Daisy

 クーフィ-ヤをつけていても、前髪だけならば見える。だから知っていた筈なのに、彼が頭を覆う布を取り払った瞬間、馬鹿みたいに驚いてしまった。
 シャルルカンとはまた異なる、ややくすんだ感のある銀色は、南洋の眩しい日射しを受けて輝く、というよりは光を飲み込んで内に溜め込んでいるように見えた。
 月夜が照らす砂漠の、風化して細かく砕かれた石英の輝きに似ている。もっともそんな感想を、声に出して言えるわけがない。思い浮かべた光景を瞬きと同時に打ち消して、アリババは正面に立った青年に深くお辞儀をした。
「ありがとうございます」
「いいえ。では、宜しく」
 畏まった彼に穏やかに微笑み返し、ジャーファルが両手を高く掲げ、拳を緩く握った。軽く礼をして、左右の手をぶつけ合わせる。儀礼的な挨拶を終えた後、顔を上げた彼の眼は鋭く尖っていた。
 平素の優しい、皆の兄的な表情を一変させて、相対する小さな存在を睥睨する。
「っ!」
 一瞬の変貌に圧倒されて、アリババは息を呑んだ。
「いきますよ」
「……はいっ」
 周辺の空気が震えた。まだ陽も高い、温かな日中であるというのに、凄まじい冷気がびりびりと肌を刺す。上着を脱いで晒した腕に鳥肌が立ち、遅れて温い汗が全身の汗腺からどっと噴き出した。
 告げられた合図に返す声が上擦った。内心の動揺を表に出してしまったのを恥じて、アリババは奥歯を噛み、右足を僅かに前に出して腰を落とした。
 周囲から雑音が消えていく。鍛錬場を見つめる複数の視線も、意識の外に追い遣られた。
 息を整え、ただ目の前に佇む相手にだけ集中する。
 と、ジャーファルが不意に動いた。
 だらりと垂らしていた腕を揺らし、ゆるりと肩を回す。筋肉の凝りでも解そうとしているような、どこの誰もがやるような仕草だった。
 ところが。
「……え?」
 まるで手品かなにかのように、上腕を覆う袖の中から漆黒の紐がしゅるりと落ちて来た。思いの外太く逞しい腕に絡みつき、手首のすぐ手前で停止する。
 生き物の如きうねりを伴った太い紐の最後に、しゅっ、と銀の閃光が奔った。
「アリババ!」
 不可思議な出来事に見惚れていたアリババの耳に、外野で観客を気取っていたシャルルカンの声が突き刺さった。
 はっと息を吐く。我に返り、瞬きをした刹那。
「わあ!」
 爪先で地面を蹴ったジャーファルが、アリババの懐に飛び込んで来た。
 咄嗟に後ろに跳んで避け、腰に佩いたバルバッドの宝剣に手を伸ばす。柄を握れば、帯に固定した金具がガチャリと嫌な音を立てた。
 父王より、シンドバッドの手を経て息子に託された剣は、刃が二段になっている構造の為もあり、鞘から抜くのにコツが必要だった。肩を捻り、鞘を前に、柄を後ろにして身体の傾きも利用して引き抜く。利き腕にずしりとした金属の重みがのし掛かった。
 先制攻撃を躱されても、ジャーファルは驚かない。むしろ今の一撃を避けられなかったら、この先に待ち構える数多の戦いなど、到底勝ち残れるはずがない。
 腹に溜めていた息を短く吐き出して、彼は左足を軸に身体を半回転させた。同時に指の力を半減させて、握っていた両刃の鏢の茎を軽く弾く。
 開いた手の中で、鏢もまた切っ先の方向を変えた。前には飛んで行かない。茎の根本に結びつけられた紐がストッパーの役目を果たし、再び掌中に戻って来た愛器を、ジャーファルは親指と中指で挟み持った。
「ふ――っ」
 右膝を折って左膝は伸ばし、腰を落として地面に対して腕を水平に構える。視線は右手に、ようやく剣を抜いたアリババへ。
 吐き出された息を追い越して、投げ放たれた鏢が金髪の少年を襲った。
 黒い紐が空中を、まるで蛇のように駆け抜ける。咄嗟に腕を掲げたアリババが、襲い来る凶器を叩き落とした。ギンッ、と硬い音が鍛錬場に響く。安全な位置から見ていたターバンの少年が、首を竦めて耳を塞いだ。
