Castor

 宇宙飛行士になるには、先ず体力が必要だ。そう言う父親の勧めに従って、小学校時代は地域のリトルリーグに参加していた。
 類稀なコントロール力が功を奏して、小学四年生の頃には、上級生を差し置いてエースピッチャーにまで昇格していた。チーム自体もそこそこの実力があって、地区大会では優勝とまではいかなくても、ベストフォーくらいまでなら当たり前のように名を連ねるくらいにはなっていった。
 だけれど、中学校にあがると同時に、野球はやめた。
 体力をつけるなら、なにも野球に拘る必要はない。それに中学生になれば、否応無しに勉強に費やさなければならない時間が増える。その上部活動で更に自由な時間を減らされたら、好きなことに集中できなくなってしまう。
 野球は、別に嫌いではなかった。だけれど、格別好きというのでもなかった。
 監督は惜しんで、引き止めてくれた。だけれどチームメイトはひとりも、声をかけてすらくれなかった。
 目を閉じれば浮かんでくる、世界の姿。宇宙の形。何処に何があり、どれだけの距離があり、どの軌道でいけば何処に到達するのか。それが手に取るように分かる真帆にとって、それが出来ない人間の方が圧倒的に多いと気付いたのは、リトルリーグに所属してからだった。
 何故そんな事が出来るのかと聞かれて、どうして出来ないのかと聞き返すくらいに、真帆にとってそれはごく自然なことだった。
 自分にとっての当たり前が、他の人にとっては違う。そんな、基本的なことすら彼は知らなかった。
 お前は嘘つきだと罵られて、意見は真っ向からぶつかり合った。
 それなりに年齢を重ねた今、落ち着いて思い返してみれば、きっと喧嘩の相手は羨ましかったのだろうと思う。人よりも優れた能力を有している相手を素直に尊敬することが出来ない、幼いが故に起きた出来事だった。
 小さい頃から星が好きだった。
 宇宙飛行士になって、火星に行くのは自分なのだと、少しも疑わずに育った。
 だがその夢もまた、人には理解し難いものだった。
 ただの憧れ――なりたい、なれたら、という漠然としたものではなく、必ずなるのだ、という強い決意。真剣な思いを、出来るわけがない、のひと言で片付けて笑い飛ばされて、傷つかないわけがなかった。
 真帆は人の夢を笑ったことが無い。たとえそれがどんな絵空事だとしても、希望を捨てずにチャンスを待てば、いつか必ず叶うと勇気付けてきた。
 だのに彼に背中を押された仲間の殆どが、火星に行くという真帆の夢を笑った。
 高校野球の甲子園に出場するよりも、ケーキ職人になって自分の店を持つという願いよりも、裸眼では赤い点にしか見えない遠い星へ旅立つことの方が、余程現実味が無いからだ。
 星が好きだった。
 宇宙が好きだった。
 だけれど自分が思うほどに、周りの人々は自分たちの足元と、それを取り巻く世界に興味が無かった。
 四十六億年の昔に地球が誕生して、偶然の奇跡が重なり合って生命の源となる水が大地を満たした。海から単細胞生物が生まれ、やがてそれは陸に進出し、大型化を遂げて、絶滅して、長い時間をかけて地表を覆った氷が溶けて再び海となり、長い長い時間をかけて人類が誕生した。
 真っ暗闇の宇宙に浮かぶ、水の星。地球の人々は、孤独ではなかった。
 はるか彼方の世界にも、同じように偶然の奇跡によって誕生した知的生命体が存在して、自分たちにメッセージを送ってくれた。
 この、俄かには信じ難い真実に胸躍らせて、心を震わせて、これから巡り会うだろう相手を思い、より良き友となるべく知識を蓄積させていくことに、どうしてだか、皆、無関心だった。
 チームメイトの雑談の中心はゲームだったり、テレビアニメだったり、可愛い女の子の話ばかりで、それらに少しも興味を抱かない真帆は、仲間内から異端視されていた。
 苛められていたわけではない。もしかしたら周囲はそのつもりだったのかもしれないが、真帆はあまり、気にしていなかった。
 ただひとつ、星について語り出した彼の前から、皆が「またか」という顔をして離れて行くのだけは、無性に寂しかった。
 どうすればみんなが、話を聞いてくれるだろう。
 宇宙は凄い、地球は凄い、と言うのなら、それについてもっと詳しく知りたいと思うのが普通ではないだろうか。
