愛されるために、ここにいる

 風が窓を叩くのとは違う物音がして、スガタは顔を上げた。
 部屋の照明はぎりぎりまで絞られて、ブラケットライトが淡いオレンジに輝いている。卓上の、手元を照らすLEDライトだけが煌々と白い輝きを放ち、机上に長い影を作っていた。
 握っていたシャープペンシルを転がして、息を吐いて意識を研ぎ澄ます。耳を欹てれば、自然界が奏でるのとは明らかに異なる音が、しつこいくらいにスガタの耳朶を打った。
 誰かが騒いでいるのか、しかしこんな夜更けに。
 眉を顰めて考え込んで、彼はゆるりと顎を撫でた。思案気味に半眼して、屋敷に暮らす人間を順に思い浮かべて行く。
 タイガーに、ジャガー。
「ああ」
 そういえば、今日からひとり増えたのだった。
 偶発的な事故により、一瞬で住処を失った人間を引き取ったばかりだった。数ヶ月の交流があり、人となりは熟知している。間違っても他人の屋敷を家捜しして、金目のものを掠め取る悪癖は持ち合わせてはいないはずだ。
 実際、これまでにも何度か泊めているが、夜半に動き回るようなことはなかった。
「タクト」
 今日からめでたく同居人となった少年の名を紡ぎ、スガタは椅子を引いて立ち上がった。
 予習の為に広げていたテキストを閉じ、簡単に机の上を片付けてから部屋を出る。スリッパ越しでも、廊下が冷えているのが感じられた。
 薄いブルーの入ったパジャマ姿で、薄暗い道を行く。所々に足元を照らす小さなライトが輝き、床に反射した光が壁をぼんやり照らしていた。闇に半分同化した額縁の中で、夏の海が静かに波を立てていた。
 長く暮らしている家だ、最早目を閉じていても何処に何があるのか分かる。
 頭の中に呼び出した間取り図と記憶を頼りに進めば、程無くして目当ての部屋に辿り着いた。ドアは閉まっているが、隙間から細く白い光が漏れていた。
 自室を出る直前に確認した時計は、午前一時を少し回っていた。そろそろ明日の為に寝床に潜り込んで然るべき時間帯だが、扉の向こうは昼同様の賑わいで、ドタンバタンと、騒々しいことこの上なかった。
 今まで気づかなかったのは、スガタが勉強に集中していたからか。それとも、タクトがこの時間になって活動を開始したからか。
 本人に聞いて確かめれば済むことと、余計な想像はせず、彼は緩く握った拳をドアに叩きつけた。
 騒音に邪魔されて聞こえないかと心配したが、杞憂に終わった。
「はい?」
 中から間髪入れずに返事があって、スガタは遠慮なくドアを開けた。ノブを回して押せば、廊下と比べ物にならない明るさが出迎えてくれた。
 六畳ほどの広さで、窓はかなり大きい。真ん中壁よりにベッドが置かれ、本棚や机がその周囲を飾り立てていた。
 見慣れた空間を見回すが、あの燃えるような真っ赤な髪色は見付からない。おや、と首を傾げたところで、スガタは足元から響いた声に吃驚して仰け反った。
「スガタ? どうしたの、こんな遅くに」
 見ればタクトが、入り口のとても近い場所に座っていた。床に直接腰を据えて、本棚から引っ張り出してきたらしい絵本に囲まれて笑っている。
 スガタとは色違いのパジャマを着ているので、眠るつもりはあるのだろう。だが表情を見る限り、欠伸を堪えている様子は一切ない。むしろ元気で、まだまだ活動時間だと言わんばかりだ。
「どうしたもこうしたも……お前こそ」
 部屋の探索なら、もっと明るい時間にやればよいものを。呆れ半分に言って、スガタはドアを閉じた。
 パタンという音と共に、廊下の暗さが遮断された。昼のように明るい空間に身を置いていると、現在時刻を勘違いしてしまいそうだった。
 タクトも案外、そうなのかもしれない。スガタは出そうになった欠伸を誤魔化し、口元にやった手をそのまま額に持って行った。
