気分を出してもう一度

 麗らかな陽射しが心地よい、朝。
 ネクタイを結びながら玄関を潜ったタクトは、ポーチの下で佇むスガタの背中を見つけ、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「スガタっ」
 昨日のうちに時間割をあわせておくのを忘れていたので、思った以上に準備に手間取ってしまった。屋敷の中に居ないので、てっきり置いていかれたとばかり思っていた。
 どうにか無事にネクタイを結んで形を整えたタクトは、ちらりと振り返ってから返事もせずに歩き出したスガタに急いで駆け寄り、右斜め後ろについた。
「今日も楽しくなりそうだなー」
 木漏れ日が落ちる並木道を進み、シンドウ家の敷地から島内を走る道路へと向かう。足を前に出すたびに、降り積もった落ち葉がサクサクと音を立てた。
 長閑で、穏やかで、優しい空気に満ち溢れている。深呼吸すれば、潮の香りが胸一杯に広がった。
 荷物の入った鞄を肩に担ぎ、緩やかな傾斜を少し急ぎ気味に進む。スガタの足取りに迷いは無く、そしていつもより速かった。
 確かに急がなければ遅刻になってしまうぎりぎりの時間であるので、早足になるのは仕方が無い。いつも乗っているバスも、もう通り過ぎてしまった後だろう。
「なあ、走る?」
 一本遅いバスに乗れるかどうかも、正直微妙だ。早歩きよりも走った方が速いのは間違いなくて、タクトは黙々と前を行く背中に問いかけた。
 青い髪に、白い肌。すらりとした体躯に、長い手足。その姿を見れば島内の少女らが一斉に黄色い声を挙げる美丈夫は、しかし聞こえているだろうにタクトを無視し、一心に足を動かし続けていた。
 眉を顰め、タクトは顔を顰めた。
 どうにも嫌な雰囲気に、口を尖らせ目を皿にする。ちょっと声を大きくして名前を呼んでみるが、振り返ってはもらえなかった。
 無駄話をしている暇はないと、そう言いたいのか。だがそれも違う気がして首を傾げたタクトは、今朝方のとある出来事を思い出し、ぴんと来てにやりと笑った。
「なに、まだ拗ねてんだ?」
 綺羅星十字団との戦いが終わってから、早数ヶ月。季節は冬に突入したが、南の海に浮かぶこの島は、相変わらずの南国ムードだった。
 雪は降らず、空も海も青い。流石に海水浴は無理だが、毛皮のコートは永遠に必要無さそうだ。
 そんなこんなで、未だ続いていたタクトとスガタの朝稽古。目の前の敵はひとまず駆逐したものの、いつまた同じような敵が現れるとも限らなくて、鍛錬は今日も繰り返されていた。
 タウバーンも、ザメクも、大破して最早使い物にならない。しかしオリハルコンには再生能力がある。
 結界は破られたが、シルシが消えたわけではない。望めば、資格を持つ人間は与えられた力を自由に操れる。
 素体は、管理されなければならない。ザメクの一戦で大破したものも多いが、そうでないものもある。故に綺羅星十字団は、一旦は解散したが、目的を新たにして再結成されていた。
 そのトップは、今、スガタが務めている。
 同じ過ちを繰り返さないよう、巫女の封印を復活させる方法を探すために。
 それでは彼らは、自由になれない。タクトは反対したが、スガタの意思は覆せなかった。
 他に、これまでとは違った方法があるかもしれない。一縷の望みを掛けて、タクト達はそちらも同時に探していた。今のところ、何の進展もないけれど。
 銀河から見た地球の美しさを思い浮かべ、彼は歩みを止めたスガタに苦笑した。
「そんなに悔しい? 僕に負けたこと」
「負けてなどいない」
「いや。あれはどう考えたって僕の勝ちだろ」
 白い歯を見せて笑った彼を睨みつけ、スガタが声を荒げた。振り向いた彼の怒り心頭の様子をまた笑って、タクトは人差し指を立てて顔の横で振った。
 そう、今日は何を隠そう、タクトがスガタに初めて一本取った記念日だった。
 これまでにも何度か惜しい敗北はあった。微妙な判定の差で負けた日もある。スガタはさすが幼少期から鍛錬を欠かさなかっただけあって、強い。だがタクトとて、黙ってやられてばかりではない。
 一進一退の攻防の末、タクトは晴れて本日、彼の手から木刀を落とさせるのに成功した。小手が決まった瞬間の爽快感は、今思い出しても興奮する。
 だのにスガタは、頑なに認めようとしない。
