「な、ツナ。逃げよう。俺と一緒に」
「何言ってるのか、分かってるの、山本」
「俺は真剣だ!」
じたばた暴れて逃げようとする綱吉を押さえ込み、頭ごなしに怒鳴りつける。間近で響いた大声に首を竦め、綱吉は跳ね放題の髪の毛を揺らし、かぶりを振った。
放してくれるように尚も懇願し、山本の胸を叩く。
聞き分けの無い彼に苛立ち、山本は華奢な細腕を力任せに握り締めた。
両手の自由を奪い、動きを封じ込める。それでも嫌々と抗う綱吉に、山本は不意に泣きそうになった。
どうして分かってくれないのだろう。こんなにも彼の事を、大切に思って言っているのに。
「ツナ」
「痛いよ、山本。止めて。御願いだから」
彼を捕まえたまま両肩を持ち上げ、勢い任せに振り下ろす。ろくな抵抗も出来ずにされるがままになった綱吉は、肩がすっぽ抜けそうな痛みに悲鳴をあげ、堪え切れなかった涙を頬に零した。
揺らめく橙色の光を浴びて輝いた真珠の粒に、頭に血を登らせていた山本もはっと目を見開いた。
「あ……」
自分が今、綱吉に何をしたのか。数秒前の出来事をありありと脳裏に蘇らせて、彼は一瞬で紫に変色した唇を震わせた。
声を発しようにも、喉が痙攣を起こしていて音にならない。黙ったまま口を開閉させて息を吐き、彼は綱吉の手を放した。
白い手首にはくっきりと、指の形が赤く刻まれていた。
「ツナ、俺」
「綱吉、居る?」
ふたりの男の声がほぼ同時に、綱吉の前後から発せられた。
コン、と板を叩く音がふたりを現実に引き戻し、先に我に返った綱吉が声の主を知って振り返った。
「ひば、り、さん」
「あの下手な雑巾掛け、どうにかしてくれるかな。廊下が水浸し」
「えっ」
切れ切れに息を吐き、蚊の鳴くような声で彼の名を紡ぐ。安堵していると分かる横顔を見下ろし、山本は苦い唾を飲んで項垂れた。
一方の綱吉は、雲雀から告げられた内容に目を瞬かせ、素っ頓狂な声を上げた。
彼が言っているのは、まず間違いなく、獄寺のことだ。南側の座敷と廊下の拭き掃除を頼んでおいたのだが、どうやら大変なことになっているらしい。言葉と同時に脳裏に流れ込んできた惨状に呆気に取られ、綱吉はこめかみに鈍痛を覚えて額に指を遣った。
雲雀とて放置してきたわけではなかろうが、獄寺のあの性格だ、素直に聞き入れるわけがない。綱吉でなければ彼を舵取りするのは難しく、頼まれて頷き、納戸を出るべくつま先を戸口に向けた。
寸前、後ろを振り返って立ち尽くす山本を窺い見る。
「……」
掛ける言葉が思い浮かばない。
今は何も言わないのが親切かとも思ったが、かといって無視して立ち去るのも心苦しい。どうしようか迷い、足を止めた綱吉を見て、雲雀は黒水晶の目を眇めた。
「綱吉」
「はい」
少しだけ語気を強め、急かす。言われて渋々返事をし、綱吉は足早に居間を出て行った。
乾いた足音を残し、小さな背中は直ぐに見えなくなった。
場を離れた綱吉を追い求め、未練がましく遠くを見詰める山本に、雲雀は肩を竦めて溜息を零した。
何に対してのものなのかを敏感に感じ取り、山本は気まずい思いで唇を噛んだ。
「悪りぃ。……助かった」
「君に礼を言われる謂れはないよ」
搾り出された言葉を瞬時に叩き落し、雲雀が冷えた声を発して腕を組んだ。袖口に交互に手を入れて、姿勢をやや右に傾ける。
納戸と居間とを仕切る壁に寄りかかった彼は、ある種の嘲りを浮かべて山本を見詰めた。
「あの子が痛がってたから。それだけ」
綱吉と雲雀の心は、魂の深い部分で交じり合い、繋がっている。互いに思っている事、感じている事が瞬時に相手にも伝わってしまう為、便利だが厄介な関係といえた。
恐らくは今も、綱吉が雲雀に向けて助けてくれるよう、伝心で訴えたのだろう。
「盗み聞きかよ。性格悪りぃな」
「やっかみは、自分の品位を落とすだけだよ」
山本との会話も、ならば筒抜けだったはずだ。逃げよう、と誘ったことも、無論。
冷静さが戻って来ると、とんでもない事を口にしたのだと分かって怖くなる。負け惜しみを呟いて反応を窺えば、受け流した雲雀が右の口角を歪めて笑った。
否定も肯定もしない。それはきっと、綱吉が山本の誘いに頷かないと分かっているからだ。
