煤払 第七夜

 はらはらと雪が降る。白い、真っ白い綿雪が灰色の空から落ちてくる。
 掌を上にして差し出すが、それは肌に触れる前に熱を浮け、溶けて消えてなくなった。僅かに残った水滴が、それが雪であった名残として、冷たく手首を伝い落ちていった。
「やっぱ、駄目か」
「そりゃ、ね」
 つまらなさそうに口を尖らせ、ディーノが広げた手を握って打掛の中に引っ込めた。腕を組み、舞い散る雪を仰ぎ見る。
「つめてっ」
 だが彼の上に綿毛のような雪は落ちず、悉く冷たい水と化した。額にひと際大きな粒が落ちて、砕け散ったそれに悲鳴をあげ、彼は逃げるように社殿の下に潜り込んだ。
 太陽の運行を司る神たるディーノは、その太陽が出ている時間帯に限っていえば、力は無尽蔵だ。光の恩恵を受け、彼自身も熱を発する。だから大気中の水蒸気が凍った雪の結晶も、彼の周囲に落ちれば熱に溶かされ、積もらない。
 折角綺麗な景色なのに、この手に触れられないのは切ない。分かっていながら毎年この季節、挑戦せずにいられない彼に肩を竦め、雲雀は己の肩に積もった雪を払い落とした。
 ディーノが立っていた所為で雪がなく、濡れた跡だけが残っている石畳の上に立ち、不貞腐れた顔をしている育ての親から視線を外す。意識したつもりはないのに、気がつけば身体は西の方角を向いていた。
 前に突き出した庇の下に入り、雪が退けられた数段しかない階段に腰を下ろしたディーノもまた、雲雀と同じ方角に目をやった。
 膝頭に肘を突きたて、掌に顎を載せて軽く下唇を引っ掻く。物憂げな表情をしていながら何も言わずにただ立ち尽くす黒髪の青年をもう一度見やり、ディーノは空いた手を前に伸ばした。
 案の定、雪は彼の指先を避け、避けるように溶けてしまった。
 すう、っと音もなく形を失い、視界から白が消え失せる。この手で捕まえたいのに、どうやっても叶わない。己の恋心に重ね合わせて自嘲気味に肩を竦め、彼は降りしきる雪に埋もれ行こうとしている雲雀に首を振った。
「大丈夫だろ。あいつも一緒なんだし」
「分かってるよ」
 綱吉は今日の昼間、雪が降り始める前に旅立った。山本を伴い、雪に閉ざされた道を切り開いて、都にある蛤蜊家本家を目指して。
 もうじき、年が変わる。新年を迎えて、皆、ひとつずつ歳を取る。
 この里に来てから、正月を別々に迎えるのは初めてだ。そんな事を口ずさみ、雲雀は雪に煙ってすこぶる悪い視界に唇を噛んだ。
 意識をすれば、綱吉が目にして、心に感じている事は手に取るように分かった。強がってみせても不安は消せず、足取りを鈍らせている。並盛の外はまだ、吹雪に見舞われていないらしい。
 順調な旅であればいい。無事に帰って来てくれさえすれば、他に何もいらない。
「無理にでもついていくかと思ってたんだが」
 出立時に見た、綱吉の心細げな笑顔を思い出しながら、ディーノが呟いた。黒髪に紛れ込んだ綿雪を振り落とし、雲雀は白い息を吐いて皮肉な笑みを浮かべた。
「そうしたらどうなるか、知らない貴方じゃないでしょう」
「例えば、都の手前までとか、屋敷の入り口までとか。……駄目なのか」
「さあ。試したことが無いから分からない」
 くっ、と喉を鳴らした雲雀に若干腹を立て、何故自分が、と思いつつもディーノが言葉をつなげて行く。最後に自信無さそうに問えば、雲雀はゆるり首を振り、黒い目を糸のように細めた。
 見る側の心を強く締め付ける哀しげな表情に、どんな意味があるのか。
 全く知らないわけではないディーノは奥歯を噛み、作った拳で己の太腿を殴った。
「確かに、あれは、お前が近付けば……お前の元へ還りたがるだろう」
 ふたつは、ひとつだったのだ。無理矢理ねじ曲げられたものが本来あるべき形に戻ろうとするのは、自然の流れだ。
 龍の力を取り戻した今も、雲雀の眼は妖を映さない。綱吉の眼を通じてでなければ、彼は魔の気配を感じ取っても、正確な所在地を把握出来ない。
 不完全。否、不自然。
 そんな言葉がディーノの脳裏を過ぎった。
「けど、お前はそのままでいいのか」
「さあね、分からない」
「ツナが継いでも、お前は、ずっと此処に」
「それも、分からない」
 綱吉が十代目として、正式に蛤蜊家に入る事になれば、都で生活を送ることになるだろう。その時雲雀は、どうするのか。
 彼が本家に近づけない理由がある以上、離れ離れになるより他に、道は無い。
