特約

 コンコン、とノックが二回。僅かに間を置いて、もう一回。
 毎回そのリズムで叩くものだから、すっかり覚えてしまった。一度きりのノックだと風の音と間違えるからと、いつだったか理由を聞いた時に、そう教えてくれた。
 一回だけでも気づけると言い張ったのだが、改めて貰えなかった。超直感を舐めるなと拗ねても、彼はおかしそうに笑うばかりで。
「またですか」
 物音に顔を上げて、綱吉は椅子を引いた。立ち上がって迷い無く窓辺に寄り、カーテンを開く。
 シャッ、という鋭い音の後には不自然な影が残された。視線を上に流せば、もれなくガラス越しに目が合った。
 黒髪、黒の学生服。腕の通らない空っぽの袖には緋色の腕章がぶら下がり、背景に背負うのは眩いばかりの青空。
 此処は二階だ。窓の外は室外機を置く為のベランダで、間違っても地上から梯子が掛かっていたり、階段が設けられていたりはしない。
 鍵を開けてやれば、あまりに不自然な場所に立っていた青年は、慣れた調子で窓を横に滑らせた。
「っ」
 閉ざされていた道が開き、隙間から冷たい風が吹き込んできた。まだ冬本番には遠いけれど、年の瀬は着実に近付いて来ていた。
 冷気に頬を叩かれて、綱吉は咄嗟に首を竦ませた。後退し、壁際から離れる。入れ替わりにベランダにいた青年がのっそり右足を持ち上げて、靴のまま窓枠を越えようとした。
 両手で肩を抱き、綱吉は目を釣り上げた。
「靴!」
「はいはい」
 罵声を上げれば、彼は至極面倒臭そうに返事をした。フレームに乗り上げていた足を浮かせ、磨かれて艶々のローファーを踵から外し、爪先の方へと押し出す。
 靴下になった足を先に床に置いて、左足も同じように。人の温かみを残す靴は、揃えて室外機の上に並べられた。
 昔は言ってもなかなか脱いでくれず、土足のまま部屋に上がり込まれた。そこから考えれば、一定の進歩と言えよう。ただどうせ脱ぐなら、ちゃんと玄関から入って来て貰いたい。
 拗ねて膨れ面をしている綱吉に目をやって、彼は窓を閉じた。
「勉強中だった?」
「ヒバリさんは、見回り中ですか」
「うん」
 足取りも荒く勉強机に戻ろうとした背中に問い掛けて、逆に訊き返されて迷わず頷く。雲雀は肩に羽織った学生服を撫でると、埃っぽい外の空気を吐き出そうとしてか、二度ほど咳をした。
 ケホケホ言いながら、散らかり放題の部屋を見回して、歩き出す。綱吉が見守る中、彼は真っ直ぐパイプベッドに向かった。
 壁際に置かれた、安物のシングルベッドだ。今朝綱吉が目覚めた時そのままの状態で放置されており、上掛け布団は蹴り飛ばされて、枕の反対側で山を成していた。
 馴染み深い光景をじっくり、時間をかけて眺めて、雲雀は最後に壁のカレンダーに目を止めた。無言で十秒ほど睨むように見つめて、やがて緩く首を振り、身体を反転させる。
 ぽすん、と感触も固いベッドに座って、彼は右を上に脚を組んだ。
「……あの」
 いったい何の用があって、わざわざ訪ねて来たのか。綱吉が椅子に座ったまま腰を捻って問うと、雲雀は視線だけを持ち上げ、意味深に微笑んだ。
 目を細め、頬を緩めるが、心は笑っていないように見えた。強い違和感を抱かされて、綱吉は琥珀色の瞳を眇めた。
「ヒバリさん?」
「別に。用って程のものじゃないんだけど」
 声を高くして問えば、彼は足を崩し、肩幅に広げて前方に投げ出した。同時に上半身を後ろに倒し、曲げた肘を支え棒にして仰け反る。
 蹴散らされた漫画雑誌がガサガサと嫌な音を立てて、綱吉はそちらに気を取られた。
