伝わって来た。
「やっぱり、……つまらないな」
「は?」
「いいえ、なんでもありませんよ」
 仏頂面の中にいたら、自分まで仏頂面のまま顔の筋肉が硬直してしまう。
 窓から見た庭の光景を思い浮かべて、彼はゆるゆる首を振った。

 今日の業務終了を告げる鐘が鳴った。途端に室内に、これで解放されるという安堵の空気が流れた。
 一気に緩んだ空気に、ジャーファルが咳払いをする。ケホン、と響いた警告に、互いの顔を見合わせていた文官たちは瞬時に首を竦めた。
 浮き足立っている部下達に嘆息し、彼もまた筆を置いた。疲れを訴える肩を揉んで首を回し、お預けを食らった犬のような顔をしている面々を左から順に見やる。
「終わった者から、上がっていいですよ」
「はい!」
 返事だけは元気だ。思わず笑みを零し、ジャーファルは肩を竦めた。
 妻子ある者は自宅へ、独身の者は仲間と連れ立って夕刻のバザール、もしくは酒場へと。まだ開いている図書館に滑り込んで勉強に精を出すものも、少なからず存在した。
 皆、思い思いの場所へと旅立って行く。ついに最後の一名が去って、部屋にひとり残されたジャーファルはうっすら自嘲を浮かべた。
「さて。私は、どうしましょうかね」
 自問しつつ立ち上がる。椅子が床を削る音が、いやに大きく響いた。
 妙案は浮かばず、合いの手を打つ声もない。ひとりきりなのを否応がなしに自覚させられて、彼は右の頬を爪で引っ掻いた。
 なにも珍しいことではない。仕事が一区切りつかなければ食事もままならない為に、酒場に行こうと誘われても断る機会が多かった。そうしているうちに、声をかけてくれる知り合いはひとり、またひとりと減っていった。
 だがシンドバッドたちが不在にしている間は、アリババが頻繁に食事につきあってくれた。
 彼が「誰かと一緒になら食べられる気がする」と言うから、無理にでも時間を作り、よくテーブルを共にした。
 思えばあの頃の方が、ジャーファルも一日三食、きちんと食べていた。規則正しく、健康的な生活を送っていた。
「久しぶりに……ああ、けれど」
 アリババを夕餉に誘ってみようかと考えるが、姿を思い浮かべたところで、同時に馴れ馴れしく肩を抱く男まで思い出してしまった。
 どうせ今夜も、彼はあの男と連れ立って飲みに行くに違いない。叩こうとした手を下ろして、机に置く。胸の奥が妙にもやもやして、気分は優れなかった。
 進むべき道を見失い、立ち尽くす。そうやって数秒間黙り込んで、彼はクーフィーヤの上から首を掻いた。
「やめましょう」
 こんなのは自分らしくない。物憂げな表情を打ち消して頬をたたき、彼は気を取り直して歩き出した。
 食事は、城内の食堂で済ませればいい。酒を飲んだところで楽しめそうにないし、今日中に終わらせたい仕事もまだ幾つか残っていた。
 酔っている暇などない。己に言い聞かせ、先に腹ごしらえを済ませようと部屋の扉を押し開く。
「あっ」
 勢いつけて飛び出した矢先、右側から小さな悲鳴が聞こえた。
 この場に相応しくない甲高い声にぎょっとして、ジャーファルは目を丸くした。慌てて首をそちらに振り向ければ、出入り口の直ぐ脇で、黄金色の髪の少年が居竦んでいた。左肩を壁に押し当てて、へばりついている。
 つい数分前に頭に思い浮かべていた人物に、どきりとしてしまう。幻かと一瞬疑ったが、そんなわけがなかった。
「アリババくん?」
「あ、あー……ははは。はい」
 怪訝に名前を呼ばれて、少年は照れ臭そうに頭を掻いた。ぴょこんと跳ねた髪の一部が、動きに合わせてリズミカルに揺れる。上着は羽織っておらず、青色の袖なしチュニックにズボン姿だ。
 首に太目の組紐を巻いて、左手には豪華な装飾が施された巻物が。
 一見してそれがなにかを悟り、ジャーファルは行き場を見失っていた両手を脇に垂らした。
「どうかしましたか?」