 勢いを殺された鏢が地面に落ちる。だが硬いタイルの床に着地するより早く、ジャーファルが腕を引いた。両者を繋ぐ紐がぐん、と楕円を描いて彼の腕へと舞い戻る。息をつく暇もなく、もう一本の鏢がアリババに襲いかかった。
「くっ」
 今度は直線の軌道ではなかった。左方向を迂回し、半円の軌跡を描いた鋭器が時間差で彼の動きを封じようと足を狙った。
 地面すれすれのところからの攻撃に、跳んで避けるより他に対処のしようがない。奥歯を噛み締めたアリババは、素早く視線を移動させると、戻って来た鏢を受け止めたジャーファルに向けて思い切って進路を取った。
 中距離攻撃を得意とする相手に、その間合いで戦いを挑むのは不利だ。
 金属器、及び眷属器は使わないと最初に決めている。これはあくまでも模擬戦であり、命の奪い合いではない。ただの実践形式の訓練のひとつだ。
 それでも、簡単に負けたら悔しいではないか。
 実力的にアリババがまだまだ未熟なのは、本人も認めるところだ。つい最近、アモンが新しい器に乗り移ったばかり。父親から、数奇な運命を経て託された宝剣を自在に操れるようになるのにも、当分時間がかかりそうだ。
 両手に鏢を握ったジャーファルに、果敢に切り込む。上段から右肩を狙うが、無駄の無い動きであっさりと躱されてしまった。
 得意とする距離を確保しようと、彼が横に跳んだ。見越していたアリババは膝の高さに来ていた剣から左手を抜き、両足で地面を踏みしめた。
「うらぁ!」
 左腕を振り子にして、腰を捻る。増幅された力によって弾き出された切っ先が、ジャーファルの脇腹を狙った。
 視界の端でシャルルカンが握り拳を振り回していた。その隣には、ヤムライハがつまらなそうな顔をして座っている。ジャーファルから預かったクーフィーヤを膝に抱いているのはアラジンだ。彼の後ろに、いつの間に現れたのだろう、この国の王までもが立っていた。
 余計な情報は、頭を混乱させる。ギャラリーの存在を素早く頭から追い払って、アリババは鏢によって叩き落とされた剣の切っ先を上向きに修正した。
 右足を前に、左足を後ろに。
 脇を締めて、腕の振りをより鋭く。
「くっ」
 立て続けに襲い来る剣戟に、ジャーファルが小さく呻いた。紐を幾重にも腕に巻き付けながらも、それを解き放つ暇を与えて貰えない。鏢の短い茎、及び薄い刃の中央に施された意匠に指を添えて握り、アリババが繰り出す剣を逐一薙ぎ払っていく。
 金属同士がぶつかり合う音が、絶え間なく響き渡る。一瞬の隙が命取りともなろう一戦に、近くにいた兵士達もざわつき始めた。
「……の!」
 ここ一番の決め手に欠いてはいるが、人の目にはアリババが一方的に押しているように見えたかもしれない。だがシャルルカンは深い溜息をついて天を仰ぎ、シンドバッドは腕組みをしながら呵々と笑っていた。
 アリババの剣は、一度としてまともにジャーファルに当たっていなかった。
 全て、いなされている。上下左右、あらゆる方向から仕掛けても、先読みした鏢が受け流し、軌道を逸らしてしまっていた。
 次第にアリババの顔色に焦りが浮かび、精緻だった剣捌きに綻びが出始めた。
 疲れもあるのだろう、息継ぎが荒い。
 シャルルカンにもある程度認められた剣技が悉く打ち返されて、流されるのを認めたくない。どこからか突き崩せやしないかと、接近戦にもまるで動じないジャーファルに舌打ちして、強く跳ね返されたのを契機に一旦後ろへと下がる。
 ず、と擦れたタイルが埃を巻き上げた。吐き出した息の熱さに目眩を覚え、睫毛を越えて目に入りそうになった汗を雑に拭って首を振る。
 ジャーファルは鏢を握った手を胸の前で交差させ、涼しい顔で頬を緩めた。
「誰も、接近戦が苦手だとは言っていませんよ」
 さらりと言われて、アリババは上唇を噛んだ。
