仮睡

 音楽の授業が終わった。
 一般教室の倍以上の広さを持つ音楽室から廊下に出て、綱吉は気持ちよさげに伸びをする。薄い教科書と、アルトリコーダーの入った袋を左右の手に分けて持って立ち止まっていたら、後ろから来ていた生徒からは迷惑そうにされてしまった。
「沢田、邪魔」
「ああ、ごめーん」
 低い声で凄まれて、慌てて飛び退いて道を譲る。そこへどたどたと、他の生徒も一斉に押し寄せて来て、結局彼は群れ成すクラスメイトの最後尾に置かれてしまった。
 列の先頭の方に、山本の後姿があった。彼は背が高いので、非常に目立つ。仲の良い男子生徒となにやら話し込んでおり、時折楽しそうに声を立てて笑った。
 山本とは個人的に親しい間柄とはいえ、彼と一緒に居る男子とはあまり喋った事がない。追いかけて間に割り込むには勇気が要って、綱吉は腕を戻すと、ぎゅっと荷物を抱き締めた。
 獄寺は、今日はいない。朝から姿を見ない。昨日遊びに来た際、ビアンキに捕まって手製の料理を食べさせられていたから、腹痛で倒れているのかもしれない。
 帰ったら電話してみよう。休みなのは単なるサボりで、無事であれば良いと願いつつ、綱吉は急に静かになった廊下を歩き始めた。
 いつの間にか周囲からは人の気配が絶えていた。ぼうっとしている間に、クラスメイトから置いていかれてしまった。
 もっとも、教室移動まで団体行動である必要はない。どうせ行き着く先は同じであるし、学校内で迷子になるほど綱吉は落ちぶれていない。
「急ごう」
 もっとも、早くしないと次の授業が始まってしまう。チャイムが鳴る前に教室に戻ろうと自分に気合を入れた彼は、心持ち急ぎ足で階段に向かった。
 並盛中学校には、なにかと風紀に五月蝿い人がいる。もし廊下を走っている時に、その人に見付かりでもしたら、大変だ。命に関わる。
 他校の生徒が聞いたら大袈裟だと笑い飛ばしそうだが、この並盛中学校は他の学校とは少し違って、特殊なのだ。風紀委員が絶対の権力を持ち、委員長はある意味校長よりも偉い。今日も応接室を占拠しているだろう人を思い浮かべて、綱吉は唇を舐めた。
「よ、っと」
 見えてきた階段の手摺りを掴み、ぐるん、と遠心力を利用して身体の向きを変える。滑って転んで、落ちてしまわないように注意しながら駆け下りようとしたところで、不可思議な声が耳に響いた。
 クピ、クピ、と。
 鼻を啜るような可愛らしい音に眉を顰め、綱吉は前に出していた足を引っ込めた。手摺りを握っていた左手を解き、教科書類を抱えて視線を左右に流す。
 風邪を引いた時の詰まった鼻が奏でるような音は、まだ続いていた。
「なんだろう」
 無視して通り過ぎてもよかったのだが、どうにも気になる。まるで何かを哀しんで、嘆いているような切なさを覚える声に、胸が締め付けられた。
 注意深く周囲を探って、一度来た道や、消火栓の物陰も確認する。だが音は遠ざかる一方だった。
 どうやら階段の近くから響いているらしい。最初に気がついた場所まで戻った彼は、数秒考え込んだ後、足元ではなく天井近辺に目を向けた。そのまま斜め前方にずらしていけば、暗がりの中に潜む踊り場が見えた。
 音楽室は特別教室棟の最上階にあり、その上は屋上だ。しかしそこは本来立ち入りが制限されて、扉には鍵が掛けられていた。
 だから大抵の生徒は、近付こうともしない。だが綱吉は、知っている。
 屋上に、我が物顔で出入りしている人が居ることを。
「まさかな」
 そこまで考えたところで、彼は聞き覚えのある気がする音の正体に思い至った。頬をヒクリとさせて、首筋に流れる冷たい汗に鳥肌を立てる。
 そういえばクピクピ鳴いていたと、記憶の引き出しから取り出した過去の出来事を振り返りつつ、綱吉は恐る恐る爪先を階段に乗せた。
 どうであれ、放ってはおけない。もし全く何も知らない人に見つかって、騒ぎになっても困る。
 上に、つまりは施錠されている屋上への扉を目指して昇り始めた彼は、踊り場の埃っぽい空気に一度咳き込み、顔を背けた。