 拾おうと身を乗り出し、腕を伸ばす。
「この部屋に君がいるの、久しぶりな気がして」
「え?」
 危うく聞きそびれるところだった。
 ぼそりと呟かれたひと言に目を丸くして、綱吉は思わず頬を抓った。意味が分からない行動に出た彼を一瞥して、雲雀はふっ、と表情を和らげた。
 今度はちゃんと笑っている。見つめられて、綱吉はどきりと胸を弾ませた。
 だが彼は直ぐに視線を逸らし、天井を向いてしまった。足を揺らし、手を広げて大の字に、仰向けにベッドに倒れ込む。シーツとの間に挟まれた学生服が、なんとも窮屈そうだった。
 十年後の世界から戻って来て、数日。その余波で地球規模の地震が起こり、各方面で色々な騒ぎになっているという話だが、今のところ綱吉の生活に、さほど影響は出ていなかった。
 余所の中学生が転校してくる云々の話は出ているものの、詳細はまだ聞かされていない。ただ週が明けて月曜日になれば、学校側がなんらかのアクションを起こすだろう。
 雲雀もきっと、忙しくなる。
 並盛中学校風紀委員長を務める青年を盗み見て、綱吉は居住まいを正した。膝を揃え、両手を緩く握って首を右に倒す。
「ヒバリさん」
 呼び掛ければ、彼は時間をかけてゆっくり身を起こした。座り直し、落ちてしまった学生服を拾って半分に折り畳んで膝に置く。
 腕章が心許なげに揺れた。向けられた視線もまた、何かに怯えるかのように震えていた。
「前に来た時は。……君は此処に、いなかった」
「あ……」
 腰を捻り、身を乗り出して雲雀が告げる。思い当たる節に行き当たって、綱吉は瞠目した。
 彼らはついこの前まで、十年後の未来にいた。全ては白蘭の陰謀を阻止する為に、大人になった綱吉と、雲雀と、入江正一が仕組んだ計画だった。
 最終的には綱吉と、その守護者に選ばれた全員が時空を越えたのだが、喚ばれるタイミングは人それぞれ異なっていた。綱吉や獄寺たちは比較的早い時期に。そして雲雀と了平は、最後だった。
 十年後の雲雀には、こっぴどく苛められた。必要な事だったとはいえ、あのスパルタぶりは思い出すだけでも背筋が寒くなる。
 ふるりと震えた綱吉を見て、何を思ったのか。雲雀はムッとして、そっぽを向いた。
「随分あっちで、僕と楽しんでたみたいだね」
「へ? な、なんですか。そんなことありませんよ。大体、あっちのヒバリさん、リボーンよりも厳しかったし」
 拗ねている彼に肩を竦め、こっぴどく殴られた箇所をそうっと撫でる。だが頬を撫でるその姿が、雲雀の目には愛おしげに記憶をなぞっているように映った。
「何されたの?」
「だから、何もありません。変な想像、しないでください」
 今綱吉の頭の中に居る『雲雀恭弥』は、自分ではない。益々憤りを膨らませた彼に、綱吉はぴしゃりと言った。
 口を尖らせ、反抗的な眼差しで睨み付ける。邪推されるような事は何も無かったと、これまでにも何度か言っているのに、信じて貰えていなかったのは、正直ショックだった。
「どうだか」
「ヒバリさん」
「……だって、僕なんだから」
「ヒバリさん?」
「なんでもないよ!」
 もし今の自分が、十年後の綱吉と一緒に時を過ごしたら。
 どうにかなってしまう自信が、少なからずある。
 但しそれをこの場で告白する気にはなれなくて、雲雀は声を荒立て、強引に会話を終わらせた。
 怒鳴った後、ふんっ、と息を吐いて再び足を組み直す。頬が仄かに紅に染まっており、照れているのが見ているだけで分かった。
