疼痛

 温い、を通り越して冷たくなっているコーヒーを飲み干し、雲雀は肩を竦めて嘆息した。
 下ろしたコップの底で机を軽く叩き、右手は資料を捲って唇を舐める。
「沢田、コーヒー」
 視線は手元に向けたまま御代わりを要求して声をあげるが、十秒経っても、三十秒を過ぎても、一向に返事はなかった。
 もしかして居ないのだろうか、と思って久方ぶりに顔を上げると、話しかけた相手はちゃんとソファに座っていた。両足を揃え、真っ直ぐ前を見据えているので雲雀の位置からでは左半分しか見えない。
 居眠り中かと勘繰ったが、背筋はピンと伸びており、琥珀色の目もぱっちり開いている。そんな状態で舟を漕げるほど彼が器用でないことくらい、雲雀はとっくの昔に承知していた。
 となると、わざと無視しているとしか考えられない。
「沢田?」
 声が小さかったので聞き取れなかった、という可能性もゼロではないので、念の為もう一度呼びかけてみる。しかし今度も返事はなく、ピクリとも反応してもらえなかった。
 聞こえないフリをしている、との判断で間違いない。雲雀は肩を竦めると、陶器製のコップから指を離し、机の奥――つまりは応接セットのある方へと押し出した。
 硬いもの同士が擦れ合う、カリカリという神経質な音が響いた。
「さわだ?」
 幾分声のトーンを和らげて名前を繰り返し呼んでも、黒い革張りのソファに座った少年は微動だにしなかった。
 左手は緩く握って膝の上、右手は残念ながら見えないが、肘の角度から計算するに、頬に押し当てられていると思って良さそうだ。
 それで思い出したことがあって、並盛中学校風紀委員長を務める青年は嗚呼、と緩慢に頷いた。
「なに、まだ拗ねてんだ?」
 壁時計を見上げれば、業務を再開させてから既に二十分近くが過ぎていた。道理でコーヒーも冷たくなっているわけだ、と納得して頷いて、雲雀はソファから立ち上る不穏な空気に苦笑した。
 癇癪を想定して予め身構えておけば、案の定蜂蜜色の髪の少年はムッスーとした顔をして、勢い良く振り返って雲雀を睨んだ。
 目を吊り上げて怒りを露わにするが、生憎とあまり怖くない。そもそも童顔で、女顔で、なんとも愛らしい顔立ちをしているのだ。どんな表情を作ろうとも、いまいち迫力に欠けてしまう。
 ただ、それを口に出せば余計に怒らせてしまうので黙っておくことにして、雲雀は空にした両手を結び合わせ、頬杖をついた。
 重ねた手の上に顎を置き、右の頬が可哀想なくらいに腫れている少年に目を眇める。
「謝ったじゃない」
「あんなんじゃ足りません」
 呵々と喉を鳴らして笑い、約二十分前に此処で起きた出来事を揶揄すれば、綱吉はソファから立ち上がり、地団太を踏んだ。
 怒鳴りつけるその表情もまた、可愛らしくてならない。うっかり顔を綻ばせてしまい、慌てて表情を引き締めたが既に遅く、綱吉は栗鼠のように頬を膨らませた。
 ぎりぎり奥歯を噛み締めて、渾身の力をこめて睨みつけてくる。
「悪かったよ」
「心が篭もってなーい!」
 飄々としながら謝罪を口にすると、綱吉は益々怒りを増幅させて喚いた。
 あまりの五月蝿さに、棚のガラス戸がビリビリ言う。雲雀も右の耳を押さえてやり過ごして、肩で息をしている少年に首を竦めた。
 ちょっぴり目尻に涙を浮かべ、綱吉が悔しそうに歯軋りしてからソファに戻る。蹴り上げた足でテーブルを向こう側へ押し出した彼に、雲雀はどうしたものかと嘆息した。
「沢田」
「俺、なんにも悪いことしてないのに」
 怒鳴った時に口の中を噛んだのか、痛そうに顔を顰めてぼそぼそと呟く。部屋が静かなのもあって、小声だったが雲雀にも聞こえた。
 宙を彷徨った彼の手が、ソファに転がっていたタオルを掴んだ。小さく折り畳まれたそれを持ち上げ、まだ腫れている頬に押し当てる。
