人参

 コンコン、とノックした窓。鍵を開けてくれたのは、ボルサリーノを被った黒服の赤ん坊だった。
 首から提げた黄色いおしゃぶりを揺らし、窓辺の狭い足場からぴょん、と床に飛び降りる。そのままトコトコ進んでベッドによじ登った彼は、室外機を置く為だけにあるベランダに佇む青年が入ってくるのを座って待った。
 楽しげに短い脚を交互に上下させる赤子を視界の端に見て、雲雀は眉間に寄せた皺を解いて銀色のサッシに指を掛けた。
 一気に右にスライドさせて、道を開く。腰の高さにある窓によじ登って室内に脚を伸ばすが、いつもの咎める声は飛んでこなかった。
 うっすら埃を被った黒いローファーでフローリングの床に着地して、素早く後ろ手で窓を閉めて外気を遮断する。ふわりと膨らんだ学生服が背中に張り付くのを待って、彼は入って直ぐ左に置かれている机を見た。
 そこにはちゃんと、この部屋の本来の主がいた。
 土足で入ってきた雲雀を叱りもせず、それどころか顔を上げようともしない。広げた英語の教科書に顔面を埋めて、微動だにしない。
 死んでいるのではないか、と一瞬危惧したが、机に寄り掛かって斜めに傾いたその背中は、一定のリズムで揺れ動いていた。
 呼吸はしているようだ。ならば気を失っているだけかと思うが、それも微妙に違って見えた。
「……どうしたの、これ」
「気にすんな」
 薄気味悪くなって、雲雀は綱吉に指を向けてベッドの上に視線を向けた。問い掛けられた赤ん坊は癖のある声で素っ気なく言い放ち、肩によじ登って来た緑色のカメレオンの頭を小突いた。
 世界中のどのペットショップに行っても売られていない特殊なカメレオンは、目玉を潰される恐怖に負けて慌てて逃げて、安全な場所を探して丸めて放置されていた綱吉のシャツに頭から突っ込んで行った。
 真面目に教えてくれる気は無いらしい。他人の寝床を我が物顔で荒らし回っている彼らに嘆息し、雲雀は両手を腰に当てた。
 カーテンが開け放たれた部屋は、太陽の日射しを受けて明るかった。
 フローリングに反射した光が天井でゆらゆらと波を作っていた。それはまるで、水中から水面を見上げているようでもあって、雲雀は一瞬、自分の居場所を忘れそうになった。
「うぅ……」
 彼を現実に引き戻したのは、ずっと黙りこくっていた机に突っ伏す少年の呻き声だった。
 ハッとして、姿勢を正す。だが彼は依然として下を向いたままで、雲雀に一瞥すらくれようとしなかった。
 顔面を潰したままなのが辛いようで、両手を鼻と机の間に潜り込ませて空気の通り道を作ろうと蠢く。もそもそと椅子に座ったまま身動ぐ彼を眺め、雲雀は怪訝に首を傾げた。
 見たところ勉強の真っ最中だが、一瞬見えた綱吉の額には、くっきりと、下敷きにしていた教科書の跡が浮き上がっていた。
 圧迫されて赤くなった肌を交差させた腕の間に沈めた彼に嘆息し、雲雀はもう一度、リボーンに視線を向けた。
「たいした事じゃねーぞ」
「そうは見えないんだけど」
「誰かさんが、変な事を焚きつけた結果だ」
「……ム」
 ろくすっぽ動かない綱吉を挟み、窓辺の雲雀とベッド上のリボーンの間で言葉が行き交う。聞こえているだろうに、綱吉はまだ起き上がろうとしない。
 口を尖らせた雲雀の脳裏に、数日前の出来事が蘇った。
 思い当たる節に行き当たったと気付いたのだろう。彼の僅かばかりの表情の変化に、赤子は意味深に笑った。
 ボルサリーノの鍔を持ち、ちょっとだけ角度を変えて目元を影で隠す。不遜に形作られた唇を見て、雲雀は右腕を脇に垂らした。
