所期

 古い旅館だった。
 なんでも明治時代中期に建てられた家屋を補修して利用しているとかで、天井の梁は太く、立派だった。
 過ぎた歳月を思わせる飴色の床板は、歩くたびにキシキシと微かな音を響かせた。畳は入れ替えられたばかりで香りよく、職人の心意気が感じられる丁寧な仕事ぶりだった。
 床の間には首の長い細身の花瓶が置かれ、撫子が一輪だけ飾られていた。掛け軸は松の水墨画、襖には紅葉を楽しむ酒宴が描かれていた。
 竹を割って作った花挿しが、窓辺の柱に吊り下げられていた。そちらには何も入っていないけれど、少し色褪せた風合いがなんとも印象深く、侘び寂びの心が感じられた。
 障子を開ければ、後から追加されたのであろう窓が現れた。ガラスに映った半透明の自分に苦笑して、雲雀は鍵を外し、外の空気を吸い込んだ。
 縁側の向こう側には、質素な庭が広がっていた。地面には白い玉石が敷き詰められて、人がひとり立てるほどの石が飛び飛びで配置されていた。今朝方雨が降ったからだろう、足元はまだ少し濡れていた。
 まだ緑の目立つ紅葉が奥の方に枝を広げ、手水鉢は苔生している。水の流れる音がどこからか聞こえてくるが、小川らしきものは見当たらなかった。
「外かな」
 庭の果ては、植物で隠してはいるけれども、竹を並べた垣根だ。その向こう側がどうなっているのかについて、雲雀は知る由を得ない。
 軒先から空を仰げば、白い雲の隙間から青空が覗いていた。上空は風が強いようで、綿雲の流れは速い。
 ひと通り庭の観察を終えて、彼は窓を半分閉めた。風の通り道を作っておいて、敷居を跨いで二間続きの座敷に戻る。
 手荷物は少なかった。着替えや貴重品を入れた黒のボストンバッグがひとつだけで、身軽と言えばそれまでだが、旅行に出るには些か素っ気無かった。
 彼は行儀良く結んでいたネクタイに手を伸ばし、指を入れて結び目を緩めた。しゅるりと慣れた手つきで解いて、皺の寄ったそれを鞄の上に無造作に滑らせる。
 とぐろを巻くのに失敗した蛇が、鞄に尻尾を引っ掛けた状態でだらしなく横たわった。
「遅刻とは、いい度胸をしている」
 折角手配した宿に、ひとりきり。
 ふたり分用意された湯飲みを前に、彼はつい、悪態をついた。
 昔から寝坊やらなにやらで、遅刻が非常に多い生徒だったが、まだ当時の癖が抜けきっていないのか。既に成人して久しい青年を脳裏に思い浮かべ、彼は上着のボタンも外し、袖を引き抜いた。
 藍に白の水玉模様が入った湯のみは、片方だけ逆さを向いて丸盆に並べられていた。揃いの柄の急須が居心地悪そうに座っており、湯気は薄れてかなり細くなっていた。
 脱ぎたての上着をハンガーに被せ、壁から突き出ているフックに吊るす。軽く表面を撫でて皺を伸ばして、彼は続けて、ぐうたらしているネクタイも拾って一緒に引っ掛けた。
 白無地のシャツのボタンも上からふたつまで外してやり、身を楽にして深く息を吐く。時間を掛けて振り返り見た入り口は依然無音で、人が訊ねてくる気配は全くなかった。
 遅れると連絡があったのは、宿に到着する直前だった。お互いなにかと忙しい身分であり、生活拠点も大きく異なることからと、現地集合の約束をしたのが裏目に出てしまった。
 こうなるのが分かっていたら、出立前にあちらに立ち寄り、首に縄をつけてでも引っ張ってきたのに。
「僕に対する挑戦だよ」
 そうでなくとも向こうには、雲雀に対して妙に敵愾心を燃やす連中が揃っている。今回の旅行も、反対意見が多数を占めていると言っていた。
 こんな辺鄙な場所でなにかあったらどうするのかと、特に側近中の側近を自認する男に繰り返し言われたらしい。耳にタコができそうだと、少し前に電話をした時に愚痴を聞かされた。
 それだけ周囲から愛されている証拠なのだろうが、はっきり言って面白くない。
