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 南の空に昇る太陽が、燦々と眩しい光を放っている。
 六本の柱に囲まれた屋根だけでは、日射しを完全に遮れない。誘い出されて前に出た瞬間、目に飛び込んで来た激烈な輝きに気を取られ、アリババはガチリ、と奥歯を噛み締めた。
 視界が白に染まり、追っていた影を見失った。
「しまっ――」
「はい、お終い」
 焦り、視線を巡らせる。刹那、右前方から歌うような声が響き、アリババは重力を失って天を仰いだ。
「いでっ」
 足を払い、掬われた。一秒としないうちに背中に衝撃が来て、内臓が全て腹の方へ押し出された。肋骨が軋み、直ぐに立てない。
 びりびり来る痺れに喘いでいたら、首もとに冷たいものが押し当てられた。剣だ。刀身が先端に向かうに従って湾曲している、その反りの部分で頸動脈の直ぐ傍をなぞられて、サーッと血の気が引いた。
 もし反対側の、刃の部分を当てられていたら。
 血溜まりの中に沈む自分自身を想像して、アリババは真っ青になった。
 唇を戦慄かせ、恐怖をやり過ごそうと瞬きを繰り返す。ようやく色を取り戻した世界の真ん中で、褐色の肌を持つ男が呵々と笑った。
「相手の切っ先に気を配るのは当然だが、戦ってる場所にも気をつけろよ」
「はい」
 片刃の剣を引き、鞘に収めたシャルルカンが代わりに右手を差し出して言った。師匠の言葉を深く肝に銘じ、額に浮いた汗を拭って、アリババは深く息を吸い込んだ。
 助けを借りて立ち上がり、落とした剣を拾って鞘に戻す。ついでに裾が跳ね返っていた上着を整え、緩んでいた結びをきつく縛り直しているうちに、どどど、と激しく脈打っていた鼓動も幾らか落ち着きを取り戻した。
「武器は手にしている剣ひとつじゃない。覚えておけ」
「はいっ」
 両手を腰に当てたシャルルカンが、垂れ下がり気味の目を細めて言った。威勢の良い返事に楽しそうに相好を崩して、先ほどアリババが一時的に視力を失う原因となった太陽を仰ぐ。
 ふたりがいる鍛錬場は、硬い石を敷き詰めて作られて平らに均されているが、いざ戦場ともなればそうはいかない。地面は凹凸が激しく、雨が降れば一気にぬかるむ。砂漠の真っ只中ともなれば足を踏ん張るどころではないし、逆に樹木が生い茂るジャングルでは植物が邪魔をして、剣を振り回すのさえ困難を極めるだろう。
 場所によって、戦い方は変わる。太陽だって、時と場合によっては頼もしい味方だ。
 肩で息をして、アリババは咥内に残っていた唾を飲み込んだ。
 集中している最中では気付かなかったが、城内は随分と賑やかだった。
 それもその筈で、銀蠍塔は武術の鍛錬に勤しむ場だ。建物に囲まれた中庭を見下ろせば、若い国軍兵士が掛け声をあげながら、熱心に長槍をふるっていた。
 こめかみを伝って流れて来た汗を上着の袖に吸わせて、アリババは深呼吸を二度繰り返した。
「休憩にするか?」
「いえ、まだやれます」
 細い柱の傍に立ち、足許を見ていた彼にシャルルカンが問い掛けた。即座に振り返ったアリババが、緩く首を振り、表情を引き締めた。
 勝ち気な目に曇りはない。今は一秒でも長く剣を振るい、腕を磨きたいと心から願っている証拠だ。
 耳に心地よい返答に破顔一笑して、シャルルカンもまた口元を不遜に歪めた。
「よし、手加減抜きだ。来な」
 腰に佩いた鞘に左手を添えて、右手で柄を握る。音もなく引き抜かれた曲刀の黒さに息を呑み、アリババは上唇を噛み締めた。
 彼もまた膝を緩く曲げて僅かに腰を落とし、構えを取った。シンドバッドから譲られた、父王に縁ある剣を一気に引き抜いて息を吐く。
 脇を締めて左腕を背中に回したアリババに、シャルルカンは嬉しそうに舌なめずりした。
 国軍の兵士を相手にするのとはまるで違う興奮が、腹の奥の方から湧き起こった。
「いきます!」
 叫び、アリババが地を蹴った。