 今更告白されても、嬉しくない。とっくに把握済みの情報を与えられて彼は悔しそうに地団駄を踏むと、気を取り直して呼吸を整え、幼児期に身体に叩き込まれた宮廷剣術の基本に則り、左腕を背に回した。
 切っ先を標的の中心に定め、飛び出すタイミングを計って息を潜める。一方のジャーファルは落ち着き払い、余分な力を抜いてアリババをじっと見つめた。
 隙だらけに思えるのに、攻め入るポイントがひとつも見当たらない。
 圧倒的な差を思い知る。力の差ではない、経験の差を、だ。
 それに加えて、アリババ程度には負けない自負が彼の中にスッと背筋を伸ばして立っている。簡単には突き崩せない。余程意表を突いた攻撃を仕掛けなければ、返り討ちに遭うのが関の山だ。
 だが、どうやって。
 頭の中がぼうっとして、真っ白になっていく。焦燥感ばかりが募り、引くことも、前に出ることも出来ないまま時間ばかりが過ぎていく。
 ジャーファルは動かなかった。アリババを待ち、構えを解きもせずに不遜に微笑む。
「やりにく……」
 呟き、アリババは生温い唾を飲み込んだ。
 正直、侮っていた。強いとは聞いていたし、実際に戦う姿も目にしたことがあるけれども、敵対したことはなかったので、その実力を少し甘く見ていた。
 刀剣を武器に正面から切り込んでくるのではなく、紐を使って遠隔地から攻撃を繰り出して来る。その軌道は読みづらく、避けたと思ったところから懐に飛び込んで来るので、紙一重で躱すのも難しい。
 シャルルカンとどちらが強いかと聞かれたら、獲物が根本的に違うので単純な比較は出来ないが、良い勝負になるのではなかろうか。
 あれこれと余分なことを考えてしまって、アリババは首を振った。剣を強く握り、指先にも意識を集中させて丹田に力を込める。
 ずん、と腹の底が重くなった。乾いた唇をちろりと舐めて、彼は覚悟を決めて踏み込んだ。
「やあ!」
 一気に間合いを詰めて、突き出す。左手を揺らめかせたジャーファルが、鋭く尖った鏢の側面で刃を受け止めて外側へ押し退けた。
 勢いを流される。たたらを踏んで、アリババは瞬時に腕を引いた。
 即座に切り返し、再び前へ。今度は右腕の鏢で薙ぎ払ったジャーファルの前面が、一気にフリーになった。
 無防備な上半身にしめたと顔を歪め、アリババは直後、視界に紛れ混んだ黒い筋に目を見張った。
「ふふ」
 ジャーファルが笑う。声だけが聞こえる。彼の腕から解き放たれた紐が宙を舞い、剣の進路を塞いだ。
 柔らかなものに下から跳ね上げられた。簡単に断ち切れると思ったものが、意外な弾力を発揮してアリババの持つ常識を覆した。
 誘い込まれたのだと気付いた時には遅い。利き腕を頭上に飛ばされて、本当に無防備になったのはアリババの方だった。
「ぬあっ」
 どこかでシャルルカンが雄叫びめいた悲鳴をあげた。鏢を放ったジャーファルが、巧みに紐を操って剣を握る細い腕を絡めとる。引っ張る力に対抗して歯軋りし、アリババは逆に頑丈な紐を掴んで捻った。
 巻き付いたところを締め上げられて、ギリギリと痛む。指に力が入らない。少しでも緩めようと抗うが、綱引きは両手が使えるジャーファルの方が圧倒的に有利だった。
 アリババの顔が苦悶に歪んだ。それでも負けるものかと、瞳の輝きは濁らない。
 貪欲なまでの強さへの執着心に相好を崩し、ジャーファルはぱっと、手を開いた。
「――う、うわ!」
 紐が撓んだ。ピンと張り詰めていたものをいきなり解放されて、アリババは途端にバランスを崩してふらついた。
 腕に赤い筋を残して、紐が取り払われる。ひゅっ、と耳元で風が奔った。
 気がつけば離れていた筈のジャーファルが、すぐそこに。
 鋭利な眼差しを刃物と共に突きつけられて、指一本動かせない。喉仏に押し当てられた鏢は、アリババの急所を的確に捉えていた。
 ツ、と汗が流れる。あとほんの少し、力を加えたらアリババは死ぬ。踏み込んだ一歩が一寸ずれただけでも、大惨事になっていただろう。
