焦香

 闇に沈む植物の間を抜けて、雲雀は小石を蹴り飛ばした。
 日付はとうに変わり、月は雲に隠れて見えない。庭に設けられた小さな灯りがぼんやりと夜を照らす中、通い慣れた道をしばし無言で進めば、程無くして目的地が姿を現した。
 外見は古めかしい、けれど中はそれなりに近代化が進んだ平屋建ての離れが、オレンジ色の淡い明かりに浮かび上がっていた。
「ん?」
 その様子が普段と異なるのに気付き、彼は歩みを緩めて首を傾げた。
 窓から光が漏れている。今朝方出かける際には、すべて消して出て行った筈なのに。
 防犯上の目的から、玄関先の明かりだけは夜になれば自動で点灯する設定になっている。だがそれ以外の、屋内で誰かがスイッチを弄らない限りは灯らない照明まで煌々とした輝きを放っていた。
 窓に映る影はない。いつになく明るい景色を訝しげに見詰めた後、雲雀は小さく肩を竦め、溜息を零した。
 ここで考えていたところで、誰かが答えを教えに来てくれるわけではない。自分で確かめるしかなかろうと腹を決めて、彼は止まっていた足を前に繰り出した。
 もっとも、誰の仕業であるのかはある程度予想がついていた。
 鍵は渡してあった。いつでも訪ねて来てよいとも伝えている。
 白っぽい明かりを放つ電球の下に立ち、雲雀はポケットから鍵を取り出した。もっともそれは昔ながらの金属製のものではなく、長方形の薄いカードだった。
 それをドアの横にある読み込み機に通し、ピッという音の次に暗証番号を素早く打ち込む。ロック解除の文字が小型の液晶画面に現れると同時に、和風の扉が自動的に左にずれて道を開いた。
「面倒臭いな」
 呟き、敷居を跨ぐ。彼が通り過ぎたのを確認して、ドアはまた勝手に閉ざされた。
 ついでにロックもされて、もうこれで外からは誰も入れない。もし無理矢理こじ開けようとしたら、警報システムが作動して周辺一帯に警告音が鳴り響く仕組みだ。
 ここまでしなくともよいと雲雀は思うのだが、自分が良くとも他は許してくれなかった。
 改築の際、防犯システムを一新しなければならなくなった原因たる存在を探し、鍵をポケットに戻した雲雀は靴を脱いで板敷きの廊下を進みだした。
 空気はひんやりと冷えて、人の気配は乏しい。元々雲雀がひとりで暮らすために造られた離れなので、部屋数はさほど多くなかった。
 台所、風呂、トイレ、洗面所にリビングと、あとは寝床である座敷。
 上着を脱ぎつつまず洗面所に向かった彼は、長く場所が固定されていたものが幾らかずれているのに気付き、苦笑を浮かべた。
 ネクタイを外し、手と顔を洗って濡れた前髪をピンと弾く。タオルで水気を拭いつつしばらく待つが、物音を響かせても誰もやって来ない。どうやら眠ってしまっているらしいと当たりをつけて、彼は肩を竦めた。
 他人が自分の領域に入り込むのを、長く拒み続けてきた。
 だのに「彼」だけは、するりと懐に入って来てしまった。
「僕も、歳を取ったね」
 自嘲を込めて呟き、鏡の中の己に目を細める。黒く冴えた瞳に不遜に笑いかけた彼は、襟元を広げて楽な格好を作り、電気がつけっ放しのリビングを抜けて襖へと近付いた。
 洋風と和風が入り混じった邸内を横断し、右に戸を滑らせる。そちらも照明が、動くものが誰もいないというのに一所懸命仕事をしていた。
 その働き者の蛍光灯の下で、大きなものが小さく、丸くなっていた。
「器用な……」
 思わずそう呟いてしまったのは、その猫の如く丸まった存在が、敷かれた布団をはみ出して畳の上に寝転がっていたからだ。
 枕を抱きかかえ、涎を垂らしてだらしなく口をあけている。瞼は閉ざされており、琥珀色の瞳は窺えない。
 寝床の周辺には本や、ホッチキスで端を固定した紙束が無造作に並べられていた。どうやらこれらを、枕を下敷きにして読みふけっている最中に、睡魔に襲われてしまったらしい。
 なにもこんな固い場所でやらずとも、すぐそこに机があるのにと視線を巡らせれば、そちらは先客で埋まっていた。
「そうか」
