煤払 第六夜

 不服そうにしている幼馴染に目を細め、雲雀は一呼吸置いて額に手を翳した。
 見るからに呆れている姿に、急にそんな態度を取られるとは思っていなかった山本は肩を怒らせた。
 が、
「す、すす、すみません十代目!」
 直後に上擦った獄寺の悲鳴が聞こえて、目の前にいる雲雀の落胆が自分に対してではないと気付いた。
 いったい獄寺は、綱吉に何をやったのだろう。気になって身を乗り出すが、納戸の中なので当然見えるわけがない。
「何やったんだ、あいつ」
「綱吉に、水、ぶちまけてくれたよ」
「……ははっ」
 雲雀に聞けば、彼は天を仰ぎながら力なく言った。
 思わず笑いがこみ上げてきて、素直な気持ちで声に出す。深く肩を落としていた雲雀も、前髪を後ろに梳き流して首を振り、腰に手を当てて薄ら笑みを浮かべた。
 しかし、いつまでも笑ってはいられない。
「どうやったらそうなるんだよ」
「知らないよ」
 こんな寒い時期に濡れたままでいたら、身体を冷やして体調を崩してしまう。そうでなくとも綱吉は、最近でこそ改善傾向にあるものの、心臓が弱いのに。
 腹立たしげに言い返し、雲雀は今度こそ山本を残し、歩き出した。納戸から離れて居間を抜け、南に面する座敷に通じる通路を足早に通り過ぎる。
 山本も後を追い、足音を響かせながら座敷へと向かった。
 濡れた廊下に、大量の紙くずが散らばっていた。襤褸布の雑巾だけでは足りず、水を吸わせる為に綱吉が撒いたのだろう。勿体無いことを、と呪符に使った残りの和紙の成れの果てに嘆息し、雲雀はふたりの姿を探して視線を泳がせた。
 庭先に空っぽの桶が横倒しになっているものの、獄寺も、彼に水を掛けられた綱吉の姿も其処には無い。奥の間まで確かめたが、こちらも散々な状態になっているだけで、人の気配は無かった。
「すげえな、これ」
 綱吉は彼に、いったい何をするよう頼んだのだろう。ただの床磨きだけでこんな有様になると、誰が予想しただろうか。
 畳は全て張り替えなければ駄目かもしれない。只でさえ台所事情は逼迫しているのに、酷い痛手だ。
 山本も他に言葉が出てこないようで、呆れつつも感心し、さっきからずっと口元が弛緩していた。雲雀はこめかみに鈍痛を覚えて顔を顰め、綱吉を探し、奥座敷に通じる廊下に目をやった。
 この先は、奈々と家光の寝所だ。
「おーい、ツナ。獄寺?」
 同じ事を考えたらしい山本が先に声を張り上げるが、返事はない。その代わりに物音がして、角を曲がったところで、廊下で丸くなっている背中が見えた。
 言わずもがな、獄寺だ。
「すみません、すみません。申し訳ありません!」
「おいおい、何やってんだ」
 誰も居ない場所に向かってひたすら頭を下げている銀髪の青年に、山本が苦笑交じりに問い掛ける。しかし聞こえていないのか、彼は顔を上げようともせず同じ台詞をひたすら繰り返し続けた。
 彼の前方には開け放たれた障子戸があり、その中が奥座敷だ。現在は機織を置く為に一部の畳を外しており、それらが廊下に立てかけて置かれていた。
 屋敷の主人たる、目下不在の家光とその内儀である奈々の私室である為、山本もおいそれと立ち入るわけにはいかない。足を止めた彼に目で合図され、雲雀は仕方なくひとり、獄寺の横をすり抜けて先に進んだ。
「綱吉、平気?」
「あ、ヒバリさん」
 障子戸の間から顔を出し、中を窺って問い掛ける。流石に今度は返事があって、奈々に頭を拭いてもらっていた綱吉が明るい声を出した。
 見付かってしまったと、照れ臭そうに小さく舌を出して、顔をほんのりと紅色に染める。首を亀のように引っ込めた彼に微笑み、奈々は交替するか、と息子の頭に被せていた手拭いを雲雀に差し出した。