 思い出すうちに腹が立ってきて、気がつけば拳を固く握っていた。小刻みに震える自分自身に肩を竦めて、雲雀は気持ちを切り替えようと頬を叩いた。
 宿は一日、一組だけ。温泉郷だが山深く、険しい峰が容易に人を寄せ付けない。
「退屈だね」
 言い換えれば、温泉に入る以外に娯楽がひとつもない。
 もとは湯治場として栄えた場所なので、仕方が無いといえばそれまでだ。嘆息し、雲雀はすっかり冷めてしまった茶で口を漱いだ。
「うん。美味い」
 冷たくなっても香りは残り、口当たりも悪くない。咥内に広がる仄かな甘みに感服して、雲雀は残りも一気に飲み干した。
 何処の茶葉を使っているのか気になった。後で宿の主人に聞いてみることにして、雲雀は濡れた口元を雑に拭い、今度は室内をゆっくり見回した。
 床の間の右側には違い棚があり、その向かい側の障子を開ければ部屋がもうひとつ出て来た。奥に押入れがあり、隣に年季の入った箪笥がどっしり構えて座っていた。
 綺麗に掃除された部屋を渡り、畳に膝をついて座って、黒光りする金属製の把手を抓んで下から順に引っ張り出して行く。三段目、即ち上から二段目を覗き込んだところで、彼は満足げに微笑んだ。
 入っていたのは、男性用の浴衣だった。
 深い藍色で、触れるとさらりとしている。縦に擦れたような筋が入っており、墨色の角帯も一緒にしまわれていた。
 色形、まったく同じものが、二組。男ふたりで宿泊と伝えていたので、そのように用意してくれていたのだろう。
「でもあの子には、少し大きいかな」
 片方を広げて膝に載せ、雲雀は声を殺して笑った。宿の主人の配慮に感謝しつつ、早速着替えようと姿見の前へ移動する。
 と、どこからともなくトトトトト、と子供が走るような軽快な足音が聞こえて来た。
「うん?」
 もしや到着したのか、と思ったが、戸は開かなかった。どうやら行き過ぎてしまったらしく、足音は段々小さくなって、やがて完全に聞こえなくなった。
 シャツを脱いだところで手を止めた雲雀は、経営者の孫でも遊びに来ているのかと首を傾げ、眉を顰めた。が、考えたところで仕方が無いと苦笑して、続けてベルトを外しに掛かった。
 下着一枚になったところで先ほどの浴衣を取り、右肩から羽織って行く。袖を通せばぴしっと背筋が伸びるような気がした。
 前をあわせ、手際よく帯を結んで形を整える。鏡を覗き込めば、黒髪の伊達男が鯔背にポーズを決めていた。
「ふふ」
 矢張りこういう古びた宿では、洋服よりも和服が似合う。もう少し袖が長くても良かったのに、と日本人の平均身長を軽く越えている男は腕を伸ばして肩を回した。
 だが、仕立て自体は悪くない。布も、最上級とまではいかないものの、輸入物の粗悪品とは訳が違っていた。
「いいね」
 気に入った。そう嘯き、彼は続けて脱ぎ散らかしたものを片付けに取り掛かった。
 放っておいても、誰も畳んではくれない。草壁は同行させていないし、宿の主人だって他に仕事がある。それに、彼らはあくまでも一時の宿を提供するだけであり、雲雀の召使になったわけではない。
 これくらいのことは、自分でやって当たり前。己の体温で仄かに温かい着衣を集め、上着同様にハンガーに吊るしていって、雲雀はひと仕事終えたとばかりに、満足げに頷いた。
 鞄も衣服の下に移動させると、部屋は一気に広くなった。
 空になった湯飲みに、冷えても美味い茶を注ぎ足して喉を潤し、足を崩して座布団に腰を下ろす。開けたままの窓から涼しい風が吹き込んで、庭の木々が心地よさげに揺れた。
 小鳥の囀りが聞こえて来た。水のせせらぎは絶えるところを知らない。トントンと何かを叩いているのは、宿の人だろうか。
 年老いた老夫婦が、ふたりだけでやっている宿だ。先ほどの足音も気になるところで、雲雀は熱い茶をリクエストするついでに聞いてこようと膝を起こした。
 窓は開けたままでも問題なかろう。こんな辺鄙な場所まで潜り込んで荷物を掠め取ろうとする盗人など、猿くらいしか思い浮かばない。
