Crocus

 騒然とした空気は、王の発した凛と響く声によって表向きは終息を見た。
 命じられた役目を果たすべく、八人将のひとりであり、シンドリア随一の魔法使いであるヤムライハが最初に席を辞した。続けて王が臣下のうち数名を連れ、薄暗い広間を出て行った。
 篝火にくべられた薪が、まだ新しかったのか、大きな音を立てて爆ぜた。見張りの兵が数名槍を持って壁際に立ち、どこか不安げな顔をして闇を見つめていた。
 王に近しい場所にいる彼らでさえ、こんな顔をするのだ。状況を把握する術すらない国民の大半は、いったいどんな心境でこの夜を過ごしているのだろう。
 祭のただ中で起こった一連の出来事は、シンドリア建国後、初めてとも言える大騒動となった。
 なにせ七つの迷宮を攻略し、向かうところ敵なしとまで言われた七海の覇王の足許に、堂々と忍び込んだ輩がいるのだ。しかもその男は奇怪な術を行使し、罪なき人々を傷つけ、あまつさえ偉大なる王を呪った。
 祭を楽しむ人も多かったから、必然的にその場を目撃した人も多い。怪我人も多数出ている。うち数名が重症だ。
 賑やかだった空間は一瞬にして嘆きの海へと形を変えた。
 誰もが王と、王の客人の身を案じ、この先自分達はどうなるのかと憂い、怯えていた。
 城門は閉ざされたが、シンドバッドの身を心配して駆けつけた国民は多い。帰るよう促しても、後から後から沸いてでて、波が引く様子はなかった。
 門番の兵士達がいかに声を大にして、王は無事であると叫んだところで、その姿を目にするまで、恐らくあの場に押しかけた国民は、誰ひとりとして帰路に就かないだろう。
 シンドリアに移住してきた民には、嘗ては難民だった者も多い。故国を戦争や、疫病の流行、或いは謂われなき罪を着せられて追われた人々が、それなりの数存在していた。
 だから皆、不安なのだ。ようやく得た安住の地を、また失う事になるのではないかと。
 シンドバッドという、恐らくはこの世界で最も強き男に守られた国であっても、戦の火種がいつ降りかかるかは分からないと、多くの民は意識させられたに違いない。
 故に、心の平穏を得る為にも、彼らはシンドバッドが無事でいる姿を求めた。
 もっともその王は、今現在、王城にいない。秘密裏に行動し、魔法を駆使して不埒な侵入者を仕留めんと動いている。
 だから城に残された臣下達の役目は、王に成り代わり国民を安心させるところにあった。
 ジャーファルも、無口なマスルールでさえ、各所に赴いて不安を訴える人々に手を差し伸べた。
 我等が王は誰よりも強健であり、誇り高く、決して卑怯な魔法に屈したりしない。それよりも王は、民が寝る間を惜しんで祈りに耽り、身体を壊してしまうのを心配している。そう優しく語りかけ、憂いを取り除く作業に勤しんでいた。
 皆が忙しく自分に課せられた使命を全うする中、ヤムライハもまた焦りを裡に隠し、廊を急いだ。
 シンドバッドが大丈夫だと言うのだから、きっと大丈夫なのだろう。その根拠がどこにあるのかも分からないが、ヤムライハには彼を信じるしか出来ることがない。
 言われた通りに転送魔方陣は発動させた。後は無事に帰ってくるのを願うばかり。彼女は足を止めて手にした杖をジッと見つめると、長い息を吐き、些か疲れを訴える肩を交互に労って首を回した。
 夜はまだ長い。暗闇に目をやれば、そのまま飲み込まれてしまいそうな恐怖すら覚えた。
 弱気になりたがる心にハッとして、かぶりを振る。自分がこんな調子では困る人が大勢いるのを思い出す。しっかりするよう繰り返し強く己に言い聞かせて、胸の奥底で凝っている澱みを遠くへと追い払う。
 それでも溜息は止められなかった。額を撫でた前髪を掻き上げて指に絡め、彼女は「行って来る」と、まるで街へ散歩にでも行くかのように言い放った男に肩を竦めた。
 シンドバッドについては、問題なかろう。どうせ心配したところで無駄なのだ。ヤムライハが知る限り、あの男が真にピンチになったことなど、過去一度もない。
 いや、あったかもしれない。少し買いかぶりすぎているかと真剣に考えそうになって、彼女ははたと我に返って慌てて思考にブレーキをかけた。
「それよりも」
 あっさり行ってしまった男はひとまず脇に置き、もうひとつの難題を思い返して、眉間に皺を寄せる。