 曖昧な言葉ではぐらかし、答えを先延ばしにしようとする雲雀に焦れて、ディーノは苛立ちのままに、今度は階段を殴った。拳が角に当たり、痛みが骨にまで響く。だが彼は構わず、もう一発殴り、社殿そのものを揺り動かした。
 屋根に積もっていた雪が震動でずれ、音を立てて崩れ落ちた。雲雀は避けもせず、ただ視線を上に流しただけで、そこに立ち尽くした。
 真っ白い彫像が出来上がっても笑うことすら出来ず、ディーノは慌てて立ち上がると駆け寄り、彼に向かって手を伸ばした。
 だが届くより早く。
「っつ……!」
 急に雲雀が苦悶の表情を浮かべ、その場で膝を折った。
 雪の中に石でも紛れていて、当たったのか。そう勘繰ったのは他でもない、彼が顔を、それも右目を、手で覆い隠していたからだ。
「恭弥?」
「う!」
 苦しげな呻き声を発し、更に一段階肩の位置を低くした雲雀が、もう片手も使って、痛むのか、右目の上を掻き毟った。
 歯を食い縛り、必死になにかを――恐らくは痛みを堪えている様子が窺える。彼に当たったと思しきものは白い雪しか見当たらず、訳が分からなくて焦り、ディーノは降りしきる冷たい雫の中を右往左往した。
 緋色の打掛にも水滴が散りばめられ、鮮やかな大輪の牡丹を彩った。
「おい、どうしたよ。おい、恭弥」
 声を掛けるが、聞こえていないのか反応が無い。蹲って小さくなり、顔の右半分を押さえつけて肩を小刻みに震わせるばかりだ。
 此処に置いておくわけにもいかず、ディーノは彼を助け起こそうとして自身もその場に屈んだ。そこだけ雪が溶けて露出している石畳に左膝を置き、腕を伸ばして左肩を掴もうとして、間違って押してしまう。
 ガクン、と。
 思ったよりも簡単に、雲雀の身体は後ろに傾いだ。
「きょ、……」
 そのまま雪の中に倒れていきそうになったのを慌てて捕まえ、背を撓らせた彼をどうにか引っ張りあげる。虚空を睨み付ける双眸の片方は、血の色に染まっていた。
 己が羽織る打掛よりも鮮やかな朱色に呆然とし、ディーノの指が緩んだ。ぐらりと傾いだ雲雀の姿に、ディーノは瞬時に我に返って力任せに引き寄せ、抱え込んだ。
 当然嫌がられて、胸を押し返されて逃げられた。
「恭弥、お前、それ」
「誰だ――」
 ディーノの薄色の長着には、ぽつぽつと赤い花が咲いていた。雲雀の足元にも点々と緋色の雫が散り、純白の雪を汚していた。
 黒髪を揺らし、首を振った雲雀が鮮血を流す右目を押さえ、くぐもった声を吐いた。押し潰されたような彼の低い声に背筋を粟立て、ディーノは持ち上がりかけた右腕を左手で押さえ込み、息を飲んだ。
 雲雀は此処を見ていない。彼の意識は遠く、別の場所に向いている。
「誰だ!」
「っ――!」
 刹那、天に向かって吼えた彼を中心に、ぶわっ、と風が沸き起こった。
 吹き飛ばされそうになったディーノが咄嗟に頭を低くして堪え、左手で打掛ごと肩を掴んだ。並盛神社に白く積もる雪を掻き消し、局地的な嵐が瞬く間に空に溶けた。
 果たして、天空を突き刺した風の柱を、里のどれだけの人間が目にしただろう。厚く重なり合った雪雲にぽっかり開いた小さな穴は、数秒と経たずに他に飲まれて見えなくなり、空は何事も無かったかのように雪を地上にもたらした。
 くしゃくしゃになった金髪を撫で、たっぷり十秒を数えてディーノが顔を上げる。彼の前で膝立ちになった雲雀は、赤い涙を右の頬に流し、苦しげに息を吐いた。
 唾に濡れた唇を乱暴に拭い、手の甲に走った赤い筋を忌々しげに睨み付け、右手を額に翳す。
 血は止まり、彼の瞳も元の色を取り戻そうとしていた。
 すべては一瞬だった。
「恭弥……」
 その僅かな時間で、何が起きたのか。一切の説明を受けずともすべてを理解し、ディーノは遠く、白景色の向こうに待つであろう都に思いを馳せた。
 誰かが封印に触れた。
 龍の残した封印に、手を出したのだ。
「シシシ、駄目でやんの」
 真っ黒に焦げた、最早生前の姿を欠片も残していない屍骸を前に、金髪を鼻の上で切り揃えた青年が、さして悔しくもなさそうに笑った。
 白銀の輪冠を頭に被せ、長い前髪で目元を完全に覆い隠している。白い歯を見せて呵々と喉を鳴らした彼は、何の役にも立たずに屍となった男を蹴り飛ばし、爪先に付着した黒ずみに露骨に顔を顰めた。
 心底嫌そうにして、それを丁度隣にいた、長い銀髪の男の足にこすり付ける。