 思いの外頑固な彼に辟易しつつ、タクトは飄々と躱してスガタを追い越した。
「タクト」
「やーい、負け犬ー」
「なんだと!」
 すれ違いざまに尻を叩きながら茶化すと、案の定怒ったスガタは怒号をあげて襲い掛かってきた。
 振り上げられた拳をひらりと避けて、タクトは坂道を急いだ。逃げて、少し開けた場所に出たところでブレーキをかける。
 息を乱す事無く追いついたスガタが背中からぶつかって来て、よろめきつつ受け止めたタクトは、頭の上に落ちてきた鉄拳に小さく舌を出した。
 あまり痛くない。どちらかと言えば、タックルされた時の方がよっぽど衝撃が大きかった。
「へへっ」
「まったく。ちょっと手加減してやったら、すぐ調子に乗るな」
「してないくせに」
「いや。たまにはお前に勝たせて花を持たせてやろうという、親心だ」
 目を平らにしたタクトの言葉にさらりと言い返し、彼は胸を張って背筋を伸ばした。
 威風堂々を絵にしたような彼の態度は真に迫っており、うっかり信じてしまいそうになった。
 タクトがスガタに弟子入り――本人にそのつもりはなかったが――したのは、綺羅星十字団との戦いが激烈を極めていた頃だ。少しでも戦いを有利に運ぶために、タクト自身も強くなる必要があり、シンドウ流古武術を極めているスガタに白羽の矢が立った。
 彼のスパルタに近い猛特訓の甲斐もあって、タクトは綺羅星十字団を相手に連戦連勝。しかしその裏で、スガタを相手にした時は連敗記録を更新していった。
 今や敵はおらず、タウバーンに騎乗することもなくなったタクトは、お陰で長らく勝利の美酒を味わうことがなかった。
 負けが続けば、誰だって凹む。気落ちする。
 落ち込めば、やる気が無くなる。やっても無駄と、諦めてしまう。
 だから今朝方のアレは、たまには勝たせてやらなければ、という気遣いだったのだと、スガタはそう言いたいのだ。
「別に僕、落ち込んでたわけじゃないし」
「いいや、落ち込んでいたさ。あんなにムキになって攻め込んできたのが、なによりの証拠だ」
 あまりにも勝てないものだから、我武者羅に正面から突進してきた。策もなく猪突猛進を決め込んだ彼を哀れんで、スガタはちょっとだけ小細工をした。
 堂々と言い切られてしまうと、そうだったかもしれないと思えて来るから不思議だ。危うく言い包められるところだったタクトはハッとして首を振り、拳を振り回した。
「ちっがーう」
 あれは間違いなく、タクトの実力だ。
 何度負けても、負けても、負け続けても諦めず、地道にこつこつ積み重ねてきた成果だ。
 声を大にした彼を、けれどスガタはふっ、と鼻で笑った。
 アスファルトで舗装された道はもう直ぐ其処で、バス停まではあと五分足らず。腕時計を見たスガタは、次のバスが来るまでの時間を大雑把に計算して、頭から湯気を噴いているタクトに肩を竦めてみせた。
「お前みたいな隙だらけの単純馬鹿に、この僕が本気で負けるとでも?」
「ぬあ!」
 呆れ混じりに呟けば、激高したタクトが鞄を振り回した。
 素早く避けて距離を稼ぎ、スガタは涼やかな笑顔を浮かべた。
 それ見たことか、と言わんばかりの態度に地団太を踏み、タクトは悔しそうに歯軋りした。目を吊り上げて怒り、鼻息荒く親友だと思っていた男を睨む。
 だがそれも飄々と受け流されてしまって、彼は栗鼠のように頬を膨らませると、大股で歩み寄ってスガタの肩を掴んだ。
「僕の。何処が! 隙だらけだって?」
 耳元で怒鳴られて、喧しさに負けたスガタが後退する。肩を怒らせて追いかけてくる、子供みたいなタクトに頬を緩め、彼は困った顔をして目を細めた。
 ちょっとだけ迷う素振りを見せて、
「全部、かな」
「スーガーター!」
 両腕を高く掲げたタクトの罵声を呵々と笑い飛ばし、スガタはちっとも悪びれない。
 感性が違いすぎると嘯いて、タクトはやり場のない怒りの矛先を探し、足踏みした。
「だったら。僕がそんなに隙だらけだって言うなら、今すぐ僕のこと、投げ飛ばしてみろよ」
 百歩譲って今朝の勝利がスガタのお目こぼしによるものだと認めても、常時隙だらけ、というのは許しがたい。タウバーンに乗って強敵相手に勝利を重ねて来た自負もあり、タクトは胸を叩いて肩の力を抜いた。
 足を肩幅に広げ、丹田に意識を集中させる。
 半年近く、毎日のように修練を積み重ねてきたのだ。元々基礎が出来ていたのもあり、タクトの成長振りは目覚しいものがある。