 魔法には必ず術式が存在する。それなくして魔法は成立しない。魔力の構築式さえ解明できれば、シンドバッドやアリババに施された呪いもまた、解けるに違いない。
 だけれど、と彼女はこめかみを杖で二度叩いた。
 複雑な術だった。これまで数多の魔術書に目を通して来たけれども、あんな忌まわしい術など見た事も、聞いた事もない。
 構造の予想など、まるでつかないのが実情だ。明日、夜明けを待ってから王城にある魔術書を徹底的に調べて、どこかにヒントがないか探し出さなければ。
 シンドバッドは兎も角、アリババへの負担が心配だ。魔法の侵攻を食い止めてくれ、と王は言ったが、それとて簡単ではなかろう。
 正直なところ、気が重い。だがやらねばならない。責任が重くのし掛かり、正直逃げ出してしまいたかった。
 それでも気力を振り絞り、どうにか目的地に辿り着いた。天井の高い広間は、篝火が掲げられているところだけが異様なまでに赤々として明るかった。
 長く伸びた濃い影の中に、見知った姿が幾つかあった。銀髪の男が腰を屈め、座っている少年に何かを熱心に語りかけている。その足許には藍色の髪の子供が座って、不安を表に出すまいと笑っていた。
 椅子に腰掛けている少年が、真っ先にヤムライハに気付いた。
「ヤムライハさん」
「お、戻って来たか」
 どこか嬉しそうな、安堵を含む声に反応し、中腰だった男も背筋を伸ばした。軽く右手を挙げて、肩の位置で左右に振り回す。頭の痛い問題がまたひとつ噴出して、彼女はつい渋面した。
 眉間の皺を深めたヤムライハに、アリババとシャルルカンが顔を見合わせた。小首を傾げている姿からは、ルフを侵食するという恐ろしい魔法を掛けられている現状がまるで窺い知れない。
 もう少し悲壮感を漂わせていると思っていた。が、嘆いたところで仕方が無いのも事実だ。いっそシンドバッド並みの楽観さで居てくれる方が、ヤムライハだってやりやすい。
 それよりも。
「どうして貴方が、此処にいるの」
 ツカツカと早足で歩み寄れば、勢い余って床に置かれていた金だらいを蹴ってしまった。張られた水が波立って、飛び散った水滴がアラジンの足にかかった。
 冷たさに飛び上がった少年に早口で詫びて、彼女はきょとんとしているシャルルカンに向き直った。
 杖を持ったまま両手を腰に当てて、胸を張って目を吊り上げる。怒り心頭の様子に、彼は不満げに口を尖らせた。
「悪ぃかよ」
「悪いに決まってるでしょ。貴方、剣術しか出来ない馬鹿だけど、一応この国では偉い方の部類に入るんだから。他のみんなが国の大事に駆け回ってるのに、なにぼさっとしてるのよ、この馬鹿」
 馬鹿、のところを他よりも強調して言った彼女が、杖を振り回して先端をシャルルカンに向けた。殴られそうになった彼は咄嗟に後ろに下がって避けて、巻き添えをくらって頭上に風を感じたアリババが苦笑した。
 魔法を受けた影響で黒ずんだ腕を胸の高さまで持っていき、鼻息荒くしているヤムライハを宥める。
「師匠は、悪く無いんです。俺を心配して、残ってくれていただけで」
「そうそう。コイツが、行かないでーって俺に縋りつくもんだから」
「違います!」
 弟子が庇ってくれたのに気をよくして、シャルルカンが調子に乗って言った。指差された少年は途端にカッと赤くなって、吹き飛んでいきそうな勢いで首を横に振った。
 明るいやりとりに、座り直したアラジンがニコニコと笑う。今のところ、黒いルフがアリババに攻撃を仕掛ける様子はみられない。彼が元気に笑っているのが、嬉しいのだろう。
 誰もが不安だから、最悪の結末を考えたくないのだ。目を逸らし、思考から追い出して、楽な方に逃げたがる。
「なーに言ってんだ、アリババ。俺が居ないと怖くて泣いちゃうだろ、お前」
「泣きません。俺、もうじき十八ですよ」
「嘘つけ、ほれほれ」
「止めてください、師匠」
 呆れてものも言えないでいるヤムライハを無視し、シャルルカンがアリババの肩に腕を回した。座ったままの彼を引き寄せて、柔らかな頬を抓ったり、引っ張ったり、ちょっかいを出してからかい続ける。
 アリババも、内心は恐怖を抱いているに違いない。だから逐一、大袈裟なまでに反応して返す。それでシャルルカンが益々調子に乗って、彼本来の役目を忘れてこの場に留まり続ける。