 一秒がその十倍にも、百倍にも感じられた。
 唾を飲めば、皮膚に先端がちくりと刺さった。血は出ないが、微かな痛みが停止していたアリババの思考を蘇らせた。
「はい、そこまでー」
 至近距離で見つめて来るジャーファルが、薄く笑う。ぞっとする眼差しに割り込んで来たのは、シャルルカンだった。
「がっ」
「ぐ」
 いきなり顔面に掌を押しつけられて、首をゴキリと言わせたアリババが唸った。同じくぞんざいに押し退けられたジャーファルが、素早く鏢をしまって奥歯を噛んだ。
 睨まれても飄々として、褐色の肌を持つ男は軽快に笑った。
「そんなに見つめ合われちゃ、観客が目のやり場に困るだろー」
「……はあ?」
 真剣勝負の終了を一方的に宣言した男の言葉に、ジャーファルが素っ頓狂な声をあげる。だが言われて周囲を見回せば、確かにいつの間にか、ギャラリーが随分と増えていた。
 そもそも執政官であるジャーファルが、こうやって鍛錬場に出て来るだけでも珍しいのだ。ピスティやヒナホホの姿まで見つけて、彼はカーッと赤くなった。
 一方アリババは、シャルルカンに顔を叩かれてそのまま尻餅をつき、座り込んでしまっていた。
「情けないなー、アリババ。それでも俺の弟子か」
「だったら、師匠が変わってくださいよー」
 最初から勝ち目の薄い模擬戦だったのだから、善戦したと褒めてくれても良かろうに。どこが悪い、あそこが良くない、と早速駄目出しの洗礼を受けて、彼は容赦ない師匠に泣きついた。
 緊迫した空気が瞬く間に何処かへ消え失せて、勝敗を見届けた観客もそれぞれ自分の仕事に戻って行った。注目が薄れたのに安堵して、ジャーファルは駆け寄って来たアラジンに笑みを零した。
 差し出された上着を受け取って羽織り、続けてクーフィーヤを頭に被せる。
「すごいねー。強いんだねー」
「ありがとう。でもアリババくんだって、もっと強くなりますよ」
「……精進します」
 鏢、及びそれに繋がる紐も袖からはみ出ないように収納したジャーファルが、未だ立てずにいる少年に視線を戻して微笑む。武器を手に向き合っていた時が嘘のような、穏やかなその表情に一瞬息を呑み、アリババは小さく返して頭を掻いた。
 剣を鞘に戻し、シャルルカンの助けを借りてどうにか立ち上がる。だが足が縺れて、また倒れそうになった。
「おっと」
 支えてくれたのは、シンドバッドだった。
「ところで、何故貴方が此処にいるのです」
「なに、面白そうな光景が見えたからな」
 すかさず身なりを整え終えたジャーファルが嫌味を言えば、彼はまるで意に介する様子なく目を細めて肩を揺らした。笑い事ではない。王がその仕事を放棄して、油を売っていて良いわけがない。
 ただ現在、この国の執政官の中で、シンドバッドに臆面なくものを言える相手は限られていた。
 お目付役も兼ねている青年がアリババの鍛錬に付き合っていたのだから、ジャーファルもあまり強く叱れない。偶々近くの廊を歩いていたところをシャルルカンに捕まり、半ば強引に引っ張り出されたわけだが、断らなかったのは彼だ。
 たまには運動をしてストレスを発散しないと、やっていられない。もっともそのストレスの最大要因に出て来られて、折角の良い気分もあっという間に台無しになったわけだが。
 全く気付いていないシンドバッドにがっくり肩を落とし、ジャーファルはアリババの喉元に手を伸ばした。
 触れられて最初はビクリとしてしまったが、彼が何を気にしているのかを知り、アリババは緊張を解いてふにゃりと笑った。
「大丈夫です」
「赤くなっていますね。後でちゃんと、薬を塗ってくださいね」
「はい」
 労るように周囲を撫でられて、くすぐったい。心配そうに告げた彼に頷き、笑みを返せば、ほんわかした空気にアラジンが嬉しそうに頬を緩めた。
「それにしても、どうしてジャーファルおにいさんは、そんなに強いんだい?」
「え? あ、ああ……」
