遺薫

 貸し与えられた一室に逃げるように駆け込んだふたりは、慌しくドアの鍵を閉め、ようやく解放されたと思わず万歳をした。
 その手でジャケットのボタンを外し、もう片方の手はネクタイを緩めて解く。走っているうちに乱れた頭を振れば、髪に潜り込んでいた香水や化粧等の臭いが混じった空気が、騒々しいパーティーの残り香となって溢れ出した。
 シャツや、ズボンにまで染み付いてしまっているような気がする。銀色のカフスを顔に近づけて、綱吉は途端に眉を顰めて渋い表情を作った。
「うぅ」
「まったく、よくやるよ」
 唸った彼の隣で、雲雀も似たり寄ったりの顔をして脱いだばかりのジャケットを振った。こびり付いている女の臭いを遠くへ追い払おうとして、無駄な努力を繰り返す。
 どの道、このスーツはクリーニング行きだ。明日城に帰る際、もう一度袖を通さなければならないのを考えると、堪らなく憂鬱だった。
「豚小屋に押し込められた気分だったよ」
 シャツのボタンをふたつ外し、喉元を広げた雲雀が肩を落としながら言った。そのあんまりな感想に、綱吉は不謹慎ながら噴き出してしまった。
「豚は、綺麗好きって言いますしね」
「その冗談、面白くないな」
「ヒバリさんが先に言ったんでしょ」
 そうしたら今度は不機嫌な顔をされて、綱吉は珍しく表情豊かな彼に肩を竦めた。解いたネクタイと上着をソファに放り投げて、身軽になったと嬉しげに伸びをする。
 背骨がボキリと鳴った。大きく響いた不吉な音に、雲雀が眉を顰めて嘆息した。
「豚は豚でも、五月蝿いし、臭いし、鬱陶しいったらありゃしない」
「女性に対して酷いですよ、それは」
「君だって笑ったじゃない」
 失礼千万な単語を並べ立てる男を叱るが、揚げ足を取られ、綱吉は頬を膨らませて黙った。目を吊り上げて不満を表明する彼に苦笑し、雲雀も持っていた上着を綱吉のそれの隣に置いた。
 ぐるりと肩を回し、十分ほど前に居た場所を思い出して、天を仰ぐ。
 ボンゴレと同盟関係にあるファミリーが開催したパーティーに招待された二人であるが、その内容は最悪だった。
「女を大量に用意すれば、男は全員無条件に喜ぶ、って思ってるんだろうね」
 思い出すだけでも忌々しいらしく、うんざりしながら吐き捨てた雲雀に、綱吉もまた大いに同意して頷いた。
 若い女性が総勢で十人以上、艶やかなドレスに身を包んで給仕してくれたのだが、このサービスが彼らには苦痛でならなかった。
 他にも幾つかのファミリーが呼ばれていたのだが、そちらには概ね好評だった。これまでにもこういうパーティーは何度か開催されているらしく、このような接待を卑しいと感じていたのは、日本生まれの若い二人だけだった。
 もっとも生まれ育った土地や、習慣による差異というよりは、単純に雲雀は群れるのが嫌いだし、綱吉も女性の扱いに不慣れなだけだ。
「後で怒られるかな」
「言わせておけばいいよ」
 下品なサービスしか提供出来ないファミリーとの付き合い方は、考え直すべきだ。言外に告げて、雲雀は空いているもう一脚のソファにどっかり腰を下ろした。
 靴を脱ぎ、開放感を得た足を絨毯に投げ出す。相変わらず長いな、とだらしなく座った彼を眺めて考えていたら、雲雀の手が風を招くように動いた。
 ピンと来て、綱吉もその場に靴を脱ぎ捨てた。片方がひっくり返って転がるが、どうせ他に誰もいないからと気にも留めない。
「よっ」
 短い掛け声を上げて、床を蹴る。毛足の長い絨毯を靡かせて、綱吉はソファの空白部分に飛び込んだ。
 勢い余って背凭れを乗り越えて行きそうになったのを、横から伸びた手が防いでくれた。背中を引っ張られて、首が絞まった綱吉はそのまま仰向けに、彼の膝に頭から倒れこんだ。
「ぷ、はは」
「楽しい?」
「はーい」
 ひとりでドタンバタンしている彼に呆れて、雲雀が訊ねる。蜂蜜色の髪の青年はからから笑って、切れ長の黒い瞳を真っ直ぐ見詰めた。
