危殆

 静まり返った廊下に喧しく足音が響き渡る。苦しそうな息遣いもまた、静寂を打ち破るには充分な騒々しさだった。
 サイズがきつくなって踵を踏んでいる上履きは、スリッパと言った方が良い形状をしていた。油断すると脱げて、すっぽ抜けて飛んで行ってしまう。
 靴下の中の指を丸めることでどうにか惨事を防ぎながら、彼は息を切らし、階段手前で足を止めた。胸が破裂しそうに苦しくて、呼吸ひとつままならない。
「……はっ、は、んく」
 溢れそうになった唾を飲みこんで、首を振って上を向く。目に入りそうになった汗を拭って肩を上下させて、沢田綱吉は左手に抱えた荷物を強く握り締めた。
 他教科に比べると随分と薄い教科書と、こげ茶色の細長い筒、そして筆箱。ひと目見ただけで、これから音楽の授業があるのだというのが伝わってくる姿だ。
「なんで、もー。起こしてくれないんだよ」
 切羽詰った顔をして此処に居ない誰かに愚痴を零し、唇を噛む。耳を澄ませば遠くから、アルトリコーダーと分かる合奏が聞こえて来た。
 昼休みを終えて、最初の授業。つまるところ五時間目の授業が開始されてから、もう十分以上が経過していた。
 うっかり昼ごはんの後に居眠りをしてしまい、目覚めたときには教室は蛻の空。ひとつのクラスに四十人近くが在席しているのだから、ひとりくらい机で寝こけている彼を揺り起こしてくれても罰は当たらないだろうに。
 よりによって獄寺も、山本も、目覚ましになってくれなかった。
 授業が終わった後でみっちり説教してやる事にして、綱吉は最上階に続く階段を睨み付けた。
 いっそこのままサボってしまえと、悪魔の囁きに首を振る。ただでさえテストの成績は惨憺たるものがある綱吉だ、せめて出席点くらいはきちんと確保しておかないと、最悪落第して進級できない、なんていう事にもなりかねない。
 義務教育で留年は、いくらなんでも恥ずかしすぎる。
 遅刻してでも出席する方が、教諭の心証も多少は良かろう。そんな事を考えて、彼は最初の一段に爪先を乗せた。
 ここまで全力疾走してきたので、息が切れて苦しい。小休止で少しは落ち着いたが、心臓はまだ痛いくらいに激しく蠢いていた。
 急がなければならないのは、分かりきった話だ。が、生来の怠け癖がむくりと顔を出して、綱吉の四肢に絡みついた。
「音楽室って、なんで最上階なんだろ」
 防音設備が整えられていたとしても、窓を開けてしまえば意味が無い。音漏れするのが当たり前なのだから、他の教科と同じように、音楽の先生も教室に出張してきてくれればいいのに。
 あれこれと心の中で不満を並べ立てて、彼は長い溜息を吐いた。右足が鉛のように重くて、なかなか思うように動かない。
「ちぇ」
 それでも行かなければならないのだと、己に強く言い聞かせる。床に糊付けされていた上履きを引っぺがし、次の段に身体を移動させようとして。
 ダン、と鋭い足音が彼の耳朶を打った。
「っ」
 思わずびくりとして、綱吉は自分の足を見た。
 数ミリ浮かせて、強めに床を叩いてみるが、先ほどのような音は響かない。ぺこ、と踵と仲違い中の靴底が段差の角を叩いただけで、心臓を抉るような一打とは天と地ほどの差があった。
 いったい誰の足音だったのか。
 思い当たる節はひとりしかなくて、綱吉はつい、怖いもの見たさの心境で階段手摺りから身を乗り出した。
 そして。
「うわっ」
 暗がりからぬっと現れた黒髪に驚き、みっともなく悲鳴を上げた。
 登ったばかりの階段を飛び降りて、灰色に塗られた壁際まで後退する。背骨の出っ張りが冷たい平面に激突して、跳ね返った。