 一瞬で間合いを詰め、右腕を真っ直ぐ前に突き出す。迷いのない突きに、けれどシャルルカンはまるで動じなかった。
 左足を引き、右足を軸に身体を半回転させる。淀みのない動きは、アリババの目には標的が消失ようにも映った。
 但しこれまでにも何度となくやられているので、流石に見失ったりはしない。即座に反応して、彼は右足を前に突き出すと踵で床を擦り、前に出ようとする勢いを無理矢理殺した。
 靴底から薄い煙が立ち上り、瞬く間に何処かへと去った。歯を食い縛り、左腕でバランスを調整しつつ剣を横薙ぎに払う。
 キンッ、と硬い音が場内に轟いた。
 六角形の屋根にぶつかって反響し、降ってくる。耳を貸さず、彼は簡単に受け流したシャルルカンに第二撃、第三撃と立て続けに攻撃を加えた。
 剣戟の音がこだまする。叩き付け、払い、時に足技も駆使して攻め続けるものの、アリババの持つ剣は一度として師匠たる男に掠りもしなかった。
 全て曲刀で受けるか、躱された。
 無駄の無い動きに、隙がまるで見当たらない。攻めあぐね、アリババは一旦退いた。後ろに跳んで距離を稼ぎ、短い時間ですっかりあがってしまった呼吸を整える。
 口を窄めて息を吐き、咥内に溜まった唾を飲み終えるのを、シャルルカンはじっと待ってくれた。
 戦場ではこうはいかない。見つめる視線が雄弁に語っていた。
「くっそ……」
 涼しい顔をして、息ひとつ乱していないのが悔しい。余裕綽々としながら、次の手を仕掛けてこない弟子を挑発して、左手で顔を扇ぎさえする。
 ちょいちょい、と指を動かし早く来いと誘ってくる彼に我慢ならず、アリババはつい深く考えもせぬまま突っ込んで行った。
「うおぉぉぉぉ!」
「おっと」
 渾身の力を込めて振りかぶり、躍りかかるが、呆気なく左に避けられてしまった。
 両手で握った剣の先が床板にぶつかり、跳ね返った。衝撃が肩まで登って来て、指が痺れて握りが甘くなる。
「やばっ」
 勢い勇んで突撃した結果に動揺し、彼は悲鳴をあげた。
 掌が汗で湿っていたのもあって、柄を掴み直そうとしたら滑った。ずるりと手の中から抜け落ちようとする剣に青くなり、アリババは誤魔化すように腰を落として低い体勢で構え直した。
 シャルルカンは三歩の距離を維持し、剣の背で肩を叩いていた。
「お前さー」
 呆れた顔で言われて、ぐうの音も出ない。あまりの醜態にカッと赤くなり、恥ずかしさに耐えきれず俯く。痺れを残す指を使ってぎこちない動きで剣を鞘に戻せば、同じく剣を収めたシャルルカンが大股に歩み寄ってきた。
 名前を呼ばれても返事をせず、下向いたままでいたら、長い指で顎を攫われた。
「う」
「前にも言っただろう。手がなくなったからと言って、考えるのを放棄して闇雲に突っ込むなって」
 目を逸らすのを許さずに指摘し、シャルルカンはアリババの鼻先を指で弾き飛ばした。
 首を後ろに倒して逃げることも出来ず、彼はずきずき来る痛みを堪えて頷いた。顔の中心に両手を重ね、言葉にならない呻きを発しながら師匠の言葉を胸に刻み込む。
 蘇るのは、バルバッド王城内の広場で繰り広げた、煌帝国の兵士との戦いだ。
 あの時、アリババは武器化魔装すら出来なかった。やり方だけを教わり、自らを死地に向かわせればどうにかなると軽く考えて、無謀な賭に出た。
 時間がなかったというのもある。だが後から冷静になって振り返ってみれば、なんと恐ろしいことをしたのかと背筋が凍えた。
 実際なんとかなりはしたが、あのような偶然の奇跡は、この先そう何度も起こるまい。
 苦戦を強いられ、傷ついた過去を振り返り、力なく肩を落とす。目に見えて落ち込んでしまった彼に、シャルルカンは眉目を顰めた。
 少し強く叱りすぎただろうか。
 今し方鼻を弾いた右手を見つめ、無意味に握って、広げてと繰り返した後、長い溜息をついて肩を浮かせる。次の瞬間、大きな掌がぽすん、とアリババの頭の上に落ちて来た。
「う……」
