Qabila

 シンドリアは南洋に浮かぶ島国であり、主な産業は観光と、貿易だ。
 南国の島々の珍しい品物を求め、大陸からは毎日沢山の船がやって来る。商船だけでなく、温暖な気候を楽しみ、他に類を見ない動植物を求めてやってくる旅人も多い。
 日常の疲れを癒すのが目的の人もいれば、旅から旅の根無し草もいる。肌の色は千差万別、瞳や髪の色も随分と賑やかだ。
 バザールは盛況だった。あちこちから威勢の良い声が響き、煌びやかな宝飾品や、衣装や、甘い果物がテントの下に所狭しと並べられていた。
 人いきれで暑いくらいだ。太陽は水平線に近付き、青い海が鮮やかな朱色に染まりつつあるというのに、勢いは衰える事を知らない。
 買い物客でごった返す狭い道を、アリババはもみくちゃにされながら進んだ。その少し先を、シャルルカンが慣れた足取りですいすい進んで行く。
 反対方向に進む人に肩を押され、転びそうになったのを堪えてたたらを踏む。その間に銀髪がまた一歩遠ざかってしまって、アリババは喘ぐように息を吐き、暮れ行く空を見上げて首を振った。
 ぼんやりしていたら、押し戻されてしまう。人ごみをかきわけ、ぶつかってしまった人には逐一頭を下げて謝りながら、段々距離が開くシャルルカンを懸命に追いかけるが、なかなか巧く行かない。
 よくこんな人だかりの中で買い物が出来るものだ。慌てふためいているのは自分ひとりと、汗を拭ったアリババは周囲を見回して苦笑した。
「師匠」
 呼びかけるが、声は賑わいに紛れて遠くまで響かない。弟子が慣れぬ道に苦戦しているのに気付いているだろうに、彼は一度も振り返ろうとしなかった。
「ちぇ」
 冷たい人だ。
 剣術の教えを請うようになって、今日で三日目。初めて顔を合わせた時はとても気さくで、剣に関しては譲れないものを持っている人と感じたが、蓋を開けてみれば思いの外に稽古は厳しく、そのくせ割とちゃらんぽらんしたところがあった。
 修行は朝から夕方まで、みっちりと。しかし刻を告げる城の鐘が鳴り、業務終了が告げられた瞬間、どんなに稽古に熱が入っていようともあっさり手を引いて、終わりを宣言してしまう。
 そして毎夜のように市街地に繰り出し、バザールで買い物をしたり、酒場で飲み明かしたり。
 八人将のひとりであり、明るい性格の彼は市井の人々からも慕われていた。
 特に若い女性からの人気は絶大だ。酒場に行けば、彼の周囲には自然と人が集まった。
 真面目な時と、そうでない時の振り幅が大きい。いったいどちらが本当の彼なのか、アリババは未だ掴みあぐねていた。
「ししょー!」
 名前で呼べば怒るし、とひとりごち、恥を忍んで声を高くして叫ぶ。それでもシャルルカンは立ち止まらず、人ごみに紛れて瞬く間に見えなくなってしまった。
 やばい。
 冷たい汗がアリババの首筋を伝った。はぐれたら、絶対に馬鹿にされる。それに彼は、師匠の立ち振る舞いを四六時中観察し、勉強するのも弟子の務めだなどとも言っていたので、傍を離れたら怒られるのは確実だ。
 流石に寝床は別々だけれど、アリババはここ数日、朝から晩までずっと彼と一緒に過ごしていた。
 アラジンと出会う前、チーシャンで日銭を稼ぎながらどうにか暮らしていた頃は、いつだってひとりだった。勿論雇ってくれている親方や同業者とはそれなりに仲が良かったし、親しみを感じてはいたが、毎晩のように飲み食いを共にすることはなかった。
 第一、アリババの収入は本当に雀の涙程しかなくて、酒場で朝まで飲み明かすなど、とても出来るわけがなかった。
 朝と昼は市場の安い食堂で済ませ、夜も屋台の手頃な飯で腹を膨らませる日々。味は二の次であり、兎に角空食べられるのならなんでも良かった。
 あの町での生活と今を比べたら、天と地ほどの差がある。シャルルカンと一緒に居れば、財布の心配をする必要も無い。
「まずったー」
