葦簀

 ジーヴ、ジーヴ、と蝉の声が木霊していた。
 この暑い中、よく頑張るものだと感心してしまいそうになる。たった一週間しかない命だからこそ、猛暑にも負けずに懸命に抗っているのかもしれないが。
 蝉の気持ちは、蝉にしか分からない。だから分からなくて良い。
 そんな事を考えながら、沢田綱吉は手にした団扇を頭上に掲げ、描かれた涼しげな絵をぼんやり眺めた。
 青空を背景に、紫色の朝顔が咲いている。水彩画風に仕立て上げられており、手漉きの和紙に淡い色使いがなんとも涼しげだ。
 持ち手は無粋なプラスチック製ではなく、竹が使われていた。顔を扇ぐと、気のせいだろうが、安物の団扇を使うよりもずっと優しい風が吹いた。
 噴き出る汗を袖に吸わせ、額を拭った綱吉は古ぼけた天井の木目を端から数え始めた。暇を潰そうと思ったのだが、十三を越えた辺りで分からなくなってしまい、諦めた。
「あー……」
 暑い、と口にするのも億劫で、呻き声をひとつあげるだけに済ませる。両手を投げ出して大の字になれば、火照った肌に冷えた畳が心地よかった。
 暑いが、涼しい。
 涼しいが、暑い。
 身体の腹側と背側で体温が違う。犬を真似てだらしなく舌を伸ばした彼は、団扇で首の辺りを扇ぐと、そのままごろりと寝返りを打った。仰向けからうつ伏せになって、幸せそうに若草色の畳に頬を摺り寄せる。
 顔に筋がつくだとか、そういう事は考えない。にんまり笑って目を細め、聞こえてくる色々な音に耳を澄ませる。
 蝉の声は少し遠くなった。鳴き疲れて脱落する者が現れたらしい。入れ替わりに風が吹いて、ちりりん、と軽やかな音色が彼の鼓膜を震わせた。
 風鈴だ。昔ながらの青銅製で、見た目からして重そうなのに、奏でる音は意外にも柔らかく、耳に優しかった。
 糸に結ばれた短冊が、きっと楽しそうに踊っているに違いない。立て続けに甲高い音を響かせるそれに誘われて、綱吉はぐーっと伸びをした。
 右手に団扇を握ったまま、匍匐前進の要領で軒の方へと進む。開け放たれた障子戸の間、浅い溝が走る敷居の手前まで来て、再びごろり、と仰向けに姿勢を作りかえる。
 南に面した窓は、しかし陽光の大半が遮られて思いの外快適な空間を作り上げていた。
 首から上だけを板張りの縁側に出し、身体は畳敷きの座敷の中。人が見たらぎょっとするような格好で寝転がって、彼は木漏れ日のような細い陽射しにほう、と息を吐いた。
 軒から吊り下げられた簾が、強すぎる日差しの大部分を吸収し、遮っていた。打ち水がされているので葦の間をすり抜ける風は冷やされ、ちょっとした冷房の役目を果たしている。
 その上で団扇を使えば、身体の表面に蓄積されていた熱が、一斉に逃げ出すのが分かった。
「はー」
 なんとも幸せそうな顔をして、横たえた胸を上下させる。汗を含んだTシャツもまた、揮発性に優れると謳われる一品だった。
 無地のオレンジ色で、下には紐でウェストを調整するタイプのショートパンツ。むき出しの腕や、足はほんのり日焼けして、健康的な小麦色だ。肩に近い部分と、肘から先とでは、若干色が違っていた。
 身長にあわせるかのように小さめの足には、サンダルの跡がくっきり残されていた。
「あちー」
 風鈴の音に紛れて、どこかから鹿威しの音も聞こえて来た。コーン、と空気を切り裂いて響く鋭い音にはっとさせられるが、それも一瞬で、彼は直ぐにまた琥珀色の目を細め、瞼の奥に隠してしまった。
 だらだらと、時間が過ぎて行くのをひたすら耐える。鳥の声に、風鈴と、そこには静かな音に溢れていた。
 騒がしくも無いが、無音でもない。胸に染み渡る快い音だけが、彼の耳を楽しませた。