 食事を誘いに来た、というわけではないだろう。大抵の場合彼と一緒に行動しているアラジンやモルジアナたちの姿は、近くには見当たらなかった。
 業務時間を終了しているので、白羊塔からは人の気配も減っていた。日中は忙しく人が行き交う廊は柱の影が薄く長く伸びるばかりで、どこからか聞こえる足音は、気の早い衛兵が燭台に炎を灯して歩いているのだろう。
 いったい彼は、いつから此処に居たのか。
 仕事に没頭していたとはいえ、まるで気付かなかったのを恥じていたら、気取ったアリババが首を振った。
「忙しそうでしたから」
 中に入るよう出入りしていた文官からも言われたが、邪魔をしては悪いと終わるまで待っていた。ただ来たのだってそう前のことではなく、長時間立ちっ放しでいたわけではないと捲くし立てる。
 早口の弁明に、苦笑を禁じえない。恥ずかしそうにしているアリババに肩を竦め、ジャーファルは改めて来訪の理由を問うた。
 もっとも、おおよその見当はついている。
「あの、実は」
「分からないところでもありましたか?」
「うっ」
 恐る恐る差し出された、豪華な巻物。それは合計二十巻以上にも及ぶ長大な物語のうちの一部だ。
 シンドバッドが過去に繰り広げた冒険が、面白おかしく脚色されて、描かれている。前半はかなり事実に忠実に記されているものの、後半に行くに従って展開は派手になり、空想劇の色合いが非常に強まってしまっているが。
 ただの人間が巨大化したり、炎を吐いたりするわけがない。アリババもそれは承知しているだろうが、飽きることなく何度も、何度も、それこそ手垢がついてボロボロになるまで、この物語に没頭していた。
 物語に度々名前が登場するジャーファルはそれを嬉しいと思う反面、劇中で怪獣扱いされてしまっているだけに気持ちはかなり複雑だ。
「どこが分からないのです?」
「ええと、この巻の」
「ああ、どうぞ中に。立ち話も難しいでしょう」
 廊下で巻物を広げようとしたアリババを制し、ジャーファルが扉を振り返りながら言った。なにか台があった方がやりやすかろうと提案すれば、そこまで頭が回らなかった少年が小さく舌を出した。
 細長い書を巻きなおして、ジャーファルが開けてくれた扉を潜って中に入る。緊張しているのか、表情は少し強張っていた。
「そういえば、入るのは初めてでしたか?」
 首を竦めて小さくなっている少年に問いかけ、部屋の奥へと誘う。昼間アリババたちを見下ろしていた窓の前に置かれた机の上には、未処理の書類が山を成していた。
 見られては困るものを先に片付けて場所を作り、居心地悪そうにしている彼を手招く。
 物珍しげに視線を揺らめかせて、アリババはジャーファルの机に歩み寄った。
「すみません、散らかっていて」
「いえ。それより、あの。やっぱりお忙しいんじゃ」
 調度品は少なく、机や棚も飾り気が少なくて質素だ。壁際の棚には大量の書物が所狭しと並べられて、彼の業務を手伝う文官たちの机や椅子が理路整然と置かれていた。
 汚いどころか、整然としている。ジャーファルの机の上だけが例外だが、仕事中だったのだから仕方がなかろう。
 自分の瑣末な好奇心の為に、迷惑をかけるのは心苦しい。
 思っている事を顔に出して言ったアリババに、ジャーファルは首を振った。
「構いませんよ。どの道、休憩するつもりでしたし」
 残る仕事は食事の後、眠るまでの間に。さらりと告げた彼に僅かに目を見張って、アリババは益々恐縮して小さくなった。
 余計に居心地悪くさせてしまったと気付き、嘆息を挟んだジャーファルが机の角を叩いた。音で合図を送り、顔を上げた彼ににこりと微笑む。
「君こそ、シャルルカンたちと一緒ではなかったのですか?」
「師匠ですか?」
 問えば怪訝に聞き返された。
 昼間の庭でのやり取りを盗み見ていた事実を、当のアリババは知らない。ここはあの男ではなく、マギの少年の名前を出しておくべきだったと、ジャーファルは自分の失言に気付いて唇を噛んだ。