 目を丸くした綱吉は、三秒後に相好を崩し、くすくすと忍び笑いを漏らして肩を震わせた。
「ほんと、誓ってなんにも無かったですよ。ヒバリさんは、凄く紳士でした」
「綱吉」
「俺よりもずっと大好きな人がいて、その人の願いの為に、凄く頑張ってました」
 口元にやった手を下ろし、穏やかに告げる。俄には信じ難い言葉に、雲雀は呆気に取られて口を間抜けに開いた。
 ぽかんとして、瞬きを複数回、繰り返す。
 自分のことなのに、どうして信じられないのか。何故か綱吉の方が腹を立てて、椅子を蹴って立ち上がった。
「なんで分かんないんですか?」
 苛立ちを隠さず吐き捨てて、場所を移し、雲雀の隣にどっかり腰を下ろす。衝撃でベッド全体が揺れた。局地的な地震に見舞われて、雲雀は膝から落ちそうになった学生服を慌てて掴んだ。
 肩で息をしている綱吉を横目で見て、彼は幾らか自嘲気味の笑顔を作った。
「君がいなくなってね」
「……?」
「獄寺隼人や、山本武や、君と繋がりがある他校の生徒まで行方不明になっていると聞かされて」
 俯いた雲雀が、学生服を抓んで持ち上げた。両袖がだらりと垂れ下がって、腕章がゆらゆらと当て所なく揺れる。彼が羽織っている時は凛として、怖いくらいの威圧感を放つのに、今は酷く薄っぺらなものにも思えた。
 視線は絡まない。此処にいるのに、今、雲雀がとても遠い。
 このまま何処かに行ってしまいそうで、掴もうと、綱吉は手を伸ばした。だが指が触れる前に、彼は顔を上げた。
 ふっ、と全身の力を抜いて、雲雀は目を閉じた。
「君たちは、……君は、僕を置いて。嫌われたのかとか、愛想を尽かされたとか、必要無くなったとか。あれこれ、ね」
 ある日前触れもなく、沢田綱吉は忽然と姿を消した。しかも彼ひとりだけではなく、深い関わりを持っていた、雲雀に言わせればいつも群れていた面々までもが、次々に居なくなった。
 戦力になりそうにもない女子供まで行方知れずとなったのに、自分は並盛町に取り残された。連絡のひとつもなく、姿をくらます予兆すら気取れなかった。
 一日目は、直ぐに帰ってくると高を括っていた。
 二日目になって了平が騒ぎ出し、引きずられる形で心に不安が生じた。
 三日目になって、いよいよ自分は見放されたのかと自虐的に考えるようになった。
「そんなっ」
 淡々と言葉を紡ぎ出す雲雀に、今度は綱吉が唖然とさせられる番だった。
 彼は甲高い声を発し、座ったまま何度も飛び跳ねた。雲雀との距離を詰め、肩からぶつかっていってその手を取る。
 学生服が床に落ちたが、ふたりはそちらに目を向けもしなかった。
「そんな、わけが」
「……うん」
 震える声で必死に否定して、綱吉はこみ上げて来るものを唾と一緒に飲み込んで押し戻した。鼻の奥がツンと来て、痛い。
 今にも泣きそうになっている少年を優しく見下ろし、雲雀は目尻を下げた。
「ちゃんと、分かってる」
 綱吉が十年後に飛ばされたのは不可抗力であり、未来においては必然だった。
 雲雀が時空を飛ぶのが遅くなったのだって、すべて計算されての事だった。ふたりが同時に時間を超越していたら、いったい誰が、幼い綱吉を鍛えてやれただろう。
 低い声で囁き、雲雀は握られた手を握り返した。指を絡め、隙間がないくらいに掌をぴったり重ね合わせる。
 身を屈めた彼に額をぶつけられて、綱吉はしゃくり上げて上唇を舐めた。
「無いとは思ったけど、もし君がイタリアに渡っているならと、癪だけど跳ね馬に連絡を入れたりしてね」
「ディーノさんに?」
