王は踊る

 木造校舎の窓から差し込む日射しが、床に歪んだ線を描き出す。窓枠をひっくり返したその紋様に向かって一歩を踏み出して、タクトは深く息を吸い込んだ。
 やや埃っぽい空気を肺の奥まで溜め込んで、昨晩必死になって暗記した文章を、頭の中に並べ立てる。
 背もたれの無い椅子に腰掛けた演劇部、夜間飛行のメンバーが息を殺して見守る中、彼は。
「拙者親方と申すは、御立会の内に御存知の御方も御座りましょうが、御江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町を御過ぎなしゃれて、青物町を上りへ御出でなさりゅれ、ば……」
 ひと息のうちに捲し立てて、噛んでしまった途端に先が続かなくなって、喘ぐと同時に天を仰いだ。
 両手で顔を覆い隠し、恥ずかしそうに身を捩る。見守っていた面々も揃って脱力して、苦笑を浮かべて姿勢を崩した。
 一気に緊張が解けた。ピンと張り詰めていた糸が切れてしまって、演劇の小道具や大道具でいっぱいの部屋は、にわかに和やかな雰囲気を取り戻した。
 くくく、と声を殺して笑って、スガタはまだのたうち回っている少年に肩を竦めた。
 ちらりと前を見れば、舞台の縁に腰掛けた勝ち気そうな少女が困った顔をして目を細めていた。
 肩まである麻色の髪を左右の高い位置で結っている彼女は、スガタの視線に直ぐに気付き、どうしたものかと両手を広げた。
「まだちょっと、早かったかな」
「そうですね。タクトに外郎売は、まだ難しいかと」
 唇を舐め、サリナが呟く。演劇部の唯一の三年生であり、部長でもある彼女のひと言に、スガタは即座に同意して鷹揚に頷いた。
 言われてしまったタクトはトホホ、と項垂れて涙を呑んだ。
 頑張って暗記したのに、最初の一文さえまともに言えなかった。
 発声練習の基本である早口言葉には少々慣れて来たので、少し長い文章をやってみよう、という話が出たのが三日前。その第一弾として与えられた課題が、この外郎売だった。
 元は歌舞伎の一番だというこの長文は、滑舌の練習にぴったりなのだ。
 観客を楽しませるべく舞台に上がる以上、台詞を淀みなく、丁寧に声に出すのは役者として当然の責務だ。しかしタクトは高校に入って演劇部に誘われるまで、相手が聞き取りやすいように喋ろうと意識した例は無かった。
 お前は滑舌が悪い、と言われた時は正直ショックだった。が、練習を繰り返すうちに、喋るという行為が実に奥が深く、なんとも難しいものだと分かってきた。
「無理なんかじゃない!」
 だがそれを素直に認めるのも癪で、彼はうんうん頷いているメンバーに怒鳴り、拳を作って胸を叩いた。
 ん、ん、と喉の具合を確かめて、唾を飲んで口の中を空っぽにする。真剣な横顔に、笑っていたスガタも、サリナも、つられる形で表情を引き締めた。
 ワコやタイガー、ジャガーも息を潜め、部室の真ん中に立っている少年に注目した。
 タクトはすうっと深く息を吸い、瞼を閉ざして目映い西日を視界から追い出した。
 気持ちを鎮め、次々に浮かんでは消える文字を拾って口を開く。
「えー……拙者親方と申すは、御立会の内に御存知の御方も御座りましょうが、御江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町を御過ぎなされて、青物町を上りへ御出でなさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門、只今では剃髪致して圓斎と名乗りまする」
 先ほど噛んだ場所もすんなり通り越して、緊張で凍り付いていた彼の表情が少しだけ和らいだ。
 固唾を飲んで見守っていたワコがホッと頬を緩め、サリナは感心した風に瞬きを二度繰り返した。