 つまるところ、今のアリババは文無しだった。
 このままでは夕食を食いっぱぐれてしまう。早く合流しなければ、と気が急くが、焦れば焦るほど人の流れが邪魔をして、前に進めなかった。
 舌打ちし、巧く出来ない自分に苛立つ。どうしてシャルルカンはあんなにもすいすいと、川に泳ぐ魚のように進めるのだろう。この差が、まるでふたりの実力の差を表しているようで、哀しくもあり、悔しかった。
「おっせーぞ」
「師匠!」
 苦心の末にバザールの人だかりを抜けて、肩で息をしながら周囲を見回す。瞬間、右手に聳える建物の影から話しかけられて、アリババは声を弾ませた。
 待っていてくれたらしい。壁に寄りかかって立っていたシャルルカンは、一気に嬉しそうな顔をした弟子に相好を崩し、右の親指で細い通りの奥を指し示した。
 シンドリアの市街地には、美味い飯屋が多い。オススメを順番に教えてやる、という彼の言葉通り、指差されたのは昨晩訪ねたのとはまた異なる店だった。
 まだ日は暮れ切っていないものの、既に夕食を求めて大勢の客で賑わっている。外まで響く喧騒に心を躍らせ、アリババは目を輝かせた。
 肉の焼ける美味しそうな匂いが辺りに充満しており、立っているだけでも口の中は涎で洪水が起きていた。年頃の少年らしい顔つきに戻ったアリババに白い歯を見せて笑い、シャルルカンは行くぞ、と手を振った。
「はい!」
 なんだかんだで、矢張り彼は優しいのかもしれない。着席したテーブルに早速運ばれてきた沢山の食べ物を前に、アリババは市場で抱いたのとは正反対の感想を心の中で呟いた。
 昼間の厳しい稽古で、空腹は限界寸前だった。
「ほら、どんどん食え」
「はい。いただきます!」
 丸々と太った鳥の腹を開き、香草や米を詰め込んで蒸し焼きにしたひと品は、これまで食べてきたどの鳥料理よりも絶品だった。
 豆のスープは渇いた喉を潤し、少し苦味のある野菜は食欲を増進させる。まるで犬か何かになったように皿に顔を寄せ、テーブルにしがみ付くようにして食べ漁る彼の姿に、酒盃を手にしたシャルルカンは苦笑した。
 そこまでがっつかずとも、誰も奪い取りはしないのに。
「もう少し落ち着いて食えよ。あと、ちゃんと噛んでから飲み込むんだぞ。消化に悪いからな」
「ひゃいっ」
「こら、飛ばすんじゃねえ」
 説教臭く言われて、顔を上げて返事をすれば、満杯の口から噛み砕いた豆が飛び出した。まるでリスかなにかのように頬袋をいっぱいにしている少年に、酒場に居合わせた人たちも朗らかな笑顔を向けた。
 怒られて、笑われて、気恥ずかしい。
 言われた通り咀嚼の回数を増やして飲み込んで、アリババは照れ臭そうに頭を掻いた。
「師匠は食べないんですか?」
「俺? 飯もいいけど、やっぱこっちが先かな」
 木製の匙を置き、水のように薄い果実酒で口を漱いだ彼の問いに、向かいに腰を下ろしたシャルルカンは手にした酒盃を高らかと掲げた。傾け、残り少なくなっていた酒を一気に煽る。そちらは、アリババに供されているものとは違い、度数はかなり高いものだった。
 美味そうに飲み干して、幸せそうに顔を赤くする。吐き出されたアルコール臭い息に、アリババは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「よくそんな苦いの、飲めますね」
「あー? この味が分からねえってことは、お前はまだまだお子様ってことだな」
「ほっといてください!」
 初日、シャルルカンに連れて行かれた店で勧められるままに飲んで、ひとくちで撃沈したのを思い出す。声を荒らげた弟子を呵々と笑い、彼は空の杯を振って御代わりを要求した。
 即座に返事があって、若い娘がにこにこしながらテーブルに駆けて来た。
「もう一杯な」
「はーい、ただいまー」