絶対に起こり得ないと断言出来る自信が、雲雀にあるからだ。
「……品位、ね」
揶揄され、山本は喉の奥で声を押し潰した。
そんなもの、綱吉を前にしたらどうでも良くなってしまう。彼の心を手に入れられるのならば、それこそ形振り構っていられない。どれだけ見苦しくとも、格好悪くとも、この想いが報われるのなら、なんだってやる覚悟だ。
奥歯を軋ませ、こんな苦い感情を抱いた事など無いだろう相手を睨み付ける。
後からやってきて、山本の思い人を横から攫っていった人物を。
憎々しい目つきを向けられて、雲雀はやれやれと言わんばかりに嘆息した。
「逃げて、どうする気だったの」
「んなの、その後で考えるさ」
今やるべきは、綱吉を守ることだ。蛤蜊家の悪意から、一寸でも遠ざけることだ。
彼の一族の手が届かない場所に連れて行って、安住の地を得て、それから考える。行き当たりばったりの、深いところは一切考えていなかった彼の計画に肩を落とし、雲雀は目に掛かる黒髪を抓んで軽く引っ張った。
指に絡めて捩じり、放して、くるくる回って真っ直ぐに戻る様を眺めて、納戸の奥にいる山本に焦点を合わせ直す。
硬く握った拳を両脇で震わせている幼馴染の青年に、ややして彼は首を振った。
寂しそうに。
「僕はね、山本武」
「……なんだよ」
「君は、あの子が戦うと決めた時、真っ先にあの子の元に駆けつける覚悟のある人間だと。そう思っていた」
冴え冴えとした声で、厳かに言葉を紡ぎ上げる。腹の奥底に響く低音に、山本は耳を疑った。
細い目を大きく見開き、迷いも媚び諂いも無く、真っ直ぐに告げた青年に見入る。しかし彼は視線を右に外してしまっており、目線は絡まなかった。
雲雀の真意を計りかねて、彼は堪えきれずに一歩前に出た。雲雀は動かず、衣擦れの音に反応してゆるりと首を振り、諦めを過分に含んだため息を吐いた。
「買い被りだったみたいだね」
ゆっくりと声に出し、冷めた黒眼で山本を見据える。心の奥底まで覗かれたような気がしてどきりとし、彼は心臓の辺りを押さえて怯んだ。
出掛かっていた足が勝手に後ろに下がってしまって、山本は途中、姿勢を崩しかけた。慌てて左足を引いて体重を分配して事なきを得るが、一連の動作は雲雀の目にもはっきりと映し出された。
この場から消えてしまいたい気持ちを強め、山本は左腕を右手で強く握り締めた。
綱吉の白い肌に残された赤い痣が、瞼の裏に焼きついて離れない。乱暴にするつもりはなかったのに、結果的にはそうなってしまった自分の浅墓さは、悔やんでも悔やみきれなかった。
「俺は」
「あの子は、君が好きだよ」
「嘘言うなよ」
「嘘じゃないさ。僕もね」
「……」
「人間の中では、割と君のこと、気に入ってたよ」
それはとどのつまり、綱吉が雲雀に向けるものとは種類を異にする「好き」だ。山本が本当に欲しい感情とは、似ているようで、違う。
だがそれで構わないと思っていた。彼の一番が手に入らないのなら、せめて二番で。綱吉と雲雀の行く末を、最も近い場所で見届けられるような男になろうと、そう決めたはずだった。
腕を組んだまま肩を上下に揺らした雲雀は、どうやら笑ったらしかった。表情には現れなかったので分かりづらいが、そうだと決め込んで、山本は遠くを見詰める彼の涼しげな横顔をぼんやりと眺めた。
何から何まで、敵わない。行き場の無い空っぽの手を握り締め、山本は虚空を殴りつけた。
風が唸り、雲雀の耳にも届く。黒髪が細波を立て、彼は視線を幼馴染に戻した。
「逃げられると思ってる?」
「そんなの、……やってみなきゃ、分かんねーだろ」
静かな問いかけに口を尖らせ言うが、声に覇気は無い。
山本も、本当は分かっている。戦って勝ち目が無いと分かる相手から逃げるのも、同じくらい困難な事くらい。
最良の選択肢は、蛤蜊家本家が、綱吉を十代目に据えるのを諦めること。しかし九代目自らが彼を指名したのだ、これを撤回させるのは容易ではない。
更に病に伏せているという九代目の状態は、かなり悪いとも聞く。一日でも早く跡目を決定しておかないと、後々何かと厄介だ。