 上から押し潰されて、彼は折れそうな首に懸命に力を込めた。押し返すが、加えられる力の方がずっと強い。耐えきれず、膝を床につけて腰を落とす。
 ぺたんと座り込んだ彼に目を細め、シャルルカンはくしゃくしゃになるまで金髪を掻き回した。
「師匠、止めてください」
 ほんのり赤い顔をしたアリババが、嫌がって手を伸ばした。手首を引っ掻いて抵抗するが、却って力を強められて、彼はついに観念し、口を尖らせつつ腕を下ろした。
 拗ねている子供が面白くて、シャルルカンは調子に乗って手の位置をずらし、転んだ時にぶつけて出来たのだろう擦り傷を避け、柔らかな頬に指を置いた。
 軽く押せば、ぷに、と凹んだ。
「ししょー?」
「お前、柔らかいな」
「なっ! ちょっと、止めてくださいってば」
 感触としては、夜の街を賑わせている女達の太股くらい。思いがけない触り心地に目を見開き、シャルルカンは面白がって彼の頬を両手で挟んだ。
 抓み、捻り、押して、撫でる。ぐりぐり弄り回されて、玩具にされる方はたまったものではない。
 懇願するが聞き入れられず、アリババは嬲られて熱を持った顔を余計に赤くした。
 柔らかいなどと言われたら、少し前までの、あの太っていた時期を思い出すではないか。
 バルバッドから逃げるようにシンドリアに渡ってきたあの頃は、なにもする気が起きず、自堕落に日々を過ごしていた。働かなくても生きていける環境だったのが尚更災いして、ぼんやり考え込む時間を作りたくない一心で、食べることで気持ちを誤魔化していた。
 煌帝国から戻ったシンドバッドに叱られてなんとか痩せるのに成功したものの、まだ部分的に肉は残っている。シャルルカンとの特訓でそれらも落ちるかと思っていたのだが、結局動いた分良く食べるようになったので、体重はさほど変わっていない。
「うぅぅ」
 獣のように牙を剥き、低く唸って威嚇して、ようやくシャルルカンは解放してくれた。
 すかさず自分の手で頬を覆い隠し、ひりひりしている箇所を労ってさすってやる。苦虫を噛み潰したような顔をしているアリババを見下ろして、シャルルカンは、侘びのつもりかまた頭を撫でて来た。
 普段剣を握る手が、優しく、アリババを擽っている。
「師匠、それ」
「ん?」
「それも、止めてください」
「なんで?」
 上目遣いに見つめ、直ぐに逸らして呟く。アリババの言葉にきょとんとして、シャルルカンは目を丸くした。
「なんでって……だって俺、そんなに子供じゃないです」
 表情が不満で、声を幾らか荒らげれば、彼は益々意味が分からないと言わんばかりの顔をした。
 アリババが頬の痛みを堪えて唇を噛み締める。だがもやもやするこの気持ちがなんなのか、結局彼自身にも分からなくて、言葉にするのは諦めざるを得なかった。
 押し黙り、俯いて、赤い顔を隠す。だらしなく垂れ下がった手が、腰に巻き付けた帯を無意味に弄っていた。
 胸元で揺れ動く、首に巻き付けられた組紐を見つめ、シャルルカンは怪訝に眉を顰めた。
「子供だろ?」
「俺はもう十七です」
 言えば、即座に怒鳴り返された。
 顔を上げたアリババの目が、陽光を浴びて琥珀色に輝いている。きらきらと光る双眸は、まるで迷宮の最奥で見つけた金細工のようだった。
 赤みを帯びた肌と相俟って、艶が一層増していた。彼が何に拘っているのかも垣間見えて、シャルルカンはしゃがんだまま、頬杖をついた。
「俺は二十一だけど?」
「歳を聞いてるんじゃなくて」
「俺から言わせれば、お前は子供だろ」
 あっけらかんと言い放ち、ついでにもう一度手を伸ばし、金の毛先に触れる。今度は掻き回す出なく梳いてやり、細い一本を指に絡めて軽く引っ張る。
 アリババの首がぐらりと傾いだ。
「それじゃ、俺はいつまで経っても子供じゃないですか」
「弟子なんてそんなモンだろ」
 痛みに顔を歪めた彼を呵々と笑い飛ばして、シャルルカンは続けてピアスに飾られた耳朶に触れた。くすぐったかったのか、アリババが身を捩る。嫌そうに頬を膨らませ、口を尖らせる。