 その僅かな表情の変化に気付きもせず、特に怪しむ様子も見せぬまま少年は相好を崩した。
「師匠なら、マスルールさんたちと飲みに行ったんじゃないですかね。俺は、夕方から図書館にいたから分かりませんけど」
「図書館に?」
 予想外の返事に、ジャーファルの声が裏返った。高くなってしまった声に気まずげにしていたら、アリババが控えめに笑った。
 剣術の修行をサボって読書していたと、怒られるとでも思ったのだろうか。少年は金髪を掻き回し、冒険譚が記された書を大事そうに抱き締めた。
 あの装丁は、確かに図書館の蔵書のひとつだ。今更気付いて、ジャーファルは目を瞬かせた。
「何故?」
 率直に問えば、彼は愛想笑いで誤魔化した。
「その、まあ、色々とあって」
 言葉を濁し、途中で一寸だけ表情を曇らせる。マスルールやモルジアナに向かって怒鳴っていた彼を思い出す。なにか嫌なことでもあって、大好きな物語の世界に逃げ込んだと、そういうことだろうか。
 想像を巡らせつつ、ジャーファルは椅子を引いた。
「どうぞ」
「そこはジャーファルさんの席でしょう」
 着席を促せば、瞬時に断られてしまった。
 弁えているつもりなのだろうが、子供なのだから堅苦しく考えなくても良いものを。遠慮を覚えたアリババが急に遠くなった気がして、ジャーファルはムッと口を尖らせた。
 素直に甘えてくればいいのだ。彼は再度席を勧めると、動かないアリババの方へ爪先を向けた。
 カツリと靴底で床を叩く。臆したアリババの手を取って、軽く引っ張る。
「ジャーファルさん」
「私が座っていたら、私の頭で君が見辛いでしょう」
 言うが早いか彼を連れて席に戻り、半ば強引に座らせる。肩を真下に向かって押されて、諦めたアリババは大人しく椅子に腰を据えた。
 身を捩って尻の置き場所を探り、照れ臭そうに笑う。
「へへ」
 そうやって目を細めると、彼の年齢はぐっと下がって見えた。
 苦労して生きて来た分、早く大人になろうとしている雰囲気があった。無理をして背伸びしていたのをやめて、この頃は年齢相応の表情をするようになった。
 首を竦めた彼の頭を撫でて、早速書を広げるよう告げる。
 ふわりと、風も無いのに花の香りが鼻腔を掠めた。
「……ん?」
 甘ったるい南国の匂いが、どこからともなく執務室に紛れ込んでいた。
 香を焚いた覚えはないし、室内には花瓶もない。出所を探して視線を一周させた彼は、最後に鼻歌交じりに書物を広げているアリババに目を留めた。
 斜め後ろからの視線に鋭く勘付いて、少年が元気良く振り返った。
「えっと、ここ、の……ジャーファルさん?」
 早速質問しようとして、紙面を指差したまま首を傾げる。真ん丸に見開かれた琥珀色の瞳にはたと我に返り、ジャーファルはなんでもないと顔の前で手を振った。
 それによって小規模の旋風が発生する。
 ふわりと待った金髪から、どこかで嗅いだ覚えのある匂いが溢れ出した。
 長い袖を掴んで口元を覆い隠した彼に、アリババは心当たりがあるのか苦い顔をした。
 奥歯を噛んで口角に皺を寄せ、目を逸らす。視線は宙を彷徨い、遠くの景色を映し出した。
「あの、ひょっとして……臭います?」
「まあ、少し、ですけれど。アリババくんは、確か香は」
「違います、これは」
 気恥ずかしげに訊ねて、聞き返されて首を振る。鼻の頭を掻いた少年の髪、否、身につける衣服からも、微かながら甘ったるい花の香りがした。
 シンドバッドが香を焚いているのは有名な話だが、アリババは本人が否定したとおり、使用していない。ファナリスの少女は嗅覚がほかより優れているので、彼女が近付いてこなくなるというのも利用しない理由のひとつだろう。
 にもかかわらず、これはどういうことか。
 頬を紅色に染めた少年は、言いたくないのかまたも口篭もり、作り笑いを浮かべた。