だからこそ本家の、九代目に近しい人間は、綱吉を急かす。十代目に己が就こうと目論む輩は、綱吉排除の機会を虎視眈々と狙っている。
次の正月、彼が本家に詣でる意味合いは、非常に大きい。
流石に本家内で大立ち回りが演じられることは無かろうが、往復の道程は険しかろう。薮から狼が飛び出すくらいなら、可愛いものだ。
彼を行かせたくない。無事に都に着いたとしても、そこに待ち構えるは彼を傷つけるだけの茨の城だ。
思い出すだけで吐き気と寒気が同時に沸き起こる。山本ですらこうなのだから、綱吉はこの比ではあるまい。彼は数え切れないくらいの人間の負の感情を背負わされ、抱え込まなければならないのだから。
並盛という温かな場所で大切に育てられた彼には、荷が重過ぎる。
「お前こそ、平気なのかよ」
「なにが」
「なにが、って」
下唇に牙を突き立て、叫び出したい感情を懸命に堰き止めていた山本が、飄々とした態度を崩さない雲雀に疑念を投げつけた。
彼だって、綱吉を大切に思っている。守りたいという感情は、誰よりも強いはずだ。
だのに、ちっとも心配している様子が窺えない。山本がこれだけ思い悩み、苦しんでいるにも関わらず。
淡々と聞き返して来た青年に絶句して、山本は言いかけていた言葉を飲み込んだ。暖簾に腕押し、という慣用句が頭の中を、鉦打ち鳴らして駆け抜けていく。
「いいのかよ。ツナが、蛤蜊家を」
「ああ、それね。別に構わないよ」
声を詰まらせ、たどたどしく呟く。途中まで聞いてようやく理解した雲雀は、腕組みを解くと同時に淡く微笑み、目を細めた。
実にあっさりと言い切ってしまった彼に、山本は馬鹿にされたような気持ちになった。愛し子の一大事であるのに、なんでもないことのように扱われたのが、悔しい上に、腹立たしかった。
「お前!」
上擦った叫び声をあげ、拳を振り上げる。しかし目標に届く前にそれは失速し、脇に落ちた。
黒水晶の瞳が揺らぐことなく、山本を見詰めていた。
「決めるのは僕じゃない」
そこには確固たる信念があった。
誰にも曲げられぬ、雲雀の決意が宿っていた。
「そして、あの子が決めた道が、僕の進む道だ」
訥々と淀みなく、迷いも逡巡も一切含まれない凛とした声に呑まれ、山本は息をするのを忘れた。
圧倒され、唖然とし、返す言葉のひとつも思い浮かばず、打ちのめされる。力を失った拳は自然と解け、指先は総じて下を向いた。
勝てない。敵わない。なにひとつ、雲雀に勝るものが見付からない。
腕力も、脚力も、知力も、心の深さも、広さも、強さも。
綱吉への想いも。
「君は」
茫然自失としている彼を見詰め、雲雀は半眼し、言いかけた。
呼びかけられたところで途切れて、我に返った山本が歯を食い縛る。哀れみの目を向けられるのが嫌で首を振り、油断すると溢れそうになる涙を堪えて鼻を膨らませる。
こんな男の前で泣いてなどやるものかと自分を叱り付け、彼は悴んだ指を必死で折り曲げた。
無理に作った拳を振り上げ、袈裟懸けに振り下ろす。
「なんだよ、言えよ」
己を奮い立たせ、出せる限りの声を搾り出す。風を受けて膨らんだ前髪が落ち着くのを待ち、雲雀は眇めた目を伏した。
「君は、ずるいね」
囁くように、言葉を音に乗せて呟く。
一瞬何を言われたのか分からなくて、山本は目を瞬いた。
ずるい。
違う。本当に狡いのは、雲雀ではないか。
後から来て、綱吉の心も体も奪い取って、鎖でお互いを繋いで。そこに山本の入り込む隙はなくて、ただ見ている事しか出来なかった。
ふたりを祝福してやりたいのに、心の片隅で黒々しい感情が消えてくれない。こんなに醜く、汚らしい感情を持ちたくなかった。自分にこんな情けない部分があるなんて、気づきたくもなかった。
憐憫の目が山本に突き刺さる。そんな顔をされるのも腹立たしくて、彼は眦を釣り上げ、叫んだ。
「ふざけんな!」
「君の方こそ」
高く持ち上げた右足で床板を踏み鳴らし、己の胸を強く叩く。雲雀は騒音を撒き散らした彼を迷惑そうに見上げ、力なく首を振った。
怒りが全て、雲雀を通り抜けていく。ぶつけてやろうと足掻くのに、どうやっても受け流されて、避けられて、ひとつも当たらない。素通りしてしまう。
