天道

 屋敷にいると、コーヒーばかりが出て来る。それが紅茶党のアラウディには、些か苦痛だった。
「眉間に皺が寄ってるぞ」
「君こそ」
 向かいの席に腰を落ち着かせていたGに言われて、湯気立てるカップを置いて嫌味で返す。もっとも、彼はそれを皮肉と受け取ってはくれなかったようで、どこか諦めた感のある笑顔を浮かべて肩を竦めるに留めた。
 真っ黒い液体が、白い陶器のカップの中で優雅に泳いでいた。良い香りだが、苦味も強い。飲むと、外見の美しさに惹かれて近付いて、思わぬしっぺ返しを食らった気分になる。
「悪いな。茶葉は切らしてるんだ」
「そう思うなら、ちゃんと切らさないように用意しておいて」
「だったら、お気に入りを肌身離さず持ち歩いておくんだな」
 カップの縁についた跡を拭って言えば、すかさず言葉が返された。まったくもって正論で、ぐうの音も出ない。
 小さな溜息をつき、無駄としか思えないやり取りを終了させて、アラウディは椅子に深く凭れ掛かった。見事な細工が施された背凭れも、人が座ってしまえば外からは見えない。なんと無駄な仕事だろう。
 右を上にして脚を組んで、彼はなかなか埋まらない、もうひとつの椅子を盗み見た。
 Gも気になっていたようで、ふたり、ほぼ同時に溜息が出た。
「行き先は?」
「二時間前には居たから、そう遠くへは行ってないと思うんだが」
「帰ってくるの?」
「帰巣本能だけなら、獣並みだろうな」
 苦笑交じりに言い返されて、アラウディは目に掛かる銀髪を掻き上げた。
 つまるところ、いつ戻って来るか分からないということだ。人を呼び出した張本人が、約束をしたその時間になっても現れない。むしろ時間通りに姿を見せた回数の方が、少ないくらいだ。
 呆れてものも言えない。怒るのも虚しいと肩を落とし、彼は指に絡めた前髪を一本、引き千切った。
 微かな痛みの後に、銀色の糸が目の前を流れ落ちていった。色素の薄い髪の毛は、天から注ぐ光を受けてキラキラと輝いていた。
 だがこれよりももっと美しく、淡く輝く色がある。眩いばかりの金髪の持ち主を思い浮かべて、アラウディは今一度、無人の椅子に目を向けた。
「探しに行くか?」
 落ち着きなく視線を動かす彼を揶揄し、Gが意味深な笑みと共に問うた。途端にアラウディはムッと口を尖らせ、不機嫌だと言わんばかりの顔で頬杖をついた。
「どうして僕が?」
「そういう風に見えただけだ」
 呵々と笑い、Gは少し温くなったコーヒーを啜った。左手をひらひらさせて、悪気はなかったのだと今の発言を詫びる。だが声に真剣みは感じられず、人をからかって遊んでいるとしか思えなかった。
 不機嫌の度合いを強め、アラウディは薔薇垣に囲まれたテラスを見回した。
 小さなテーブルを囲むようにして、椅子が三つ。上を見れば網棚が設けられて、緑濃い蔓草が絡み付いていた。手の平の形をした葉が沢山生い茂り、強い陽射しの半分を遮っている。木漏れ日が燦々と注いで、暖かい。
 眠くなりそうだ。欠伸を噛み殺し、アラウディは長く放置していたコーヒーカップに手を伸ばした。
「心配しなくても、じき戻って来るさ。時間にルーズなのは、知っているだろう」
「そうだね。寝てたら起こして」
「承知した」
 少し前までガチガチな頭をした、規則正しい生活を送る人々の中にいたものだから、態度も思考も柔らかい南の国での生活に違和感が生じているのだろう。自分に言い聞かせて肩を竦め、アラウディは椅子をギシギシ言わせて足を解いた。
 コーヒーを飲み干してカップを戻し、腕を軽く組んで、温かな陽光を避けて瞼を下ろす。
 髪の毛同様色素の薄い睫が微風にそよぐのを見守りながら、Gは静かに立ち上がった。
 ひざ掛けでも持って来てやろう。まるで小さな子供に対する母親のような心境で呟いて、空いたカップを手に立ち去ろうとした彼の耳に、遠く、子供達のはしゃぐ声が響いた。
「?」
 屋敷に子供はいない。使用人がたまに連れてくるが、今日はそんな話、聞いていない。
「村の子たちか?」
 それにしては妙に近い。屋敷の敷地は高い塀に囲まれており、子供の背丈では到底越えられないはずだ。
 となれば、誰かが連れ込んだとしか考えられない。そして、その誰かとは。
「やけに騒々しいね」
 昼寝の体勢に入っていたアラウディも気付いて、険しい表情で呟いた。