 物音に反応して、それまで響いていた胸に迫る声が止んだ。接近する人の気配に臆して、怯えている様子が窺えた。
「えっと。バリネ……じゃない。ロール?」
 十年後の未来で手に入れた新しい力であり、頼もしい仲間。
 動物の形を模した兵器は、アルコバレーノの奇跡により、過去の世界に戻った後も所有者の傍に在り続けた。
 綱吉には天空ライオンのナッツ、獄寺には嵐猫の瓜。山本や了平、ランボにもそれぞれ特徴的な動物達が相棒として与えられた。雲の守護者である雲雀恭弥にも、無論。
 但し未来の彼が手足のように扱っていたのは、よりにもよって見た目愛らしいハリネズミだった。
 凶悪という形容詞が良く似合う男からはまるで想像がつかない、小動物。だが十年後の雲雀は気にする様子もなく、何匹ものハリネズミを可愛がっていた。
 どういう理由で、数ある動物の中からそれを選び取ったのか。訊いてみたかったが、結局機会を得ることはなく、綱吉は元いた時間に戻って来てしまった。
 成長を遂げた雲雀は、当たり前だが大人びて格好良かった。
 出来るならばもう一度会いたいと、ふとそんな事を考えている自分に気付き、綱吉は慌てて首を振った。
「そうじゃなくって。あー、もう。ロール、ロール? いるんだろ、出ておいで」
 雲雀がどうこうではなく、今は校舎内に迷い込んでいるらしいハリネズミが問題なのだ。もしかしたら飼い主も傍にいるかもしれないが、それだったらロールは、こんな哀しそうに鳴かないはずだ。
 きっとはぐれてしまったに違いない。そう判断して、彼は暗がりを注意深く見詰めた。
 鉄製の扉は閉まっており、ドアノブを回してみたが鍵が掛かっていた。周辺には誰が置いたのか汚らしい段ボールが積まれ、菓子パンの空き袋が無造作に転がっていた。
 基本的に人が来ない場所なので、掃除も行き届いていない。あまり居心地が良いとは言えない場所に立って、綱吉は渋い顔をしてもう一度ドアノブを捻った。
 押してみるが、びくともしない。諦めて手を離し、潰れかけの段ボールを窺えば、影で何かが動いた。
「ロール?」
 膝を折って屈み、呼びかける。筆箱が落ちないよう、飛び出ていた頭を押して戻し、息を殺して壁際をじっと見る。
 黒っぽい染みかと思われたものが、もぞもぞと動いた。
「ロール」
「ピ」
 細い隙間を這い出て来た小さな生き物に、綱吉は安堵の息を吐いた。呼びかけに応え、無数の棘を背負ったロールが短く鳴いた。
 鼻をヒクヒクさせて、円らな瞳で綱吉を見上げてくる。手を差し伸べると、匂いを嗅がれた。
「俺のこと、覚えてるか?」
「クピ」
 面識はあった。これが初めての遭遇ではない。何度か手に乗せて、棘に指されて痛い思いをした事だってある。
 抱えあげて顔の前に持っていき、真っ黒い瞳を覗き込みながら訊ねれば、分かるのかハリネズミは首を縦に振ったように見えた。偶然かもしれないが話が通じた気がして嬉しくなって、綱吉はそうっと、ロールの頭を撫でた。
「クピー」
 くすぐったかったのか、甲高い悲鳴があがった。嫌がる様子はない。落ち着いており、どこも怪我はないようだ。
 教科書類を脇に挟んだ綱吉の足元で、休憩時間終了を告げるチャイムが鳴った。もれなく次の授業が始まるわけだが、教室はまだ遠い。
「あちゃ」
 しかも彼の手には、本来学校に持ち込み禁止の動物がいる。ペット、ではないのだが、連れて行くのは問題があろう。
 どうするかで迷い、次の行動に出られない。授業に参加するには、一刻も早く雲雀の元へこの子を連れて行くのが不可欠であるが、では肝心の雲雀はどこにいるのだろう。
 大事な匣アニマルをこんなところに放置して、何を考えているのか。
「何も考えてないのかもな」
 きっと屋上で昼寝をしていて、起きて、戻るときにロールの事をすっかり忘れていたのだろう。彼はしっかりしているようで、時々とても間抜けな事をする。
 ロールも、屋上に締め出されるのは回避したものの、自力で階段を降りられずに困っていたらしい。綱吉が鳴き声に気付かなかったら、日が暮れても此処でひとりぼっちだったに違いない。