 腕組みをして右を上に脚を組んでいたスガタは、天然のスポットライトを浴びる少年を、食い入るように見詰めていた。
「元朝より大晦日まで御手に入れまする此の薬は、昔、珍の国の唐人外郎と云う人、我が朝へ来たり。来たり。来た、り……て」
 だが調子よく口上を述べていたタクトも、そこが限界だった。
 次の台詞が出て来ないのだろう。額に珠の汗を浮かべて次第に表情を険しくしていく姿に、一瞬でも彼を見直しかけていたサリナは、自分の早計さを恥じて呻き声をあげた。
「あは、あははは。まあ、長いもんね。外郎売」
「ワコも、覚えるのに時間がかかったからな」
「それは言わない約束でしょー!」
 いきなり全部を諳んじるのは無理があると、ワコが落ち込んでいるタクトを慰めようと両手を叩き合わせた。すかさず横からスガタの茶々が入り、タイガーとジャガーが楽しげにころころと笑った。
 仲がよい彼らを眺め、サリナは目を細め、微笑んだ。
「それじゃあ、タクト君は来週までに外郎売を全部暗記して、ちゃんと最後まで通して言えるようになっておく事。宿題ね」
「来週までって、それ厳しくないですか」
「無理じゃないんでしょ?」
 にこやかに告げられて、タクトは目を丸くして抗議の声をあげた。が、先ほど自分で言い放った台詞を繰り返されて、揚げ足を取られた彼は押し黙るより他無かった。
 先走るのではなかった。意地を張らず、素直に出来ないと申告しておけばよかった。
 が、それも全て後の祭りだ。
 しょんぼりしながらベンチに戻った彼に相好を崩し、スガタは僅かに身を乗り出した。
「練習には、つき合ってやるから」
「っていうかー。だったらスガタは、ちゃんと言えるの?」
「あら。スガタ君は中学生の頃にはとっくにマスターしてたけど?」
 自分ばかりが攻撃されるのは不公平で、狡い。そう口を尖らせたタクトの反論に、サリナはさらりとトドメを刺す事を言ってのけた。
 ね? と同意を求められて、スガタは幾らか動揺したのか、即答を避けて曖昧に言葉を濁した。
「ええと、……まあ」
「むー」
 出来るとは言わないが、出来ないとも言わない。無言を肯定の意味と捉え、タクトは頬杖付いて背中を丸め、頬をぷっくり膨らませた。
 見るからに不満げな態度の彼に苦笑して、ワコは幼馴染みであり、名目上は婚約者である青い髪の青年に顔を向けた。
「スガタ君は、滑舌は良いもんね。声も伸びがあるし。舞台に上がると余計に思う」
「ありがとう」
 褒められて照れ臭そうにしながらも礼を言い、スガタは膨れ面を酷くした同い年の少年に笑いかけた。
 目が合った瞬間、彼はぷいっと逸らしてしまった。
 不機嫌を改めない彼に肩を竦め、サリナは一寸の悪戯心を働かせて、なんとかタクトを宥めようとしている青年にひっそり微笑んだ。
「そうね。練習につき合ってもらうんだったら、折角だし、舌使いも教えて貰ったら?」
「部長?」
 意味深な台詞に、スガタが即座に反応して顔を向けた。黙って様子を見守っていたジャガーの耳もピクリと動き、好奇心旺盛な眼を爛々と輝かせた。
 眼鏡で西日を反射させた彼女にも苦笑を返し、スガタは顔の前で手を振った。
「それは、流石に……」
「なに? 何教えてくれるって?」
 無理だと言わんとしたスガタを遮り、頬を凹ませたタクトが不思議そうに聞き返した。どうやらサリナの台詞は、後半しか聞いていなかったらしい。
 それに少し安堵して、スガタは目を細めた。
「あら。なーんだ、まだ教えてあげてなかったの?」
 腰掛けた舞台の縁に手を添えて上半身を後ろに傾けたサリナが、スカートからはみ出た細い脚を自慢げに伸ばしながら言った。見えそうで見えない中身に気を取られたタクトが、益々目をぱちくりさせてスガタを振り返った。
 今度は彼が目を逸らす番だった。