 体だけ大人になって、心の中はまだ小学生レベルのままだ。あまり馬鹿なことはするな、とコツンと額を叩き、雲雀は爆発している髪の毛を脇へ追い払った。
 邪険にされて、未だ高校生に間違えられる二十歳は口を尖らせてソファに座り直した。
 脚を下ろし、背凭れにゆったり凭れ掛かる。
 パーティーの内容は最低だったが、宿泊用に用意された部屋は立派だった。寝室とリビングは別で、どちらも充分広い。
 瀟洒なシャンデリアが淡い光を放つ中、ふたりは疲れが影響してか、暫く無言だった。
 たまに脚を交互に揺らして、室内を飾る調度品を何とはなしに眺めて、時間が過ぎ去るのをじっと待つ。テレビのスイッチを入れる気にはなれなかった。窓の外の夜景も綺麗だろうに、立ち上がって身に行こうとは思わなかった。
「……疲れた」
 やがてぼそりと、綱吉が呟いた。
 心の底からのひと言に、雲雀がくく、と笑った。声は殺せても、触れ合った肩が震えたのでばれてしまう。途端に綱吉はむっとして、自慢げに投げ出されている脚を蹴ってやった。
「痛いな」
「ヒバリさんは、もうちょっと愛想よくした方がいいと思います」
「君は余裕がなさすぎ」
「俺は、一所懸命やってます」
「あれで?」
「これで!」
 文句を言えば、綱吉がつーんと言い返す。そっぽを向いた青年の耳を引っ張った雲雀の手を叩き落として、彼は憤りのままに叫んだ。
 振り返るのは、先ほどまで参加していたパーティーでの出来事の数々。
 立食形式で、堅苦しいのはなし。但し出席者の大多数がマフィア幹部というのもあって、若い男はあまり居なかった。
 そのお陰か、ふたりはコンパニオンに大人気だった。若い女性達からしても、幾らお金を持っているとはいえ、白髪だらけの年寄りよりは歳が近い男の方がいいに決まっている。
 しかも相手は若きボンゴレ十代目と、その側近だ。更に付け加えるとしたら、その側近である雲の守護者雲雀恭弥は人嫌いとして知られ、滅多に公の場に姿を現さないとして知られていた。
 守護者の中でも最強と謳われ、数々の武勲をあげている男に、興味を示さない女の方が少ない。
 レアな人物の出現に一時は湧き上がった会場だが、当の本人は群れを成す女性が鬱陶しくて仕方が無い。いかにも不快だと言わんばかりの顔をして、最後まで会場隅の壁から離れようとしなかった。
 お陰で綱吉にとばっちりが行き、慣れない女性の対処であたふたさせられた。
「ちやほやされて、楽しんでたんじゃないの?」
「誰の所為でそうなったと」
「君自身の魅力だろう?」
「……」
 雲雀に振られた女性らが、慰めてもらおうと綱吉の元に殺到したのだ。お陰で他ファミリーの方々からは、要らぬ反感を買う羽目にも陥って、散々だった。
 こんな趣向だと先に知っていたら、雲雀を連れていかなかったのに。
「クロームに来て貰えば……ああ、いや」
 綱吉自身、急な代役だったのだ。そして同伴者を誰にするかとなったところで探したところ、スケジュールが空いていたのは雲雀と、霧の守護者のクロームだけだった。
 どちらを選んでも、苦労は免れまい。彼女をあの場に連れて行ったところを想像したら余計に疲れてしまって、綱吉は額に手を置いて頭を垂れた。
 その頭を、横から伸びて来た腕が包み込んだ。弱い力で引っ張られて、彼は逆らうことなく雲雀の肩に寄りかかった。
「君が可愛いから、周りが騒ぐんだよ」
「嬉しくないな」
「本当のことだからね」
 女性に抱きつかれて、手を握られて、胸を押し付けられてと、複数人の女性に同時に迫られて、彼は最初から最後までタジタジだった。
 そもそも彼は、中学生にあがるまで、碌に女子と会話のひとつもしてこなかったのだ。異性を前にしたら緊張して、まともに喋れなくなるのも、昔のままだ。
 耳元に囁き、そうっと息を吹きかけて、雲雀は綱吉の髪に鼻先を埋めた。肌を掠めた熱風にびくりとして、彼は幾らか緊張気味に、肌に触れる他者の体温を受け入れようと意識を研ぎ澄ました。
 ところが。