 布面積の小さい、露出が多めの衣装で着飾った女性が、嬉しそうにシャルルカンから杯を引き取った。色を含んだ微笑みを浮かべられて、彼の表情は一気にだらしなくなった。
 右手に握った匙で炒り豆を転がしていたアリババは少しむっとして、弾いてしまった分を手づかみで口の中に放り込んだ。
「鼻の下伸びてますよ、師匠」
「んー?」
 ちくりと嫌味を言ってやれば、女性の尻を目で追っていたシャルルカンがのんびりと振り返った。椅子に座りなおし、背凭れに肘を置いて不遜な笑みを浮かべる。
 浴びせられた視線がどうにも居心地悪くて、アリババは奥歯を噛み締め、それとなく彼から目を逸らした。
「なーんだ、ヤキモチか?」
「ぶはっ」
 思ってもなかった一言に、つい噎せてしまった。
「うわ、汚ねえ」
「げほ、ごほっ、かは、……っはー」
 椅子ごと後ろに逃げたシャルルカンの前で、アリババは濡れた口元を拭い、ぜいぜい息を吐いて咳き込む原因を作った男を睨みつけた。
 彼は卓上にあった料理の皿を、すんでのところで攫って頭上に掲げていた。その素早さには敬服するが、元はといえば彼が変な事を言ったのが悪いのだ。
 アリババも、シャルルカンも、男だ。何故彼に対してヤキモチなど焼かねばならないのか、さっぱり分からない。
 ぐじ、と握り拳でもう一度唇を擦ったアリババに、しかしシャルルカンは飄々とした態度を崩さなかった。人好きする笑みを浮かべて大皿を戻し、別の女性が運んで来た料理も受け取って、隣の空きスペースに置いた。
 ようやく届いた果実酒を掲げて其処に居た見知らぬ客と乾杯を交わして、まだ拗ねた顔をしている愛弟子に肩を竦める。
「心配しなくても、今はお前が一番可愛いぜ」
「だから、変な事言わないでくださいってば」
「あれー? 俺はいつだって本気だけど?」
 師匠の愛情を感じ取れないとは、弟子として失格だとまで言われて、アリババはむすっと頬を膨らませた。
 茶化しているように聞こえるし、本気のようにも聞こえる。どう判断してよいのか分からなくなって、アリババは仕方なく、白い湯気を放つ魚料理に匙を向けた。
 鱗を取り去り、腸を抜いた魚は鋭い牙を持っていて、でっぷり太っていた。
「骨も食えよ。柔らかいから全部食える」
「へえ……」
 酒盃を傾けたシャルルカンが、どこから手をつけていいか分からずに困っていたアリババに、即座に助け舟を出した。どの部位が一番美味いだとか、どこは苦いから注意しろだとか、アリババが知りたがっている事を訊かれる前に汲み取って、先回りして教えてくれる。
 褐色の指が指し示す箇所に匙を入れれば、本当に骨ごと掬い取れてしまった。
「おいしい」
 塩加減がちょうど良くて、すいすい食べられる。脂っこい肉料理ばかり食べていたので、新鮮だった。
 嬉しそうに呟いたアリババに、シャルルカンが目を細めた。食べ残しの載った皿を引き寄せて余り物を口に入れて、話しかけてくる客にも適当に相槌を送り、乾杯を繰り返す。
 その上で、彼はちゃんとアリババにも注意を寄せていた。
 杯が空になっていると見れば即座に給仕を呼び、鼻の頭に米粒がついているのを見つけると、笑いながらも手を伸ばして取ってくれる。それを口に入れられたときは焦ったが、それとて彼なりのスキンシップのひとつなのだろう。
 こんなにも親身に――馴れ馴れしすぎるくらいに面倒を見てくれる人は、今までひとりもいなかった。
 母を喪ってからは、生きるのに必死だった。スラムでも、王城でも、チーシャンでも。
 カシムとあんなことになってからは、親しい友人を作るのも、心のどこかで恐れていた。また裏切られるかもしれないと考えると、相手が待っていると分かっていても踏み込んでいけなかった。
 アラジンに出会えたのは、奇跡に近い。バルバッドでカシムと再会後、腐りかけていた自分を救い出してくれた彼にはどれだけ感謝しても足りなかった。