 姿勢を正し、椅子を引いて腰を浮かせる。特に構えてはいないものの、いつでも戦闘態勢に入れるよう気を配っているのが、Gにもひしひしと感じられた。
 殺気を放つ男に苦笑して、Gは燃えるように赤い髪を掻き回した。
 そうしている間に子供たちの声は止んで、あっという間に遠ざかっていった。当然、屋敷も静けさを取り戻す筈なのだが、どうにも空気は騒ぎ続けて、落ち着きがなかった。
 眉を顰めたアラウディの耳に、呑気極まりない鼻歌が紛れ込んだ。
「……はは」
 隣で、Gが乾いた笑いを浮かべて右手で頭を抱えた。
 バラ園の垣根越しに見えた人影に、苦虫を噛み潰したような顔をする。一方、上機嫌に小路を歩いていた青年は、テラスに立ち尽くす幼馴染の姿を見つけると、嬉しそうに顔をほころばせた。
「G!」
 甲高い声を発してぶんぶん手を振り、子供のように小走りに駆けだす。満面の笑みを浮かべた金髪の青年は、遠目にも目立つ赤髪の傍にもうひとり居るのに後から気付き、速度を緩めて首を傾げた。
 一段高くなっているテラスの手前で歩みを止めて、何故か不機嫌極まりない顔の青年をじいっと見詰める。
「アラウディではないか。どうしたのだ?」
「君は、いつだってそうだ」
 腹の奥から搾り出した低い声で応じて、アラウディは実年齢よりもはるかに幼い外見をしている青年に舌打ちした。
 来いと言われて訪ねれば、約束をすっぽかされるか、時間に遅れてくる。
 かといって寄らずに過ごせばあれこれ文句を言われ、怒鳴り散らされる。
 いったいどうすれば良いのか。頭の痛い問題だと首を振りつつ溜息を零せば、きょとんとしていた青年は目をぱちくりさせて、ややしてから大仰に柏手を打った。
「ああ!」
 自分が呼び出したのだと、やっと思い出したらしい。幼馴染に時間を聞いて、自分もまたポケットを探って懐中時計を取り出す。
「……持ってるなら」
「そいつは今朝、巻いてないんだ」
 無駄としか思えない言動に呆れて口を挟めば、Gが呵々と笑ってパチンと蓋を閉じた。
 首を竦めて舌を出したジョットに、誤差数分の現在時刻を教えてやる。頭の中で数回その数字を繰り返した青年は、黄金色の瞳を数回ぱちぱちさせた後、もう一度、手を叩き合わせた。
「そうだったな」
「反省しなよ」
 大幅な遅刻にも関わらず、まるで気にする様子が無い。あっけらかんと言われて、流石にアラウディも堪忍袋の緒が切れそうだった。
 短く吐き捨てるが、ジョットは首を縦に一回振っただけだった。行動に誠意が感じられない。だが追求しても疲れるだけと悟って、アラウディは肩を落とした。
「ところで」
「G、喉が渇いた」
 話を本筋に戻そうとして、間にジョットの気楽な声が混じりこんだ。無視されてカチンと来たが、この男相手に真剣に怒っても無駄なのは学習済みだ。
 腹を立てたほうが負けだと言い聞かせ、心を落ち着かせて、アラウディは椅子に戻った。
 長く空席だったものが、ようやく全て埋まることになる。ただGは頼まれたコーヒーを用意すべく、テラスを離れてしまった。
 向けられた背中は、小刻みに震えていた。ククク、と声を殺して笑っているのが手に取るように分かる。だが何故彼が笑っているのかについて、ジョットは理解出来ていないようだった。
 眩い金髪の上には、野花で編まれた王冠が載せられていた。
「なんなの、それ」
 真面目な話がしたいのに、気になって集中できない。本題に入る前に外してもらいたくて、アラウディは顎で花冠を示した。
 水を向けられて、途端にジョットは生き生きと目を輝かせた。
「凄いだろう、羨ましいだろう!」
「……いや」
「なんだ、面白くない奴だな。他に言葉はないのか」
「似合うね」
「だろう?」
 ふふん、と得意げに胸を張ったジョットだったが、アラウディとしては別段褒めたつもりはない。鼻を高くしている青年に憐憫めいた視線を投げて、彼は選定作業が終わったばかりのバラ園に目を向けた。
 どうして過去の自分は、こんな男の口車に乗って守護者などというものになると約束したのだろう。
 時を逆戻しできるなら、早まるな、と止めてやりたい。
 大体、二十歳を過ぎていい大人の男が、花冠を貰って喜ぶ方がどうかしている。先ほど聞こえた子供達が、この男に贈ったのだというのは、容易に想像がついた。