 そういえば昼間見た光景では、モルジアナは彼から徐々に離れていった。マスルールも近付こうとしなかった。
 これらのことになにか繋がりがあるのかと考えていたら、椅子の座面を握り締めた少年が深く長い溜め息をついた。
「なんだよ、まだ消えてないのかー」
 がっくり項垂れながら、心底嫌そうに呟く。そこに人がいることも忘れて愚痴を零したアリババに、ジャーファルは目を丸くした。
 右肩を持ち上げ、腕を顔に寄せたアリババが、くんくんと鼻を鳴らした。自分を嗅いでみるものの、既に嗅覚が馴染んでしまっているからか分からないのだろう、表情は険しい。
「アリババくん?」
 呼べば彼ははっとして、気恥ずかしそうに目を細めた。宝物庫の黄金にも負けない鮮やかな金髪を掻き毟れば、ジャーファルの鼻腔を擽る甘やかな香りが一層強まった。
 羊皮紙やインクとはまるで種類の異なる、濃い緑に覆われた植物園を思い出させる香りだ。
 無味乾燥な執務室に居るのを一瞬忘れそうになって、目を瞬く。椅子の上で身じろいだアリババが、申し訳無さそうに彼を見上げた。
「気になります、よね」
「え?」
 胸の前で指を小突き合わせて、小声で問われた。
 きょとんとしたジャーファルは、五秒遅れで質問の意味を理解し、肩の力を抜いて首を振った。
「いいえ、そんなことはありませんよ」
 気にはなるが、嫌ではない。朗らかに笑みながら言葉を返すが、アリババは口を尖らせて頬を膨らませた。
 そんな顔をされるいわれはない。彼の真意が解せずに戸惑っていたら、足を交互に揺らしたアリババが背凭れに体重を押し付けた。
「けど、モルジアナは臭いから近付くなって言うし」
「ああ……」
 ファナリスは嗅覚が他の人よりも発達している。少々の匂いでも、彼女らにとってはかなり強烈に感じられるだろう。
 アリババとてそれは承知している筈だ。モルジアナなりの冗談のつもりだったのかもしれないのに、真に受けて落ち込んでいる。
 きっとマスルールにも似た事を言われて、二重にショックを受けたのだろう。昼に見た庭先の光景の内容が徐々に解き明かされていくのが分かって、ジャーファルは目を細めた。
 けれど、と思う。
 まだ解き明かされていない大きな謎がひとつ残っている。香を使っていないと明言したアリババから何故、こんなにも花の香りが漂っているのか、が。
 ほかにあの場にいたのは、シャルルカン。そして、アラジン。
 あの男の仕業かと想像して両腕を組み、溜息をついていたら、今一度腕を嗅いだ少年が深くため息をついた。
「ったく。アラジンの奴~~」
 恨みがましく告げられた名前に、驚く。予想が外れて、ジャーファルは唖然とした。
 だが言われてみれば、彼の方が可能性は高いのだった。創世の魔法使いとも称されるマギとはいえ、アラジンはまだ十歳足らずの子供だ。好奇心から来る悪戯も、日常茶飯事のこと。
 それなのにどうして、真っ先にシャルルカンを思い浮かべたのだろう。
 理屈で説明出来ない現象にもやもやを募らせ、ジャーファルは額を掻いた。クーフィーヤから覗く前髪を揺らして唇を舐めていると、下から視線を感じた。
 瞬きひとつで瞳を下向ければ、アリババがパッと顔を背けた。
「アラジンに悪戯されたんですか?」
「うぐ」
「ピスティ辺りに香水でも貰ったんしょうかね」
 その背中に近付いて、訊ねる。八人将のひとりであり、最も年若く、アラジン並みに悪戯が大好きな少女を揶揄すれば、無関係の人間に罪を擦り付けたくなかったのだろう、彼は勢い良く首を振った。
 ぶつかりそうになったジャーファルが仰け反って避ける。たたらを踏んだ彼を盗み見て、少年は椅子の上で丸くなった。
「そうじゃなくて、そうじゃないです」
「じゃあ、なに?」
「師匠が、剣術には身体を作るのも大事だっていうんで。昼飯の後、俺、庭でひとりで昼寝してたんですよ」