「……出るのかな」
 ふと不安になって、雲雀は眉を顰めた。
 その辺りも訊ねておこう。質問する内容を整理して指折り数えて、彼は一旦部屋を辞した。
 しかし齢七十を越える夫婦に問うたところ、廊下を駆け回る小さな子供など、此処にはいないという話だった。猿は出ない。犬や猫を飼っているわけでもなく、雲雀のいた部屋には案内した時以外近づいてもいないと言われてしまった。
 ではあの、パタパタという足音はなんだったのだろう。
 訳が分からないと首を捻ったまま、雲雀は湯を貰って部屋に戻った。襖を開けて中に入っても、当然ながら誰も居なかった。
「遅いね」
 麓からの連絡もまだないという。此処は山の中過ぎて、雲雀の携帯電話は使い物にならない。ずっと圏外表示で、宿に引かれている固定電話だけが頼りだった。
 夕食までには到着してくれるといい。でなければ、待つ意味が無い。
 広い座敷にぽつんと座って、雲雀は薄暗い天井を仰いだ。
 そのまま背中を後ろに倒し、大の字に寝転がる。爪先が敷居をはみ出して、踵が板張りの縁側に触れた。
 ひんやりとした風が、足の裏を擽っていく。笑いたいのに笑えなくて、彼は空虚な心に唇を噛み締めた。
 久方ぶりにふたりだけで過ごせると期待したのに、当てが外れてしまった。離れているくらいなんてことはない、互いの気持ちが変わることは無いと信じてはいるけれど、触れられると思っていたものに寸前で逃げられてしまうのは、思いの外ショックだった。
 幼い頃が急に懐かしくなった。
 あの時分は、馬鹿みたいにくっついて日々を過ごした。
 一日でも会えないと不安で、声を聞けないと心細くて、なにかと理由をつけて顔を見に行った。触れれば逐一可愛らしく反応するものだから、ついちょっかいを出しすぎて泣かせたこともあった。
「つまらないな」
 それに比べて、最近の自分たちはどうだ。
 仕事を持つようになって、道は離れた。時として交じり合うこともあるけれども、基本群れあうことはない。
 無性に顔が見たかった。話をしたかった。些細なことでいい、この際愚痴でも構わない。贅沢は言わない。もういっそ言葉のやり取りがなくてもいい、その暖かな体を抱きしめられるのであれば。
 だのに今、雲雀の手は空っぽだった。
「つなよし」
 一秒でも早く、彼の存在でこの心の洞を塞ぎたかった。でなければ、潰れてしまう。中身が空っぽの、ただの張りぼてになってしまう。
 泣きそうになって、雲雀は息を止めた。瞼を閉ざしてゆっくり五秒を数え、反らしていた喉を静かに上下させる。
 肺の中が空っぽになるまで二酸化炭素を吐き出した彼は、コトン、と音がしたのに反応し、首を右に倒した。
 寝転がったまま物音の正体を探ろうと瞳を蠢かせる。襖が少しだけ開いていた。花見をする人々が、赤い杯を掲げて陽気に歌い、踊っている。なんと羨ましいことかと思っていたら、桜よりも鮮やかな紅色が見えた。
「……え」
 絶句して、雲雀は目を見開いた。
 起き上がりたいのに、起き上がれない。金縛りではなく、単純に脳細胞がこの状況に混乱し、正しい信号を発せられずにいるだけだ。
 瞠目した彼の前で、すすす、と襖が横に滑っていった。
 いったいいつ、襖を閉めただろう。開けたままにしておいたと思うのだが、はっきりしない。もしかしたら無意識のうちに閉めていたのかもしれないと考えて、雲雀は冷たい汗を流した。
 真ん丸いほっぺをした子供が、自分が通れるだけのスペースを確保したのに満足げに頷いた。もたつきながら立ち上がり、よいしょ、と右足を持ち上げて敷居をまたいだ。
 素足だ。偏平足で、触ればきっと、餅のように柔らかかろう。
 年齢は三歳か、四歳か。黄檗色の着物は丈が短く、足が動く度に膝小僧が見え隠れした。