 昨晩使ってそのままになっている机上に眉目を顰め、雲雀は自省を求めて嘆息した。
 遠慮したのだろう。それとも、下手に触ると怒られるとでも思ったか。
 どちらにしても、この不自然な体勢のまま寝かせておくわけにはいかない。自分の寝場所を確保する為にも、と彼は膝を折り、散乱している書物を集め始めた。
 隅に並べて積み重ね、抜き捨てられたままだった上着も拾ってハンガーに掛けてやる。部屋の中がひと通りすっきりしたところで、雲雀は最後に残しておいた大きな荷物の片付けに取り掛かった。
 依然目覚める気配のない青年に微笑んで、気まぐれに薄茶色の髪の毛をかき回す。
「……ン?」
 そうして額に引っかかった指先に眉目を顰めた。
 引っかかった、というには語弊があるかもしれない。なにかに掠めたのだ。数ミリの凹凸を敏感に察知した指を往復させて、最後に痺れを切らして草臥れている前髪を掬い上げる。
「んぅ……」
 擽られて青年が身じろいだ。雲雀は息を飲み、小さく舌打ちした。
 ここまで好き勝手されているのに、青年はまだ目を覚まさない。余程疲れているのか、しどけなく横たわって微動だにすらしない。
 整った寝息に幾らか安堵して、雲雀は先ほど見つけた傷跡に渋い顔をした。
 額の中心からやや右にずれた辺りで、前髪に隠れてしまえば殆ど分からない。周辺と比べて若干白みを帯びた肌をなぞり、伸ばした指先をツ、と鼻筋へと辿らせる。
 くすぐったかったのか、青年が首を振った。口元に笑みが浮かび、頬が緩んだのが分かった。
 せめて夢の中でくらい、楽しい思いをしていればいい。数年前の自分なら、凡そ思いつかなかっただろうことを心に願い、雲雀は覚えのない傷跡から目を逸らした。
 スッと手を引いて、穏やかな寝顔を堪能した後、布団に移動させてやろうと両手を伸ばす。
 まず枕を奪い取り、仰向けにして、首の下から入れた右腕を肩から背へと移動させる。左腕は膝の裏から太腿に向けて滑らせて、持ち上げるべく腹に力を込める。
「……ふっ」
 瞬間、短く息を吐いた雲雀は、想定していた以上の抵抗に奥歯を噛み締めた。
 重い。
 それでも落とす事無くよたよたしながら敷布団を這い上がって、寝こける青年を無事に寝床に転がして、胸を撫で下ろす。じんじんする痛みを残した腕と、のほほんと熟睡中の青年とを見比べて、彼はゆるり肩を回した。
 記憶違いか、重くなっている気がした。
 昔はもっと軽々と持ち上げられたのに、と空の両手を見詰めて握り締める。散々揺さぶられ、弄られたからだろうか。背中に触れる感触が変わったのもあり、それまでまるで目覚める気配がなかった青年が、ぴくぴくと瞼を痙攣させた。
「ん……ぅ?」
 ゆっくりと目を開けた青年が、夢うつつの状態で呻いた。とろんと蕩けた目を左右に流し、現在地を把握しようと努める。
 覚醒しきれない頭は靄がかかったようで、目の前にしゃがんでいるのが誰なのかさえ、なかなか思い出せなかった。
「綱吉?」
「あ、るぇ」
「寝ぼけてるね」
「ひばり……さん?」
「うん」
 自分から訪ねて来ておいて、その質問は失礼ではなかろうか。だが思うだけで言わずにおいて、雲雀は緩慢に頷くと、起き上がろうとする彼に手を貸して、布団に座らせてやった。
 寝るつもりはなかったのだろう、彼はまだスーツだった。
 上着を脱いだだけで、緩めたネクタイはぐちゃぐちゃだった。シャツやスラックスにも、みっともないくらいに皺が寄っている。
 替えの服は持って来ているのか心配になったが、そんな話をここでするのも無粋というもの。明日の朝確認することに決めて、雲雀は目尻を擦っている綱吉に苦笑した。
「久しぶり」
「はい、凄く。とても」
 まだ完全に覚醒しきれていないらしい。どうにも言葉遣いがたどたどしい彼に肩を竦め、雲雀は跳ね返っている蜂蜜色の髪を柔らかく梳いてやった。
 温もりが心地よいのか、綱吉から擦り寄ってきた。猫を真似てゴロゴロ喉を鳴らし、久方ぶりの触れあいに顔をほころばせる。
 前に会ったのがいつなのかが咄嗟に思い出せないくらいには、ふたりは離れて暮らしていた。