「……はあ」
 突然話が飛んだ。間抜けな相槌をひとつ打って、ジャーファルは急に興奮状態に陥ったアリババに首を傾げた。
 確かになにをするにおいても、身体を動かす上で体力は必要不可欠な要素だ。彼はまだ成長途中であり、これから背も伸びて、肩幅も広くなっていこう。以前の生活では栄養状態があまり宜しくなかった所為で、歳の割に小柄で華奢な彼だから、シャルルカンも真っ先に体力、そして筋力をつけるよう仕向けているらしい。
 その選択肢に間違いはなかろう。ただ闇雲に剣技を磨いたところで、戦闘中に息切れしているようでは戦士として失格だ。
 だがそれと、この花の香りと、いったいどこで繋がるのか。
 考えても分からなくて頭にクエスチョンマークを生やしたジャーファルを振り返り、アリババは紐を巻いた首を引っ掻いた。
 朝早くからの猛特訓の後、昼の鐘を合図に昼食をたっぷり食べて、軽く腹ごなしをした後に休憩。天候も良かったので外で、木漏れ日を浴びながらの午睡と相成った。
 そこにやって来たのが、アラジンだった。
「はあ」
 全体の流れがまだよく分からなくて、ジャーファルは生返事をして頷いた。
 ヤムライハが妙な魔法でも教えたのかと危惧するが、今日の彼女はシンドバッドの代理で城を留守にしている。となれば彼女を師匠に持つアラジンは朝から暇を持て余していた、ということにもなろう。
 口をヘの字に曲げて眉間に皺を寄せて、考える。気難しい表情になった彼から目を逸らし、アリババは当時を思い出してか、椅子ごと身体を前後に振った。
 ギシギシと木製の椅子が軋んだ。あまり乱暴にされると、壊れてしまうかもしれない。危惧して、ジャーファルは手を伸ばして細い肩を掴んだ。
 触れた肌は冷たかった。皮の先にすぐ骨の感触があって、その華奢さに驚かされた。
「ジャーファルさん?」
「壊れたら、危ないですからね」
「あ、そっか」
 急に触れても、慣れているのかアリババは驚かなかった。怪訝に名前を呼ばれて、急ぎ取り繕って微笑み返す。彼は疑いもせず信じて、椅子の脚に引っ掛けていた両足を床に下ろした。
 南国とはいえ、日が暮れれば気温もそれなりに下がる。だが寒がる様子は今のところなくて、自分から言おうかどうしようか迷っている間に、アリババが先に口を開いてしまった。
 手を下ろすタイミングを逸したジャーファルは、仕方なくその手を上に向けて、艶やかな金髪をクシャリと撫で回した。
「で、えーっと……そう。アラジンの奴、今日ヤムライハさんがいなくて、する事ないってんで」
「はい」
「モルジアナとマスルールさんにくっついてったらしいんですよ」
「へえ」
 ジャーファルがちらりと机の上を見た。シンドバッドの冒険書が、広げられたまま放置されていた。
 持って来た少年も、存在をすっかり忘れている。著した当人がすぐ近くにいるというのに、アリババが彼よりも自分を優先させた事実に、ジャーファルは少なからず自尊心を擽られた。
 頼りにされていると、そう思えて嬉しかった。
「マスルールたちと一緒だったのなら、城の外の森ですね」
「そう!」
 シンドリアは元々南洋に浮かぶ未開の島だ。農地は少なく、海運業と観光が主産業になっている。
 ただ今は安定しているものの、昔はこれらの収入もかなり不安定だった。そのため、主格になる産業を増やそうと計画されて、島の一画に果樹園が設けられた。
 南海の暖かな気候は、北の地にはない植物を育む。珍しい果物は、その美味さもあって瞬く間に各地に知れ渡り、高値で取引されるようになった。
 それが呼び水になったのかは分からないが、島への観光客も増えた。
 果樹園の周辺に自生していた植物達も整備されて、森林浴に最適な空間が完成した。モルジアナやマスルールたちは、その環境が故郷に似ているからなのか、よくそちらに足を運んで鍛錬を積んでいた。