 ナッツだったらきっと耐えられまい。臆病な天空仔ライオンを思い浮かべ、綱吉は苦笑した。
 心の声が聞こえたのか、首からぶら下げた指輪が少し熱い。機嫌を損ねてしまったナッツにも目尻を下げて、綱吉はロールを肩に乗せ、登ったばかりの階段を下り始めた。
「ヒバリさん、何処行ったのかな」
 屋上には居ないと思ってよかろう。とすれば考えられるのは学内を巡回中か、応接室で仕事中か。
 チャイムは鳴り止み、余韻すら遠くへ去った。すっかり静かになった特別教室棟に肩を竦め、綱吉は更に下の階を目指し、リズム良く階段を降りていった。
 走ったところで、応接室は逃げない。もし不在なら、ロールは扉の前に置いていこう。
「酷いご主人様だよな」
「クピ!」
 あんなところに放置されて、普段は雲雀が大好きなハリネズミも少しは頭にきたらしい。綱吉の呟きに元気良く返事して、細長い鼻をふんふん言わせた。
 言葉が通じている、というわけではなかろうが、反応があるのは矢張り面白かった。
 相好を崩し、綱吉は目的の階で足を止めた。人通りが絶えた廊下を見渡して、応接室のある方角に向き直る。
「さて」
 居るか、居ないか。
 もし居た場合、授業をサボっていると怒られる確率はほぼ百パーセント。だが彼は、以前ほど雲雀に対して恐怖心を抱かなくなっていた。
 黒曜ランドでの六道骸との死闘、ヴァリアーとの血みどろの戦いに、未来でのあれこれ。
 雲雀恭弥という男を知るたびに、綱吉は彼に少なからず親近感を抱くようになった。彼ほど味方にして頼もしい人は他にいない。彼が居ればどんな困難だろうと簡単に切り抜けられると、そう信じさせるなにかが、雲雀にはあった。
 過剰な期待かもしれないが、ともあれ彼の存在はとても心地よく、心強かった。
 群れるのを嫌い、誰よりも自由である雲雀が、十年後の未来でも綱吉の傍に変わらず居続けていてくれたことも、大きな信頼を寄せる要因のひとつになっている。
 もっとも、本人にとっては迷惑な感情かもしれないが。
 あれこれと思い巡らせて微笑み、綱吉は応接室の前で足を止めた。ロールの鼻の先を擽ってから、咳払いをひとつして心を落ち着かせる。
 此処に至るまでは余裕綽々だったのに、いざ目の前にした途端緊張で身体がコチコチに凍り付いてしまった。ノックをしようと左腕を持ち上げるのにも、非常な苦労を要した。
 なんともぎこちない動きで拳を作り、息を飲んで扉を睨む。
 出来るものなら回れ右してやりたかったが、肩の上でロールが身じろいで、棘がちくりと首に刺さった。
「クピ」
「分かってるよ」
 早く開けるよう急かされている気分になって、綱吉は諦めてドアを叩いた。
 控えめに、軽く、一度だけ。お陰でコン、という音は彼の手元でしか響かず、当然ながら室内にまで轟くことはなかった。
 これでは幾ら雲雀でも気付くまい。案の定五秒待っても、三十秒が過ぎても反応はなく、応接室は静まり返ったままだった。
 ほっとしていいのかどうかも分からぬまま肩を落とし、綱吉は不安げにしているロールの顎を撫でた。
「留守かもな」
「クピィィ」
 そうであって欲しいとの期待を込めて、呟く。ロールが非常に残念そうに、寂しそうに鳴いた。
 だがこれで、問題は振り出しに戻ってしまった。
「開いてないかな」
 ロールを、どうするか。教室に連れて行く案は却下だが、廊下に放り出して行くのも、思えば可哀想だ。ならば応接室のドアに鍵がかかっていなければ、中に入れてやればいい。
 その方が通行人に見付かる確率も、ぐんと下がる。雲雀だって、ロールの所為で面倒ごとに巻き込まれたくはないだろう。
 思索を巡らせ、綱吉は小さく頷いた。そうしよう、と音楽の教科書を左手に抱え直し、右手で金属製のドアノブに触れた。
 静電気は来ない。しっかりと握って、緊張気味に扉を押す。
 キィ、と蝶番が軋んで嫌な音を立てた。咄嗟に腕を引っ込めようとして、寸前で思い留まってもっと慎重にドアを開く。隙間から冷えた空気が流れ出して、蜂蜜色の髪の毛を揺らした。
 窓が開いているらしい。様子を窺うべく耳を澄ますが、人の話し声や物音はしなかった。