 中学校を卒業し、高校を出て、お互い大学にはいかず社会人となった。綱吉は父親がヨーロッパで代表を務めている会社に、表向きは入社した形になっている。だが普段はイタリアの、とある田舎に建つ古い城で生活している。
 日本に帰るのは数ヶ月に一度。ただし近頃は、実家にあまり立ち寄り辛くなってしまった。
 そんなときだ、雲雀が好きに使えばいいと、この家の鍵を渡してくれたのは。
 勝手をして日本を飛び出した手前、母には会いづらかった。それにあの家にはまだビアンキがいて、イーピンも一緒に暮らしている。ランボはイタリアに連れていったが、向こうで何をやっているのか、何も知らぬ奈々に誤魔化し通すのは骨が折れる作業だった。
 会えば話してしまうかもしれない。気が緩んだ瞬間にぽろっと零して、余計な心配をかけたくなかった。
「酷い寝癖」
「ヒバリさんは、いつ……?」
「そうだね。少し前に」
 ぼんやりしている青年の頬を擽り、呟く。会話がかみ合わない。尻すぼみの問いかけに、彼は鷹揚に頷いた。
 綱吉が首を振った。大きな欠伸を零し、本当に猫のように伸びをして顔を揉む。頬を軽く二度叩いた彼から少し距離を取り、雲雀は襖で仕切られている押入れに向かった。
 開ければ、中から和箪笥が顔を出した。
「僕は風呂に入ってくるから、君はもう一度寝なよ。構わないから。でもその前に着替えてね」
「お風呂……おれも、入る」
「今からだよ?」
 もうかなり遅い時間だ。丑三つ時まであと少し、というところ。だから入浴といってもシャワーをサッと浴びる程度で、湯船に浸かるような真似はしない。
 だのに綱吉が眠そうな顔をしつつ手を挙げるものだから、雲雀はつい声を高くし、聞き返してしまった。
 冷たい水を浴びれば頭もしゃきっとしそうなものだが、今の状態で洗面所まで連れて行くのに、まず苦労しそうだ。大人しく寝ていてくれたほうが、雲雀も面倒をせずにすむ。
 顔に不満が出たらしい、見ていた綱吉がムッと口を尖らせた。
「はやく」
 ダダを捏ねる子供になって、両手を伸ばしてくる。抱き上げてくれとの依頼に、雲雀は先ほどの重みを思い出した。
「嫌だよ。君、太ったでしょ」
「ぬあ!」
 疲れているのもあって、言葉にセーブが利かない。歯に絹を着せぬ物言いに、綱吉は変な声を出した。
 それまで閉じ気味だった瞼が一気に上まで持ち上がり、顔色には血の気が戻ってむしろ赤すぎるくらいだ。
 眠気など、どこかに吹き飛んでしまったのだろう。ぎらぎらと琥珀の目を光らせた青年に、雲雀は肩を竦めた。
「太った」
「太ってません!」
「太ったよ。さっき持ち上げたけど、重かったし」
「えええー」
 何度も繰り返されて、綱吉は拳を作って否定した。が、既に確かめた後だという雲雀に睨まれて、不満げに声を零して腰を落とした。
 右腕を持ち上げて顔の前に持っていき、贅肉がついているかと袖の上から上腕を抓む。だが引っ張れば、指に残るのは長袖のシャツばかりだ。
「筋肉は重いからね」
 頻りに首を傾げている青年にぼそりと呟き、雲雀は立ち上がった。
 箪笥から出した着替えを抱えて、片方を綱吉に差し出す。真新しい下着を渡されて、彼は渋々自力で起き上がった。皺だらけのシャツをなぞり、はみ出ていた裾を伸ばして臍を隠す。
 出会った当初と比べれば、彼は格段に、身体つきがよくなった。
 昔はひょろりとしていて、まるでモヤシだった。押せば簡単に倒れて、腕も握れば折れそうな細さしかなかった。
 今は、どうか。手首を掴んだ指が一周できたのは、過去の話だ。
 数々の戦いを経験して、彼は強くなった。様々な敵と相対して、心の強さも磨いていった。
 日本を遠く離れ、イタリアで生活するようになった彼は、ここ最近はヴァリアー相手に鍛練を積んでいるらしい。彼らも強い相手を得て、日々の修行に精が入っていることだろう。
 一方の雲雀はといえば、拠点は未だ日本であるが、世界各地を飛び回り、情報収集にあたる毎日だ。
 四六時中引っ付いていた中学生時代とは違い、今は離れている方が圧倒的に長い。