 前髪を梳き上げて、依然蹲ったままの居候を見下ろす。なんとも冷たい眼差しに、彼は臆したのか頬をヒクリと痙攣させた。
「スガタ……?」
「何時だと思っている」
 この部屋にも時計はある。長く使われていなくても、常に掃除はされていた。電池が切れているのを見つけたら、優秀なメイドたちが放っておくわけがない。
 良い子はもう布団に包まり、夢の世界へ旅立つ時間だ。いくら綺羅星十字団との戦いの最中で、いつゼロ時間に呼び出されるか分からない身の上とはいえ、休める時に休まないのは愚かとしか言いようが無い。
 手厳しいスガタの言葉に首を竦め、タクトはいたずらっ子のように舌を出した。
「いやさ、分かってるんだけど。ごめん、五月蝿かった?」
「なにをしているんだ?」
 下手な言い訳はせず、自分の非を素直に認めて謝罪する。だが立ち上がる様子はない。反省してはいないらしいと肩を落とし、スガタは両手を膝に置いた。
 腰を屈め、タクトの手元を覗き込む。
 周囲に積み上げられているのは、本棚にあったものばかりだ。お陰で肝心の棚がすっからかんになっていた。
 子供向けの玩具に、絵本、等など。この部屋は元々スガタが幼少期に寝起きしていた場所なので、今でも当時の品が捨てられる事無く、大事に保管されていた。
 物珍しさに負けて手を出しているうちに、時間が過ぎてしまったのか。目で問いかければ、太陽にも負けない瑞々しい赤の瞳が照れ臭そうに細められた。
「勝手に触っちゃ駄目だった?」
 今日から此処は、暫しの間とはいえ、タクトの部屋になるのだ。何があるのか把握しておきたいという気持ちも、当然ながらあったのだろう。
 上目遣いに問いかけられて、スガタはいかにも仕方が無さそうに首を振った。
「いいや。使って良いと言ったのはこちらだからな。それに、見られて困るようなものは何もないぞ?」
「ぶっ」
 そうして最後、意味ありげな視線と共に告げて、ほくそ笑んだ。
 大袈裟に反応したタクトが、拭き出すと同時に前に突っ伏した。次に顔を上げたとき、彼の頬は真っ赤に染まり、首筋や耳の先も仄かに色付いていた。
 いったい何を想像したのだろう。呵々と笑い、スガタはひとり照れている少年を小突いた。
「いやらしい奴め」
「ちがう。それは断じて違う」
 最初に話を振ったのはスガタなのに、決め付けられるのは道理に合わない。必死になって否定しようと試みるタクトだったが、スガタは軽やかに笑うばかりで全く相手にしなかった。
 最早何を言っても通じない。腹立たしいやら、恥ずかしいやらで、彼は益々顔を赤くした。
「スガタ」
 悔し紛れに目の前にあった脛を蹴り飛ばせば、思わぬ攻撃にたたらを踏んだ青年がスッと目を眇めた。
 今まで以上に冷徹な瞳で見下ろされて、今のは失敗だったと遅ればせながら気取り、タクトは冷や汗を流した。
「そうか。元気が有り余っているようだし、丁度良い。少し稽古をつけてやろう」
 両手を胸の前に掲げ、拳を鳴らす仕草を取る。表面上は穏やかに微笑んでいるようにも見えて、その実物凄く気分を害しているのが伝わってきた。
 この状態で道場に行こうものなら、朝になるまで永遠に投げ飛ばされ続けるに違いない。鬼よりも恐ろしい師範代にぶんぶん首を振り、タクトは座ったまま後退した。
 自分で作った絵本の塔を突き崩して、ベッドに背中をこすり付けてなおも距離を稼ごうと足掻く。その努力を踏み躙り、スガタはスリッパのまま、大股に歩み寄った。
 あっさり追い詰められて、彼はようやく観念したのか、膝を抱いて丸くなった。
「眠れないのか?」
 小さな子供のようだ。袖と裾が少し長いパジャマに身を包んで、不貞腐れているようにも見える顔をして上目遣いに人を睨んでくる。
 怒る気が失せる表情に相好を崩し、スガタは膝を折って手を伸ばした。
 触れた髪はすっかり乾いていた。毛先が指に絡みつき、なかなか離れてくれない。引き千切らないよう丁寧に解いて、自室が水浸しになってしまった少年に訊ねる。