 細い隙間を徐々に広げて、人一人なら通れそうなくらいに開く。窓辺ではカーテンがゆらゆら揺れて、風に煽られた書類が文鎮の下でじたばたしていた。
 人の気配はしない。矢張り誰も居ないのかと胸を撫で下ろした綱吉の肩から、何かを気取った獣がぴょん、と飛び降りた。
「クピ!」
「あっ」
 一メートル以上の落差をものともせず、見事な着地を決めたハリネズミが床を駆け出した。
 臆病そうな外見からは想像もつかない、機敏な動きに目を奪われる。捕まえようと手を伸ばしたが間に合わず、綱吉の指は虚しく空を握りつぶした。
「クピ、ピ、クピ!」
 なにやら嬉しそうにはしゃいでいるロールが、応接室の真ん中に置かれたテーブルセットに駆け寄った。短い前足でソファの背凭れを引っ掻き、登ろうとして失敗して、コロン、と背中から転がった。
 急にどうしたのかと唖然とした綱吉は、背筋を伸ばして姿勢を正したところで、ロールの急変の理由を知って息を飲んだ。
 窓から吹き込む風に押されて、扉がパタン、とひとりでに閉まった。
「うあっ」
 立ててしまった物音にうろたえるが、もう遅い。思わず首を竦めた彼の前で、ソファに座っていた青年が小さく呻いた。
 横から吹き込む風に、黒髪が靡いていた。それ以外に動くものはなく、来客を出迎えるべく立ち上がりもしない。
 そろりと首を伸ばして様子を窺って、綱吉は温い唾を飲み込んだ。こめかみを汗が伝い、全身に鳥肌が立った。
「ピ」
「しーっ」
 じたばた暴れた末にようやく天地を正しくしたロールが、凍り付いている綱吉に気付いて首を傾げた。彼は慌てて人差し指を唇に押し当てて、静かにするよう頼み込んだ。
「ん……」
 そんな微かな物音にも反応して、ソファの上の人物が身じろいだ。びくりとするが、動きは鈍い。どうやらまだ、眠ってくれているらしい。
 緊張に顔を強張らせて、綱吉は破裂しそうな心臓を制服の上から押さえ込んだ。筆箱が落ちそうになって、お手玉して胸に抱え込む。
 膝を折って屈めば、ソファに邪魔されて黒髪は見えなくなった。ロールとの距離が少しだけ縮まって、不思議そうに見詰められた彼は照れ笑いを浮かべてごまかし、溜息と一緒に肩を落とした。
 居ないと思っていたのに。
 雲雀が屋上に出る理由は、大体が昼寝の為だ。だのに応接室に戻って来てもまた眠るなど、いったい彼は一日の何時間を睡眠に費やしているのだろう。
「寝すぎて、目が腐っても知らないぞ」
 羨ましいったらなくて、綱吉は悔し紛れに嘯いた。上唇を噛み、衣擦れの音にも気を使って立ち上がる。
 兎も角、ロールは応接室の中に入れた。もう自分が此処に居続ける理由はない。
「クピ、クピー」
「しいっ、静かにしてくれよ」
 雲雀は木の葉が落ちる音ですら目を覚ますような人だ。今回は偶々、運よく扉が閉まる音でも起きなかったけれど、次も無事とは限らない。
 出て行こうとする綱吉を引き止めんとしてか、ロールが姦しく騒ぐ。それに半泣きになりながら大人しくしてくれるよう頼み、彼は頻繁に雲雀の後姿を確認しては冷や汗を流した。
 いくら鬼の風紀委員長に対する恐怖が薄らいでいるとはいえ、完全に払拭されたわけではない。雲雀に殴られてタンコブを作った記憶は、決して消え去ることはないのだ。
 だというのに。
「ガウゥ!」
 もぞり、と制服の内側で指輪が蠢いたかと思った瞬間、呼んでもいないのに突然、ぼんっ、とオレンジ色の煙が炸裂した。
 雄々しい吼え声をあげて、愛らしい獣がもう一匹、応接室に姿を現した。日の出のような鮮やかな鬣を持ち、長い尻尾の先に橙色の炎を灯した肉食獣が、ご機嫌な顔をして床に四足で降り立った。
「なっ」
 綱吉の目が驚愕に彩られ、ぽかんと開いた口はそれ以上言葉を紡ぎだすのを拒んだ。
 ぱちぱちと瞬きを繰り返すが、ナッツの姿は消えてくれない。
 出て来い、と念じたつもりは微塵も無いのに、何故か急に現れた。主の命令を無視した勝手な匣アニマルに、怒りよりも驚きが勝る。呆気に取られて声を失っている間に、鼻の先をひくつかせて、ロールが嬉しそうに鳴いた。