 だから真帆は考えた。興味が無いのではない、皆、実際は知りたいと思っている。でもきっかけが掴めないでいるだけなのではなかろうか、と。発想を転換させて、彼は幼い目をきらきら輝かせた。
 なら、自分が入り口になろう。
 みんなの好奇心を導く、道標になろうと決めた。
 それから、真帆は以前にも増して知識を求めた。学校の勉強はそっちのけで、星にまつわるあれこれを徹底的に調べ倒した。
 誰にどんな質問をされても答えられるように、難しい専門用語で挫けてしまわぬよう分かり易い説明が出来るようにと。
 だけれど生来の話下手が災いして、意味は余計に通じなくなってしまった。身振り手振りを交えて、話に熱が入れば入るほど、真帆の言葉は難解極まりなくなっていった。
 挫けず、腐らずに済んだのは、理解ある両親のお陰だった。
 ふたりだけは、いつだって真帆の味方だった。
「ふお!」
 ぼうっと眺めていた、パソコンのモニター。秒単位で更新される様々な情報を、まるでロボットになった気分で集めて行く作業を繰り返していた真帆は、突然目に飛び込んできたビッグニュースに唖然とし、二秒後我に返って変な声を出した。
 断って父親から借りたパソコンの画面に、次々と速報が舞い込んでくる。情報量は先ほどまでとは比べ物にならないくらいに多い。
「え、え? 嘘、ホント? 嘘、嘘じゃ……ない!」
 一番大きな窓に表示された、とある天体の画像。かなり画質が悪くてぼやけているが、暗闇の中にうっすら輝くそれは、間違いなくこれまで見た事のない星の姿だった。
 別のウィンドウに、画像の詳細についてパッと現れた。発見時刻、発見者、そして座標。
 真帆は椅子を蹴り飛ばした。ガシャン、とけたたましい音が響くのも無視してモニターにキスする勢いで顔を寄せる。四角い画面の両側を掴んでガタガタ揺らしながら、食い入るように現れては消える天体の情報を頭に叩き込んでいく。
 ふたご座の直ぐ傍で、新星が発見された。
 その第一報に、世界中の天体ファンが釘付けになった。興奮に頬を染め、鼻息を荒くして、報告された座標を元に自分も写真に収めようとする人も現れ始めた。
 個人所有の天体望遠鏡も、この十数年でかなり精度が上がった。次々に、世界各地から新しい写真が届けられる。最初のピンボケ画像はなんだったのか、と言われそうなくらいに緻密な画像が、真帆の目を楽しませた。
 驚きと感動に涙さえ浮かべて、彼はパソコン画面から離れると、爪先立ちになってぴょんぴょん飛び跳ねた。
「すっごい、凄いよ。すっごーい!」
「どうしたの、真帆」
「あのね、母さん。見て、凄いんだよ!」
 先ほどから騒音を立ててばかりの息子を叱りに、母が台所から顔を出した。だが彼は問いかけも、主語もなにもかもふっ飛ばし、ただひたすらに感嘆の言葉を繰り返した。
 頬を紅潮させ、眩しい笑顔に興奮を滲ませる。新しい玩具を与えられた赤ん坊のような顔をして、真帆は両足を揃えたまま部屋を一周した。
 最後に万歳三唱をして、自分が蹴倒した椅子を起こして腰を下ろす。再び食い入るように画面に見入り始めた息子の背中に、母は呆れ顔を浮かべたものの、特になにも言わずに部屋を出た。
 彼が部屋中を飛び回っている間に、新しい発見が立て続けに報告されていた。
 ST&RSの日報にも、動きが見られた。
 新たに発見された星について、発見者の功績を讃える言葉が最初に。そして最後には、これに続く新星の発見に期待するという、地上の人々を鼓舞するメッセージが添えられていた。
「うわ、うわ、うわー」
 感動が怒涛の勢いで押し寄せて、真帆をあっという間に宇宙の彼方へ攫っていった。目を閉じる。息を整える。気持ちを鎮め、背凭れに体重を預けて顎を引く。
 真っ暗闇の中に、ぽつ、ぽつ、と光が点り始めた。
 真っ先に灼熱の太陽、続けてそれを周回する地球、更に月。地表の平均温度が百八十度近い水星、ドライアイスの海を持つ火星、巨大な目玉模様の木製に、美しいリングを持つ土星もが次々に、彼の脳裏に浮かび上がった。
 黄道十二星座が太陽系のはるか先に現れた。ふたご座に焦点を定める。目を見張るほどの明るい連星の傍に、もうひとつ。
 今回発見された星が、燦然と輝く。
「……凄い」
 それまで、ずっとそこに在りながら誰にも気付いてもらえなかった星が、今日という日を境に色鮮やかに瞬き始めた。自分もまた夜空を焦がす銀河の一端を担っているのだと、名前と誇りを与えられて胸を張っている。