 彼は八人将のひとりだ。確かに襲われたうちのひとりはシャルルカンが可愛がっている弟子であるアリババだが、彼が今本当にやるべきは、もっと他にある。
 ピスティですら鳥を呼んで上空から島内を監視し、懸命に働いているというのに。
「シャルルカン」
 苛立ちが膨らみ、表面にピシリと罅が奔った。
 ヤムライハとて気丈に振る舞ってはいるけれど、本当は怖い。だが歩みを止めたところで何も解決しない。与えられた任務を忠実にこなし、出来ることは全てやり通す覚悟を維持出来なければ、心は呆気なく折れて二度と繋がらない。
 皆、ギリギリのところで己を保っているというのに。
 鬱積していた感情が爆発する。憤りに我を忘れて、怒鳴ってやろうと息を吸う。
「シャ――」
「俺が悪いんだよ!」
 それを制し、彼が先に叫んだ。
 闇を切り裂く悲痛な声に、見張りの兵士までもが何事かと目を見張った。注目がシャルルカンに集まる。虚を衝かれたヤムライハが呆然とする中、既に何度となく繰り返して来たやりとりなのか、アリババがゆるゆる首を振り、彼の手を取った。
 白い指が、褐色の肌に絡みついた。
「違います。あそこで師匠が動かなかったとしても、きっと違う誰かが動いていた。俺が切りつけていたかもしれない」
「アリババ……」
「誰もアイツがあんな真似をするなんて、分からなかったじゃないですか。師匠が責任を感じる事はありませんよ。それに、俺も、ほら。大丈夫です」
 軽く引っ張って、俯いているシャルルカンに語りかける。健気に振る舞う少年が、本当は辛いだろうに本音を隠し、大人を慰めて黒ずんだ腕を振り回した。
 アラジンは黙って見ているだけだ。その瞳は憐れみと哀しみが半々で混じり合っているように、ヤムライハには映った。
 痛々しい。
 アリババやシンドバッドが呪いを受けたのは、確かにシャルルカンの責任ではない。元凶は魔法を放った男だ。白龍だって知らなかったのだ、彼を責めるのは筋違いも良いところだ。
 もっとも、当人らはそうは思うまいが。
 控えめに笑ったアリババを探るような目で見つめて、シャルルカンはふっと息を吐いた。表情にいつものお気楽さが戻り、場を取り巻く空気も緩んだ。
「ったく。何が大丈夫だよ。お前の大丈夫は、信用ならねーんだ、よっ」
「いひゃ、いひゃいれす」
 腰を屈め、両手を伸ばす。頬を抓んで引っ張られて、アリババは嫌がって首を振った。
 アラジンがぷっ、と噴き出した。子供らしい笑顔でケタケタと声を響かせる。夜闇がねっとりと天井を覆う広間で、この一帯だけが仄かに温かく、明るかった。
 悪いことではない。鬱々とした感情が病を呼び込むように、気に病めば病むほど黒いルフはアリババを侵食する。だから彼が笑っていられる間は大丈夫だと、ヤムライハも思う。
 ただ。
「お前は絶対、俺が助けてやるからな」
「いちち……。っていうか、師匠は魔法のこと、全然でしょう?」
「おう。だから、そこのヤムライハがな!」
「僕もいるよ?」
「おっと、そうだった」
 赤くなった頬を撫で、アリババが自信満々に胸を叩いたシャルルカンに真顔で問う。それを受けて、彼は大仰な手振りで、話に混じりもせず冷たい目をしていたヤムライハを指し示した。
 聞いていたアラジンが自分も忘れるなと声を高くして訴えて、シャルルカンが頭を掻きながら白い歯を見せた。
 一連のやりとりにぽかんとして、ヤムライハは奥歯を噛んだ。
 彼がアリババを可愛がり、大事に思っているのは知っていた。
 単に弟子が出来たのを嬉しがって、出来の悪い弟の面倒を見るのが楽しくて仕方が無いだけだと、平和だった頃は思えた。
「……ま、そこの剣術馬鹿よりは、私は役に立つけどね」
「んだと、やる気か?」
「やらないわよ。それよりも、シャルルカン。貴方、外の騒ぎをどうにかするつもりがないのなら、大人しく寝るなり、なんなりしなさい。心配なのは分かるけど、貴方まで倒れられたら困るのよ」
 呆れ混じりに呟いて挑発し、乗ってきたところを畳みかける。肩を竦めた彼女にギリギリと歯軋りするシャルルカンを見上げ、アリババが目を細めた。
 くい、と上着の裾を抓んで引っ張って、笑いかける。
「俺も、師匠が倒れるのは嫌です。今は休んでください。俺は、ヤムライハさんもいるし、アラジンだって。ホント、大丈夫ですから」