 寮でのバーベキュー、乱入者もあってハッスルした花火。そのひとつが勢いつけて窓から屋内に飛び込んで、もれなくタクトの部屋に火がついた。
 寮生の大半は夏休みの為に帰省中で、居残っていたのはごく僅か。そのひとりだったタクトは、不幸にもこの時、窓を開けたまま外に出ていた。
 彼が実家に帰っていれば、違う結果になっていただろう。だが彼には、島を離れられない理由がある。
 寮は満室、空き部屋はない。改修工事の費用は学校が持ってくれるが、その間、タクトは宿無しだ。仕方ないので、他所に攫っていかれる前にと彼を引き取る事を決めた。
 シンドウ邸には使っていない部屋が多い。客室もある。なによりタクトが幾度となく通い、時間を過ごした場所だ。
 もう此処の空気に慣れていると思っていた。
 まさか眠れないなど、思いもしなかった。
 些かショックを受けているようにも見えるスガタに、タクトははっとして目を見開いた。
 違うのだと首を振るが、今の自分の状況が巧く説明出来ない。語彙を多く持たない己を不甲斐なく感じながら、上唇を噛み締めて懸命に言葉を捜す。
 彼が再び口を開くのを待たず、スガタは幾らか紅が引いてきた柔らかな頬を擽った。
 窓の外は漆黒の闇が支配して、一面の銀河は程遠い。風はなく、静かだった。
 皮膚をなぞられて、タクトは一瞬目を見張り、すぐにばつが悪い顔をした。
「ごめん」
「何を謝る?」
「だって、起こしただろ」
 掠れるほどの小声で謝罪されて、スガタの右の眉が僅かに持ち上がった。顔を上げたタクトが、まだ頬をなぞっている手を押し退けて僅かに身を乗り出す。後ろに数センチ下がって、スガタは嗚呼、と頷いた。
 一応彼にも、夜中らしからぬ物音を立てている自覚はあったらしい。それでスガタの睡眠を邪魔したのだと、そう解釈したのだろう。
 早合点も良いところだが、子供は寝る時間だと最初に言ったのは自分だ。
「気にするな。寝ていたわけじゃない」
「そうなのか?」
「ああ」
 驚いた風に目を見開いたタクトの額を小突いて、スガタは後ろを振り返った。
 空っぽの棚に、積み上げられた絵本の塔。ひっくり返った飛行機の模型に、沢山のアルバム。
 その一つ一つを眺めていたら、とてもではないが一晩では足りない。時間つぶしにはなるだろうが、矢張りどう考えても夜中にやる事ではなかった。
「そんなに眠れないのなら、本当に相手をしてやっても良いが」
 適度に身体を動かし、体力を消費すれば、疲れを癒すべく自然と睡魔が襲ってくるだろう。
 パジャマのままの胸元を叩いた彼に、タクトは苦笑した。足を広げて肩の力を抜き、困ったように首の後ろを引っ掻いて半眼する。
 眠くないわけではない。眠れないのとも違う。寝たくないとも思っていない。
 ただ、そう。
 落ち着かないだけだ。
「今更それを言うか」
「だってさ。前までは、なんていうか。僕は要するに、お客様だっただろう?」
 呆れているスガタに両手を広げて訴えて、次の言葉を探して視線を泳がせる。赤い瞳が虚空を彷徨い、やがて戻って来た。
 見詰められて、スガタは眉を顰めた。
 これまでのタクトは、シンドウ邸に招かれて迎えられた客だった。しかし今日から、彼は此処に住むのだ。
 旅先のホテルで眠るのとは訳が違う。当分の間、この屋敷がタクトの住処だ。そう考えると妙に緊張して、そわそわしてならなかった。
「それに」
「それに?」
「考えてみたら、ここって凄く静かでさ」
 膝を緩く曲げてそこに顎を置いて、背中を丸めた少年が照れ臭そうに呟く。スガタは数秒迷い、彼が背凭れにしているベッドに腰を下ろした。
 クッションも充分なスプリングが、なんとも心地よい。懐かしい感触に目を細めた先で、タクトが淡々と思いを言葉に置き換えた。
