透察

 キーボードがカタカタとリズム良く音を奏でる。最初の頃に比べれば随分とタッチは滑らかになり、調子が上向いているのが感じられた。
 最後にタンッ、とひと際大きな音が引き渡った。続けてマウスがくるりと円を描いて、彼の両手はついにコンピューターから離れた。
「んー」
 気持ち良さそうに伸びをして、椅子の背凭れに深く身を沈める。両腕を高く頭上に掲げた彼は、疲れを滲ませつつも晴れやかな表情をして、嬉しそうに目を細めた。
 首を左右に振って骨を鳴らし、肩を慰めて軽く揉む動作も心持ち軽やかだ。
「お、わったー」
「お疲れ様です」
 開放感いっぱいに叫び、椅子をギシギシ言わせた彼を労い、すかさず横から声が飛んだ。天井を仰いで目を閉じていた綱吉は深呼吸と共に姿勢を正すと、声のした方向に首を巡らせた。
 別室で資料の整理に当たっていたはずの青年が、何故か綱吉の執務室に居て、しかも両手で盆を支えていた。
 左右に取っ手のついた四角形のプレートの上には、温かな湯気を放つ紅茶のカップと、掌サイズのラスクが満載の籠が並べられていた。焼きたてなのか、甘く香ばしい匂いが部屋の中を漂っていた。
 思わず涎を飲み、綱吉は椅子を引いて立ち上がった。
「バジル君」
「そろそろ一区切りつく頃だと思いましたので」
 ゆっくりと歩み寄ってくる青年を迎え入れて、綱吉は送信完了のアイコンが表示されたメール画面を閉じた。ついでにノートパソコンのモニタを手前に倒してバックライトを消して、散らかしていた机を適当に片付ける。
 山積みの資料の上に無造作に紙を重ねて行く彼に、バジルは穏やかに微笑んだ。
「どうぞ」
 ちょうど小腹が空いたところに登場されて、現金な綱吉の腹の虫が鳴いた。ぐぅぅ、という音はバジルにも聞こえて、彼は目を丸くして、赤くなった綱吉に噴き出した。
「笑わないでよ」
「すみません」
 照れて怒ると、彼は悪くもないのに謝って、持って来たものを幅広の執務机に置いた。カップの中身を零さないよう注意しながら、綱吉の方へと押し出す。
 椅子に腰を落ち着かせて、綱吉は薫り高い紅茶にホッと表情を和らげた。
「よく分かったね」
「はい?」
「俺が、……うん」
 巧く言葉が出てこなくて、途中で説明を諦める。渡されたカップを両手で包み込んで、指先を温めて目尻を下げる。
 雰囲気から彼が言いたい事を大まかに察したバジルは、人好きのする笑顔を浮かべ、盆から下ろしたラスクの籠を差し出した。
 ひとつ抓んで口に入れると、さくっとした歯応えの後に、ふんわりと砂糖の柔らかな味わいが広がった。
「おいしい」
「良かったです」
 嘘偽りのない感想を述べて、綱吉は二つ目に手を伸ばした。バジルがにこにことしながら、貪り食う彼を眺める。一方で手は忙しく動き、先ほど綱吉が無造作に積み上げた書類の塔を崩し始めた。
 紙が擦れ合う音に顔を上げた綱吉は、彼が手際よく書類を分類する様に感嘆の息を漏らした。
「ごめん」
「いいえ。沢田殿はどうぞ、ゆっくりしてください」
 呑気に紅茶を啜っている場合ではない。急ぎカップを受け皿に戻した綱吉に、けれどバジルはゆるゆる首を振った。
「それに、沢田殿に手を出されたら、折角整えたものが、また」
 遠慮を願い出ると同時にちくりと嫌味を言われては、押し黙るしかなかった。
 不貞腐れた顔で頬を膨らませて、ラスクを口に運び入れる。もしゃもしゃと噛み砕いている間に、バジルはランダムに重ねられていた書類の分類を完了させた。
 てきぱきと動く手は、迷うことを知らない。見ると同時に理解している証拠だ。とてもではないが、綱吉には真似できそうにない。