 無邪気な子供の質問に、訊かれた当人は返事に窮して目を泳がせた。
 にやにやしているシンドバッドが見える。彼に喋らせると、必要無いことまで大袈裟に口にしてくれそうで、怖い。
 アリババからも興味津々な眼差しを向けられて、彼は上着の袖に両手を隠し、困った顔で首を竦めた。
「シンと一緒にいると、トラブル続きですから」
 本当の理由は隠し、止むに止まれぬ事情から力を得たのだと誤魔化す。だが日頃から、シンドバッドがなにかと問題行動を起こす人だと知っているからだろう、その場にいた全員が素直に納得した。
「おい、こら」
 成る程、と頷いた子供達に、シンドバッドひとりが抗議の声をあげた。しかし戦場では心強い味方であるシャルルカンや、ヤムライハまでもが、うんうん頷いてシンドバッドを擁護しなかった。
 孤立無援の彼に苦笑して、ジャーファルが肩を竦める。その彼の袖を、アラジンの小さな手が引っ張った。
「はい?」
「じゃあ、どうしておにいさんは、軍人さんじゃないの?」
 呼ばれて下を見れば、好奇心に溢れ、それでいてどこか醒めた眼が彼を見ていた。
 直球な質問に虚を衝かれ、即答出来ない。戸惑って停止したジャーファルを余所に、聞いていたアリババもが両手を叩き合わせた。
「そうですよ。こんなに強いのに、ジャーファルさんはどうして」
 そこまで言って、彼はシンドバッドを見た。同胞らから受けた冷たい仕打ちに打ち拉がれ、蹲ってタイル張りの床に涙で円を描いている男の背中は、正直なところ、物語に伝え聞く迷宮攻略者から遠くかけ離れていた。
 国民の為に力を尽くし、平和の為に奮起する英雄、シンドバッド。だがいくら為政者ひとりが有能であったところで、国は立ちゆかない。
 王を支えるのは国民だが、その国民と王の間には、軍人がいて、政務官がいる。ジャーファルはその執政官のひとりだ。
 彼の実力であれば、軍人としても充分やって行けただろう。だのに何故、畑違いも良いところの文官を務めているのか。
 素朴な疑問に返す言葉を見失い、ジャーファルは目を泳がせた。
 右を向けば、しゃがんだまま振り返ったシンドバッドと目が合った。
 にやりと笑われて、嫌な予感が背筋を駆け抜けた。
「それはだねー」
「シン!」
 急に元気を取り戻した覇王が、首を傾げている子供達の背後に回ってその肩に腕を回した。体重をかけ、のし掛かる。前のめりに倒れそうになったアリババが、アラジンを庇いながら怪訝に振り返った。
 予感を確信に変えて、ジャーファルが声を荒らげた。
「シンが、……そうです。シンが、真面目に書類仕事をやらないから、仕方がなく」
「それは違うな、ジャーファル君。嘘は良くないぞ」
 急いで取り繕い、それらしい理由を並べて捲し立てるが、ちちち、と舌を鳴らしたシンドバッドに一蹴されてしまった。どちらの言い分が正しいのか分からず、アリババもアラジンも首を捻る。シャルルカンが楽しそうな話題に目を輝かせ、興味が無いのかヤムライハは欠伸を手で隠し、歩き出した。
 魔法使いの背中を見送って、シンドバッドは慌てるジャーファルを無視し、声を潜めた。
「シン」
「ジャーファルはな、ああ見えて昔は、字すらまともに読めなかったんだぞ」
「えー!」
 左手を口の横に立て、右手で政務官を指差しながら告げた王に、信じられないとアリババが素っ頓狂な声をあげた。ひそひそ話も丸聞こえで、ジャーファルは真っ赤になり、続けて青くなり、握り拳を振り回した。
 今の彼しか知らないふたりには、到底信じられない話だった。
 本当なのかと見上げられて、彼は口籠もった。腕を下ろして背中に隠し、目を逸らす。態度から真実なのが窺えた。
「昔の話です。あの頃は、まだ私たちは、ただの冒険者でしたし」
「そうそう。で、俺が冒険譚を書くついでに、一寸ずつ教えていったんだ」
 シンドバッドが第一の迷宮を攻略したのは、十五年前。その頃は当然ながら、シンドリアという国は地上に存在していない。