 帯は鮮やかな白から朱色に変わる、グラデーションが入った縮緬地の兵児帯だ。後ろで蝶々結びにして、長く余った両端を無造作に垂らしている。動く度に左右に揺れて、まるで脚が四本あるようだった。
 一メートルにも満たない背丈で、頭部だけが異様に大きい。否、頭髪が爆発しているのでそう見えるだけだ。
 誰かを思い出させる甘い蜂蜜色をして、重力を無視して四方八方に向かって跳ねている。棘だらけにも見えるけれど、実際に触れてみればきっとそんなに固くない。
 肌は頬以外何処もかしこも白く、まるで蚕の繭で作られた人形のようだ。大粒の瞳がふたつ、爛々と輝いて雲雀を見詰めていた。
「つ……」
 そろり、そろりと近付いて来る童は、誰かの幼い日を髣髴とさせる風貌をしていた。
 琥珀色の瞳、小粒の鼻に、形良い唇は目の醒めるような紅色。ふくふくしたほっぺは林檎のように甘く色付き、かじりつけばさぞや甘かろうと想像できた。
 手も、足も、驚くほどに小さい。袂のない筒袖からはみ出る手の、指先に張りつく爪が玩具かなにかのようだった。
 写真でしか見たことのない子供が、其処に居た。
 吃驚し過ぎて、声すらまともに出ない。呆然としている雲雀の傍へ歩み寄った子供は、興味深そうに彼を上から覗き込んだ。
 好奇心旺盛な眼、きゅっと結ばれた唇。紅葉のような手を膝に置いて、中腰の体勢で枕元に立っている。
 愛らしい。
 他に言葉が思い浮かばない。成長するにつれて失われていった幼い顔立ちや、可愛らしさが、一瞬にして戻って来たようだった。
「つなよ……っいた」
 これは夢か、現か、幻か。判別がつかないまま、雲雀は起き上がろうとして悲鳴を上げた。
 幼子が、唐突に彼の鼻先を叩いたのだ。
 ぺちり、といい音がした。向こうもまさか雲雀が動くとは思っていなかったようで、吃驚したのか目を丸くした。
 ただでさえ大きい瞳が、零れ落ちんばかりだ。真ん丸い眼に苦笑して、雲雀は今度は慎重に、もみじの手に注意しながら身を起こした。
 叩かれた場所がひりひり痛い。そんなに強くやられたわけでもないのに、油断しただろうか。怪訝に思いつつも理解し難いからと解釈を放棄して、彼は畳の上に足を組んだ。
 胡坐を作り、膝先に座る小さな子供をじっくり観察する。先ほど雲雀を叩いた手は、きゅっと握られて黄檗色の着物の上に置かれた。
 こちらも、まるで雲雀を値踏みするようにじいっと見詰めてきた。この顔を持つ青年は、雲雀の視線が怖いだの、照れるだの言って直ぐに顔を背けたがる。だからどうにも変な気分だった。
 まるで睨めっこだ。先に視線を逸らした方が負けだと勝手にルールも決めて、雲雀は腕を組み、幼子に見入った。
 じっくり見れば見るほど、待ち人に――沢田綱吉にそっくりだった。
「う?」
 跳ね放題の髪の毛も、髪の色も、大きめの瞳も。
 この間抜け面さえも。
 おまけに、不思議そうにあげられた声まで似ていた。
 昔を思い出させる、声変わり以前の高いトーン。それよりも更に高い、子供特有の響き。
 思わず口元に手をやって、雲雀は首を左に回した。噴出してしまいそうで、必死になって堪える。崩れたがる顔を叱咤して、筋肉に力を込めて頬を引き攣らせる。
 肩を震わせる彼を不思議そうに見やって、幼子はおもむろに立ち上がった。
 背伸びをしても、座っている雲雀の頭を越さない。垂れ下がる帯を踏まぬように足を運んで、短い腕を限界まで伸ばして。
 ぺちり、と。
 今度は頬を叩かれた雲雀が、バランスを崩して寄りかかって来た幼児に眉を顰めた。
「なに、つなよし」
 他に呼びようがなくて、ひとまず待てども来ない人の名前を借りて呼ぶ。脇に手を入れて持ち上げると、非常に軽かった。ぶらんとぶら下がった足の指も、粘土細工かなにかかと思える小ささだった。
 これで生きているのだから、不思議でならない。
「う、う!」
「叩かないでよ」
 まだ言葉を知らないのか、単音を吐いては届かないのに手を伸ばしてくる。爪先が先ほど叩かれたばかりの頬を掠めた。微風が鼻を掠めて、雲雀は肩を竦めた。