「でも、当たり前だけどあの男は何も知らなかった。代わりに、聞いてもないのに指輪だの、炎だの、五月蠅くてね」
 雲雀が十年後に来ていきなり戦闘に巻き込まれ、死ぬ気の炎を自在に操ってみせたというのは、話に聞いている。そこにディーノが関わっているというのも小耳に挟んでいたが、彼らが連絡を取り合っていた背景にそういった事情があったとは知らなかった。
 ちゃんと探してくれていたのだと知って、綱吉の頬がだらしなく緩んだ。照れ臭そうに笑っている彼の額をまた小突いて、雲雀は肩を竦めた。
「いった」
「でも次、僕に黙って勝手にいなくなったら、許さないから」
 先ほど攻撃されたと同じ場所を叩かれて、痛みが倍増した。
 ひりひり熱を発する場所に手をやった綱吉を睨み、雲雀が険しい声で凄みを利かせながら言う。あまりに近すぎる距離になにより戦いて、彼は何を告げられたかもよく理解せぬまま、脊髄反射で頷いた。
 コクコクと、まるで玩具かなにかのように首を縦に振る彼に眉目を顰めた雲雀だったが、無理矢理自分を納得させたのか、暫くすると黙って身を引いた。
「兎も角」
 再度、左を上にして脚を組んで、背中を丸めて頬杖をつく。その最中でぶっきらぼうに言い捨てて、彼は膨れ面のままそっぽを向いた。
 人差し指が苛立たしげに頬を叩いていた。空中で上下に揺れ動く爪先も、彼の不機嫌さを如実に表している。
 綱吉は慌ただしく視線を動かして、まだじくじく痛い額を気にしながら背筋を伸ばした。
 畏まっている彼をちらりと見て、雲雀は窄めた口から息を吐いた。
「だから」
「あの」
 同じ台詞を繰り返そうとするのを制し、綱吉が手を挙げた。
 言葉を切った雲雀が、不愉快だと言わんばかりの目でじろりと睨む。その瞬間はビクリとした彼だったが、負けるものかと己を鼓舞し、強く握った拳を胸に当てた。
 深呼吸をして、黒く冴えた瞳を覗き込む。
 間近から見つめられて、常に余裕綽々の青年は尻込んだのか、目を泳がせた。
「綱吉」
「俺からも、約束して欲しい事があります」
「約束?」
 息巻いた少年に鸚鵡返しに問うて、雲雀は右の眉を持ち上げた。
 綱吉は間髪入れずに頷いて、斜めにしていた姿勢を戻し、拳を解いて膝に落とした。
 両手の指を絡ませて、握り、開いて、気持ちを新たにして隣を見る。射貫かれて、雲雀もまた呼吸を整え、心を鎮めた。
「なに」
「ヒバリさんも、勝手に。俺に何も言わない、で。何処かに……いなくなったりしないで、ください」
 ゆっくりと、綱吉の身体が前に倒れて行く。
 膝に胸が着くくらいに背中を丸めて、上目遣いに懇願された。普段は天を向いている髪の毛までもが、一斉に項垂れながら雲雀を見つめた。
 恐怖に怯える小動物の眼差しに、雲雀は心臓が止まりそうになった。
 息を呑み、背筋を震わせる。肩を強張らせた彼を不安げに見やって、綱吉は雲雀の手に手を絡めた。
 再び強く握り合わせて、静かに身を起こす。
 互いに目を逸らさずに、言葉を介すること無く語り合う。雄弁に想いを語る琥珀の瞳に優しく微笑み返して、雲雀はコクリ、頷いた。
 途端、少年の頬が和らいだ。春の日射しを思わせる華やかな輝きに、雲雀もつられて相好を崩した。
「そんなの」
 当たり前だと囁いて、残る手で綱吉の肩を抱く。骨張った華奢な身体を引き寄せて、息を潜めて。
 タイミングを計って、ふたり、同時に目を閉じた。
「つなよし」
「ヒバリさん」
 相手の吐息を確かめあいながら、ゆっくり、ゆっくり、距離を詰める。