「寮は、なんていうか、ごちゃごちゃしてる感じがあって。今はみんな帰っちゃってていないけど、それでも、うん。門限があるし、消灯時間も決まってるけど、守ってない奴も結構いてさ。夜遅くまでざわざわしてるんだ」
「そうなのか」
「んで、その中で横になってると、自分は布団の中にいるけど、みんなと一緒にいる気分になってさ。……変かな?」
 相槌を打ったら、問いかけられた。虚を衝かれて息を止めて、スガタは答えを欲して真っ暗闇の窓を見た。
 そんな事、思ってみたこともなかった。
 この世に生まれ落ちたその瞬間から、シンドウ家を継ぐ運命を与えられた。王の柱を持つ子供として大事に育てられて、身の回りの世話をする人間を与えられて、何不自由なく暮らしていた。
 与えられた特権の代わりに、果たすべき義務が自分にはあると弁えている。だからこそ辛い修行に耐えて、その時の為にと鍛錬を続けてきた。
 大衆の声は邪魔なだけと遠ざけられた。常に静かで、落ち着ける空間を用意された。
 タクトのように不特定多数の人間と共同生活を送る自分など、想像も出来ない。
 答えられない。答えようがない。
 足元が大きく揺らいだ気がした。
 沈黙するスガタを盗み見て、タクトは一寸迷ったようだった。
 意外だと思うくらいに陰鬱な表情をしている友人に戸惑い、喉から出掛かっていた言葉を引きとめて飲み込む。代わりとなるものを求めて正面に向き直れば、絵本の塔がまるで賽の河原のようだった。
 嫌な想像をした。
 此処はスガタが幼少の頃に寝起きしていた場所であり、沢山の夢や希望に溢れた場所であったはずだ。今も、そうであらねばならない。
 だのに、一瞬、タクトの目には此処が墓場に見えた。王の柱と引き換えにしてスガタが捨てなければならなかった多くのものが詰め込まれた、哀しい夢の続きに思えてならなかった。
「……っ」
 息を吐く、その生温い感触に唇を浅く噛む。
 何を言えばいいのか分からない。答えのない袋小路に迷い込んだ気分で途方に暮れていたら、
「そうか」
 沈黙を切り裂き、スガタが不意に小さく言った。
 低い声にドキリとしてしまい、タクトは大袈裟だと笑われそうなくらいに肩を震わせた。目を見張って振り返れば、いつの間にか心の整理をつけたスガタが意味ありげに微笑んでいた。
 意地悪く眇められた瞳が、チシャ猫のように妖しく輝く。
「タクトは、ひとりじゃ眠れないんだな」
「――なっ」
 何故そうなるのか。ほくそ笑むスガタの台詞に動揺して、タクトは勢い良く立ち上がった。勢いが余ってしまってふらついて、折角身を起こしたのにまた倒れて尻餅をつく。
 痛そうな音を響かせた彼を呵々と笑い飛ばして、スガタは右を上に足を組んだ。
 優雅にポーズを決めて、眉間に皺寄せている友人を上から下まで眺めやる。
「仕方の無い奴だ。そうならそうと、先に言えばいいのに。特別に、子守唄を歌ってやろう」
「だから、そういうわけじゃないって……スガタも歌うの?」
 勝手に誤解したまま話を進めて行くスガタに言い返そうとして、気になるひと言にタクトは目を瞬いた。
 巫女であるワコは、よく海辺で歌っている。歌手になるのを夢見た少女は、スガタ同様、生まれながらに与えられた役目の為に、将来を他人の手によって一方的に定められてしまっていた。
 彼女を自由にしたい。それがタクトの願いであり、達成すべき目標だった。
「いけないか?」
「いや。悪くはないけど、なんか意外で」
「言っただろう、特別だと。今なら風呂掃除三日分で、聞かせてやる」
「ちょっと待ったぁ!」
 時々横暴なところがあるスガタだが、優しいところもあるものだ。少しだけ彼の評価を見直してやろうとした矢先、言い足されて、タクトは素っ頓狂な声をあげた。