「クピィ!」
「ガウガウ!」
 顔を突き合わせてなにやら挨拶しあっている。これがもっと違う場所の、違う時間でのことだったなら、綱吉だって長閑な光景だと朗らかな気分になれただろうに。
 今は呑気に、近況を報告しあう動物達を見守っている余裕など、ない。
「こら、ナッツ。お前、なにしてんだよ」
「ガウ?」
 綱吉は教科書類を床に置いて、獣たちを真似て四つん這いになると、ナッツ達ににじり寄って小声で叱った。だが愛らしい獣は分かっていない様子で首を傾げ、やおら振り返ったかと思うと、そこで眠っている男を見つけて三角の耳をピンと立てた。
 尻尾の炎がぼわっと膨らんだかと思えば、上下にぱたぱた振り回された。短い足で床を踏みしめ、ととととと、と駆け足でソファを回りこむ。
 僅かに遅れてロールが続いて、取り残された綱吉は真っ青になった。
「お前ら!」
 怒鳴りたいが、大声を出したら雲雀を起こしてしまう。ジレンマに陥った彼は右往左往した後、身勝手極まりない天空ライオンを捕獲すべく身を起こした。
 足音を響かせないよう細心の注意を払い、ソファによじ登ろうとしているナッツに詰め寄って、尻尾を掴む。
「ガゥー」
「駄目だって。ヒバリさん、起きちゃう」
 ロールを届けに来ただけなのに、とんでもないことになってしまった。時間が過ぎる程に焦りが膨らんで、綱吉は爪を立てて抵抗するナッツを抑え込み、脇に抱えた。
 そのまま運び出そうとするが、じたばた暴れられて巧く行かない。
「いってぇ!」
 あまつさえ腕を引っかかれて、彼は折角捕まえたナッツを放り投げてしまった。
 流石は猫科と言うべきか、空中でしっかりバランスを整えた彼は難なくソファに着地を決めた。衝撃を受けて弾むクッションもなんのその、どうだと言わんばかりに胸を張る。
「ガウガウっ」
 そうして得意げに吼えて、いそいそと寝入る雲雀へ躙り寄った。彼はソファに深く腰掛けて、腕を組んだ状態で俯いていた。
 長い睫が瞼を縁取り、整った顔立ちは穏やかで、落ち着いていた。
 時々ぐらりと身体が揺らぐが、それでも目を覚まさない。余程疲れているのか、夜眠れない理由でもあるのか。
「ヒバリさん……」
 彼の寝顔をじっくり見る機会など、そう多くない。
 奇妙なことになったものだと嘆息して、綱吉はナッツに掻かれた腕を撫でた。じくじくする痛みを堪え、怖いくらいに整った顔立ちの青年を物珍しげに眺める。
 十年後では短かった前髪は、今はまだ長い。頬は僅かに丸みを帯びて、綱吉ほどではないにせよ、柔らかそうだった。
 髪の毛も、瞳も、眉毛も睫も全部黒い。
「そういえば……」
 アルコバレーノの中に、彼にそっくりな赤ん坊が居た。赤いおしゃぶりだったので雲雀とは属性が違うが、なにか関係があるのだろうか。
 思えば綱吉は、彼の事を何も知らないのだ。
 並盛中学校風紀委員委員長で、実質的な学校の支配者で、喧嘩が強い。
 誰よりも並盛中学校を愛して、大事にして、なにをおいても学校優先だけれど、同じくらい仲間の危機に敏感で、自分勝手な理論を振り撒いてはいるけれど裏を返せばとても優しい。
 小さい動物が好きで、いつも黄色い小鳥を連れ回していて。
「ピヨ」
 と思った瞬間、窓辺から可愛らしい声がした。優雅に翼を広げた鳥が、滑るように宙を泳ぎ、綱吉の前を通り過ぎて行った。
 確かヒバード、と呼ばれていた。未来の世界でも雲雀の傍に居た小鳥は、侵入者を警戒する様子もなく、旋回しながら高度を下げて、やがて綱吉の頭に着地した。
 ぽすん、と落ちてこられて、彼は首を竦めて衝撃を逃した。
「もう」
 ずんぐりむっくりした真ん丸いボディでどっしり構え、上機嫌に羽をパタパタさせている。横に長い嘴が開き、いつ歌いだすか、ヒヤヒヤした。
 十年後の世界でも、こうやって綱吉の頭はたまに巣にされた。脚が髪の毛に絡まって、引っ張られて痛いから嫌だったのだが、まるで聞いてもらえなかった。
 当時の記憶があるのだろうか、と考えて、それは大きな矛盾だと気付く。