 政務官ジャーファルが誕生するのは、もっと後のことだ。シンドバッドが王となり、南海の孤島を楽園に変えた、その瞬間まで待たねばならない。
 シンドリア建国は、決して平坦ではなかった。シンドバッドが道に迷い、バルバッド王に頼らなければならなかったように、ジャーファルにも転機となるなにかがあったのかもしれない。
 想像の及ばない他人の過去に目を瞬き、アリババは話の続きを求めてジャーファルを見た。いたいけな眼差しに苦虫を噛み潰したような顔をして、彼は気まずげに目を逸らした。
 酷く言いにくそうにしている彼にきょとんとしていたら、シンドバッドが乱暴に肩を叩いてきた。
「痛いです、シンドバッドさん」
「それはすまない。で、ジャーファルだが。最初は文官になるつもりなどなかったらしいのだがな」
「そうなんですか?」
「シン、もう良いでしょう」
 抗議の声をあげたアリババに簡単に謝罪して、シンドバッドが上機嫌に告げる。指差された青年は何が恥ずかしいのか、顔を赤くして会話の終了を求めた。
 余程人に知られたくないのだろう。口の軽いシャルルカンがそこに居るのも、ジャーファルが嫌がる原因のひとつになっていた。
 にやにや笑っている彼を睨み付けるが、話を聞きたくて仕方が無い顔をしているアリババ達を無碍に扱うことも出来ず、相反する心境に喘いで眉間に皺を寄せる。
 困り果てている彼が面白くてならないようで、シンドバッドもまたシャルルカンに負けないくらいに不敵な笑みを零し、子供達を巻き込んでその場に膝を折った。
「どうしてジャーファルおにいさんは、文官になろうと思ったの?」
 アラジンの舌足らずの問い掛けに、彼は深く頷いた。うんうん、と腕組みまでして神妙な顔をして、シンドバッドは細めた目でちらりとアリババを見た。
 視線に、バルバッド第三王子の少年は首を傾げた。同じく彼を見たジャーファルが、至極嫌そうにして首を振った。両手で顔を隠し、今すぐ逃げ出したい気持ちを必死になって堪える。
「シン、やめてください」
「俺が前に、君の父君の、バルバッド先王に世話になったのは知っているだろう。あの時、ジャーファルも実は一緒に、バルバッドに逗留していたんだが」
「へえ……」
 初耳の情報に、アリババが素直に感嘆の息を漏らした。
 もしかしたら王宮のどこかで擦れ違っていたかもしれない。そんな感想を呟いた彼の頭を撫でて、シンドバッドは嬉しそうに顔を綻ばせた。
 対してジャーファルは、ついに耐えきれなくなったのか、膝を折ってその場で丸くなった。
「古い話なんですから、どうだっていいじゃないですかあ……」
「ジャーファルさん?」
「そんなに恥ずかしがることでもないだろう。たかが、子供に馬鹿にされたくらい」
「子供?」
 いつになく過剰な反応を見せる彼が不思議でならない。事情が理解出来ないまま怪訝にしていたアリババは、続けてシンドバッドが発したひと言に目を丸くした。
 王城に子供などいなかった。兄ふたりとは年齢が離れているが、彼らのことだろうか。
 きょとんとしているアリババの頭をぐしゃぐしゃに掻き回して、当時を思い出してか、シンドバッドが実に楽しそうに笑った。
 シンドバッドが王となる道を選び、邁進するのに反し、ジャーファルはあまりそういったことに興味がなかった。否、どうすれば良いのかが分からなかっただけだ。これまで武器を手に、襲い来る敵に立ち向かうことしかしてこなかった己が、どうやったら芽生えたばかりの国の支えになれるのか、見当すら付かなかった。
 読み書きや簡単な計算くらいならどうにか出来るようになってはいたが、難しい話はさっぱり分からない。シンドバッドはバルバッド先王の講義につきっきりで、共にいても邪魔になるだけ。格別することもなくて、彼は時間を持て余していた。
 そんな時だ。城内で、子供に出会ったのは。