 中は素晴らしい散らかり具合で、足の踏み場に困るくらいだった。主に家光個人の所有物を片付けているところだったらしく、幼い日に絵本と間違えた綱吉に説明を求められた春画まであって、彼は慌てて目を逸らした。
 僅かな隙間を探して足を繰り出し、慎重に進んで母子の傍へと出向く。綱吉の被った水害は、伝心で感じ取ったよりも軽かった。
 全体的に量が少なかったのか、長着はあまり濡れていない。衿に散った水玉模様を数えていたら、手拭いを奈々から引き取った綱吉がそれを広げ、頭に被せた。
 顔を隠されてしまって、大雑把な事情の説明を求めて、雲雀は奈々を見た。
「隼人君が濡れた廊下で足を取られて、転んじゃったみたいよ」
「ああ」
 そういえば確かに、水を被った綱吉の悲鳴が伝心で飛び込んできた時、視得たのは桶を放り投げて前のめりに倒れようとする獄寺の姿だった。
 納得顔で頷いて、気の抜けた笑顔を浮かべた綱吉に肩を竦める。悪気があっての事ではないとしても、庭の池まで凍るようなこの季節、冷水を頭から浴びせられて怒らない綱吉は、よっぽどのお人好しだ。
 それでこそ沢田綱吉とも言えるが、少々呑気すぎて、この先ちゃんとやっていけるのか心配にもなる。
「大丈夫ですよ」
 心の中で愚痴を零せば、聞こえた綱吉が即座に声に出して返して来た。
 前後の脈絡が無いままいきなり言った彼に奈々は面食らったようだが、雲雀を見据える息子の姿に、問題ないと判断したらしかった。
「綱吉」
「だって、ヒバリさんがいてくれるんだから」
「僕に責任、全部押し付ける気?」
「まさか」
 冗談めかせて雲雀が言い返し、綱吉は即座に首を振った。
 大きな琥珀色の目を煌かせ、屈託ない表情をして頬を緩める。
「一緒に背負ってくれるんでしょ?」
 ひとりだけに押し付けるのではなく。
 ひとりだけに任せるのでもなく。
 ふたりで、半分ずつ。
 綱吉が今、どんな顔をしているのか。廊下で聞いていた山本は想像するより他無く、しかし簡単に思い描けてしまえて、唇を噛み締めた。
 雲雀は綱吉を信じている。綱吉も、彼に全幅の信頼を寄せている。
 入り込む余地を持たない自分の情けなさを思い知り、己の力の無さを嘆き、山本は拳を震わせた。
 自分を力いっぱい殴り飛ばしたい。これ以上ふたりの会話を聞くのは辛くて、彼は踵を返し、場を去ろうとした。
 まだ続いていたふたりの会話が、そんな彼の耳朶を打った。
「それに俺には、助けてくれる仲間がいるから」
 淀みも無く真っ直ぐに響いた言葉に、着地した山本の足が僅かに前に滑った。次に繰り出すべき足は床板に、まるで糊で貼り付けられたかのように微動だにしなかった。
 傍らで不審な動きを見せた山本につられたわけではなかろうが、獄寺もが謝罪を止めて顔を上げ、目を瞬いた。
 綱吉の姿はそこにない。しかし各々、己の目の前で笑っている彼の姿を想像した。
「みんながいれば、俺はなんだって出来るよ」
 軒先から垂れ下がる氷柱が陽光を反射して、眩い光を放って庭を照らし出す。雪化粧で彩られた庭の冴え冴えとした景色の中には、確かな春の足音が響いていた。
 山本は瞬きを忘れて息を呑み、魂を震わせた。足元から突き上げてくるような地鳴りを感じて周囲を窺うが、大地が揺れている気配は微塵も無かった。
「……」
「そうだね。君なら出来ると思うよ」
 手拭いを引き受けた雲雀が、皺だらけのそれを広げ、半分に折り畳んだ。湿っている場所を内側にしてもうひとつ畳み、濡れている綱吉の衿を上から軽く叩いていく。
 雲雀の手の甲が首に触れて、くすぐったさに彼は肩を竦めた。
「俺ひとりじゃ、ほんとになんにも出来ないけど」