 両手を交互に動かして、クロールを泳いでいるみたいにじたばた暴れられた。またぺちっ、とやられて、渋い顔をした雲雀は下ろして欲しいのだと判断し、腕を下向けた。
 今にも壊れそうなくらいに小さな爪先が、揃って畳を踏んだ。幽霊ならば足はない筈と、きちんと五本指が揃っているのを確かめて、雲雀は奥歯を噛んだ。
 宿に子供はいないと聞いている。あの老夫婦が嘘を言ったとは考え難いし、一日一組しか受け入れていない宿で、他の予約客と鉢合わせする可能性は限りなくゼロだ。
 となれば、この子は誰なのだろう。
「どこから来たの?」
 答えられるかどうかは別として、約束事として訊ねてみたが、案の定返答はなかった。雲雀の膝の前にしゃがんだ子供は、言葉が理解できていないようできょとんとしたままだ。
 実体を持つ幻覚を産み出せる術師は、少ないながらも存在する。ボンゴレ十代目霧の守護者である六道骸もそのひとりだが、もしあの男の仕業だとしたら、雲雀はとっくに気取っているはずだ。
 それに触れてみて分かったが、この子にはまるで悪意がない。もし何者かが雲雀に害そうと仕向けているのだとすれば、術師の意志がこの幼子の行動に反映されて然るべきなのに、今のところそれもなかった。
 油断させておいて、というのなら、最初に姿を見た瞬間こそが油断の絶頂だ。なにせ雲雀は、混乱して咄嗟に動けなかったのだから。
 有幻覚ではない。では、何か。
「……まさかね」
 科学の世の中になっても、依然まことしやかに囁かれる怪奇譚。その大半は根拠のない憶測や、ただの思い違い、目の錯覚や種のあるトリックなのだが、ごく稀に、一切の説明を受け付けない不可思議な出来事も報告されていた。
 さりとて、これがそうであると断言できるだけの材料が雲雀にはない。
「う」
 意味もなく首を縦に振った幼子に、聞くだけ無駄だったと諦めて、雲雀はどうしたものかと頬杖をついた。
 扉はまだ開かれない。本物の沢田綱吉は、今何処にいるのだろう。
 出来るものならこの子に会わせてみたい。いったいどんな反応をするだろう、想像するだけでワクワクした。
「……まさか、あの子の隠し子じゃないよね、君」
「う?」
 そうしてふと胸に過ぎったひとつの可能性。声に出した途端に現実味を増した、それは大いにありうる話だった。
 ボンゴレ十代目となった沢田綱吉は、未来のボンゴレの担い手だ。当然、周囲は早々に十一代目の誕生を望んだ。
 九代目に直系の子がなかったために、ボンゴレは後継者問題で揉めた過去がある。長子と長く信じられていたザンザスは、実は養子であり、ボンゴレの血脈からは外れた存在だった。
 もうあんな不毛な争いは御免だと、特に追い先短い連中が騒いでいるらしい。
 強いコネクションを求め、自分の娘や孫を妻に、という誘いも非常に多いのだとか。角が立たないように断るのがなんとも面倒だと、いつだったか深く溜息をついていた。
 ならば真実を教えてやればいい、そう耳元で囁いた。彼はとても驚いた顔をして、直ぐに嬉しそうに笑って、哀しそうに瞳を曇らせた。
 男同士で何が悪いのか。好きあっているのに、魂が求め合っているのに、喧しいだけの外野が邪魔をする。
 寂しげな表情をした雲雀を見て何を思ったのか、沢田綱吉に良く似た幼子はまたも腕を伸ばし、今度は彼の頬を優しく、それこそ腫れ物に触るような手つきで撫でた。
 真剣な眼差しをして、何度も同じ場所をさする。摩擦で痒くなって、雲雀は瞬きをして苦笑した。
「其処が痛いんじゃないんだよ」
 幼子の気遣いに感謝して、彼は小さな体躯をそうっと抱き締めた。
 引き寄せて胸に抱けば、すっぽりと包みこんでしまえた。蜂蜜色の髪は予想通りの柔らかさで、梳けば指に絡みついてきた。息を吸えば、緑臭い草の匂いがした。
「子供って、みんな、こうなのかな」