 こんな時でも人の身を優先させて、自分は二の次に置く。いたいけな姿にジーンと来たシャルルカンを、ヤムライハが杖で容赦なく殴った。
 ガッ、とかなり良い音がした。痛がって蹲った男を追加で蹴り飛ばして、彼女はついでとばかりに金だらいを持ち上げた。
「水を替えてくるわ。杖、御願い出来るかしら」
「はーい」
 頼まれたアラジンが元気よく手を挙げて、師匠の杖を引き取った。自分の分と並べて膝に載せて、大事に抱き締める。
 手加減ない攻撃に打ち拉がれていた男も、名残惜しげにしながら立ち上がった。
「なんかあったら、呼べよ」
「はい、頼りにしてます」
「絶対だからな!」
 弟子は呵々と笑って受け流しているのに、師匠はどこか必死だ。指差されたアリババは照れ臭そうにして、ヤムライハに頭を下げた。
 彼の方がきっと、状況が良く分かっている。大人になりきれないでいる大人に肩を竦め、彼女はシャルルカンの耳を抓んで引っ張った。
「ほら、早くなさい」
「いってえ。止めろって、おい」
 倒れそうになったシャルルカンが後ろ向きにたたらを踏んで、お陰で背丈がほぼ同じになったふたりが連れだって広間を出て行く。平素ならばほのぼの出来る光景も、どこかしら棘があり、ぎすぎすしていた。
 アリババが遠くなる背中を見送って、自嘲気味に笑った。
「泣きそうなの、師匠の方じゃん」
「……だね」
 そんな子供たちの呟きなど聞こえるわけがなく、シャルルカンは散々喚いて暴れ、太い柱が等間隔に並ぶ回廊に出たところでヤムライハの手を振り払った。
 ずれ落ちかけていた上着を手早く整え、気まずげにしながら赤く腫れた耳を撫でる。道中、タライの水はほぼ全て零れてしまった。だが彼女は濡れていない。水を操る魔法を得意とする彼女にとって、これくらい朝飯前だった。
 そして。
「ぶはっ」
「目が醒めた?」
 空中から取り出した水分を集め、憤然としているシャルルカンの頭に落とすのだって。
 一瞬で水浸しになった男に訊ね、空のタライでオマケだと叩いてやる。小気味よい音を響かせた男は奥歯を噛み、二発目を避けて地団駄を踏んだ。
 彼女にはアリババに降りかかった、吐き気のする魔法を解いて貰わなければならない。だから下手に出ていたのに、と語気荒く捲し立てた彼を冷徹に見つめ、ヤムライハはスッと目を眇めた。
 表情が消えた。しかし雰囲気で機嫌が悪いのは充分伝わって来る。
 喉元に切っ先を突きつけられた気分に陥り、彼は生唾を飲んだ。
「……なんだよ」
 水を被せられる理由だって、よく分からない。ぼそぼそと掠れる小声で言い返せば、彼女は盛大に溜息をつき、右手で帽子を掴んだ。
 鍔を引きずり下ろし、顔を隠す。
「確かに、アリババくんは今、凄く大変なことになってる。彼が不安になるのは、分からない話じゃないわ。でも貴方が傍にいたところで、なんの解決にもなりはしないの」
「ンなこと」
「それにね!」
 負けじと声を荒らげた彼の前で、ヤムライハは帽子を投げ捨てた。怒鳴り、呆気に取られた男を哀しげに見上げて、目を逸らす。今し方自分で放った帽子を拾って大事に抱き抱えて、入れ替わりにタライを床に落とす。
 夜風は冷たかった。シンドバッド王の身を案じ、集まった人々の騒ぐ声が、耳を澄ませずとも聞こえて来た。
「貴方が彼を大事に思っているのは分かるわ。大切にしたいと思っているのも知ってる。でも、忘れちゃいけないことだってあるのよ。あの子は、ね。シャルルカン」
 こんな事、出来るなら言いたくなかった。
 だがきっと、放っておけばいつか取り返しのつかないことになる。その時、身を裂かれる想いをするのはきっと、アリババの方だ。
「あの子は、貴方の王じゃないでしょう?」
 シャルルカンはシンドリア八人将の一であり、シンドバッドの眷属器を有する男だ。
 いかにアリババに肩入れしようとも、その事実は覆せない。
 告げて、ヤムライハはタライを拾って走り出した。振り返らない。足音は闇に溶けて、瞬く間に消えてなくなった。
 立ち尽くし、シャルルカンはやがてふらりとよろめいた。足が縺れ、倒れそうになったのを柱にぶつかる事で踏み止まる。
 そのままずるりと肩を滑らせ、手は自然と腰に佩いた剣に触れた。
 鍔鳴りが闇に響く。
 己が王の名を紡ごうとした唇は、しばしの逡巡を経て、そうっと静かに閉ざされた。

2011/10/17 脱稿