 未来で綱吉の頭に乗っていたのは、正確に言えば十年後のヒバードであって、此処にいるヒバードではない。
「こんがらがりそう……」
 タイムパラドクスだなんだと説明されたが、いまいち良く分からなかった。理解力のなさをこんなところでも発揮して、彼はこめかみの鈍痛を堪えて肩を落とした。
「ナッツ」
 おいで、と小声で誘うが、天空仔ライオンは雲雀の膝が気に入ったのか、ちっとも動こうとしなかった。
 圧し掛かるのではなく、擦り寄って、枕にしている。ゴロゴロと喉を鳴らし、仰向けに転がって腹を出して甘える姿は、何処からどう見ても猫だ。誇り高き百獣の王の面影は、まるで感じられない。
「ガウゥ~」
 何度か雲雀に抱かせたことがあるけれども、こんなに懐いていただろうか。最初はビクビクして、逃げ回ってばかりだったのに、どういう心境の変化だろう。
 マタタビでも与えられたみたいにだらしなく笑っているナッツの鼻先を擽って、綱吉は今一度、寝入る雲雀の姿を見詰めた。
「ン、……」
「っ」
 人の気配を察知したか、黒い睫がふるりと震えた。瞼が痙攣して、唇が僅かに開閉する。
 鼻から漏れた吐息にどきりとして、綱吉は頬を引き攣らせた。
 いやに艶っぽい声だった。起きている時の雲雀からは想像の付かない、素の表情が垣間見えた。
 見てはいけないものを見て、聞いてはいけないものを聞いてしまった気分になった。急に恥ずかしくなってわたわたして、綱吉はごろりと転がっているナッツを素早く抱きかかえた。
「ガウ!」
「しーっ」
 すかさず抗議の声が上がって、黙るよう睨み付けるが効果はない。
 綱吉の分身的存在であり、精神状態を反映しているくせに、どうして逆らうのだろう。
「クピ」
 ちっともじっとしてくれないナッツを持て余していたら、今度は足元で、ロールまで暴れ始めた。
 綱吉の上履きによじ登り、スラックスの裾に頭をもぐりこませる。吐き出される呼気が生温くて、触れてくる皮膚がくすぐったかった。しかも時々棘が刺さって、痛い。
「ちょっと、お前ら。何す……って!」
 今度は頭上の鳥が、綱吉の髪の毛を何本か咥えて引っ張った。
 三匹一斉に襲い掛かられて、始末に終えない。一匹ずつ振り解くのは簡単だが、止めさせようとした瞬間に別の二匹が同時に攻撃してくるので、どこから手をつけてよいのかさっぱり分からなかった。
 袖の上から腕を引っかかれて、挙句噛み付かれ、綱吉は乱暴なナッツにうんざりと首を振った。
「そんなにヒバリさんの傍がいいなら、捨てて行くぞ」
「ガウガウガウ!」
 首根っこを掴んで顔の前まで持っていき、厳しい口調で告げる。するとナッツは、それも嫌なのか、駄々を捏ねる子供と化して首を振った。
 短い前足をじたばたさせて、綱吉の袖に爪を引っ掛けたかと思えば布にかぶりつき、放さない。引っ張られて、綱吉は彼が何を求めているのかをようやく理解した。
 自分は此処にいたい。
 そして綱吉にも、居て欲しい。
 立ち去ろうとする彼にまとわりつく、残りの二匹も似たような理由からだろう。もっともそれは考えすぎで、単にじゃれ付いて遊んでいるつもりなのかもしれないが。
 このままではいつ雲雀が目覚めるか分からない。一番喧しいナッツを大人しくさせるためにも、綱吉は腹を括る必要に迫られた。
「あー、もう……」
 諦めの境地で溜息をつくが、実のところ、少しだけ去り難く思ってはいた。
 雲雀の傍に居たい、というのではない。今から教室に戻ったところで遅刻は確定で、クラスメイトからは笑いものにされると分かりきっているからだ。ならばいっそのこと、授業ひとコマ分丸々サボってしまいたい。
 それに、こんなにも気持ちよく眠っている人を前にして、つまらない授業を受けようという気に、どうしてなれようか。
「いいなー」
 雲雀は毎日応接室に詰めており、授業に参加していない。学生のくせに、と思うのだが、怖いので誰も文句を言えないでいた。
 正直、羨ましい。
 ナッツを両手に抱きかかえ、綱吉は肩の力を抜いた。嘆息と同時に呟いて、不意にこみ上げてきた眠気に欠伸を零す。
「ふぁ、あ」