 お互い、これくらいの子がいても可笑しくない年齢になってしまった。
 沢田綱吉に過ちがなかったかと言われたら、それは雲雀には分からないことだ。彼に覚えがなかろうとも、クスリかなにかを使われて意識が無いうちに女と交わっている可能性だって、絶対にないとは言いきれない。
 それだけ、ボンゴレというものの血は貴重であり、重要だった。
 考えるだけで憂鬱になり、気持ちが萎えて行く。待ち人がなかなか来ないのも、彼を意気消沈させる原因になっていた。
「ねえ、君。折角だから、うちの子になりなよ」
「う?」
 なにが折角だ。自分で言いながら笑いそうになって、雲雀は堪えた。
 あの子の子供なら、可愛がれる気がした。あの子同様に愛せる気がした。けれど矢張り、胸中は複雑だった。
 高笑いしている女の影が過ぎる。不安が渦を巻き、飲み込もうと大きく口を開いている。
 ありえない。そんな筈が無い。
 言い聞かせるのに、疑念は消えてくれない。
「っ!」
 暗い思考に沈み行こうとした雲雀を浮上させたのは、小さな平手打ちだった。
 抱き上げた幼子に両の頬を挟まれて、彼は信じ難い顔をして呆然と目を見開いた。
 今し方人を叩いたばかりの子が、申し訳無さそうに赤くなった肌を撫でてくれた。色付いた部分を消そうとしているように、手の平や、甲の部分も使ってごしごしとこすり付けてくる。
 汚れているわけではないのだけれど、それがこの子には分からないのだろう。暫く好きにさせて、雲雀は不意に噴き出した。
「くっ」
「うぅ?」
 声を堪え、前屈みになって耐える。だが少し出てしまった。
 肩を震わせていたら、激突しないように寸前で遠ざけた幼子が雲雀の腕の中で身じろいだ。不思議そうな顔をされて、盗み見た青年は唇を噛み締めながら深く息を吸い、吐き出した。
 そうだ、あるわけが無い。この子が沢田綱吉の子であるはずが無い。
 雲雀はただ信じればいいだけだ。十年も前から一心に自分を好いてくれている存在が、もうじき此処にやって来る事を。
 思いだけを先に飛ばして、身体が追いついていない人物を、無条件に。
「まったく、君って小さい頃から可愛くて、僕に一途だったんだね」
 誰かさんの生き写しに話しかけて、微笑む。確かな温もりを大事に、大事に抱き締めて、彼は静かに目を閉じた。

 ゆっくり瞼を開く。
 直ぐ傍に人の気配をかんじて瞬きを繰り返せば、徐々に明るくなる視界の真ん中に、ぼんやり人の顔が浮かび上がった。
「……なんだ、大きい」
 ぼそり呟けば、聞こえたのか綱吉がムッと口を尖らせた。
「どうせ小さいですよ、俺は」
 嫌味だと受け取ったらしい青年の反論に、雲雀は呵々と笑った。
 いつ着いたのだとか、何をしていて遅れたのだとか、聞きたいことは色々あった。話したいことだってある。結局あの幼子が何者であったのかも、分からないままだ。
 だが今は、そんな事はどうでもいい。
 ゆっくり身を起こし、雲雀はゆるりと首を振った。眠っているうちに肌蹴たらしい浴衣から、少し汗ばんだ肌が覗いている。逞しい太腿を垣間見て、綱吉の顔にサッと朱が走った。
 正座して首から上だけを左にやった彼に目を細め、雲雀は平らになった後ろ髪を掻き回し、欠伸をひとつ噛み潰した。
 懐に手を入れて衿を整え、依然そっぽを向いているスーツの青年にふっ、と笑いかける。
「つなよし」
 あの小さな子に呼びかけたように、柔らかく。
 胡坐を崩した体勢で名前を囁かれ、閉じた襖に描かれた紅葉を数えていた綱吉は、堪えきれずに振り返った。
 目を細めて笑う黒髪の青年にどきりとして、僅かに唇を震わせて瞠目する。数寸の沈黙の末、琥珀色の瞳は次第に歓喜に染まっていった。
「おかえり」
 此処は旅先だとか、なんだとか、無粋なことは言うまい。
「ただいま!」
 右手を広げた雲雀に、綱吉は相好を崩して飛びついた。

2011/08/23 脱稿