 遠く、西に傾いた太陽を眺めている青年の横顔をじいっと睨むように見詰めて、教えてくれるように強請る。彼らの間に座るワコは、両手を頬に添えてうっとりと目を閉じていた。
 彼女がどんな妄想に走っているかも知らず、タクトはベンチに預けていた腰を数センチ前に出し、肩幅に広げた脚の間に両手を置いた。
「スガター?」
「教えてあげたらいいのに。上手なんでしょ?」
「ですから、どうして部長がそんな事をご存知なんですか」
「それは、ねえ……?」
 せっつくタクトに、サリナが調子に乗って話を混ぜっ返す。弱り果てたスガタが話をすり替えようと聞き返した途端、丸眼鏡をきらりと輝かせたジャガーが嬉しそうに手を挙げた。
 嫌な予感がして、スガタは天を仰いだ。
「坊ちゃまは、チェリーの茎を結べますものねー?」
「……お前か」
 はしゃぎ回るジャガーと、その隣でうんうんと頻りに頷いているタイガーの二名は、シンドウ家に仕えるメイドだ。
 ワコ同様に、スガタとは昔からのつきあいだ。最早幼馴染みと言ってもいい。幼少の頃からつき合いのある彼女たちは、スガタの恥ずかしい過去や、消したい思い出もしっかり記憶している。
 思春期に突入したばかりのスガタが、毎日のようにサクランボを食べつつ何を練習していたのかも、勿論。
 若気の至りだったと恥ずかしくてならない話を持ち出されて、スガタは怒りたい気持ちを必死に押し殺して拳を硬くした。
 知らないのか、タクトはまだきょとんとしていた。
「ふふふ。では今晩は、たーっくさんチェリーを用意しますね」
「あら。チェリーはひとつで十分じゃない?」
 ちらりとタクトの方を見て、サリナがジャガーに意見する。人差し指を立てた彼女の言葉に、長い髪を背に垂らした少女は成る程、と同じくタクトを盗み見て深く頷いた。
 まだ妄想の世界にいるワコを現実に連れ戻すべく、おかっぱ頭お少女がコホン、とわざとらしく咳払いした。
「はっ」
 それでようやく我に返ったワコは、女性陣にだけ見えていたふしだらな妄想に慌てふためき、垂れていた涎を拭って恥ずかしそうに頭を掻いた。
 ひとり冷や汗を流している少女に、タクトは大きな目を丸くして首を傾げた。
「タクト様は、今晩はお泊まりにいらっしゃるのですか?」
「え?」
 今日は金曜日、明日と明後日は休日だ。
 最近はすっかり、シンドウ家で週末を過ごすようになっていたタクトは、今更な質問に目をぱちぱちさせて、少ししてから首を縦に振った。
 瞬間。
「きゃー!」
 ジャガーとタイガーが手を取り合い、嬉しそうに悲鳴をあげた。
 彼女らが何故こうもはしゃいでいるのかが分からず、タクトは助けを求めてスガタを見た。
 彼は相変わらず窓の向こうを見て、黄昏れていた。
「え? なに? なんなの?」
「今夜のメインディッシュは、真っ赤でおっきなチェリーですね」
「違うわ、タイガー。それはディナーの後のデザートよ」
「あら、それもそうですね。なら夕飯は、何が良いでしょう。やっぱり脂滴るお肉でしょうか?」
「たっぷり栄養をつけて、体力を回復して頂かないといけませんものね」
「お前達」
 完全に置いてけぼりを食らったタクトは、顔を寄せてひそひそ話を始めた彼女らに声を大きくし、教えてくれとせがんだ。
 丸聞こえの内緒話に、スガタも堪忍袋の緒が切れそうだった。
 いい加減にするよう、トーンを落として凄む。だが慣れているのかふたりは余計にヒートアップして、タクトを庇うスガタに歓声を上げた。
「え、え? あのさ、滑舌の練習の話じゃ……ないの?」
 舌を上手に操れるようになれば、今よりもっと上手に台詞を諳んじられるようになる。
 無邪気に信じている彼の言葉に一抹の不安を覚え、スガタはがっくり肩を落とした。

2011/02/01 脱稿