 王宮には、ジャーファルよりも年嵩の人間しかいなかった。新興国のよく分からない男、というレッテルもあって、近付いて来る存在もなかった彼は、好奇心と退屈に負けて、その子供にちょっかいを仕掛けてみたのだが。
「ジャーファルさんって、昔は全然違う人だったんですね」
 伸びやかなシンドバッドの語る物語は、まるで迷宮での冒険譚のようだ。耳に心地よいリズムは、吟遊詩人の歌声にも似ていた。
 アリババに言われて、ジャーファルは苦笑いを浮かべた。なにかを探るような目が、落ち着きなく彼の顔の周囲を泳いでいた。
「その子供に、馬鹿にされたの?」
 シンドバッドの膝の上で、アラジンが足を揺らしながら問うた。上を向いた彼に満面の笑みで頷き、紫紺の髪を掻き上げて、彼はぎくりとしているジャーファルに白い歯を見せた。
「だな?」
「そ、そうですよ。でも仕方が無いでしょう!」
「いったい何を馬鹿にされたんですか?」
 当時はやむを得なかったのだと訴えるジャーファルをさらりと無視し、アリババが不思議そうに呟く。おおよその展開を理解して、胡座を掻いたシャルルカンは罪作りな弟子に肩を竦めた。
 右手を振り上げた状態で停止したジャーファルが、なんとも言えない顔をしてそっぽを向いた。
 シンドバッドも意外そうな顔をして、すぐに相好を崩して目尻を下げた。
 バルバッドの王宮にも、黒秤塔のような図書館があった。偶々そこに迷い込んだジャーファルは、高い場所にある書物を取ろうとして懸命に背伸びをしている、身なりの良い子供に出くわした。
 気まぐれを働かせて取ってやれば、彼の足許には他にも、小さな身体で抱えるには難しい大量の本が積み上げられていた。
 手助けした手前、放っておくことも出来ず、仕方無く机まで運ぶのを手伝った。いったいどんな本を読んでいるのかと、気になって後ろから覗いたら。
「大人でも難しい商学の教本だったらしい」
 ジャーファルの知らない単語が満載の本を、小さな子供が熱心に読み耽っている。ショックを受けた彼に、更に子供が追い打ちを掛けた。
 そこまで言って、シンドバッドがくくく、と声を殺して笑った。ジャーファルが肩を震わせ、真っ赤になって頬を膨らませる。珍しい表情に、アリババは瞠目した。
 目が合った。ジャーファルがパッと逸らした。なにか悪い事をしたかと、アリババは少し不安になった。
 胸に手を当ててクエスチョンマークを浮かべている彼に、シャルルカンが意地悪く目を細める。
「それで? それで?」
 何も知らない子供が、無邪気に先を促す。政務のことも忘れて、シンドバッドは咳払いした。
「難しい本だな、と言ったこいつに、子供は『全然難しくない。面白い』と言ったらしい」
 あまつさえ、お兄さんは分からないの? と訊き返された。
「シン!」
 光景が目に浮かぶ。シャルルカンが堪えきれなくなって噴き出した。シンドバッドがジャーファルを指差しながら腹を抱えて笑う。過去の恥を暴露されて、憤慨した青年が物騒な武器を右手に構えた。
 鋭い切っ先をちらつかされて、大人ふたりは瞬時に静かになった。
 両手を挙げて降参のポーズを取ったシンドバッドの膝で、アラジンが「ふーん」と相槌打って頷いた。隣を盗み見た彼は、巻き添えを食らってジャーファルに脅されている自らの王にクスリと笑った。
 小さな子供に馬鹿にされて、負けん気を働かせたジャーファルはシンドバッドに頼み込み、翌日から猛勉強を開始した。
 次にあの生意気な子供に会った時に、鼻を明かしてやれるように、と。
「へえ、なんか凄い」
 素直に驚嘆して、アリババが高い声を出した。褒められて、怒り心頭だったジャーファルがうっ、と呻いて仰け反った。
 これまでとは違う赤みで頬を染め、口をもごもごさせて視線を横に逸らす。いやらしく笑っているシャルルカンを見つけて睨むが、彼は白い歯を見せるばかりでまるで意に介そうとしなかった。