 それに加えて、シンドリアでの多数の出会いはアリババにとって驚きの連続だった。
 自分の見識の狭さを思い知らされた。世界は広く、まだ見ぬ大地がどこまでも続いているのかと考えるだけで、胸が騒いだ。
 多数の民族、様々な人種。それらがひとつに交じり合い、シンドリアは存在している。バザールでも、この酒場でも、人々は肩を寄せ合い、親しみを込めて笑顔を送り合っていた。
 差別や貧困が蔓延する場所で生まれ育ったアリババには、この国はただただ、眩しかった。
 自分は幸せだ。辛いこともあったが、こうやって色々な人と巡り会えて、良い師匠も得た。
 黙々と食べるアリババを他所に、シャルルカンは居合わせた人を捕まえては喋りこみ、声を立てて笑い、酒を煽って上機嫌に振舞っていた。
「飲みすぎないでくださいよ、師匠」
 確か今ので五杯目の筈だ。速いペースに呆れて言えば、シャルルカンはアリババと手の中の杯とを見比べて、にたりと笑った。
 嫌な予感を覚え、アリババが警戒して身構える。居住まいを正した彼に鼻を鳴らし、白に近い銀髪の男は口角を歪め、テーブルに右肘を立てた。
「心配しなくても、お前が酔いつぶれたらちゃんと抱きかかえて連れて帰ってやるよ」
「そうじゃないでしょう!」
 昨日も、一昨日も、酔いつぶれたのはシャルルカンの方だ。
 彼は身体が大きい。剣術に関してだけはシンドバッドをも凌ぐと言われているだけあって、マスルールほどではないものの筋肉質であり、かなり重かった。
 その彼を肩に担ぎ、よたよたしながら城まで帰った記憶は新しい。テーブルを叩いて反射的に怒鳴ったアリババだが、既に酔いが回っているのか、シャルルカンは聞く耳を持たなかった。
 肌はほんのり赤味を帯び、元々垂れ下がり気味の目もとろんと蕩けていた。本人はまだ平気だと言って譲らないが、アリババの見る限り、確実に酔いは回っていた。
 この調子で二軒、三軒と回りたがるのだから、始末に終えない。
 痛い目に遭った過去を振り返り、今日こそは早めに切り上げようと心に誓う。だが弟子の決心を早々に挫いて、シャルルカンは六杯目を注文した。
「師匠ってば!」
「んだよ、お前もいいから食え。飲め」
 怒っても暖簾に腕押しで、全く効果が無い。軽々とあしらわれてしまって、アリババは頬を膨らませてテーブルに顎を乗せた。
 捨てて帰ってやりたいところだが、勝手をするとシャルルカンは怒る。弟子は常に師匠の傍に、というのが彼の持論らしく、これを破ろうとしようものなら凄まじい勢いで捲くし立てて、五月蝿くてならなかった。
 しかも大体において、説教が始まるのは程よく酔いが回った後なので、理論は支離滅裂、真面目に聞いたところで利になるような話はひとつも出てこなかった。管を巻く彼に辟易して、適当に相槌を打ってやり過ごすしか術がない。
 いい人なのに、酒が入ると途端に駄目な男になる。こんな大人にだけはなるものかと別の誓いも立てて、アリババは突き出された空に近い皿に目を落とした。
 この地方のメニューに慣れていないだろうからと、注文を出すのはいつだってシャルルカンだった。
 肉、魚、野菜、果物。どれかに偏り過ぎないように選んでくれているのが、三日目になってやっと分かった。
 適当に押し付けられていたわけではないのが、嬉しい。くすぐったい。
「なに笑ってんだ。気持ち悪いな」
「師匠こそ、飲みすぎです。臭い」
「なにを。弟子の癖に生意気な」
 酔っ払いの相手など本当はしたくないのに、シャルルカンだから許せてしまう。目に見えないところで気遣われている事実に胸を温かくしていたら、その彼に含み笑いを指摘されて、アリババは照れ臭さを誤魔化して叫んだ。
 すかさず太い腕が伸びてきて、鼻を抓まれた。引き千切れそうな痛みに顔を顰めれば、面白かったのだろう、彼はケタケタと楽しそうに笑った。