「試験で平均、五十点以上とはな」
「それくらい、余裕でしょ」
「ダメツナがやる気になったところまでは、良かったんだがな」
 前方から響く低い声にムキになって反論するが、彼の表情は心持ち暗い。そっぽを向いてしまった雲雀に呵々と喉を鳴らし、リボーンは呆れた様子で肩を竦めた。
 綱吉だけでなく、雲雀まで馬鹿にしている。溜息混じりのひと言に、この時初めて綱吉が反応を示した。
「馬鹿で悪かったな!」
 がばりと起き上がり、椅子を軋ませながら大声で怒鳴る。だがあまりにも勢いが良すぎた所為で、コマ付きの椅子が後ろに弾かれてしまった。
 下がるつもりはなかったのに、座る場所は後ろに吹っ飛ぼうとしている。バランスを崩し、彼はみっともない悲鳴をあげて尻餅をついた。
 ドスン、と大きな音を立てて床に落ちて、倒れた椅子の背凭れにまで頭を叩かれた。短時間にあれこれ起こりすぎて、流石の雲雀も手を差し伸べる事が出来なかった。
 唖然として、蹲って痛みを堪える少年をじっと見下ろす。やがて先に我に返ったリボーンが、堪えきれずに噴き出した。
 まだシャツの下にいたレオンが這い出て来て、不思議そうに目を丸めた。
 楽しそうに笑うリボーンの声だけが、部屋の中に響き渡った。綱吉は、今度は恥ずかしさから顔を上げられなくなって、ふるふる震えながら全身を真っ赤に染め上げた。
 真冬の寒風にさらされた時のように、耳まで赤い。凍えないよう小さくなっている彼を見下ろして、雲雀は倒れたままの椅子を起こしてやった。
 靴底が噛む砂利が板敷きの床を削る音がした。
「……靴」
「はいはい」
 今頃になって不満げに呟かれて、雲雀は椅子をベッドの方に押し出して右足を持ち上げた。順に靴を脱ぎ、右手で一纏めに持ってこれで良いかと目で問い掛ける。
 未だしゃがみ込んだままの綱吉は小さく頷いて、丸々とした頬をもっと膨らませて机に手を伸ばした。
 転がっていたシャープペンシルを弾いて、よろめきつつ立ち上がる。雲雀は空っぽの左手を意味もなく握っては広げ、最後はポケットにねじ込んだ。
「それで?」
「……どうもしません」
 靴はベランダに出すように言って、綱吉は彼を無視して椅子を引き寄せた。腰を下ろし、四分の一ほど文字で埋められたノートを爪で引っ掻く。
 機嫌が悪い横顔に肩を竦め、雲雀は言われた通りに窓を開けた。涼しい風を浴びながら身を乗り出し、靴を並べて置いて、また閉める。
 一連の動きを横目で窺っていた少年は、彼が全ての動作を終えて振り向こうとした瞬間、慌てたように教科書で顔を隠した。
 ドタバタ言わせているので、見ていなくても綱吉が何をしているのかくらい、楽に想像がつく。雲雀は呆れ混じりにまたもや嘆息して、笑いを堪えている赤子と、依然真っ赤な少年とを交互に見た。
 と、ベッドから飛び降りた赤子が、レオンを抱えて歩き出した。
「赤ん坊」
「喝のひとつでも入れてやれ」
「余計な事言うなってば!」
 振り向きもせずに言ったリボーンに、綱吉が途端に罵声をあげた。教科書を放り投げるが、狙いをつけていたわけでもないのでそれはあらぬ方向に飛んで行ってしまった。
 床に落ちたテキストに眉目を顰め、雲雀は肩で息をしている綱吉に小首を傾げた。
「喝?」
「張り切るのは良いが、持久力が無くていけねー」
「リボーン!」
 言われた台詞をそのまま諳んじた雲雀を笑い、赤子が部屋のドアを開けた。続けて紡がれた台詞に更に真っ赤になって、綱吉は閉じた扉を暫く睨み、横からの視線に気付いてぐっ、と息を呑んだ。