 真帆は目を開いた。広大無辺の宇宙空間は消えて、馴染みのある天井が現れた。
「凄いや」
 時間を経ても、興奮は消えない。外向きに発散されていたものが内向きに転じて、沸々と熱いものが腹の中に蓄積されていく。
 騒然としながら呟いて、真帆は急いでネット上にアップされている天体画像を集めにかかった。新規フォルダを作成して、忙しくマウスを動かして保存していく。
 新しくウィンドウを立ち上げて、呼び出したアドレスは、足繁く通っている天体マニアが集う専用サイトだった。
 その掲示板は普段から賑やかだが、今日はいつにも増して訪問者が多かった。
 土曜日なのもあって、学生らしき書き込みも多数見受けられた。常連に混じり、知らない名前が沢山画面に踊っている。真帆も自分が愛用しているアイコンを選択して、早速新星発見に沸き立つ掲示板に感想を送りに掛かった。
 キーボードを喧しく叩き、送信ボタンの手前で一瞬だけ躊躇する。
「…………」
 蘇るのは、苦い記憶。
 以前、この掲示板で手酷く詰られ、出て行けと言われた事があった。
 勿論ネット上での会話だから、直接顔をつき合わせて怒鳴られたわけではない。相手は恐らく年上で、社会人で、どうやらそれなりに地位があり、稼ぎがあり、ある程度宇宙について造詣が深い人だった。
 彼が得意げに語る中に間違いを見つけて、真帆はそれを的確に指摘した。
 本人がそう思っているだけで、実際のところ彼の文章は声に出したとき同様、主語が飛んだりしてかなり分かり辛い。だが何度も読み返せば、ちゃんと意味は理解出来た。
 ただこの時の相手は、表面をさらっとなぞるだけの脊髄反射しかしなかった。
 挙句自分の持論にケチをつけたと騒ぎ立て、真帆を見下し、罵った。子供が余計な口を挟むなと声高に叫んで、侮辱した。
 それまで黙ってやり取りを見守っていた閲覧者が、流石に言いすぎだと仲裁に入り、または真帆の指摘の方が正しいと援護に回って、状況はひっくり返った。だが最後まで真帆に対する謝罪はなく、男の最後の書き込みも、負け惜しみに等しい言葉で締めくくられていた。
 子供は大人しく、宇宙ごっこでもやっていろ、と。
 そんなつもりはなかった。真帆は真帆なりに真剣だし、いつだって本気だった。
 誤った知識を正しいと信じてしまう人が出ないよう、注意しただけだ。だのに一方的に攻撃されて、正しい事をしたはずなのに、とてつもなく傷ついた。
 星が好きだ。
 宇宙が好きだ。
 宇宙が好きな人に悪い人は居ないと、そう信じていたかった。
 またあんな目に遭うのではなかろうかと、恐怖に指が凍りついた。足がすくんだ。あと一歩が踏み出せなくて、閉じた扉の前で立ち尽くしている。
 誰か、ドアを開けてくれないだろうか。でないと自分の中の宇宙は、他の惑星を知らず、闇の中でいつまでもひとりぼっち。
「……でも!」
 真帆は深く息を吸い、叫んだ。
 マウスを握り締め、ボタンを押す。読み込みが開始された画面、暫くして彼が苦心の末に打ち込んだ文面が掲示板上に現れた。
 パッと光が灯る。真帆のことばは、銀河の海を泳ぎ始めた。
 期待と不安が入り混じった顔をして、少しの間じっと待つ。再読み込みのボタンを恐々押し、祈るように目を閉じて肩を強張らせた彼は、そろりと瞼を持ち上げた瞬間、目を潤ませて唇を噛み締めた。
 反応があった。真帆宛のコメントがふたつ、画面に並んでいた。
「うわ、わ。わー!」
 一時は萎みかけた興奮が、倍の勢いで戻って来た。歓喜の声をあげ、慌しくキーボードを叩く。頭に浮かんだ言葉をそのまま入力していくので、相変わらず文章がぐちゃぐちゃだったが、前のように無駄に噛み付いてくる人はひとりもいなかった。
 皆が皆、新星の発見に心を躍らせていた。
「凄い。すごーい、凄いすごい、すごいや。ねえ!」
 同じ単語ばかり繰り返して、同意を求めて画面から目を離す。振り返る。
 歓喜に染まっていた表情が、凍りついた。
 部屋には他に、当たり前だけれど、真帆以外誰も居なかった。母は台所で夕食の準備で、父親はリビングでテレビを見ている。複数の笑い声が聞こえるから、つい学校にいるような気分になってしまったが、現実は違った。