「ん、…………さ、わ……?」
 伸びをしながら上を向いた綱吉の耳に、低く、心地よい声が届いた。咄嗟にびくりとした彼だが、恐々俯いた先の雲雀は相変わらず斜め下を向いて、こっくりこっくり舟を漕いでいた。
 腕を組んで、足を投げ出し、ソファに深く腰掛けて、やや前傾姿勢。
 そのうちソファに倒れるのではないかと心配になる。それに、木の葉が落ちる音云々よりもずっと騒がしくしているのに、ちっとも目覚めないところからして、余程眠りは深いらしい。
 遅くまで起きていたのか。綱吉のようにテレビゲームに夢中で夜更かし、とは思えないので、風紀委員の活動が原因か。
「寝言かな」
 名前を呼ばれた気がしたのだが、いくらなんでもそれはなかろう。
 身を屈め、雲雀の寝顔に変化が無いのを確かめて、綱吉は苦笑した。
 本当に気持ち良さそうに眠っている。ずっと見ていたら、こちらまで眠くなってしまうくらいに。
「……ま、いっか」
 見付かったら怒られるのは確定だが、目の前に鎮座する欲望が大きすぎた。
 彼は諦めという覚悟を決めて肩を竦め、ナッツの鬣をそうっと撫でた。ふわふわの毛並みは最高に肌触りが良く、心地よかった。
「お邪魔、しまーす」
 口の中で呟いて、彼は頭に黄色い鳥を乗せたまま身体を反転させた。向きを変えて、ゆっくりと膝を折って身を屈める。
 ぽすん、と尻がクッションに沈んだ。高級品なのか、ソファの座り心地もまた抜群に良かった。
 これならうっかり居眠りしてしまうのも当然だ。こみ上げてきた欠伸を片手で隠し、綱吉はその手で足元でじたばたしていたロールを抱えあげてやった。
 ようやく主の膝に到達したハリネズミが、上機嫌に鼻を揺らした。スピスピ鳴いて、棘ごと身体を丸めて小さくなる。
「ガウゥ、ガウ、ガウガウ」
「はいはい。お前も眠いのか?」
 真横に移動しても、雲雀は起きなかった。綱吉の体重を受けてソファが沈んだ分だけ、上半身が斜めに泳いだけれど、それだけだった。
 カクン、と頭が落ちてまた持ち上がる。眠っている時はその辺の学生と、なんら変わるところがない。
 きっと、昔の綱吉ならこんな真似、しなかった。否、出来なかった。
 自分が豪胆になったのか、それとも雲雀が親しみやすくなったのか。恐らくはその両方だろうと頷いて、彼は膝でもぞもぞしているナッツの頭を上から押さえ込んだ。
 尻尾の炎が上機嫌に揺れている。背凭れに身体を委ねると、心地よい風が窓から吹き込んできた。
 雲雀の寝息が聞こえた。穏やかで、落ち着いていて、ずっと耳を傾けていたくなるような。
「ふふ」
 一年前の自分がこの光景を見たら、吃驚して腰を抜かすに違いない。そんな事を考えて、綱吉は笑った。
 目を閉じる。瞼の裏に、優しい景色が広がった。
 程無くして、応接室に響く音息がふたつに増えた。やがて三つになり、四つになって、最終的に五つになった。
 遠く、運動場から元気の良い声が風に乗ってやってくる。音楽室の合唱に、廃品回収を謳うトラックの音も。
 それでも五重奏の寝息は、暫く途絶える事がなかった。
「……ん?」
 ずっしり来る重みで雲雀は身動ぎ、意識を水面下に浮上させた。
 漂っていた夢の世界から頭を出し、瞼を痙攣させて僅かに開く。窓辺から差し込む眩しい光に慌てて目を閉じて、嗅ぎなれない匂いに眉目を顰める。
 いつの間にか眠ってしまっていた。最初は屋上で横になっていたものの、音楽室での授業が喧しくて熟睡できなくて、場所を変えようと応接室に戻って来たところまでは覚えている。
 下手なアルトリコーダーの演奏を聞かされて、散々だった。覚えている限りの記憶を引っ張りだして首を振って、彼は欠伸を零し、今度は慎重に瞼を持ち上げた。
 光に目を慣らし、見覚えのある風景に安堵の息を吐く。間違って違う部屋に迷い込んでいたのでは無いと知って胸を撫で下ろし、ではこの左肩の重みは何かと首を傾げる。
 あまり馴染みのない感覚で、戸惑う。そもそも応接室には自分以外、人の出入りは乏しいはずだ。
「……ぅ」