 あと数センチ。唇に触れる相手の呼気に、否応無しに緊張が高まり、同時に胸が弾んで思考は麻痺していった。
 早く抱き締めて欲しい。
 その逞しい腕で、強く、いっそ折れてしまうくらいに。
 心がざわめき、ちっとも落ち着けない。地に足が着かず、まだ何も起きていないのにふわふわして、雲の上を飛び跳ねている気分だった。
 握られた手が痛い。雲雀も緊張しているのだと知れて、少なからず嬉しかった。
 は、と彼が息を吐いた。浴びせられた熱風に、背筋が粟立った。
「……っ」
 どくん、とひと際強く、心臓が鳴った。目を閉じていてもはっきり分かるくらいに、雲雀の存在をすぐ傍に感じた。
 この世の全てが、この瞬間に凝縮されたような。
 そんな昂ぶりに心が支配されて、動けない。
「つな――」
 雲雀が囁く。
 刹那。
「帰ったぞ」
「っっっっっっっ――――!」
 突如閉まっていた扉が開かれ、低い位置から涼やかな声が響いた。
 発作的に綱吉は目の前にあった大きな肉の塊を突き飛ばし、自分もベッドから飛び上がって後退った。床に尻餅をつき、散らばるゴミを掻き分けて壁際まで下がる。
 ピラミッド状になっていた布団を押し潰し、雲雀はうつ伏せに倒れて暫く動かなかった。
 ノックもなしに部屋に入ってきた闖入者は、異様な雰囲気を醸しだしている先客二名を交互に見て、不思議そうに首を傾げた。
「なんだ。来てたのか、雲雀」
 本当に知らなかったのか、それともわざとなのか。
 まるで読めない赤ん坊を恨めしげに睨み付け、雲雀は首を振って起き上がった。乱れた前髪を手櫛で整えて、深く息を吐いて肩を落とす。
 綱吉はそこに落ちていた月刊誌を抱き締めて、赤い顔を隠した。
 ふたりとも明らかに様子がおかしいのに、リボーンは意に介さない。階下から持って来たコーヒーのカップを揺らし、白い湯気を漂わせて不遜に微笑むばかりだ。
 その態度に腹を立てつつも、邪魔だから出て行けとも言えず、雲雀はかなり苛々しながら、折角直したばかりの髪の毛を掻き回した。
「帰る」
「ヒバリさん」
 短く吐き捨てて、制服を拾って立ち上がる。目の前を行き過ぎたスラックスに慌てて、綱吉は膝立ちで彼を追い掛けた。
 手を伸ばし、赤い布を掴む。床を擦っていた腕章を奪われて、窓辺で足を止めた雲雀は困った顔をして振り返った。
「沢田」
「あっ……」
 弱り切った表情で名前を呼ばれて、綱吉は急ぎ手を解いた。腰を落とし、丁度視線の高さが同じくらいになったリボーンを窺う。彼は開けっ放しの扉前に立ち、意味ありげな笑みを浮かべていた。
 ふたりの関係など、とっくに把握している。そう言いたげだった。
「リボーン」
 居心地悪そうに身を捩り、綱吉が雲雀を支えに立ち上がった。最後ふらついて、倒れそうになったところを助けられる。
 ごく自然に寄り添い合うふたりを見て、黄色いおしゃぶりをぶら下げた赤子が吐き捨てた。
「色気づくには、まだはえーぞ」
「っ!」
 その言葉が示す意味を悟り、綱吉の頬にカッと朱が走った。
「そんなんじゃ!」
「赤ん坊」
 否定しようと声を荒げた彼を押し退け、雲雀が一歩前に出た。途中で言葉を遮られた綱吉はたたらを踏み、勉強机の角に腰をぶつけて顔を顰めた。
 文句のひとつも言ってやりたかったが、仰ぎ見た横顔は真剣そのもので、割って入れる雰囲気ではなかった。
 ゴミだらけのテーブルを挟んで対峙する外見のみ赤ん坊の男もまた、受けて立つ構えを見せてコーヒーカップを揺らした。
 白い湯気はかなり細くなり、量を減らしていた。