 なにより、綺羅星十字団との激戦を勝ち抜いたという実績が、彼の気を大きくさせていた。
 そんなだから簡単に足元を掬われるのだ。
 スガタが切り込んでくるのを今か今かと待ち構えている少年には、苦笑を禁じえない。青い髪をゆるりと掻き上げ、王のシルシを持つ青年は穏やかに微笑んだ。
 男の目から見ても惚れ惚れするくらいの端正な顔立ちを存分に和らげて、穏やかに囁く。
「好きだよ、タクト」
「――え」
「お前が好きだ。とても、心から」
 右手をそっと胸に添え、まるで謳うように告げる。真摯な眼差しは真っ直ぐタクトを射抜き、逸らすのを許さなかった。
 神に誓う神官か、或いは女王に跪く騎士か。祈るように語られた言葉に圧倒されて、タクトは胸の高鳴りを止めることが出来なかった。
 顔が強張り、勝手に赤くなる。頭の中で今の言葉が何重にも反響して、身体中に広がっていく。
 緋色の目をぐるぐる回し、燃える太陽を思わせる髪の色並みに真っ赤になった彼は、鞄と頭を同時に抱え込んで激しくうろたえた。
「タクト」
「な、なに。いきなり、なっ、なに言っ……」
 こんな朝っぱらから、しかも誰が通るかもしれない道端で突然、なんだ。
 シンドウ邸の敷地を出て、彼らは今、公道の只中にいた。
 さすがに辺鄙なところにあるバス停だけあって、使う人は限られていて、停留所は無人だった。が、間違って降りてしまう観光客が皆無というわけでもなく、タイガーやジャガーだってどこに隠れているか分からない。
 先ほどまで何の話をしていたのかも忘れて、タクトは迫り来るスガタから逃げようと足を引いた。
 追いかけて、白くしなやかな腕が伸ばされる。
「タクト」
 甘く香る声で名前を呼ばれ、手首を取られて。
 首筋に微かに他者の体温を感じた瞬間。
「――はえ?」
 タクトは空を見上げ、宙を泳いでいた。
 比喩ではない。本当に彼の身体は一回転して、背中から地面へと沈んでいった。
「いだっ!」
「隙あり、だな」
 衝突の衝撃に息が詰まり、短い悲鳴を上げた彼を真上から覗き込んだスガタが意地悪く笑った。
 得意満面に告げられて、タクトは自分の身になにが起きたのか、すぐに理解出来なかった。
 足払いを喰らって倒れた、というのは分かったが、何故彼にそんな真似をされねばならなかったのか。先ほどの熱烈な告白に気を取られて、その前のやり取りをすっかり失念していたタクトは、惚けていたところを引っ張り揚げられて、ようやく、一連の流れを思い出した。
 宥めるように背中を撫でて汚れを払い落とされて、心配そうに見詰めてくる黄金色の眼差しにハッとする。
「ず、ずるい。卑怯!」
「その評価は許しがたいな。戦術と言え」
 声を張り上げて糾弾すると、スガタは不満げに頬を膨らませた。
 偉そうに言い放ち、まだ顔が赤らんでいるタクトの額をぺちりと叩く。
「隙だらけだったぞ」
「だから、それは。その」
「あれしきで動揺するなんて、まだまだだな」
 誰の所為だと文句を言いたいのに、巧く言葉が出てこない。口を尖らせる彼を呵々と笑い飛ばして、スガタは遠くに見え始めたバスに間に合うよう、鞄を握り直して歩き出した。
 すたすたと急ぎ気味の足取りには迷いが無い。
 散々人を振り回しておきながら、彼だけが飄々としているのは許しがたい。
 ちょっとくらいはやり返したくて、タクトは唇を噛むと鞄を強く握り締めた。
「スガタ!」
 五メートルほど離れてしまった背中に向けて、大声で呼びかける。彼は出した足を引っ込め、首から上だけで振り返った。
「どうした。早く来い」
「ぼ、僕だって。僕だって……えと、その。ぼく、も」
 手を差し伸べる、朗らかな笑顔のスガタを思い切り睨み付ける。だがいざ言ってやろうとした瞬間、本当に自分がその台詞を言うのかと疑念が生じ、恥ずかしさがこみ上げてきた。
 言葉が喉に詰まり、同じ場所を行ったり来たり。
 赤くなったり、青くなったりと忙しない彼に相好を崩し、スガタは通ったばかりの道を戻り始めた。次のバスを乗り過ごしたら完全に遅刻だが、構いもしない。
「タクト」
 心躍らせながら、俯いて震えている愛らしい少年に触れようと身を屈めて。
「スガタの、バカー!」
 耐え切れなくなったタクトの一撃を顎に見舞い、天国を垣間見た。

2011/05/31 脱稿