 お互い、もう子供ではない。責任ある立場に身を置いて、あくせく働いて汗を流している。
「太ったかな……」
 まだ納得が行かない顔をして、綱吉は呟いた。頬をなぞり、鼻を軽く抓む。以前は柔らかく、餅のように良く伸びたそこも、今やスッと細くなってすっきりしていた。
 昔は幼さばかりが強調された眼も、落ち着きを得た分だけ穏やかさが増した。彼が微笑むと、ぎすぎすしていた空気も一気に和らぐ。
 華奢だった体躯は、いつしかがっしりとした骨格に変わっていた。大人びた風貌になった。
 暫く会わない間に、色々と変わった。変わっていないところも無論あるが、五年前と比べればまるで別人だ。
「つなよし」
 呼べば、即座に返事がある。
「はい?」
 この距離感がたまらなく嬉しくあり、また切なくもあった。
 手を伸ばせば触れられるのに、触れた彼は記憶の中の沢田綱吉と少しだけ違っている。くすぐったそうに首を竦めた青年の笑顔は、彼を好いていると気付いた頃からなにも変わっていないのにも関わらず、だ。
「ヒバリさん?」
 軽やかに名を呼ぶ声は、変声期を経て些か低くなった。
 以前にも増してあまやかになった呼びかけに相好を崩し、雲雀は伸び気味の髪を指に絡め、軽く引っ張った。
 痛かったのだろう、綱吉が口を尖らせた。新品の下着を握り締めて、怪訝に見詰めてくる。
 離れている間、彼は何を考えていただろう。少しは自分の事を想い、会えない時間を憂いでいただろうか。
 聞きたいが、聞くのが少し怖い。この数年ですっかり臆病になった。短く息を吐き、雲雀は昔のままのものをひとつ見つけて口角をゆがめた。
「ム」
「ね、綱吉。キスして」
 不穏なものを気取った彼を捕まえて、囁く。
 突然、なんの前振りもなしに強請られた青年は一瞬ぽかんとして、五秒後に目を真ん丸にして素っ頓狂な声をあげた。
「はあぁぁぁ!?」
 どかん、と爆発して真っ赤になる。響き渡る絶叫に雲雀は呵々と笑い、変わらない背丈の優位性を利用して畳の跡がついている額を小突いた。
 首を前後に揺らして、綱吉が琥珀の目を泳がせる。真正面からじっと見詰めてくる黒水晶の瞳に照れて、喘ぐように口を開閉させた後、彼は恨めしそうに雲雀を睨んだ。
 てんで迫力のない眼差しにほくそ笑み、雲雀は早くするよう急かして彼の脛を蹴った。
 この辺りも、出会った当初から変わっていない。未だにキスは雲雀からで、綱吉が与えてくれるのは稀だった。
 催促されて、青年はうろたえて右往左往した。風呂に入る云々から太った、という話題になって、そこから何故キスしろ、になるのだろう。
 さっぱり流れがつかめなくて戸惑っていたら、また足を蹴られてしまった。
 乱暴な彼に頬を膨らませて拗ねるが、盗み見た雲雀の期待に溢れる表情に気勢を削がれて、怒りを長く維持できない。久方ぶりの再会でそんな風に笑顔を大放出されたら、多少無理な願いだって聞き届けてやりたくなるではないか。
「うぅぅ」
 呻き、綱吉は奥歯を噛んだ。どうしてもやらなければ駄目かと目で問えば、気付いた雲雀が不遜に笑んだ。
「してくれたら、一緒に入ってあげなくもないけど?」
「ヒバリさんが入りたいだけでしょ」
「嫌ならいいよ?」
「ああ、もう!」
 いやらしい誘い文句に言い返せば、即座に冷たく切り返されて彼は地団太を踏んだ。
 悔しそうに歯軋りして、大粒の眼で余裕綽々としている男をねめつけ、やがて大人しくなったかと思えば突然ぼすん、と雲雀の胸に寄りかかって来た。
 体重を丸ごと受け止めて、雲雀は右に首を倒した。
「つなよし?」
「目、閉じてくださいよね」
 それが交換条件だと囁いて、ちらりと前髪越しに窺ってくる。
 こみ上げてくる様々なものを飲み込んで、雲雀は鷹揚に頷いた。約束だと誓いを立てて、ゆっくりと目を閉じる。
 傲岸不遜を絵に描いたような彼には、いつまで経っても敵わない。それを少なからず悔しく、また嬉しく想いながら、綱吉は踵を浮かせ、背伸びをした。

2011/10/06 脱稿