 子守唄一曲でその対価は高すぎやしないか。せめて一日分だろう、と人差し指を突きつけながら主張するが、生まれながらの王は悠然と構え、条件を撤回しようとしなかった。
 それどころか。
「なんだ、一週間分にして欲しいのか?」
「増やすな!」
 王直々の歌声など、滅多に聴けるものではない。平民はそのあり難さに涙を流して平伏し、進んで王に尽そうとするだろう。
 偉そうに堂々と言い放った男に苦虫を噛み潰したような顔をして、タクトは疲れた様子で肩を落とした。前髪をクシャリと握り潰して、いそいそとベッド際に戻ると右の膝からよじ登る。
 端に座るスガタの左を素通りして、枕元へと。綺麗に整えられたシーツを捲って、彼はそのまま寝床にもぐりこんだ。
「タクト」
「子守唄はいいや。おやすみ」
 あれこれ案じてやったのに、スガタは、結局スガタだった。
 タクトがひとり思い悩んだところで、何の解決にもならない。彼は自力で歩いて行ける。ならば自分の役目は、彼と足並みを揃えて一緒に未来へ進んで行くことだけだ。
 柔らかな布団に身を横たえると、幸いにも直ぐに睡魔が落ちてきた。唯一の懸念が払拭されて、安堵の息を吐いて四肢の力を抜く。
 知れず微笑んだ彼を見下ろして、スガタは苦笑した。
「要らないのか?」
「いーらない。なに? それとも本当は、ひとりで眠れないのはスガタだったりして?」
 メイドに背中を流してもらっているくらいだ、寂しいときは添い寝をお願いしている可能性だって充分ありうる。
 タイガーとジャガーのふたりに挟まれて眠る彼を想像したら、思った以上に様になっていた。なんだか悔しくて嫌味を言えば、ベッドから降りたスガタが吃驚したのか、目を丸くした。
 その発想は頭になかったと、表情が告げている。絶句されてしまって、タクトは慌てた。
「い、今のは、その、あ……冗談。そう、冗談だからな? えっと……おやすみ!」
 真に受けられるのも困ると捲くし立てて、彼は布団を頭まで引きずり上げた。右を下にして横向きになり、眠ろうと目を閉じる。
 冷や汗が流れた。スガタはまだ出て行かない。部屋の電気も消されぬまま、タクトは一刻も早く彼が去ってくれるよう心の中で祈り続けた。
 本気にされて、狭いベッドにもぐりこまれたらどうしようと考えると、気が気でなかった。折角やって来た睡魔もどこかに飛び去ってしまって、心臓が五月蝿くて仕方が無い。
 どれくらいの時間が過ぎただろう。一分か、三分か。もっとかもしれない。兎も角落ち着かないまま黙って目を閉じるだけのタクトを長く見下ろしていたスガタが、ようやく衣擦れの音を立てた。
 キィ、と床板が重みで軋む。そんなささやかな音さえ鼓膜を震わせた。
 彼の気配を耳が、肌が、全身が探している。気持ちを逸らしたいのに意識はどうしても布団の外に傾いて、離れない。
 衣擦れの音が近付いた。枕元に手でも衝いたのか、敷布団が少し沈んだ。
 息遣いが聞こえる。だが目を開けることも出来なくて、タクトは緊張に息を飲んだ。
「もう眠ったのか?」
 囁き声は掠れていた。返事をせず、狸寝入りを決め込んで、タクトは瞼をヒクヒクさせた。
 スガタの気配は離れて行かない。探られているのを感じながらも、眠ったフリを続けるより他に、出来ることはなかった。
 そうして一分近く経った頃。反応が得られないのに諦めがついたのか、彼はそうっと息を吐き、身を引いた。
 やっと解放される。タクトの気が緩むのを、もしかしたら待っていたのかもしれない。
「おやすみ」
 優しく告げて、彼は。
 部屋の電気が消され、扉が閉められる音が続いた。
 スガタが去るのを待って、タクトはガバッと起き上がった。布団を蹴り飛ばし、両手で口元を覆い隠す。
「ば、ばっ……!」
 言葉にならない悲鳴をあげて、彼は真っ赤になってじたばた暴れまわった。
 今夜は、眠れそうになかった。

2011/09/04 脱稿