「おい、こら。てめぇ、なぁにしやがる、ベルフェゴール!」
「汚れたから拭いてんの」
 当然そんな暴挙に出られた側は怒りの声をあげたが、ベルフェゴールと呼ばれた青年はそ知らぬ顔を決め込み、飄々と言い放った。
 振り上げられた拳を寸前で躱し、けたたましい笑い声を残して遠くへと逃げていく。追いかけようとした銀髪の青年は、素早く間に割り込んできた体格も良い男に気付いて出し掛けた足を戻し、忌々しげに舌打ちした。
 黒髪を後ろに流し、襟足の片側に様々な鳥の羽や獣の尾を結びつけて飾り立てた男は、居丈高に胸を反り返らせると、最早口を利くこともない哀れな存在を一瞥し、鼻を鳴らした。
 笑いもせず、ベルフェゴールが作った屍骸の傷の上から踏み潰す。炭化していたそれは呆気なく彼の足型通りに凹み、ぼろぼろと崩れていった。
 他にも数名の人間がこの場に居合わせているというのに、誰一人として嘆き哀しもうとしなかった。
「やっぱり駄目ね~。もう少し強い子、いなかったの?」
「龍の封印だぞ。そう簡単に突破できるとでも思うのか」
 鶏の鶏冠のような髪形をした男が、妖艶に腰をくねらせて右手を頬に添えて呟く。右隣にいた顎が二つに割れた男がすかさず口を挟み、彼の呑気さを叱った。
 そこは四角い部屋だった。かなり広く、窓はひとつもない。床も壁も、天井さえも綺麗に平らに均されて、入り口と呼べる場所もどこにも見当たらなかった。
 彼らはその中心部の、光源が無いに関わらず淡く輝いている場の外側に立っている。
 円く縁取られたその内側に入ろうとして、その結果合どうなるのかは、彼らの足元に転がる物言わぬ屍が証明していた。
「シシシ。せーっかく此処まで来ておいて、お宝が手に入らないんじゃねー。どうすんの?」
 子供がふたり、手を繋いだ程度の光の円を挟んで反対側に立ち、ベルフェゴールが誰に聞くとでもなしに問い掛ける。鶏冠頭に二つ顎は神妙な顔つきで黙り込み、銀髪の青年はけっ、と舌打ちをして腰に佩いた刀剣を鳴らした。
 黒髪を流して撫で付けた男が、不機嫌を表に出して前に出る。
 右手を翳そうとしたのを、後方でずっと見ていた赤子が止めた。
「やめときなよ」
 男なのか、女なのかも分からない、不可思議な響きを伴う声が、広いばかりの空間に響き渡った。
 爪先まで覆う外套に、目元までをも藍色の頭巾で覆った赤ん坊は、あろう事が宙を泳いで彼らの元に進み出て、円の手前でぴたりと停まった。赤子の足元に台座はなく、上からぶら下げるような紐も当然垂れていない。
 文字通り地に足をつけずに移動を果たした赤子は、頭巾で隠れている双眸を細め、場に居合わせた全員の顔を順番に眺めた。
「君たち程度の力じゃ、これは壊せないよ」
「貴様!」
 侮辱されたと取った二つ顎が即座に声を荒げ、拳を震わせた。しかし殴りかかろうとしたのを、またも黒髪の男が止めた。
 無言で腕を横に突き出し、それ以上動かぬように目で牽制する。睨まれた男は蛙の如く大人しくなり、すごすごと引き下がった。
「ならば、どうする」
「破ってあげようか」
 凄みを利かせた質問に、赤子は薄ら笑みを浮かべて言った。
 出来るかもしれない、ではない。最初から可能だと断言した赤ん坊の口ぶりに、二つ顎の男はあからさまに嫌悪の表情を浮かべ、鶏冠頭は感心したように両手を叩き合わせた。
 ベルフェゴールが興味深げに宙に浮かぶ背中を見詰め、銀髪の青年は興味が無いのかそっぽを向いた。
 黒髪の男は赤子の真意を探るべく、瞬きもせずに相手を睨み下ろした。
「面白い、やれ」
「了解。それじゃ、前払いで、これだけね」
 重ねて問えば、赤子は紅葉の手を広げ、男の前で揺らした。
 桁は想像するより他無いが、零が後ろにどれだけつこうが構わない。この先にある宝の価値を思えば、安いものだと男は踏んだ。
「いいだろう」
「あと、ちょっとばかり時間を貰うよ。この封印はなかなか面倒で、厄介でね。なにせ、真龍の目玉が使われてるからさ」
 誰よりも高い位置まで浮上して、藍色頭巾の赤ん坊は光り輝く円の中心部を見下ろした。
 そんな赤子の動きを探ってか、床に刻まれた大きな目玉がぎょろりと動く。
 しかしなにも起こらないと悟ってか、観察にも飽きたのか、それは絵に描いたような瞼をゆっくりと下ろし、目を閉じた。
 世界から光が途絶え、全ては闇に埋もれた。

2011/06/18 脱稿