 無言の睨み合いが、約十秒。見守っているだけで寿命が縮みそうな緊迫した空気が途切れたのは、あろう事か窓の外から石焼き芋販売のアナウンスが流れた瞬間だった。
 緊張の糸がぷつりと、音を立てて千切れた。
「わっ」
 油断していた綱吉の肩を強引に引き寄せて、雲雀が不遜に笑んだ。すかさずリボーンの顔が険しさを増し、黒目がちの眼が鋭く眇められた。
 一方の綱吉は訳が分からなくて混乱し、逃げられないよう腰まで拘束した雲雀の腕の中でじたばた暴れた。
 その耳朶にそっと息を吹きかけて、黒髪の青年は意地悪く口角を歪めた。
「ひ、ひば……っ」
「なら聞くけど。赤ん坊、いつになれば、君は認めてくれるの?」
 十年後の未来でも、綱吉の一番近くに居たのは雲雀だった。その事実を言葉尻に含ませて、過保護過ぎる家庭教師役を論う。
 可愛い教え子を手玉に取っている男を睨み、赤子はぎゅっと、コーヒーカップを握り締めた。
「そうだな。ツナが、一人前のボスになったら、だな」
「は?」
「そう。……だってさ」
「えええええ!」
 唐突に水を向けられ、綱吉は素っ頓狂な声をあげた。零れ落ちそうなくらいに目を見開いて、琥珀色を驚愕に染めて、頬を赤くして雲雀と、リボーンとを交互に見やる。
 最後にこの世で一番愛しい人を見つめて、彼は唇を戦慄かせた。
 瞬間。
「んぅっ」
 首を前に倒した雲雀が、突如その愛らしい桜色を塞いだ。
 見ていたリボーンの頬がぴくりと引き攣った。力を加えられたカップが、ピシリと嫌な音を響かせた。
 温かな熱を与えられて、押し潰されそうな感覚に打ち震えながら、綱吉は雲雀の黒い睫毛を呆然と見つめるしかなかった。
 あろう事か、人前で。
 しかも鬼の家庭教師の眼前で。
 いきなりの暴挙に怒る事も出来ず、呆気に取られて唇を好きに貪り食われる。
「ちょ、ン……っ」
 流石に途中で我に返り、急いで止めさせようと抵抗するが、めぼしい効果は得られなかった。胸を押し返した手は絡めとられて、逆に拘束されて自由が利かない。
 身動きを封じられ、ぞわりとした悪寒が背中を駆け抜けた。
「――っ!」
 直後、凄まじい爆音がふたりの真上を稲妻の勢いで走り過ぎていった。
 恐怖に身を竦ませて、綱吉は膝を折った。支えきれなくなった雲雀が引きずられ、前のめりに倒れそうになる。
 コーヒーカップをテーブルに避難させた赤子が、入れ替わりに手にした拳銃にふっ、と息を吹きかけた。
 白煙が一本、ゆらゆらと揺れていた。今し方何が起きたのかをようやく悟って、綱吉は薄ら寒いものを覚えてトレーナーの上から腕を撫でた。
「お、お前っ」
「ツナが一人前になってから、て言わなかったか?」
 声を上擦らせた綱吉を無視し、リボーンが凄みを利かせて窓辺のふたり組みを睨む。一緒に命令違反扱い されてしまって、教え子たる少年は震え上がった。
 一方の雲雀は平然として、跳ね放題の蜂蜜色の髪の毛を掻き回した。
「一人前だよ、この子は。だって、未来の僕が直々に鍛えたんだからね」
 得意げに言い放ち、まだ赤い綱吉の頬にちゅ、とキスをする。やられた方は飛び上がらんばかりに驚いたが、雲雀はまるで意に介すること無く、余裕綽々の態度を崩さなかった。
 自信満々の雲雀の後ろに、人を好き勝手痛めつけて暴れていた男の姿が一瞬だけ見えた。
 嗚呼、矢張りこの人は、あの人と同じ人間だ。
 そんなことを心の片隅で思いつつ、綱吉は間もなく火を噴くだろう銃口に天を仰ぎ、耳を塞いでしゃがみ込んだ。

2011/08/07 脱稿