「……なに」
「あ、いえ。いえ!」
 綱吉と同じ階で足を止めた青年が、不機嫌も露わに低い声を放った。凄みかける眼差しは強烈で、メデューサに睨まれでもしたかのように、綱吉は凍りついた。
 物言わぬ石像になれた方がまだ幾らかマシだったかもしれない。さっさと音楽室に向かっておくべきだったと後悔に襲われるが、だからといってそれで時間が巻き戻るわけもなかった。
 教科書類を胸に抱き、首をブンブン横に振る。
 応接室に帰る途中なのだろう、風紀の腕章を腕につけた青年は、真っ青になって汗をダラダラ流す少年を不思議そうに見つめた後、興味無さそうにそっぽを向いた。
「チャイム、鳴ったよ」
「う。……はい」
 吐き捨てるように告げられて、綱吉はしゅん、と小さくなった。
 自分でも分かっているが、改めて他人に指摘されると情けなくて、涙が出そうだった。
 元はといえば、満腹になったからと呑気に昼寝を決め込んだ自分が悪いのだ。獄寺も山本も、もしかしたら起こしてくれたのかもしれない。それで目覚めなかったのもまた、己の落ち度だ。
 目に見えて落ち込んだ彼に肩を竦め、中学校の風紀を一手に担い、取り締まっている男は呆れ顔で溜息をついた。
「早くいけば?」
 遅刻も今回は見逃してやるからと、珍しい事を言って手で追い払う仕草を取る。いつもなら、嬉々として咬み殺しに来るのに。
 奇妙なこともあるものだと、綱吉は初めて彼に興味を持った。不思議に思いながら顔を上げて、マジマジと目の前に立つ青年を眺める。
 黒い髪、黒い瞳、白いシャツに黒の学生服。
 赤い手に、同じく赤黒く汚れた頬。
「……ん?」
 綱吉の知っている彼とは異なる色が視界に紛れ込んでいるのに気付き、目を丸くする。
 見れば白いワイシャツにも、点々と赤い染みが散っていた。斑模様の花のように、大きな汚れの周囲に無数の飛沫が散っていた。
 吐き気を覚える嫌な臭いも感じられて、彼は息を止めた。肩を強張らせて頬を引き攣らせると、表情の変化を見た青年が、嗚呼、と緩慢に頷いた。
「僕のじゃないよ」
 事も無げに言って、赤く濡れたシャツを抓んで引っ張る。布に染み込んだ誰かの血液が、じんわり広がって雲雀を汚そうとしているようだった。
 どこかで一戦交えて、終えたばかりなのだろう。それで疲れているから、小物中の小物でしかない綱吉は見逃してもらえた、という事だ。
 彼に咬み殺された人たちには申し訳ないが、余計な被害を受けずに済んだのは正直あり難い。今頃裏庭辺りで倒れているだろう不良たちに念仏を唱えて、綱吉はそそくさと、雲雀の気が変わらないうちに横をすり抜けようとした。
 そうしてすれ違う瞬間垣間見た雲雀が、右手の中指を頻りに気にしているのに気がついてしまった。
 勢い良く前に出した足を引っ込めて、空振りした上履きで床を叩く。とうに立ち去ったとばかり思っていた人物がまだ其処に居ることに、風紀委員長は不機嫌に顔を顰めた。
 眉間に皺が寄って、表情はかなり怖い。だが一度気になりだしたら止まらなくて、綱吉は落ちそうだった教科書を抱え直すと、恐る恐る、雲雀の方へ歩を進めた。
 近くは無く、けれど遠くも無い場所で足を止めて、右手の人差し指を伸ばす。
「ヒバリさん」
「なに」
「それ。……指のとこ」
 ぶっきらぼうな応答には、愛想の欠片もない。だが綱吉は構わず、赤い血を滴らせている彼の右手を指し示した。
 指摘されて初めて気付いた顔をして、雲雀は肘を引いた。腕を胸元まで持ち上げて、掌を自分の方に向ける。
 上下の向きが変わって、爪先目掛けて流れていた鮮血が指の股をツ、と下り始めた。