 光景も、ありありと思い浮かんだ。
 彼は何故か、動物にも、子供にも好かれる。無論大人にも。
 傍に居ると毒気を抜かれる。怒っている自分が馬鹿らしく思えてしまう。
「欲しいか?」
「遠慮する」
「まあ、そういうな。冠はないが、ほら」
 要らないと言っているのに押し切って、ジョットは胸ポケットから一輪の花を抜き取った。元は白かっただろうシャツも、植物の汁に汚れて、袖口など特に緑色に染まっていた。
 約束を忘れて子供達と遊んでいた男にイラつくが、元々そういう性格をしているので、注意したところで改まるとも思えない。
 アラウディが久方ぶりにジョットに目をやれば、視線が合ったのが嬉しかったようで、彼は屈託なく笑った。
「受け取れ」
「どうも」
 腕を伸ばされて、仕方なく受け取る。花冠にも使われている色の薄い花は、渡された時の衝撃に身震いして、心許なげにアラウディを見上げた。
 沢山の花弁に囲まれて、雄花と雌花が仲良く並んでいた。細長い茎に葉は全て取り払われているので、冠作成時の余りなのだろう。
 際立って珍しい花ではない。都市部でも、郊外に行けばいくらでも草原に咲いている。
 茎を持ってくるくる回しながら、彼は得意満面の様子のジョットに眉を顰めた。
「それで君は、僕にこんな花冠を見せるために呼んだの?」
 確か書面では、ドイツ国内の情勢について知りたいと書かれていなかったか。
 できるだけ早くと言われたので馬車を急がせたのに、高い運賃を払わされた身にもなって欲しい。
 アラウディがどれだけ不満を露わにしようとも、ジョットはまるで意に介そうとしなかった。否、分かっていない様子だった。
 諦念の境地で肩を竦めれば、人数分のコーヒーを用意したGがようやく戻ってきた。取っ手のついた銀プレートには、他にも甘そうな菓子の載った皿が一緒だった。
 見ているだけで胸焼けしそうなクリームは、山羊の乳が使われている。勢いつけて立ち上がり、諸手を挙げて喜ぶジョットを尻目に、アラウディは足を崩して椅子の背凭れに頬杖をついた。
 非常に嫌そうにしている彼に苦笑して、Gが運んで来たものをテーブルに置いた。ジョットの為にたっぷりのミルクと、砂糖も用意して、カップを丁寧に並べて行く。
「美味そうだな」
「美味いに決まってる」
「それもそうだ」
 自信たっぷりに言い切ったGに、ジョットも深く頷いた。通じ合っているふたりに些かげんなりして、アラウディは白い陶器のカップに手を伸ばした。
 湯気を払い除けてひとくち啜れば、芳しい香りの後にほろ苦さが広がった。
 ジョットはいかにも甘そうな、クリームをたっぷり使ったカンノーロを手に取り、吃驚するくらいに大きく口を開けてかぶりついた。
 表面に塗された粉砂糖が、鼻息で吹き飛んだ。風下にいたばかりに浴びせられて、アラウディは迷惑そうに手で防いだ。
 コーヒーを更にひとくち分すすって、幸せそうに菓子を貪っている男に呆れ顔を向ける。ジョットは構いもせず、ふたつ目に手を伸ばそうとしてちらりとGを盗み見た。
 幼馴染でもある男は赤い髪を揺らし、アラウディに似て非なる表情で頷いた。
「食えよ。どうせ、そっちは食べないだろう?」
「無論だよ」
 話の矛先を向けられて、アラウディは眉間の皺を深くして言った。不機嫌を隠しもしない彼に今になって気付いた顔をして、ジョットは皿に残るカンノーロと、べたべたの自分の手を見比べた。
 砂糖まみれの唇を舐め、むん、と頬を膨らませる。
「美味いぞ?」
「甘いものは好きじゃない」
「勿体無いぞ。人生の半分を損している」
「別の部分で得をしてるからいいんだよ」
「どんな?」
「……」
 ずけずけと踏み込んでくるジョットに、アラウディはついに答えに窮して黙りこんだ。
 隣で傍観者を気取っていたGが、椅子の上で腹を抱えていた。前屈みになって顔は隠しているものの、小刻みに震える肩といい、笑っているのは確実だった。
 失礼極まりない男を睨み、アラウディはふたつ目を口に入れたジョットに沈痛な面持ちを作った。
 小麦粉を練って薄くのばした皮を筒状にして油で揚げ、間に甘いクリームをたっぷり詰め込んだ、謝肉祭の菓子だ。最後に上から粉砂糖をかければ出来上がりなのだが、兎にも角にも甘いので、アラウディは嫌いだった。