 そもそも教室でも、彼の宇宙についての熱弁に耳を傾けてくれる人はいない。幼馴染だって、相槌は返してくれるものの、意見を述べたり、疑問を口にすることは滅多になかった。
 いつも真帆が一方的に喋って、それで終わりだった。
 会話が繋がらない。一番楽しいはずの、面と向かって語り合う時間が、真帆には存在しない。
 インターネットを繋げば、趣味を同じくする人に直ぐに出会える。話が弾む。でもそれも、結局は画面上だけのものだ。
 ボイスチャットを試したことがあった。だが興奮しすぎで、何を喋っているのか分からないと言われてしまった。また、中学生の男子かよ、と名前に騙されたと言わんばかりの失礼な男もいた。
 真帆は画像収拾の手を休め、パソコンデスクに左手を押し付けた。肘を伸ばして腕を真っ直ぐな棒に作り変え、椅子の前足を浮かせてぶらぶらさせる。不安定な体勢のまま天を仰ぎ、何もない空間にじっと見入る。
 宇宙は、もう見えなかった。手近なところにある世界ですら真帆には遠すぎて、掌に乗るくらいに小さかった。
「……ちぇ」
 暫く画面から目を離している隙に、掲示板の流れはこれまでと別の方向に動き出していた。
 倒れる前に椅子を戻し、モニターを眺める。つい先ほどまで真帆と会話を繰り広げていた書き込み主が、ある記述を最後にパソコンの前から立ち去ってしまっていた。
 友人の持っている望遠鏡で、実際に見てくる、と。
 見送るコメントが多数並ぶ中に、真帆は混ざれなかった。一抹の寂しさに、置いていかれた気分が混ざって、胸の奥がくさくさした。
「……」
 息を吐いて、吸い込む。その、取るに足らないつまらないことですら実行するのに時間がかかった。
 ギシ、と椅子を軋ませる。腰を捻って背凭れに両手を重ね、その上に顎を置いて不貞腐れた顔をして。真帆は何も見えない虚空に口を尖らせ、頬を膨らませた。
「もしもーし」
 電話は鳴っていない。ドアをノックする人もない。
 パソコンの向こうで、特定の誰かと喋っているわけも無い。
「もーしもーし」
 それでも彼は、呼びかけ続けた。
 友達が居ないわけではない。学校で、他愛もない話をする仲間は大勢いる。だけれどこと星の話になると、みんな水を打ったかのように静まり返った。もしくは、「またか」という顔をして距離を置いた。
 宇宙の魅力を知って欲しくて、色々と馬鹿なこともした。先生に怒られて、親が呼び出されることもしばしばあったが、その件で両親から雷を食らったことはない。
 むしろ父親は、真帆が宇宙飛行士になると当たり前に信じている。だから真帆も、疑わない。
 だのに周囲は、それを馬鹿だと笑い飛ばす。
「もしもーし」
 器用に椅子の上で身体を捻って、背凭れにしがみつく。背筋を伸ばし、仰け反って、それでも見えるものは代わり映えのしない父親の私室だった。
 なにもない。
 誰も居ない。
「だれか、いませんかー」
 それでも尚、真帆は呼びかける。
 火星ほど遠くなくていい。
 月よりも近くがいい。
 手を伸ばせば届く距離に、誰か、ひとりでいい。
 同じ夢を、笑いながら語り合えるだれかが欲しい。
 好きな事を好きなだけ、好きなように話せる人が居てくれたら。きっと、もっと。
 真帆は利き腕を持ち上げた。虚空を掴もうと指を蠢かせ、少し寂しそうに笑った。
 肩を叩かれた気がして、渡は振り返った。
「どうした」
 重い荷物を運んでいる最中、いきなり止まられて、一緒に段ボールを抱えていた父親は怪訝に眉を顰めた。
 下手をすれば怪我をしていた。ワレモノ、のシールが貼られた箱を一瞥して、渡は緩く首を振った。
「なんでもありません」
 気のせいだと自分にも言い聞かせ、腕に力を込めなおす。早く全て運び込んでしまわないと、今晩は片付けで眠れなくなってしまう。
 引っ越してきたばかりの町は、思っていた以上に小奇麗だった。もっと田舎だとばかり思っていたが、交通の便も良く、スーパーも近い。学校も、来る途中に見かけたが、そう遠く無い。
「友達が出来るといいな」
 慎重に進む息子を見詰め、父親がふと、何気なく呟いた。
 手元に意識を向けていた渡ははっとして、数秒置いてはにかんだ。
「そう……、ですね」
 酷く控えめな笑顔に、父親は何も言わずに頷いた。

 もしもし、聞こえますか。
 誰か、聞こえますか。
 このドアを、だれか開けてはくれませんか。

2011/07/14 脱稿