 ふたりだけになって、部屋は一気に静かになった。
 それはつまり、雲雀の疑問に答えられる人物が綱吉ひとりになった、という事でもあった。
「……」
 突き刺さる視線にビクリとして、彼は教科書を拾って届けてくれた青年を上目遣いに見詰めた。礼を言って受け取ろうとして、端を掴んだまま離して貰えなくて目を瞬く。
「あのっ」
 教科書で綱引きが始まって、綱吉は赤い筋が額に、横に走る顔を上げた。
 切れ長の目を細めた青年の、綺麗に整った顔がそこにあった。
「入れて欲しいの? 喝」
「それは、あの」
「まだちょっと、早かったかな」
「……いいえ、そんな事」
 雲雀が首を右に回して、壁に吊されたカレンダーを見た。同じ物に綱吉の目をやって、赤文字で囲まれた数字を恨めしげに睨む。
 いつの間にか雲雀は手を離していて、綱吉は教科書で自分の膝を叩いた。
 テストまで、あと一週間と少し。
 全教科の平均が五十点を超えたら好きな場所に連れて行ってあげる。そう雲雀が言ってから、五日が過ぎようとしていた。
 だが綱吉の集中力が二週間以上も持続するわけが、ない。
 準備は早い段階からやっておくに越したことはない。けれど始めるに適した日程は、人によって千差万別。綱吉が試験勉強を進めるように雲雀が取引を持ちかけるには、少し時期が早すぎた。
 リボーンの口ぶりからするに、最初は真面目に問題集と格闘していたのだろう。だが日増しに疲れが増して、辛くなって、今日ついに精根尽き果てた、と。
 恐らくは、そんなところだ。
 様子を見に来て正解だった。雲雀は自分の判断に、心の中で拍手して、悔しそうに上唇を噛み締めている少年に相好を崩した。
「頑張ってたんだ?」
 穏やかに言われて、彼はハッと息を呑んで目を丸くした。
 零れ落ちそうなくらいに大きな琥珀色の瞳いっぱいに、雲雀の顔が映し出される。本能的に逃げようとした身体を、理性が引き留めた。
 椅子を数センチ滑らせて、仰け反った綱吉の赤い額にちゅ、と。
 可愛らしい音がひとつ、響いた。
 机の縁を握った雲雀の手に力が込められる。ギシ、と椅子の背凭れが軋むような音を立てた。
 床の数ミリ上を泳いだ綱吉の爪先が、前屈みの青年の足を蹴った。
 コツン、という軽い衝撃に目尻を下げて、彼は惚けている恋人の前髪を擽り、横へ払った。
 小突かれて、綱吉は右手をあげて濡れている気がする額に翳した。
「う、……」
 物足りなさを覚える口をもごもごさせて、まん丸い目を平らに引き伸ばして雲雀を睨む。彼は平気な顔をして受け流して、クスリと笑った。
 底意地の悪い表情を作り、親指の腹を見せつけるように舐める。
「続きは、平均六十点以上が取れたらね!」
「ええっ!」
 勝手にハードルを十点も上げられてしまった。
 人に断り無く決めた雲雀の身勝手さに非難の声をあげるが、それで彼が聞き入れてくれた試しなど、過去に一度もありはしない。
 椅子をガタガタ言わせて机を殴った綱吉を笑い飛ばして、雲雀はひらり、手を振った。
 大きな掌でぽん、と頭を叩き、蜂蜜色の髪の毛をくしゃくしゃになるまで撫で回す。
 最初は嫌がって抵抗した綱吉も、最後は頬を膨らませて押し黙った。
「楽しみにしてる」
「……がんばり、ます。できるだけ」
 目の前に垂れ下がる釣り針の餌は、大きい。
 ごくりと唾を飲み、綱吉は簡単に踊らされてしまう自分に呆れ、項垂れた。

2011/01/30 脱稿