 とうに温くなっているだろうに、濡らしに行こうとしないのも、雲雀への当て付けだろう。
「すまなかったと思ってる」
「思ってないです」
「思ってるよ」
「じゃあ、ちゃんと証明してみせてください」
 早口で捲くし立てた後、綱吉は顔を顰めて呻いた。喋るだけでも響くのだろう、眉間に寄った皺はかなり深い。
 辛そうにしている彼に、本当に申し訳ないと思っているのだが、証明しろと言われても困る。まさか土下座でもしろ、と言うのかと黙って見詰めていたら、気付いた綱吉がぷいっ、とそっぽを向いた。
 いつもなら、機嫌を損ねたとしても三十分もすれば元通りなのに、今日は随分と粘っている。
 もっとも理由が理由なだけに、そうなるのも致し方なかった。
「痛む?」
「すごく」
 控えめに問えば、はっきり、きっぱり、即答された。
 こちらを見ようともしない彼の強情さに呆れると同時に、そうなる原因となった自分の浅墓さを呪って、雲雀はやれやれと肩を落とした。
 本日最後の授業が終了して、そろそろ三十分。グラウンドの方からは部活動に勤しむ生徒らの、賑やかで元気に溢れる声が轟いていた。
 あと少ししたら、学内の見回りに出る。それまでに終わらせてしまいたい書類仕事があったのだが、どうにも手につかず、進みが悪い。
 この調子では今日も遅くなりそうだと、自業自得を笑って、彼は空っぽのコップを指で弾いた。
 ガラスのような音は響かない。机を削る嫌な音が小さく起こっただけに終わったが、微かな物音に気付いた綱吉は身じろいで、恐る恐る雲雀を窺い見た。
 強情を張って、逆に彼を怒らせたかもしれない。
 部屋を追い出されるのも時間の問題と怯えて背中を丸めるが、雲雀は特に何も言ってこなかった。
 溜息とともに時計を見上げて、やる気なさそうに机上のプリントを広げては畳み、重ねてはばらしている。
 心此処に在らずといった雰囲気がなんだか可笑しくて、綱吉は笑おうとして、頬に走った痛みに口を尖らせた。
 押し当てたタオルは体温を吸ってもうかなり温い。一度洗って、絞って、冷やし直してきた方がいいのは解りきっているのだが、今此処で立ち上がって部屋を出たら、もう戻ってこなくていいと言われそうで怖かった。
 折角呼ばれてきたのに、一方的に追い出されるのは悔しい。
「……むぅ」
 そもそも、どうして自分がこんな顔になっているのか。
 向かいの壁に置かれた棚のガラス戸に、薄ぼんやりと映る自分を見詰め、綱吉は頬を膨らませた。
 空気に触れるだけでも、切れた口の中が痛い。今日の夕食は、よっぽど注意をしなければならなさそうだ。
 明日には腫れが引くと良いのだが。そんな事をあれこれ考えながら、彼は肩を落とし、背中をソファに預けて凭れ掛かった。
 見上げた天井は白く、空虚だった。
「いってぇ……」
「悪かった」
「やっぱり心が篭もってない」
「じゃあ、なんて言えばいいの」
「それくらい、自分で考えてくださ……っつぅ」
 呻いていたら、聞こえた雲雀が重ねて謝ってきた。
 遠くから話しかけられて、綱吉は瞳だけをそちらに投げた。雲雀は依然机に向かって座ったまま、立ち上がる気配すらなかった。
 恨み言を言って、襲って来た激痛を堪える。頼まれた事をやっただけなのに、どうしてか殴られた記憶をまざまざと蘇らせて、綱吉は鼻を愚図つかせた。
 殴ったのは雲雀だ。トンファーではなかったが、グーで、力一杯。
 事の発端は、昼休みに草壁からとある依頼をされたことだ。
 願っても無い申し出に二つ返事で頷いた綱吉は、ホームルームを終えていそいそと応接室にやって来た。そうして、雲雀から手痛い一撃を喰らった。