 今日はアラジンも、彼らに同行して城の外で時間を過ごしたらしい。
 ただやはり、ひとり置いておかれるのは寂しいし、つまらない。
 ぽつんと座っているだけに飽きた彼は周辺を探索して、無数に花をつけた一本の大樹を発見した。
「ああ、そうか。あれですか」
 しどろもどろなアリババの説明からピンとくるものがあって、ジャーファルはようやく合点がいったと手を叩いた。
 どこかで嗅いだことのある匂いだと思っていたが、それもそのはずだ。受粉の為に鳥や蝶を誘って、木々に絡みつく蔦植物は甘い香りを放つ花を咲かせる。美しい見た目もあって、島でも特に人気が高い。
 年頃の少女達が髪飾りに使ったり、束にして首からかけたりと、用途は様々だ。花びらを集めて煮詰め、香りを抽出して作られる香水も観光客に好評だった。
「……その花を、アラジンの奴が」
「ああ、はい」
 基本的に年中咲いている花だが、この時期が一番香りも華やかだ。淡いピンク色をして、蔦を絡めた木いっぱいに咲き乱れる光景を思い浮かべていたジャーファルは、アリババが膨れ面で呟いたのを受け、慌てて意識を彼に向け直した。
 コホンと咳払いをひとつして、聞く体勢を整える。
 にこにこしている彼を軽くねめつけて、アリババは自身の前髪を抓んで引っ張った。
「アラジンが?」
 先が続かない。口篭もる彼に促せば、腕を下ろした少年が椅子の上に足をあげて膝を抱え込んだ。
「いっぱい花を摘んで、持って帰って来て、……昼寝してた俺にぶっかけたんです」
「はあ……は?」
 意味が理解出来ない。
 緩慢な相槌を打ったところではたと我に返り、ジャーファルは素っ頓狂な声を上げた。唖然としている彼を見上げ、アリババは益々小さくなり、額に掛かる前髪を弄り回した。
 胸に寄せた膝に顎を置いて、顎を突き出して口を尖らせる姿は幼い子供そのものだった。
「ええと、つまり?」
「目が醒めたら周りにみんないて見てるし、俺は花ん中に寝かされてるし。これって、イジメっすよね!」
 光景を想像したら、頭が混乱してきた。こめかみに指を置いて目を泳がせたジャーファルに同意を求め、アリババは突然怒鳴って机を殴りつけた。
 気持ちよく木陰で昼寝をしていただけなのに、相手をしてもらえないと拗ねたアラジンに玩具にされたのが余程悔しいらしい。目を吊り上げ、琥珀の瞳にうっすら涙を浮かべた彼に、ジャーファルはどう返事してやればいいか分からず凍りついた。
 香料にもなる蔦葛の花に埋もれるアリババと、それを取り囲む仲間達。
 アラジンはいったいどれだけの量を摘んできたのだろう。苦楽を共にした仲間であるアリババがここまで怒るのだから、よっぽどだったに違いない。
 全身を包めるくらいの量なら、髪や服に匂いが染み付いているのも頷ける。きっとアリババはなかなか目覚めなかったのだろう、短時間触れていただけならこんなにも長時間、香りは残らない。
 予想以上の展開だった。
 せいぜい霧状にした香水を吹きかけられた程度だと思っていたのに、まさか花そのものを浴びせられていたとは。
「酷いですよね、酷いでしょう?」
 しつこく同意を求められ、返答に困る。眉間の皺を増やし、ジャーファルは唸った。
 この場合、アラジンが一番悪いのは明白だけれど、強烈な匂いを放つ花を傍に置かれて目を覚まさないアリババも果たしてどうなのか。
 目で問えば、彼はぐっと息を飲んで顔を背けた。
「だって、疲れてたんですよぅ」
 日の出直後から昼の鐘が鳴るまで、みっちり鍛錬に明け暮れていた。しかも昨晩はシャルルカンに付き合って夜遅くまで酒場に繰り出していたから、全体的に睡眠時間は足りていなかった。
 腹いっぱいになって、陽射しも風も気持ちよくて、ちょっとの休憩のつもりが、ぐっすり熟睡してしまった。
 アラジンは何度も呼びかけたと弁解していたけれど、それもまるで記憶にない。