 前に向き直れば、シンドバッドが得意満面として座っていた。アラジンも嬉しそうにしている。アリババは目を輝かせ、ジャーファルを見つめた。
「それで、その子にはまた会えたんですか?」
 黄金色の目をキラキラさせて訊ねられて、一瞬の間を置き、ジャーファルはゆっくり首を振った。
「いえ、残念ながら」
 バルバッドの王宮では、再会を果たせなかった。商学の楽しさに気付かせ、進む道に迷っていた彼の背中を押してくれた幼子の行方は、長く不明だった。
 吐息に乗せて静かに告げれば、アリババが何故か寂しそうな顔をした。切なげに睫毛を震わせる彼を窺って、アラジンがひょい、とシンドバッドの膝から飛び降りた。
「だけど、すごいねー。ジャーファルおにいさんは、もしその子に会えなかったら、今みたいにはなってなかったんだよね。この国だって、バルバッドの、アリババ君のお父さんがいなかったら、全然違う国になっていたんだろうねー」
 軽やかに、空に向かって呟く。杖を手にしたマギの穏やかなことばに、ジャーファルもシンドバッドもハッとして、息を呑んだ。
 アリババが瞬きを三度繰り返し、見つめて来る視線に気付いて照れ臭そうにはにかんだ。
 過去に様々なことがあったが、今となればあの城も、そこに生きた人々も、なにもかもが懐かしい。故国を、父を褒められた気がして、彼は恐縮して首を竦めて、そこから垂れる組紐を弄り回した。
 肩の力を抜いて、ジャーファルが目を細めた。
「そうかもしれませんね」
 アラジンに頷き、瞼を閉ざす。耳を澄ませば、あの日聞いた愛らしい声が聞こえて来るようだった。
 商学は確かに難しい。けれどとても大事。バルバッドは開けた港湾を持ち、貿易で栄えている。だからこの国をもっと豊かにして、貧しい人達も幸せにする為には、正しく学んでいかなければいけない。
 自分はまだ信用が足りていない。商売は、信用が一番大事。だから一所懸命学んで、覚えて、自分で考えられるようになって、みんなに信用して貰えるようになりたい。
 褒めて欲しい。認めて欲しい。
 その為に、出来ることは全部やる。
 迷いのない真っ直ぐの瞳は、あの頃からまるで変わっていない。
 目を開ける。振り返る。立ち上がったアリババが、ゆっくりとジャーファルに歩み寄った。
「あの」
「はい?」
「今度、で良いので。その、俺に商学をもっと、ちゃんと、教えてくれませんか」
 最初はおどおどと、喋っているうちに気持ちが高ぶって、早口に。
 己の胸に手を押し当てて告げた彼に、そこにいた全員が目を丸くした。
「アリババくん」
 シンドバッドが腰を浮かせた。剣術の師匠であるシャルルカンは、きょとんとした後自分を指差しながら意味も無く左右を見回した。
 アラジンがくすくす笑って肩を揺らした。真剣な眼差しに、ジャーファルは微笑んだ。
「君は剣術だけで手一杯でしょう?」
「大丈夫です。俺は、……今できること、全部やりたいんです」
 小首を傾げながらの問い掛けに、拳を固く握り締めて、力強く宣言する。迷いのない瞳は、貪欲に知識を、力を欲していた。
 鼻を明かしてやりたいと、ずっと思っていた。だのに、またしても一本取られてしまった。
 力むアリババの手を取り、そうっと包み込む。肌に伝わる優しい熱に瞬きを繰り返し、彼はジャーファルの表情を探って、やがて嬉しそうに破顔した。
「アリババ、師匠は俺だからな」
「分かってますよ、師匠」
 蚊帳の外に置かれたシャルルカンが、自分を忘れるなと叫ぶ。拗ねてしまった彼に振り返り、アリババは肩を竦めて苦笑した。
 手を放す。指の間を、小さな子供とは違う手がすり抜けていった。
「かないませんねえ」
 負けていられないと思える存在があることが、どれほどに心を奮い立たせてくれるか。
 改めて思い知り、ジャーファルは面映ゆげにアリババを見つめた。

2011/10/08 脱稿