 獄寺でも、ここまで短時間での分類作業は難しいのではなかろうか。なにかにつけて理論的に物事を考えようとする彼は、大雑把に分けるだけで良い書類さえ事細かに整理しようとして、時間を浪費することもしばしばだった。
 その点、バジルは要点だけを掻い摘んで整理するのに長けている。
「ありがとー」
 書類を立てて机で叩き、角を揃えている彼に礼を言う。そうするとバジルは恥ずかしそうにはにかんで、麦の穂色の髪を揺らした。
 普段は隠れている右目も露わになって、綱吉に負けないくらいの大粒の瞳が露わになった。吸い込まれそうな空色に見惚れていると、怪訝に見詰め返されて、綱吉は慌てて居住まいを正した。
 飲み頃の温度になっている紅茶に息を吹きかけて、ぐいっと一気に飲み干す。途中で喉につっかえて噎せた彼に苦笑して、バジルは今し方整えた資料が混ざらないよう、角度を変えながら積み上げていった。
 完成した塔は、見た目こそ歪だったが、綱吉が調べ易いようにきちんと配慮されていた。
「ご馳走様」
 胸を叩いて気道を確保し、ぜいぜい言いながら綱吉はカップを戻した。
 陶器が擦れあい、カチリ、と小さく音を響かせた。縁にこびり付いていた水滴を親指で擦り、視線を浮かせる。
 瞳を宙に彷徨わせた綱吉を気取り、バジルは素早くポケットに手を差し入れた。
「どうぞ」
 言って、取り出したハンカチを机越しに差し出した彼に目を丸くして、綱吉はにわかに渋い顔をした。
 何故分かったのかと、表情がそう告げていた。
 バジルが笑った。ふふ、と楽しげに。
「エスパー?」
「まさか」
 人の心が読めるのかと疑ったが、バジルは緩く首を振って即座に否定した。
 そんなわけがないのは綱吉だって知っている。だが彼はなにかにつけて、綱吉の行動のひとつ先を読んでくれた。
 紅茶を持って来てくれたのだって、そうだ。あんなにもタイミングよく、綱吉が仕事をひと段落つかせる時期を見定めて出てこられるものだろうか。
 よもやドアの外で出番を待っていたわけではあるまい。
 飲み頃の温度だった紅茶と、焼きたてのラスク。いかにも手作りっぽい素朴な形と味に舌鼓を打って、綱吉はむぅ、と口を尖らせた。
「見透かされてる気がする」
「拙者にですか?」
「他に誰がいるのさ」
 獄寺も山本も、ここまで出来ない。了平や雲雀は気遣いとは無縁であるし、骸は神出鬼没で人の都合を考えない。その点は、ランボも同類だ。
 守護者の選別を誤ったか。もっとも決めたのは綱吉自身ではなく、父である家光なのだが。
 気の置けない仲間を思い浮かべ、綱吉はちょっとだけ疲れた顔をして肩を竦めた。
「御代わりを持ってきましょうか」
「お願いして良いかな」
「畏まりました」
 少し待っていてくれるように言って、バジルは一礼した。きびきびした動きで踵を返し、足早に扉を潜って出て行く。
 ドアが閉まる音を聞いて、綱吉は手持ち無沙汰に空っぽのカップを揺らした。縁を指でなぞり、濡れた肌を借りたハンカチで拭う。
 こうやってバジルは、綱吉がして欲しいことを常に先回りして待ち構え、さりげなさを装って望みを叶えてくれた。
 恩着せがましくないから、これまで彼に対して申し訳ないと思わなかった。だが、気付いてしまった以上、考えずにいられない。こんなにも毎日気を張って、疲れないのだろうか。
「むぐ」
 それなりに長いつきあいなのに、考えてもみなかった。低い声で唸り、瞳を真ん中に寄せて、綱吉は眉間に皺を刻んでバジルが戻って来るのを待った。
 門外顧問として働いていた彼を無理矢理ボンゴレ側に引きずり込んだ事を、初めて後悔した。
「……」
 文句を言われたことはなかったが、本当は不満があったのではないか。
 綱吉の我が儘で気苦労ばかりかけていたのだとしたら、それはかなり嬉しくなかった。