 拳を交互に上下させてアラジンが悪いと訴えるアリババだが、ジャーファルに言わせればどっちもどっちだ。
「いや、でもいいじゃないですか。明日には落ちるでしょうし。それに、いい匂いですよ」
 味方になってくれないと判断して睨みつけてきたアリババを宥め、話題を変えようと試みる。右手を顔の高さで振って落ち着くよう諭して、彼は暗くなって来た外を気にして窓を一瞥した。
 引き出しから火打石を取り出して、壁に並ぶ燭台に火を灯していく。最後に机上の皿に立てられた蝋燭に炎を宿す頃には、煙を噴いていたアリババも幾らか冷静さを取り戻していた。
 それでもまだ顔は赤いし、目は不満げだ。
「消えるのかな」
「大丈夫ですよ。なんでしたら、頭から水を被るとか」
「ジャーファルさんって、意外に豪快ですね」
「おや、知りませんでしたか?」
 髪や服、果ては身体に染み付いた匂いを依然気にして、腕やら肩やらをクンクン嗅いでいる彼に肩を竦める。提案が予想外だったのか、驚いた目を向けられてジャーファルは小首を傾げた。
 オレンジ色の炎がゆらゆらと揺れる。蝋燭から遠くなるに連れて影が長くなり、天井を見れば光が踊っていた。
 水底から空を見上げているようだ。不思議な感慨に浸っていると、火打石を元の場所に戻し、ジャーファルがアリババの後ろについた。
 反射的に距離を取ろうとして、腰を捻る。ギシ、と椅子が軋んだ音で自分の現在地を思い出して、目を瞬かせて明るさを増した室内を見回す。
 そういえば此処に、なにをしに来たのだったか。
 今日の出来事を語るだけに終わりそうな雰囲気に、彼は慌てて卓上の巻物に手を伸ばした。
「で、ででですね」
「私は好きですよ」
「えっ」
 本題に入ろうとして舌を噛んだ。呂律が回らないまま声を高くする。耳朶に吐息が触れた。
 真横で囁かれた言葉に、目の前が真っ白になった。
 何を言われたか、咄嗟に理解出来ない。十秒経って初めて音が脳に到達して、意味を解した後ぼっ、と顔から火が出た。
 前後の脈絡を吹っ飛ばしたアリババの反応に、身を起こしたジャーファルがはて、と首を傾げた。かっかと熱くなっている少年を不思議そうに見詰めて数秒停止して、今し方自分が放った台詞を思い出してハッと息を飲む。
 目が泳いだ。かああ、と顔を赤くして、彼は右手で額を覆った。
「いえ、香りが、……ですね」
「は、はい!」
 妙に言い訳がましく付け足せば、俯いていたアリババが背筋をピンと伸ばした。
 他意はなかった。そのはずだ。
 深呼吸を繰り返して心を落ち着かせ、唾を飲んで胸を撫でる。前を見れば、ほぼ正面に置かれた蝋燭の明かりを受けて、アリババの髪が見事な金色に輝いていた。
 実際、悪くない香りなのだ。ただモルジアナに「臭い」と言われたのが、余程こたえているらしい。
 今一度手を鼻に近づけた彼は、肩を竦め、不意に笑った。
「ジャーファルさんがそういうなら、……ま、いっか」
「アリババくん」
「師匠には女みたいな匂いって言われたんですけどね」
 目を細め白い歯を見せた彼の言葉に、頬を緩めていたジャーファルは瞬間、背筋を粟立てた。
 ぞわりとしたものが素肌を撫でて駆け抜けて行った。たまらない不快感が後に残され、吐きそうなくらいに気持ちが悪い。
 鳥肌立った腕を袖の上からなぞり、彼は瞠目したまま笑っている少年に見入った。
 シャルルカンとは仲良くやっていると聞いている。アモンの力を新しい剣に宿すためにも日々の鍛錬は欠かせず、その相手としてあの男が相応しいのは無論、承知していた。
 アリババは迷宮攻略者であり、マギに選ばれた王だ。
 アル・サーメンがシンドバッドを付けねらうように、アリババもまた奴らに命を狙われよう。生き延びるためにも、彼は強さを、力を手に入れなければならない。
 分かっている。
 だが一度は手元に抱え込んだ傷ついた小鳥が、怪我を癒した途端に自由の翼を得て飛び立ってしまったようで、素直に喜べない。