 知らぬ間に日は暮れていた。太陽が水平線の下に隠れてしまうと、闇は瞬く間に空を食らい尽くす。市街地ではあちこちで篝火があげられて、炎が作る陰影が昼とは違う熱気を生み出していた。
 太鼓の音が心を震わせる。原色で着飾った女が道を行き、男たちを妖しく手招く。
 会計を済ませて酒場を出て、シャルルカンはんー、と大きく伸びをした。赤ら顔は相変わらずだが、夜気に当たったからか、目つきはいくらかしっかりしていた。
 彼の姿に、女達の顔が興奮に色付いたのが分かった。歓声があがり、人気者と一緒にいるアリババはびくりと肩を強張らせた。
「おーっし、次行くぞ、次」
「師匠、まだ飲むんですか?」
 あれだけ賑わっていたバザールも、人通りはすっかり途絶えていた。道幅が広くなり、歩き易い。だがシャルルカンは足をもつれさせて、居並ぶテントの柱に肩からぶつかっていった。
「いってえ」
 夕刻、人ごみの中をすいすい進んでいった人とは思えない失態だ。後ろから見ていたアリババは目を丸くして、左肩を抱えた彼に駆け寄った。
 下から覗きこむが、表だって傷にはなっていない。きっと暫くすれば痛みも引いて、転んでぶつけたことすら忘れてしまうに違いない。
 シャルルカンよりは幾らかしっかりした足取りで道の真ん中を進み、アリババは左右にふらつく男に手を伸ばした。
「危ないですよ」
 どこかで休憩していこうと誘うが、聞き入れられない。またも道端に詰まれた木箱に躓いた彼に、アリババはお手上げだと天を仰いだ。
 星明りが眩しい。砂漠から見上げた夜空にも似ているが、星の配置が記憶にあるものとは違う。
 此処がバルバッドでも、チーシャンでもないのを痛感させられた。
 もしひとり、舟を漕ぎ出して海に出ようものなら、簡単に迷ってしまう。広大な海原に取り残される恐怖に震えた瞬間、前方から呑気極まりない鼻歌が聞こえて来た。
「あー、いい風だ」
 シャルルカンだ。肩から上着をずりさげた彼は、両手を広げ、海から吹く風を心地よさげに受け止めていた。
 潮の香りは、どこか懐かしい。こみ上げる郷愁を堪え、アリババも彼に倣って金髪を風に靡かせた。
 市街地は遥か後方に、気がつけばふたりは港湾部近くまで下ってきていた。
 帆を畳んだ舟が何隻も接岸しているが、荷降ろし作業は終了した後で、波止場は静かだった。取り残された木箱が片隅に置かれて、見張りの兵士が数人、退屈そうに立っていた。
 シャルルカンは彼らにも気さくに話しかけ、その最中で異常がないかどうかを確かめていた。
 徒歩で移動しているうちに、酔いはかなり醒めたらしい。足取りは次第にしっかりしていって、アリババとそう変わらなくなっていた。
 ずれた上着もそのままに、首から垂らした鎖をしゃらしゃら言わせながら、暗い道を慣れた足で進む。迷いはない。次は灯台の見張り番を訪ねて、陸上から海を監視する兵士たちにも労いの言葉を忘れない。
 ひと通り回り終えた頃には、あれだけ満杯だった腹もすっかりこなれてしまった。
 誰もがシャルルカンの来訪を歓迎し、直々の激励に感動していた。八人将といえばシンドリア国軍の精鋭であり、一般兵にとっては雲の上の存在にも等しい。それがこんな時間に、わざわざ足を向けてくれたのだから、喜びもひとしおだろう。
 城の中で偉そうに踏ん反り返っているだけの王や将軍ではない。きちんと市井の人々にも目を向けて、組織の末端にすら気を配っている。
 王や将に愛されていると肌で感じられるからこそ、国民は王や将により強い愛着を抱き、尊敬する。バルバッドの兄王は自分を支えてくれているのが誰なのかを忘れ、我欲に執着するあまりに臣下にすらそっぽを向かれてしまった。
 シンドバッドの偉大さに、改めて敬服する。羨ましくも思う。民にこれだけ慕われる王を、アリババはほかに知らない。
 そのシンドバッドは、父でもあるバルバッド先王と交流があった。今の彼が父の影響を受け、ここまでシンドリアを育て上げたのだとしたら、これ程に嬉しいことはない。