 いつの間にか床の間の前にリボーンがいた。彼の方に目を向けて、綱吉は言葉を選びながら胸の前で手を結び合わせた。
 雲雀の持つ手拭いが、彼の袖を掴んで持ち上げる。袂の湿り気を手拭いに移し変えてやりながら、雲雀は黙って次の言葉を待った。
「俺は、今の蛤蜊家は好きじゃない。でも、ディーノさんや、ヒバリさんが教えてくれた初代の作った本家は、凄いと思う。本当は、今も十代目なんて大層な仕事、俺に勤まるとは思ってない。でも、だから、聞きたいんだ」
「うん」
「九代目に会って、どうして俺を指名したのか。前の時は会えなかったから、今度はちゃんと、話を聞きたい」
 前回本家に呼び出された時は、結局九代目には会えなかった。
 病の床に伏し、先はそう長くないとも噂されている。御身の大事と取り合ってもらえない可能性もあるが、今会わなければ、次にいつ会えるかも分からない。
 真意が知りたい。行方不明の実子の帰りを待つのでもなく、近しい実力者に任せるのでもなく、何故分家筋であり、蛤蜊家について何も知らないに等しい綱吉を指名したのかを。
 九代目が何を願い、望んでいるのかを、直接会って、その口から聞きたかった。
「じゃないと俺は、決められない。並盛には、俺に此処に居て欲しいっていう人も、いるから」
 外で聞いていた山本は慄然とし、立ち尽くした。無意識に握っていた拳から力が抜けて、膝が崩れそうになったのをどうにか堪える。
 獄寺も四つん這いのまま瞠目し、やがて頭を垂れて額を冷たい床に押し付けた。
 十代目を継ぐには、並盛を離れる必要がある。果たしてそれは、此処に居ろと願う人の心を押し退けてまで果たさなければならない事なのか、否か。
 これまでは蛤蜊家後継者という重すぎる枷に踊らされて、地に足がついていなかった。考えぬよう、見ぬようにして、決断を避けてきた。
 けれどもう、答えをはぐらかして先延ばしに出来るだけの猶予は残っていない。
 は、と短く息を吐いて間合いを整え、綱吉は足元で膝を折った雲雀に視線を落とした。彼もまた顔を上げ、幾許かの躊躇と戸惑いを残している綱吉を見詰めた。
 視線が絡み、綱吉は安堵の表情を浮かべて目尻を下げた。
「だから、俺、行きますね」
「分かった」
「ヒバリさんはやっぱり、一緒には」
「うん。行かない」
 繰り返し確認しているというのに、それが翻らないかと期待して、問う。結果はいつもと同じだった。
 聞き耳を立てていた山本と獄寺が、吃驚して叫びそうになった口を慌てて閉じた。両手で押さえ込んで目を白黒させて、互いに信じられないと顔つき合わせる。
 外から響いたどたばたいう物音に肩を竦め、雲雀は手拭い片手に立ち上がった。
「僕が行くと、大変なことになるだろうからね」
「……大変?」
「そう。蛤蜊家の屋敷が丸ごと吹き飛ぶかも」
 冗談とも本気だともつかない返事で誤魔化し、雲雀はそっと、リボーンに目配せした。
 綱吉でも気付かなかったやり取りに、黄色い頭巾の赤ん坊は複雑な表情を浮かべ、顔を背けた。
「だからね、綱吉」
 前回は奈々が同伴した。しかし彼女に、雪も残る山道を旅させるわけにいかない。
 獄寺は蛤蜊家を破門となった身だ。そんな彼がついて行ったところで、中に入れてもらえるわけがない。
 ならば残る候補は、ただひとり。
「山本武に、ついていってもらうと良い」
 彼は既に何度か本家を訪ねている。昨年秋からの修行の旅で、雪山越えの経験もある。武芸にも秀でており、退魔師としても一人前だ。道中の安全も保証されよう。
 彼以上に適任は居ないと断言し、雲雀は琥珀を揺らす綱吉の頭を撫でた。
「ヒバリさん」
「構わないだろう、山本武」
「うわあ!」
 共に来てくれない寂しさに、心細さを憂いだ彼を慰め、雲雀は急に振り返って外に向けて言った。