 所帯を持っているわけでもないのに、子供が離れて行く親の気持ちが分かってしまった。胸を締め付ける切なさを裏に隠し、彼はアリババの髪を梳いた。
「女性扱いは、ちょっと酷いですねえ」
「でしょう?」
 十七歳の健全な男子を捕まえて、その表現は問題がある。ジャーファルの同意がようやく得られて、彼は嬉しそうに声を弾ませた。
 髪の隙間から、軽やかな匂いが溢れ出した。顔を寄せ、嗅ぎ取る。吐息を首筋に感じ、アリババが身じろいだ。
「ジャーファルさん?」
「この花の香水はシンドリアの名産品のひとつで、殿方からも人気があるんですよ」
 振り向こうにも、近すぎる。不用意に動けばぶつかってしまうと遠慮して、彼は大人しく椅子に腰を張り付かせた。
 告げられた言葉が耳朶を撫でた。鼓膜を甘く擽る低音に、アリババはぱあっと表情を花開かせた。
 女性への土産に求める男が多い、という事実は伏して、ジャーファルは笑顔に目を細めた。繰り返し髪を梳き、光を浴びて眩しく輝いている金糸を指に絡めて軽く引っ張ったりもする。
 上半身を揺らし、アリババはクスクス声を漏らした。
「なんか、安心した」
「シンドリア自慢の香りですから」
 嫌な臭いではないのだとようやく納得して、アリババが手首に鼻を近づけた。肌に馴染みすぎた匂いを嗅ぎ分けるのは難しかろう、眉間に皺が寄った。
 百面相に苦笑して、ジャーファルは両手を伸ばした。滑らかな肩に添えて、緩く握る。鼻先が金髪に埋もれた。
 トン、と背中を押された少年が吃驚して目を見張った。
「そうです、今度君に贈らせてください」
「じゃ、ジャーファルさん?」
 淡いピンク色をした花に似せて色付けされた陶器の小瓶に収められた、ほんのり甘い香りを放つ水。
 我ながら妙案だと、心の中で手を叩く。声を上擦らせたアリババが、無理に首を捻って彼を見上げた。
 予想通り戸惑いに揺れている瞳を間近から覗き込み、琥珀の鏡に映る自分の姿に目を細める。
 悪臭でないと納得しても、常から身につける香りとしては自分に不適切だと思っている顔だ。それを屈託無い笑顔でねじ伏せて、ジャーファルは甘やかな香りを存分に楽しんだ。
「遠慮は要りませんよ、アリババくん。それに、この香水にはもうひとつ、薬効があるんです」
「へ、へえ?」
 畳みかけ、興味を誘う。引っかかった彼に目尻を下げて、ジャーファルは聞き分けのよい少年の頭を優しく撫でた。
 くすぐったかったのか、アリババが首を竦めた。
「香りを嫌って、虫が寄ってこなくなるんです。シンドリアには、刺されるだけで高熱が出る毒虫もいますから、予防に役立ちますよ」
 特に今日のように、屋外で昼寝をする時などは要注意。
 人差し指を立てて笑顔で告げたジャーファルに、彼は初耳だったようでぽかんとして、直後己を抱き締め震え上がった。
 なんでも簡単に真に受けて、信じてしまう。その潔さは美徳だが、同時に非常に危うい。
 目を眇め、ジャーファルはアリババの肩を叩いた。白く、細く、華奢な体躯をごく自然に引き寄せ、抱き締める。
 後ろから寄りかかっても、手を振り解かれることはない。此処最近のシャルルカンとの触れあいで、すっかり慣れてしまったのだろう。今や当たり前のように受け入れている彼も、島に来た当初は触れるだけでおっかなびっくりした態度を取っていたのに。
「怖い虫がいるんですね」
「ええ。ですから、悪い虫が君につかないように」
 抵抗しないアリババを腕の中に閉じ込めて、頬を寄せる。珍しいジャーファルからのスキンシップに、疑いの心など抱きもせずにアリババが笑った。
 無邪気で、純粋な、世界に愛された少年。
 美しい花に誘われる蜂の気持ちが、今なら少し分かる。甘い蜜を味わいたくて、ジャーファルはそうっと、牙を伸ばした。

2011/10/26  脱稿