 外で浴びた返り血が、時間を経てもそんな風になるとは考え難い。だが雲雀の反応は芳しくなく、彼はどこか惚けた顔をして、血を流す傷口を見詰め続けた。
「ヒバリさん?」
「どうって事ないよ」
 流石に心配になって、綱吉が呼びかける。それで我に返った彼は、腕を振って血を遠くへ弾き飛ばした。
 そんな事をしても、出血は止まらない。よくよく見れば親指の爪が異様に赤く染まっているので、どうやら彼は、何かで引っ掻いて作った指の傷を、無意識のうちに弄り回していたらしい。
 熱を持った傷口が痒くて、爪で引っ掻いているうちに悪化させたと、そんなところか。
 想像するだけでも痛いのに、雲雀は平然としている。寒気をやり過ごした綱吉に構われるのが嫌なのか、不満げにして、何もかも無視して歩き出そうとした。
 その後ろに振り抜かれた左手を、
「あっ」
 綱吉は反射的に掴んでしまった。
 引っ張られてつんのめった雲雀が、輪をかけて不機嫌な顔をして振り向いた。至近距離から睨まれてパッと手を離した綱吉は、自分でも何故こんな暴挙に出たのかが分からず、困惑を顔に出した。
 肩の横で広げた手を振り、いぶかしむ視線を避けて苦笑する。
「……さっきから」
 凄みが増した低音にどきりとして、綱吉は新たな血を滴らせる彼の指に総毛立った。
「ま、待ってください」
 殴られる恐怖を打ち破り、声を高くして急ぎ教科書とアルトリコーダーを脇に挟み持つ。左手に握った筆入れのファスナーを引いた綱吉は、虚を衝かれて沈黙した雲雀を盗み見ながら、奥まった場所に潜り込んでいた何かを抓み出した。
 白を基本として、赤いラインが端に入っているそれは、絆創膏に他ならなかった。
 もし雲雀が、無自覚に傷口を指で抉っているのだとしたら、治るどころか悪化する一方だ。
 せめて止血を。それから、傷に爪が直接触れないように覆いを。
 その両方が叶う便利なアイテムを右手に持って、綱吉は筆箱も脇に抱えた。落とさないよう注意しながら、薄い紙を引き剥がして中身を取り出す。
 見守っていた雲雀が、露骨に眉を顰めた。
「要らない」
「ダメです」
 伸びてきた綱吉の手を避けて、雲雀がつっけんどんに言った。
 拒否されても諦めず、綱吉はしつこく彼を追い回し、苦労の末に右手首を確保した。
 いつもなら一発殴って追い払うのに、そんな気になれない。疲れている以外の理由がある筈なのに見付からなくて、雲雀はちょっとだけ嬉しそうにしている綱吉を物珍しげに眺めた。
「ホントは、ちゃんと洗って、消毒してからの方がいいんだけど」
「なんで持ってるの」
「俺、ドジだから。よく怪我するんで」
 感情の起伏に乏しい淡々とした問いかけに臆面も無く返し、綱吉は慣れた手つきで雲雀の指に絆創膏を巻いてやった。
 傷自体は、そう大きいものではなかった。周辺一帯真っ赤になっていたけれど、それも流れた血が皮膚にこびり付いていただけだった。
 見た目ほど酷い具合でもなさそうで、心配しすぎだったかと思ったが、一度始めてしまった事を中途半端なところで投げ出すわけにもいかない。
 剥いだ紙を丸めてポケットに押し込んだ綱吉から手元へ視線を移して、雲雀は奇妙なものを見る顔つきで手首を裏返した。
 肌色のテープ部分に、赤い血がじわり、じわりと染みこんでいく。試しに傷口に指先を押し当てても、ガーゼが盾になって素肌に触れるのは叶わなかった。
 妙な感じだった。
 自分の身体の一部なのに、そうでないような気がして、どうにも落ち着かない。
 テープの縁に爪を擦り付けて剥がそうとしたら、見ていた綱吉がムッとした。