 草壁の依頼内容は、こうだ。六時間目に雲雀は仮眠を取るから、放課後になったら起こしてやって欲しい、と。
 勿論あの男は、自分の代わりに殴られくれる人間を捜していたわけではない。雲雀と綱吉の仲を知っている草壁だからこそ、純粋に好意から、彼らがふたりきりになる時間を与えてやろうとしただけに過ぎない。
 ただそのお節介が、今回は裏目に出た。
 綱吉とて、雲雀が、木の葉の落ちる音でも目を覚ますことを忘れていたわけではない。慎重に慎重を重ね、そうっとドアを開けて、眠気覚ましに飲めるようコーヒーの準備もした。
 その間に自然と目覚めてくれればよかったのだが、余程疲れていたのか、雲雀は一向に起きてこない。
 このまま時間が過ぎるのを待っていたら、折角来たのに寝顔を眺めるだけで終わってしまう。用意したコーヒーも無駄になる。
 湯気を立てるカップと、ソファに横たわる雲雀とを交互に見て、綱吉は一大決心をして愛しい人の肩に手を伸ばした。
 最近、町内で夜中に騒ぎ立てる集団がいるとかで、風紀委員の活動はかなり遅い時間まで続いているという話だった。委員長である雲雀も無論、日付が変わっても町の中を巡回して、不審者がないかを調べている。
 だからこその仮眠だと、草壁は言っていた。しかしあまり寝すぎると、巡回以外の仕事をする暇がなくなってしまう。
 程ほどのところで起こしてやって欲しいと言われているから、と綱吉は警戒充分に、雲雀を揺り動かした。
 そうして、目にも留まらぬ速さで飛んできた拳に吹っ飛ばされた。
 殆ど条件反射だった雲雀は、殴ってから床でのびている綱吉に気が付いた。ちょっと赤くなっている右手を見て、自分がやったのだと把握して、本人なりに誠心誠意、謝ったつもりでいた。
 だのにまだ許してもらえない。
 本当に土下座してやろうか。一瞬、プライドもなにもかも忘れてそう思ったが、あの綱吉がそんな真似をされても喜ぶとは考え難かった。
 彼の性格からして、もっと意固地になるか、怒るかのどちらか。
 或いは泣くかもしれない。
 どれも充分ありえそうだと想像しながら、雲雀は意味も無く積み重ねた書類を縦にして、机で叩いて角を揃えた。
 もう十分もすれば、草壁が呼びに来るはず。やや落ち着きを欠いた目で時計を見上げて、雲雀は椅子の上で身を捩り、右を上に脚を組んだ。
 右肘を立てて頬杖をつき、疲労感たっぷりに溜息をついて目を閉じる。寸前、綱吉がなにか言いたそうな顔でこちらを見たのが解った。
 いくら寝ぼけていたからとはいえ、殴ったのは雲雀の落ち度だ。副委員長の余計な気遣いの所為でこんな羽目に陥って、後で恨み言のひとつやふたつ、吐き出さなければ気がすまない。
 庇のように長いリーゼントの男を思い浮かべ、雲雀は神経質に机の角を叩いた。
「あのっ」
「ん?」
「……いえ」
 気に障る音に奥歯を噛み、綱吉が思い切って声をあげた。が、薄目を開けた雲雀が不機嫌そうに首を振るのを見て、綱吉は生来の意気地なさを発揮し、口篭もった末に俯いた。
 なんでもないから気にしないでくれと、態度で伝えて右頬を撫でる。湿ったタオルは生温く、感触は不快だった。
 手の形に凹んでいる表面を擦って平らにして、彼はソファの上で腰を捩り、踵を持ち上げた。
 上履きのままソファに足を乗せた彼の、あまり行儀が良いとは言えない格好に空笑いを浮かべ、雲雀は頬杖を解いて両手を机に投げ出した。
 トン、という軽い音に、綱吉が視線を持ち上げた。
「痛い?」
 先ほどと同じ台詞を繰り返す。彼は一瞬きょとんとしてから、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「痛いです」
 ズキズキとした痛みは、治まるどころか悪化傾向にあった。頬のみならず、今やその範囲は身体中に広がっていた。