 年齢差は覆せない。どれだけ背伸びをしようと、年月を費やそうとも。
 それは本人の努力だけではどうにも出来ない、自然の摂理だ。
「ずるい」
「狡くないって。俺が先に産まれて、お前が後に生まれたから、今こうしてられるんだ」
 感謝しろとまで言われて、乱暴に肩を叩かれた。力任せの一撃に顔を顰め、アリババは仕方無く首を縦に振った。
 確かに彼の言葉には一理あるけれど、だからといって全部が全部、納得出来なかった。
 そのことを伝えたいのに、上手く言葉が見付からない。もどかしさにやるせなさが募り、段々哀しくなってくる。ぐじ、と鼻を詰まらせたアリババに、音を聞いたシャルルカンがぎょっとした。
「アリババ?」
「なんでもありません」
 訳が分からないままこみ上げて来た涙を拭い、アリババが怒鳴る。勢いに驚き、シャルルカンは伸ばそうとしていた手を宙に留めた。
 が、迷った末に温かな掌はまたもやアリババの髪に触れ、頬と耳を包み込み、首を覆い、肩を通って背に回された。
 引き寄せられて、分厚い胸に閉じ込められた。
「調子悪いのか? だったら先にそう言え」
「ちがいますっ」
 幼子を宥めるように訊かれて、反発して怒鳴るが声に覇気が伴わない。鼻を愚図つかせた弟子の癇癪を余すところなく受け止めて、シャルルカンは緩やかに西に傾きつつある太陽に目を細めた。
 眩しい。座っている所為で余計によく見えてしまう。
 焦がされたそうだ。呟きは声にならず、熱い南洋の大気に溶けた。
 そうっと溜息を零したシャルルカンに額を擦りつけ、アリババは身じろいだ。肌に触れる呼気が熱い。肩を抱き、背を撫でさする手がどうしようもなく快かった。
 甘やかさないで欲しい。縋る場所を与えないで欲しい。
 アリババは何時までもここにいられない。シンドバッドと共に、世界に闇を広げようとするアル・サーメンと戦う覚悟はしたが、それとは別に、アラジンはアリババを王にすると言った。
 ひとつの国に、王はふたりも要らない。
 頭を撫でられたのが何年ぶりなのか、もう思い出せない。最後に頬を擽り、抱き締めてくれたのが誰なのかも分からない。
 記憶は塗り替えられた。きっと今夜から、寝際に思い出すのはこの温かさだ。
 いつか必ず、一緒にいられなくなる時が来る。その日が怖いと、思ってしまう。
 守られるのには慣れていない。守られたいとも思わない。だのに、委ねてしまいたくなる。任せてしまいたくなる。
 それではいけないと抗うのに、心は楽な方に流される。
「なんか、……分かんねーけど。子供は子供らしく、大人に甘えてろ?」
「だから、子供じゃありません!」
「酒もろくに飲めねーのにか?」
「あれは、苦手なだけです」
 放たれた負け惜しみに、シャルルカンは煙草だってそうだろうと茶化す。反論を封じられて、アリババは悔しそうに歯軋りした。
 硬く目を閉じる。言葉を飲む。唇を痛いくらいに噛み締める。
 警鐘が鳴り響くのに、耳は音を拾おうとしなかった。
「ダメ、なのに」
「ん?」
 この国は、温かい。優しい。誰もアリババに、大人であることを強要しない。
 ひとりで生きていかなくて良いと言う。腹が空いたと言えば食べ物を出してくれる。心地よい寝床を提供してくれる。闇に乗じて襲ってくる獣を警戒しないで済む。
 独りごちた彼の背を撫でて、シャルルカンは首を傾げた。が、難しく考えたところで他人の心が読めるわけがない。早々に諦めて、寄り掛かって来たアリババに目を細めた。
 苦しくない程度に抱き締めて、背中を撫でてやれば、気持ちが良いのかアリババはぐーっと伸びをして、安堵の息を吐いた。
 今だけだ。
 明日からはもう隙を見せない。作らない。だから今の、この短い間だけは。
「ほんと、ガキだな」
「ほっといてください」
 呆れ混じりに笑うシャルルカンに悪態をついて、アリババは夢に見た懐かしい温もりに鼻を愚図らせた。

2011/10/2 脱稿