 いきなり呼ばれて素っ頓狂な声をあげ、山本が堪えきれずに前のめりに倒れた。其処に居た獄寺の背中に乗り上げて押し潰し、悲鳴を二重にして開けっ放しの障子戸から顔を出す。
 いると思っていなかった綱吉はきょとんとして、雲雀やリボーンに向けて喋っていたつもりだった会話の内容を思い出し、頬にかーっと朱を走らせた。
「い、……いつから!」
 顔を引き攣らせて声を上擦らせ、完全にひっくり返った声で叫ぶ。前に突き出した手は山本を上にして重なり合うふたりに向けられたが、視線は傍らの雲雀に突き刺さった。
 限界まで琥珀の目を見開いた彼に不敵な笑みを返し、雲雀は我関せずの構えを見せて白々しくそっぽを向いた。
「いってえ。退けよ、手前!」
「おっと、悪い。って、ツナ」
「なんで、居るのさ。どこから聞いてたのさ、もう」
「なんでって言われても、なあ。あと、割と最初の方から」
 雲雀と一緒に此処まで来たのだから、最初の方もなにも、頭から全部聞いていた。しまりの無い顔をして笑い、山本は照れ臭そうに頭を掻いた。
 獄寺の謝罪の声も途中で消えたので、綱吉はてっきり、雲雀の登場に合わせて去ったものとばかり考えていた。というよりは、すっかり彼の事を忘れていた。
 ふたりに聞かれていると思ってもいなかった綱吉は、羞恥に全身を真っ赤に染め上げ、その場でじたばた暴れて地団太を踏んだ。
 騒々しく足音を響かせ、床を踏み抜きそうな勢いに、流石に雲雀が止めるべく手を伸ばした。肩を掴んで後ろに引っ張られ、倒れかけたところを厚い胸に支えられた綱吉は、まだ恥ずかしそうに唇を噛み締めながら、起き上がった幼馴染に物言いたげな目を向けた。
 山本も気付き、表情を引き締めて居住まいを正した。
「ツナ」
「……お願いしてもいい?」
 全身に緊張を走らせ、神妙な顔つきになった彼を上目遣いに見詰め、静かに問う。どこか甘えるような声に指先を痙攣させて、山本は心臓に槍が突き刺さったような衝撃に身震いした。
 ついさっきあんなことがあったばかりだというのに、綱吉は自分を信じてくれる。頼りにしてくれる。
 言葉に出来ないくらいに嬉しくて、泣き出しそうになったのを堪え、彼はぐっと腹に力を込めた。
 急に顔をくしゃくしゃにした山本に驚き、綱吉は不安げに瞳を揺らした。波を打つ琥珀にはっとして、慌てて山は首を振った。違うのだと否定して、一歩、前に出る。
 障子戸の敷居を跨ぎ、ふるりと震えるほどの清涼な空気に息を飲む。
 瞬間、彼は理解した。
 今自分は、招かれた。立ち入りを許された。
 ずっと前から自分は綱吉に認めてもらっていたのに、己の卑小さに嫌気がさして、卑屈になって、彼と真面目に向き合おうとしてこなかった。
「悪かった、ツナ」
 正直な気持ちを素直に吐き出して、山本は静かに頭を下げた。突然謝られた綱吉は面食らったが、直ぐに顔を綻ばせ、ゆるゆると首を横に振った。
「ううん。俺のこと、本気で心配してくれてるの、分かったから。嬉しいよ、有難う」
 顔を上げて欲しいと言われて、一瞬の間を挟んで応じる。直ぐそこに彼が居て、目を瞬かせた山本にはにかんだ。
 一足早い春を思わせる笑顔に、自然と心が和らいでいく。この笑顔を守る為ならば、自分はなんだって出来るし、してみせると、彼は思った。
 雲雀の言葉が思い起こされた。いつだって、どんな時だって、綱吉の元に真っ先に駆けつけるのは自分でありたい。そう強く願った。
「それで、山本。どう、かな」
 話を戻し、恐る恐る問い掛ける綱吉に、山本は間髪入れずに頷いた。力強く首を縦に振り、決意を込めて彼を見詰める。
「よかった」
 心から安堵した顔で、綱吉が笑った。