 特に酷いのが、胸だ。心臓の辺りがチクチクして、変な病気に罹った気分になる。
 素っ気無く言い返した綱吉に苦笑を返し、雲雀は机の角を押して椅子を引いた。立ち上がり、力強く床を踏み鳴らす。
 どきりとして、綱吉は思わず身構えた。ソファの上で後退して、背中を背凭れに押し付ける。体重を受けたスプリングが軋む音が、雲雀の耳にも届いた。
「どうすれば治る?」
「え?」
「どうしたら良いかな」
「そんな、事。自分で考えてください」
 唐突に聞かれて、意味が分からなかった綱吉は慌てて首を振った。反対方向に顔を向けて、つっけんどんに言い返す。
 動揺が表に出て、声が上擦ったのに気付かれなかったか心配になる。視界に影が落ちてきて、暗くなったと思った頃には、雲雀はもう其処に迫っていた。
 ソファの背凭れに右手を置き、左手は綱吉の肩に置いた彼が顔を覗き込んできた。思わずタオルを取りこぼしてしまった綱吉は、抵抗しようとして浮かせた手を取られ、そのままソファに身体を縫い付けられてしまった。
 赤味を残す肌は、可哀想になるくらいに腫れていた。殴られた直後に比べれば幾分マシになっているものの、見ただけで何かあったと解る色合いだった。
 このまま帰ったら、奈々やリボーンに確実に指摘される。
 見詰められて、火傷しそうな痛みを追加させて、綱吉は唇を噛んだ。
 丸めた舌が咥内の傷を掠めた。こちらは、明日には口内炎になっているだろう。
「痛む?」
「すんごく、痛いです」
 熱いものも、冷たいものも、固いものも、辛いものも当分は食べるのが辛い。今夜がカレーだったらどうしよう、と夕飯の献立を予想して憂い顔をして、綱吉は至近距離から覗き込んでくる雲雀を牽制した。
 蹴ってやろうとしたら易々と避けられて、悔しい。
 膨れ面をしてねめつけるが、効果は薄い。彼は目を眇めて笑うと、うっ、と息を飲んだ綱吉の赤い額に手を翳した。
 熱が無いのを確かめて、そうっと、痛まないよう注意深く右頬を撫でさする。
 触れられたところから感覚が麻痺していき、痛みが遠退くように感じられた。
 まやかしだと分かっている。だがこうやって優しくされると、意固地になっている自分こそが痛みの根源に思えてならなかった。
「まだ痛い?」
「いたい、です」
 繰り返し訊いて来る雲雀に、素直になれない。もう怒っていないと伝えたいのに、見詰めてくる眼差しが殊の外温かくて、心地よくて、ずっとこうして居たいがために我が儘になってしまう。
 思い切り殴られたのだから、これくらいは許されても良かろうと自分に言い訳をして、綱吉は小憎たらしい事を口にして上目遣いに彼を窺った。
 気付いているのか、雲雀が楽しげに笑った。
「なら、もう舐めるしかないかな」
「……ふえ?」
「舐めたら治るって、言うだろう?」
 告げられた台詞の意味が一瞬分からなくて、綱吉は変なところから声を出した。目を真ん丸にした彼に悪戯っぽく微笑みかけて、雲雀はつい、と丸めた指の背で赤らんだ頬をなぞった。
 ツキリとする痛みがどこから生じたのかも解らぬまま、彼は息を飲み、返事を待っている雲雀を凝視した。
「え、え?」
「言うよね?」
 戸惑っている彼に促して、雲雀が質問を繰り出す。
 確かに怪我をした時に、その言葉は良く耳にする。けれどもまさか、彼の口から聞くことになろうとは思っていなくて、綱吉は零れ落ちんばかりに目を見開き、恥ずかしさに真っ赤になった。
 可愛らしい反応の彼に目を眇め、雲雀が回答を迫る。
 鼻先を掠めた吐息に、綱吉は咄嗟に目を閉じた。耳朶に触れる悪戯な風が、胸をざわめかせる。
「ねえ。どこ、舐めて欲しい?」

2011/05/31 脱稿