 右を上にして脚を組み、腕も組んで口をヘの字にして頬を膨らませる。唸り声をあげているうちにドアが遠慮がちにノックされて、返事を待たずして扉は開かれた。
 顔を覗かせたバジルの手には、紅茶のポットが載った盆が握られていた。
 砂糖の小瓶が後ろに隠れている。柄が反り返った銀スプーンが、部屋を照らす照明を反射してきらりと瞬いた。
 他には何も持って来ていない。彼自身の喉の渇きはどうなっているのかと疑問に思ったが、声に出すことも出来ず、綱吉は芳しい茶葉の香りに唾を飲んだ。
 慣れた手つきでバジルが空のカップを引き寄せる。蓋を押さえながら寸胴のポットを傾けて熱い茶を注ぎ入れた後は、砂糖の出番だ。
「どうぞ」
 小さじ一杯と三分の一の甘味料を混ぜ、溶かして、カップを執務机へと戻す。
 僅かに波立つ薄茶色の液体を見下ろして、綱吉は口を真一文字に引き結んだ。
 両手で大事に抱えて口に入れる。咥内を満たすのは、好みの甘さに調整された紅茶だった。
「……なんで分かるんだろう」
 この辺の匙加減は、ひょっとしたら綱吉本人よりも絶妙かも知れない。
 ぼそり言った彼に小首を傾げ、バジルは砂糖の小瓶に蓋をした。
 行動も、思考も、嗜好さえも見透かされて、読み解かれてしまっている。常に綱吉の一歩前を行き、先回りして安全な方向、楽な方向へと誘導してくれる彼の存在は何物にも変えがたく、ありがたかった。
 けれどこれでは、一方的に甘えているようなものだ。
「むぐぐ」
「お気に召しませんでしたか?」
「美味しいから困ってる」
「はい?」
「ねえ、バジル君」
 呻いている彼に不安を覚え、バジルが僅かに身を乗り出した。
 至極真面目な顔をして呟かれた台詞の意味が分からずに眉を顰める。そんな彼に不満を露わにして、綱吉は紅茶を一気に飲み干した。
 まだ熱い液体が喉を焼く。また噎せた彼に驚き、バジルは両手を机に押し当てた。
「沢田殿」
 いくらか声を荒げた彼を前屈みの体勢から盗み見て、綱吉は掌に飛び散った水滴を袖で拭い取った。唇もぐい、と擦って乾かし、ホッとしている青年をねめつける。
 睨まれて、バジルはふっと哀しげに眉を顰めた。
「タオルを取ってきますね」
「いいよ、問題ないから」
「しかし」
「そんなに気を使ってくれなくても」
 なんだか段々腹が立ってきて、綱吉は強く擦りすぎて痛い唇を噛んだ。表面の薄皮が裂けるのも構わず、目を吊り上げて怒りを露わにする。
 だがそれも一分ともたず、やがて彼はしゅぽん、と弾けて背凭れに身を沈めた。
 全体重を預けて椅子を軋ませ、頬を風船のように膨らませる。
「言い忘れてたけど……嫌いだよ」
「はい?」
「バジル君の、そういうところ」
 否、嫌いなのは自分だ。
 彼の親切さ、心優しさに甘えて、まさしくおんぶに抱っこ状態だったのに、長くその事実に気付かなかった自分が嫌いなのだ。
 ハリセンボンに負けない形相になった彼に目を丸くして、バジルは「はあ」と緩慢に頷いた。綱吉が何に対して怒っているのか、今回ばかりは気取れずに入るようだ。
 若干惚けている彼を更に睨みつけて、綱吉は堪えきれずぷいっ、と顔を背けた。
 子供っぽい拗ね方をした彼を暫く見詰めて、バジルはやがて穏やかに微笑んだ。
 長く伸びた後ろ髪を尻尾のように揺らめかせて、相好を崩す。
「ですが拙者は、そういう沢田殿も好きですよ」
「……ぷは」
「沢田殿に尽すのも、拙者がそうしたいから、こうしているだけです」
 予想に反し、どうやら今回も、見透かされてしまったらしい。
 挙句に聞くだけでも赤くなる恥ずかしい台詞を平然と告げられて、綱吉は両手で顔を覆い隠した。
 椅子の上で小さく丸くなった彼を見て、バジルはふふ、と楽しげに笑った。

2011/03/03 脱稿