 なんだろうかと考えるが、さっぱり見当がつかない。そういえばロールはどうしたのだったかと、まるで関係のないことが不意に頭に思い浮かんで、彼は思い出そうと身体を揺らした。
 途端、左側から自分以外の声がした。
「!」
 呻くような寝言にびくりとして、大袈裟に肩を震わせてしまう。震動を受け取って、雲雀の肩に寄りかかっていた存在がずるりと前に傾いだ。
 狭い視界に薄茶色の髪の毛が紛れ込んだ。ふわふわの毛並みをして、あちこち変な方向を向いて跳ねている。突き刺さりそうな尖り具合にドキッとして、彼は膝の上で悶えている存在にも目を瞬いた。
 灰色の棘を持つ、ハリネズミだ。こちらは目覚めており、ぱっちりした黒い眼が主人を見上げていた。
「クピ」
「ガウゥゥゥ~~」
 元気良く鳴いたロールの隣では、オレンジ色の毛玉がゴロゴロと喉を鳴らした。前足を枕にして、サンバイザーをつけた猫が丸くなっていた。
「くすー、……」
 状況がさっぱり把握できず、戸惑いは膨らむ一方だった。まさか、と瞳を左に流せば、先ほどの茶色い髪の毛がふわりと揺れて、気持ち良さそうに眠っている少年の横顔が少しだけ見えた。
 小振りの鼻がひくひく震えて、だらしなく開いた口からは涎が垂れている。瞼は閉ざされて、琥珀色の瞳は隠れてしまっていた。
 雲雀の肩にだらしなく凭れ掛かって、今にも倒れそうなのにそうならない。
 注意深く見ればその頭の上には、羽を畳んだ黄色い鳥が居座っていた。
「なに、これ」
 唖然として、雲雀は呟いた。
「ピ」
 ハリネズミが事情を説明しようと声をあげたが、生憎と雲雀は言葉が分からない。
 右手を額にやって冷や汗を流して、彼は全体重を預けてくる少年をもう一度、窺い見た。
「すぴー……」
 夢でも見ているのか、むにゃむにゃ言っている。幸せそうに緩んだ頬は柔らかそうで、おいしそうだった。
「なんなの、これ」
「ガルゥ~」
 仰向けで寝転がっている子猫、もとい仔ライオンもが、呼応するようにだらしなく笑った。
 目が醒めたら隣に小動物が、小動物にまみれながら眠っていた。あまりに現実離れした状況に頭がくらりと来て、雲雀は奥歯を咬み、この後どうすべきかで迷ってうなだれた。
 辛そうに眉を寄せて、身じろいだ少年に目を向ける。
 目覚める気配は、今のところない。人の肩を枕にして、無断で応接室に入り込んで眠りこけるなど、到底許せる行為ではない。
 腕時計を見れば、まだ授業中だ。次のチャイムが鳴れば昼休みだが、いったい彼はいつから、此処に居座っていたのだろう。
「クピィ?」
「君が連れて来たの?」
「ピィィ」
 一度に沢山の事を、目まぐるしく考えていたら、じっと見上げてきていたロールが首を傾げた。
 棘だらけの背中を避けて頭を撫でてやれば、嬉しそうに笑って鳴く。何を言っているのかは分からないが、雲雀の目には、「その通りだ」と言っているように感じられた。
 匣アニマルは所有者の精神状態を反映すると聞いている。その己の分身たるハリネズミに胸を張られて、苦笑が漏れた。
「んぅ……」
 身を捩った際の震動が伝わって、綱吉が抗議するように呻いた。雲雀はそうっと嘆息して、背筋を伸ばした。
 一瞬苦い顔をしてから、直ぐに表情を柔らかな笑顔に作りかえる。
 風紀委員長を前に堂々と授業をサボタージュするとは、なかなか良い度胸をしている。説教、及び折檻が必要だが、かといって折角幸せそうに寝入っているところを揺り起こすのは忍びなかった。
 反省を求めるのは、彼が自然と目覚めてからでも遅くない。ただ、それがいつになるかについては、判断がつかなかった。
「……ま、いいか」
「クピ」
 後のことは後で考えよう。そう嘯いた雲雀に同意して、ロールも鷹揚に頷いた。
 両腕を組み直し、再び深くソファにより掛かる。その上で綱吉の方に少し体重をかければ、押し返された彼は重いのか、辛そうに顔を顰めた。
 肩をぶつけあって、上半身を斜めにしながら目を閉じる。
「おやすみ、小動物」
「ガウ」
 聞こえていたわけではなかろうが、綱吉の膝の上で、ナッツが眠ったまま笑った。

2011/08/07 脱稿