 もっと色々教わりたかった。
 直接の原因ではなかろうとも、間接的に父を死に追い遣った原因たる自分が言える立場にはないのかもしれないが、沢山、話をしたかった。
「……」
 潮風がアリババの頬を撫でた。
 桟橋の中ほどで足を止めて、前を見据える。シャルルカンの背中は広く、大きかった。
 シンドバッドも、記憶に残る父の背中も、とても大きくて立派だった。
 誇りに思おうと思う、この世界で最も輝ける国の王と関われたことに。その国王からの信厚き男に師事出来ることに。
「師匠」
 押し寄せる波が跳ねる。呼びかけに反応し、シャルルカンが首から上だけで振り返った。
 月明かりは明るかった。黒々しい水面に光が反射して、きらきらと、星屑が大地を飾っているようだった。
「疲れたか?」
「いえ」
 市街地から此処まで、結構な距離がある。草臥れたかと問われて、アリババは首を振った。
 シャルルカンは桟橋の先でくるりと反転し、戻って来た。待ち構えていた弟子の、妙に真剣な顔つきに小首を傾げ、手を伸ばす。
 クシャリと頭をかき回されて、子ども扱いされている悔しさと、いとおしまれていると分かる照れ臭さに、アリババは顔を赤らめた。
「あの。あ、明日からも、ご教示、宜しくお願いします」
「お?」
 頭を撫でられた記憶など、殆どない。母ならいざ知らず、男の人に触れられた経験など、片手に余るくらいだ。
 俯いたアリババを黙って見詰めて、シャルルカンは肩を竦めた。肌寒さを覚えて上着を引っ張りあげて、身なりを簡単に整えてから改めて腕を前に出した。
「師匠?」
「ちっせー手だな」
「これから大きくなるんです」
 手首を取られ、掌を上に向けて開かされた。白い肌に、褐色が紛れ込む。無数に刻まれた皺のひとつひとつ慈しむように撫でられて、くすぐったかった。
 苦笑に反論して突っぱねれば、シャルルカンは声もなく笑った。
 月に雲がかかり、空が暗くなる。表情が見えない。ただ掌を、ゆっくりとなぞられる。
「そうだな。これからお前は、段々と大きくなるんだ」
「……師匠?」
 急にしんみりとした声で呟かれて、アリババは耳を疑った。
 鍛錬場で真剣に剣技を磨いている彼とも、酒場で人々と明るく飲み明かしている彼とも違う。初めて見るシャルルカンの姿に、胸がドキリと震えた。
 思えばアリババは、彼をまるで知らない。出身国と、シンドバッドの眷属器を所持している事と、類稀なる剣術の才の持ち主であるのと、無類の酒と女好きで、面倒見が良くて、見た目ほど軽薄ではないということくらいで。
 どういう経緯で彼がシンドバッドと出会い、シンドリアに滞在することになったのか。何故国を出たのか。家族は。尽きない疑問が、アリババの中を駆け抜けた。
「お前はまだ小さい。金属器の使い方だってまだまだだし、剣技だって未熟だ。酒も飲めない上に、女も知らないお子様だしな」
「それは、関係ないでしょう」
 ずっと苦労して生きて来たのだ。女に現を抜かしていられる余裕などなかったのだから仕方がなかろうと怒鳴れば、シャルルカンは呵々と笑い、相好を崩した。
 いつもの彼が戻って来た。安堵して、アリババが肩の力を抜く。
「だから、テメーがその手で欲しいものを掴めるようになるくらいまでは、傍に居てやるよ」
「わっ」
 どん、と上から力を加えられた。押し潰されて、アリババは直前、彼が呟いた言葉を聞き取れなかった。
 ぐりぐりと頭をかき回されて、重みに耐え切れずに膝を折る。それでもシャルルカンは手を抜かず、逆に全体重をかけてきた。
「師匠、重いです」
 退いてくれるよう願うのに、またもや聞き入れられない。笑い声が波に攫われていく。肩を抱く腕の力強さと温かさは、けれど決して不快ではなかった。

2011/10/03 脱稿