「……臭い」
 五秒と経たず、雲雀はそう言って離れてしまった。
 あまりの言われように呆気に取られ、綱吉はぽかんと口を開いた。間抜けな顔で相手を見返し、次第に膨らんでいく怒りに拳を震わせる。
 だが雲雀は謝るどころか、確信を深めたのかうんうん頻りに頷いた。
「臭いよ、君。変な臭いがする」
「そんなわけ!」
 昨日はちゃんと風呂に入って、隅々まで身体を洗った。シャワーで済ませたりはせず、しっかりバスタブに身を浸して温まった。
 時計を見ればそれから半日以上過ぎてはいるが、一日足らずでそこまで臭うはずが無い。炎天下で汗をダラダラ流す環境にいたならまだしも、移動は車で、ホテルは冷暖房完備だ。
 雲雀の言葉は信じ難い。そんな筈は無いと目を攣りあげた綱吉は、発言を撤回するよう訴え、彼から離れた。
 距離を置いて座りなおし、肩を怒らせたまま息を吐く。そうして続けて吸い込んだ空気に異質なものを感じ取って、怪訝に眉を顰めた。
 瞳を真ん中に寄せた彼の表情から胸の内を読み取り、雲雀はそれ見たことか、と肩を竦めた。
「……何のにおいだろ」
「香水かな」
「あと、煙草だ」
 嗅ぎ慣れない、あまり快いとは言えない臭いが綱吉の服のみならず、全身にこびり付いていた。いや、綱吉だけではない。呟いてから身を乗り出した彼は、雲雀の胸元に顔を寄せて、犬のように鼻をヒクヒクさせた。
 ソファの上に両手を置いて身を低くした彼に、一瞬どきりとさせられた。雲雀は前のめりの青年から目を逸らし、赤い顔を手で隠した。
「ヒバリさんも、なんか」
「臭い、なんていわないでよ」
「そっちが先に言い出したんじゃないですか」
 面と向かって言われて、流石に良い気分がしなかったらしい。雲雀がむすっとして綱吉の肩を押した。
 力技で引き剥がされて、渋々従いながらも彼は負けじと言い返した。
 ともあれ、何種類もの臭いがすっかり染み付いてしまっていて、変な感じだった。なまじ見えないものだけに、手で振り払えないのが辛い。
「君の方が臭い」
「む」
「もみくちゃにされてたじゃない」
 兎のようにふんふん鼻を鳴らし、臭いを嗅いでいる青年を小突き、雲雀がきっぱり断言する。打たれた場所を庇い、綱吉は栗鼠のように頬を膨らませた。
「なんだかんだで楽しんでたじゃない」
 会場ではあまり感じなかったのに、今になって急に鼻につき始めたのは、麻痺していた嗅覚が正常に戻り始めているからだろう。手を振り、犬畜生を追い払う仕草を取った男に、琥珀色の瞳は見る間に怒りに染まった。
「ヒバリさんの目は節穴です!」
 あの状況の、いったいどこが楽しいというのか。確かにもみくちゃにされはしたが、あれは最早満員電車で押し潰される状況に等しかった。しかもセクハラで後から訴えられないようにと、常に細心の注意を求められた。
 怒鳴った彼に肩を竦め、雲雀は黒髪を掻き上げた。隠れていた額を一瞬だけ晒して、ソファに深く寄りかかる。
 悠然と脚を組んだ彼は、悔しいが格好良かった。
 一方の自分はと、何故かソファに正座して、綱吉は肩を落とした。
 女性に囲まれたのは確かだが、投げかけられた言葉の殆どがお仕着せのお世辞だった。格好良いというのは雲雀のような人を指して使われるべきで、自分には全く以て相応しくない。
 中には本心からそう言ってくれている人がいたかもしれないが、他人の評価について卑屈な考え方に偏りがちな彼だから、まるで気付いていなかった。
 ネガティブな思考回路は、なかなか直らない。それを勿体無く思いつつ、逆に鈍くて良いとも思いながら、雲雀は彼の肩に、自分から寄りかかっていった。
 体重をかけられて、体の半分が少し沈んだ。脚を崩し、綱吉は珍しく甘えて来る青年に苦笑した。
「お疲れ様でした」
「ホントだよ」
「いつ暴れだすか、ヒヤヒヤしました」
「なんなら、今から暴れてあげるけど?」
 雲雀は昔から、群れるのが嫌いだ。群れている人たちを見るのも、嫌いだ。