 それを目の前でぺろりと平らげられて、ひとかけらも口にしていないにも関わらず、胃がむかむかした。
 吐き気を覚えて青褪めていたら、指を舐めたジョットがその手でカップを掴んだ。
 苦いコーヒーで口の中を綺麗にして、最後のひとつを前に、大人しくなる。
「食ってもいいぞ」
「そうか。済まん」
「どうでもいいけど、いつまで被ってるつもりなの、それ」
 逡巡しているジョットにGが言い、嬉しそうに顔を輝かせたところでアラウディが水を差す。
 シロツメクサの花冠を指差した彼に、見かねたGが話に割り込んだ。
「そう嫌ってやるなって」
「なにが」
「子山羊が三匹、無事に産まれたそうだ。小麦の作付けも、今のところ問題ない」
「ジョット?」
 今度はジョットが、アラウディとGの会話に割り込んできた。コーヒーを嗜みつつの、今までとは趣が異なる静かな声に、アラウディは目を見張った。
 一寸前までの、無邪気な子供のような表情はなりを潜めていた。代わりに現れたのは、浅蜊貝の名を冠したマフィアのボスという、もうひとつの表情だった。
 眇めた目で波立つ湖面を見詰め、くいっ、と一気にコーヒーを飲み干す。御代わりをGに依頼した男は、テーブルに両肘を立て、重ねた手の上に顎を置いた。
「西の荒地の開墾が、去年の秋、やっと終わったんだ。用水路の整備も、順調にいけば今年中に終わる。来年の夏にはきっと、沢山の麦穂が揺れることになるぞ。それから、放牧地も増やしたんだ。山羊が増えれば、その分得るものも大きいからな」
「……」
 シロツメクサが家畜の餌になることくらい、アラウディも知っている。
 その上この植物には、土地を肥やす特性があった。
 元々、屋敷のある村の周辺は岩だらけの荒れて、痩せた土地だった。作物はろくに育たず、少ない収穫の殆どを領主に搾り取られてしまう。または山賊が貴重な家畜を奪い、家族を誘拐して身代金を要求した。
 人々の生活は困窮し、僅かな希望も持てぬまま無為に日々を過ごすより他に術がなかった。
 この惨状を変えたくて、ジョットは自警団を組織した。若造の戯言と大人たちは取り合わなかったが、彼の意志に賛同する仲間は徐々に増えて、領主も看過できないものになっていった。
 領主に年貢を減らさせ、別途新たな耕作地の開拓に努力した。荒地でも生育が可能な植物や家畜を探し、貧しいものには施しを与えた。
 収穫間際の農作物を搾取しようとする悪党を排除し、泥棒から家畜を守る為に夜間の守りも厳重にした。外から入って来たものは先ず疑いの目を持って接し、仲間と認めた者にはその旨を詫びた。裏切り者には容赦せず、同胞同士の繋がりは今や血よりも濃い。
「ご苦労様だね」
「それは俺でなく、手伝ってくれた村の皆に言ってやってくれ」
 労いの言葉を嫌い、薄く笑ったジョットにアラウディは眉を顰めた。
 コーヒーを飲み干して、カップを置く。両手を空にして顔を上げれば、ジョットが楽しそうに笑っていた。
 なんだかとても癇に障って、彼は徐に手を伸ばし、皿に残っていたカンノーロを掴み取った。
「ム」
 食べようと思っていたものを横から攫っていかれて、ジョットが不機嫌に呻いた。聞こえなかった事にして、アラウディはずっしり重い菓子を上下左右から見詰めた。
 材料は砂糖以外、全て村で収穫されたものだ。
 小麦は無論のこと、羊は肉と乳も骨も皮も、余す事無く使える。夏前には毛を刈って、縒って織れば毛織物の完成だ。
 シロツメクサの花冠は、子供達からジョットへの、感謝の気持ちの表れなのだろう。贈られた方も、沢山の笑顔に接せられて幸せだったに違いない。
 気難しい顔をして、アラウディはカンノーロを口元に近づけた。Gとジョットが息を飲んで見守っている。緊張が伝わってきて、彼は心底げんなりと肩を落とした。
「はい」
 手の向きを変えて、細長い菓子をジョットへと。
 突き刺さりそうな勢いで差し出されて、彼は咄嗟に口を開いた。
「ハム」
 前歯で噛んで受け止めて、もしゃもしゃと噛み砕いて行く。
 徐々に短くなって行く菓子ごと彼を見詰めて、Gが堪えきれず噴き出した。
「似合うね」
「むぐぐ……」
 アラウディにさらりと言われて、ジョットは赤くなって呻きつつも、最後までカンノーロを放そうとしなかった。

2011/09/04 脱稿