もう一発踵で床を蹴って、伝わらない苛立ちに臍を噛む。鼻の奥がつんと来て、彼は咄嗟に自分の額を殴った。
ゴッ、と痛い音がして、雲雀は顔を顰め、久方ぶりに表情を変えた。
「くそっ、いってぇ」
感情の制御が利かず、綱吉を傷つけたばかりだというのに、同じ事を繰り返すところだった。噛み締めた歯の隙間からふーふーと息を吐き、じんじんする頭を両手で押さえ込む。
雲雀に言え、と言ったのは自分だ。それで激高するのは、理不尽というものだ。
呆れている雲雀を指の間から見詰め、どうにか自分を律して心を落ち着かせようと試みる。懸命に聞く姿勢を作ろうとしている彼に肩を竦め、雲雀はもう一度右肩を壁に委ねた。
「ずるいね」
「……なにがっ」
「僕には出来るのに、あの子相手だと君は、自分で決められない」
腕を組み、顎を引いて喉を鳴らし、笑う。言われた内容が良く分からなかった山本は、まだ赤い額から手を外し、小首を傾げて怪訝な顔をした。
胸の奥底では、まだふつふつと怒りが煮え滾っている。その感情に蓋をして、自分さえ気付かない場所に押し込めて隠すのは、この十年間ですっかり巧くなってしまった。
深く長い息を吐き、心に一区切りつけた山本は投げつけられた言葉を反芻した。
雲雀相手には出来て、綱吉相手だと出来ないこと。自分の感情に歯止めを掛けること、冷静に自分を見下ろすこと。
どうしたいかを、決断すること。
「君はいつだって、あの子に決めて貰おうとするよね」
逃げよう、一緒に。山本はそう言った。
逃げるぞ、とは言わなかった。彼は提案しただけで、決定権は綱吉に押し付けられた。
彼が首を縦に振ると思っていなかったから。否、そうと決めて誘って、差し出した手を拒まれるのが怖かったからだ。
だから綱吉に決めてもらうことでしか、動けない。あれこれ考えて、悩んでも、最終的な結論を己自身で下せないから、綱吉に一任せざるを得ない。それがずるいと、雲雀は言う。
「……そんなこと」
無い、と言い切れなくて、山本は反論を押し殺し、震える唇に牙を立てた。
哀しげに睫を揺らした彼を見詰め、雲雀は窄めた唇から音もなく息を吐いた。緩く首を振り、獄寺とてんやわんやの騒動を展開中の綱吉に苦笑を浮かべる。
床拭きひとつまともに出来ない獄寺を教育し直すのも、大変だ。綱吉にはこれから先も是非頑張ってもらうことにして、彼は気落ちしている山本に肩を竦めた。
「ねえ、山本武」
俯いている幼馴染の名前を呼び、顔を上げさせる。穏やかな表情を浮かべる彼を不思議そうに見詰め、山本は壁に伸びた自身の長い影に一瞬だけ目を向けた。
雲雀が床板の木目を親指で叩き、背筋を真っ直ぐに伸ばした。
「あの子がなんにも考えてないとでも、思ってる?」
「え……」
「ちゃんと聞いてみた?」
綱吉が本当にどうしたいのか、を。
自分の考えを一方的に押し付けて、決断を迫るのがいい事であるわけがない。しかし山本はそれを忘れて、綱吉にばかり求めた。
滔々と流れて行く雲雀の声に瞠目し、山本は数秒の間を置いて、首を横に振った。
「なら、聞いてご覧」
「けど、俺、あいつに」
「言っただろう。あの子は君が好きだよ」
もう二度と綱吉を傷つける真似はしないと、夏の雨の夜に誓った。だというのに、半年も過ぎぬうちに自分から破ってしまった。
合わせる顔が無いと口篭もる山本に、雲雀が呵々と喉を鳴らした。そんな風に尻込みして、遠慮を全面に押し出すなど、山本には似合わない。そうまで言って、彼は南に向かって顎を杓った。
「あの子が、あれしきで君を嫌うわけがないよ」
なにせ命の危機に瀕しておきながら、原因を作った山本をあっさり赦してしまったのだから。
綱吉の懐の広さは感動を通り越して呆れるくらいで、夏の夜の出来事を引き合いに出された山本は、恨めしげに雲雀を睨みつけた。
「随分と自信たっぷりなんだな」
本人に確かめたわけでもないのに、と嫌味を口にして、その後で山本は彼らの心が繋がっているのを思い出した。
言葉を介さずとも、思いを伝え合える能力。隠し事が出来ない点で不便極まりないが、どれだけ遠くにいても魂の根っこの部分で繋がっているというのは、強みだ。