「ダメですってば。治らなくなりますよ」
 不貞腐れた顔で言って、雲雀の手をぺちりと叩く。遠慮のない彼にぎょっとして、雲雀は眉間の皺を深めた。
 見詰められて、綱吉はやりすぎたかとばつが悪い顔をした。
 今まで、こんな風にずかずかと触れてくる存在は無かった。彼に叩かれた甲をなぞり、雲雀は不思議な感慨に浸りながら小首を傾げた。
「誰にでも、するの」
「……はい?」
「こんな事」
 掻き消えそうな小声での質問に、綱吉は聞き取り辛くて身を乗り出した。
 琥珀色の目を真ん丸くして、顔の前で絆創膏を巻いた手を振った雲雀に嗚呼、と頷く。
 浮かせた踵を床に下ろし、リコーダー入れのスナップを意味も無く弄り回して、綱吉は数秒後、苦笑しながら首を振った。
「しませんよ」
 怪我をしたら直ぐに手当てをしようとする仲間ならいるが、放置して、挙句悪化させるような真似をする人間は生憎と知り合いにいない。第一、身内の中で最も怪我をする頻度が高いのは、綱吉なのだ。
 山本や獄寺に手当てされたことならあるが、その逆は今のところ、一度もない。
 つくづく自分は、他人の世話になってばかりだと思い知らされて、彼は首を竦めて舌を出した。
「ヒバリさんだけです」
 万が一の時の為の絆創膏が、誰かの為に役に立ったのもこれが初めて。
 言葉にするとなんだか気恥ずかしくて、誤魔化そうと笑う。だが見下ろしてくる視線がこれまでと違う雰囲気を纏っていると知って、彼はきょとんとした。
 切れ長の目を見開いて、雲雀は何故か驚いた顔をしていた。
「……ヒバリさん?」
「へえ」
 なにか変な事を言ったかと、不安になった綱吉は声を潜めた。下から覗きこむと、彼は口角を歪めて不敵に笑った。
 ゾクッと来る妖しげな瞳に魅入られて、心臓を鷲掴みにされたような、そんな錯覚に陥った。
「優しいね。誤解するよ?」
「え?」
 言いながら、雲雀が綱吉の巻いた絆創膏に唇を寄せた。赤く熟した舌先で転がすように舐めて、目を眇める。
 呆気に取られた綱吉は、意味深な眼差しから酷く淫靡なものを感じ取り、かあぁ、と顔を赤くした。
 頭の先から湯気を立てて、琥珀色の瞳を真ん丸にして慌てふためく。
 片腕を振り回して右往左往する彼に一歩近付き、雲雀は倒れそうになった綱吉の手を握った。
「う……」
 先ほど自分が口にした台詞が、頭の中で二重三重に響き渡った。
 他の誰にもしない。
 雲雀に、だけ。
 深く考えもしなかったけれど、聞きようによっては酷く意味深だ。
 雲雀はどういう意味として受け取ったのか。掴まれた手と、彼の顔とを見比べて、綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 軽く引っ張られて、上履きが脱げそうになった。
「あ、あの。俺、その、授業」
 登ろうとしていた階段を顎で示し、放してくれるようそれとなく訴えかける。だが雲雀は逆に力を強め、綱吉が目指すのとは反対方向へ勝手に進みだした。
 有無を言わせぬ態度に面くらい、綱吉は慌てた。
「ヒバリさん」
「病欠で連絡しておいてあげる。どうせだから、君、他も手当てしてよ」
 前を見たまま言われて、どきりとする。振り返った雲雀は、顔を赤くしている綱吉に上機嫌に笑って、血まみれの自分を指差した。
 それは先ほど本人が、自分のものではないと主張していなかったか。
 反論したい気持ちは山ほどあるのに、巧く言葉が出てこなくて綱吉は唇を噛み締めた。
 繋がれた手も異様に熱いのに、どうしてだか振り解けなかった。

2011/05/31 脱稿