 にもかかわらず、耐えてくれた。綱吉の顔を立てる為に。
 会場内での態度は褒められたものではなかったが、彼のこれまでを考えれば、随分な進歩といえる。我が儘につきあってくれたのに感謝しながら、綱吉は雲雀の後ろ髪を梳いた。
 さらさらと指通りは滑らかで、触っていたら気持ちが良い。
「ふふ」
 彼の髪に潜ってついてきた、あのうんざりする会場の空気を全て掻きだして、追い払う。目を細めて笑った綱吉は、長かった今日の中で一番楽しげだった。
 目を細め、幸せそうに頬を緩める。しつこいくらいの指先に若干辟易した様子で、雲雀はそうっと溜息をついた。
「猿の蚤取りみたい」
「どうしてこう、色気のないことばっかり言うのかなー」
「暴れて良い?」
「どうぞ、外で」
 状況を的確に表現したつもりが、綱吉には不評だった。頭をぺちりと、軽くだが叩かれて、雲雀は身を起こして睨みを利かせた。
 慌てず騒がず、綱吉が掌を返す。窓を指差されて、黒髪の青年は乱れた髪の毛を掻き毟った。
 巧い切り返しが咄嗟に思いつかないようだ。不機嫌に眉を顰めた雲雀は、したり顔の綱吉を思い切り睨みつけると、獣にでもなったつもりか、牙を剥いて威嚇してきた。
 吼えられて、綱吉はけらけら笑った。
 昔はちょっと突っつくだけでも大袈裟に怯えて、小さく、丸くなっていたのに。
「可愛くないな」
「え? ――わっ」
 聞こえないようボソリと言って、綱吉がきょとんとしている隙にソファへと押し倒す。
 華奢な体躯はろくな抵抗も出来ぬまま、敢え無く組み敷かれてしまった。両手を拘束されて、逃げ道も塞がれてしまった。
 真上に圧し掛かる男に初めて恐怖めいた感情を抱き、綱吉は目立たない喉仏を上下させた。
「こういう時は、ベッドの上で、って。言うんだよ」
「は? ちょ、……んっ」
 何を考えているのか、不遜に笑って口角を歪めた雲雀に目を丸くして、彼は降って来たくちづけから逃れようと首を振った。だが間に合わず、呆気なく唇を攫われ、息を奪われた。
 咄嗟に目を閉じて、覗き込んでくる黒い瞳から逃げる。ヒクリと喉を痙攣させて、彼は後頭部をソファに押し付けた。
 少しでも距離を稼ごうとするが、雲雀は追求の手を緩めない。強く吸い付き、一旦退いたと見せかけて、突如攻勢に転じて歯列を割り咥内へ舌を潜りこませる。
「ふっ、ン……ひゃっ」
 鼻から抜ける声を漏らして、綱吉はビリリと来た痺れに全身を戦慄かせた。拘束されていた筈の腕はいつの間にか解放されて、掌が重なりあい、指は絡み合っていた。
 食らいつくされる恐怖に負けて、綱吉が最後の抵抗にと膝で雲雀を蹴った。下からの衝撃に身動ぎ、彼は仕方無く身を引いて、伸びた透明な糸を噛み千切った。
 そうして何故か、不機嫌そうに顔を顰めた。
「ひばり、さん?」
「臭い」
「また!」
「僕じゃない奴の臭いがする」
 綱吉が安い女に引っかかり、心奪われるようなことはないと、一応信じてはいる。だが矢張り、目の当たりにするのは面白くなかった。
 押し殺された苛立ちを感じ取って、綱吉は目を見張り、頬を紅に染めた。
 じわじわ迫り上がって来る感情に胸を高鳴らせ、奥歯を噛み締める。こくりと喉を上下させて直後、濡れた唇から溢れ出したのはけたたましい笑い声だった。
「ぷっ、あは、あははは」
「何がおかしいの」
「そうですね。ヒバリさんからも、俺以外の臭いがして、なんか、うん。……お風呂入りましょうか」
 解放された手でしがみ付いて、抱き起こしてもらいながら綱吉が囁く。
 部屋がこれだけ広いのだから、バスルームだってふたりくらい余裕に違いない。そんな淡い期待を胸に秘めて、彼はしとやかに微笑んだ。
 小柄な青年を膝に置いて、雲雀もまた、不遜に笑った。
「僕の匂いをつけ直さないとね」
「あの。……暴れるのはベッドの上だけにしてくださいね」
 本日一番の笑顔を浮かべた彼に、綱吉は溜息混じりに言い返した。

2011/07/25 脱稿