 あとはアイスクリーム、もしくは良く冷えた麦茶、或いは甘いスイカがあれば文句ないのに。そんな事を考えながら何度も寝返りを打って、彼はいつの間にか蚊に咬まれていた足を引っ掻いた。
 ぷっくり膨らんだ皮膚に爪を立てて、バツ印を刻み付ける。だがそんな事をしたところで、痒みが治まってくれるわけがない。
 分かっていてもやらずにはいられなくて、綱吉は交差する線をふたつに増やしたところで、肌と肌が触れ合う温い感触に嫌気が差し、左足を投げ出した。
 ぽーんと空を蹴って遠くへ追い払って、踵で思い切り畳を叩く。どすん、と低い音が響き、背を伝った震動に心臓が震えた。
 眠気はこない、これだけ長く横になって目を閉じているにも関わらず。
 恐らくは茹だるようなこの暑さが原因なのだろうが、それ以外にも理由はあると、綱吉はぼやけて霞がかっている頭で考えた。
 きっと自分は、勿体無いと感じている――こんなにも暑いのに、冷房なしでこんなにも涼しく快適に過ごせる場所に横になって、この国に産まれて良かったと心から実感できる時間を睡眠に使ってしまうことが。
「ふふふ」
 頬を緩めて笑う。幸せそうな声に重なって、誰かの足音が耳に迷い込んできた。
 とんとん、と一定のリズムで床板を踏み鳴らしている。テンポ良く、軽快に。
 夏の暑さとは無縁の足取りには覚えがあったが、綱吉は目を開けるのも億劫で、そのまま床に転がり続けた。
 音は次第に近付いて来て、やがて廊下に半分はみ出している彼の姿を見つけたのだろう。不意に止んだ。
 十秒しても歩みが再開されないところからして、どうやら足音の主は考え込んでいるらしい。みっともなく床に突っ伏している蜂蜜色の髪の少年を起こすか、それとも無視して通り過ぎるかで。
 選択肢は他にもあるが、妥当なのはこのふたつのうちのどちらかだろう。
 甘い考えに終始して、この後どうなるかを想像し、綱吉はひっそりほくそ笑んだ。
 通り抜けようとした瞬間に飛び起きて、驚かせてやろう。あの人の吃驚する間抜け顔など、一年に一度拝めるかどうかだ。日頃苛められている鬱憤をここぞとばかりに晴らすべく、綱吉はドキドキする胸を宥め、息を整えた。
 緊張して顔が強張るのは、良くない。狸寝入りを決め込んで、彼は耳をピクピクさせた。
 聴覚を研ぎ澄ませて、呼吸の間隔を長くする。とすん、と音がした。後頭部を押し付けた床板がギシギシと軋んだので、標的が動き出したのは間違いなかった。
 足音は一定していて、淀みなかった。無視して通り過ぎる、という可能性がぐん、と跳ね上がって、綱吉は爆発しそうな勢いで加速する心拍数に頭をくらりとさせた。
 寝返りをうつ、そんな動作を真似て首をごろりと右に倒して、ちょっと様子を窺おうとして。
 直ぐ傍でぴたりと足音が止まった。
「……ン?」
 なにか嫌な予感がする、と瞼を片方持ち上げた瞬間。
「ぎゃえっ!」
 ぎゅむ、と力一杯腹を踏まれた。
 柔らかな部分に思い切り踵を突き立てられて、腹筋が内臓を押し退けて背骨に張り付こうとした。昼に食べた素麺が胃から逆流を開始して、酸に焼かれた喉が引き攣るような痛みを発した。
 苦い唾を飲み込んで、涙を堪える。踏まれたところを抱きかかえ、蛙が潰れるような悲鳴を上げてのた打ち回る綱吉を冷たく見下ろし、雲雀恭弥は深々と溜息をついた。
 浮かせていた右足を引っ込めて、肩を竦める。ごろんごろんと床を転がりまわる少年は、やがて勢いよく障子戸の角に頭をぶつけ、白い煙を噴いて大人しくなった。
 大きなタンコブをひとつ作って、目の玉にはぐるぐる渦が巻いていた。
「邪魔だよ」
「ひどい……」
 ただひと言を素っ気無く告げられて、綱吉は涙目で涼しげに佇む男を睨み付けた。
 薄着の綱吉とは対照的に、白い開襟シャツと黒のスラックス姿の青年は、しっかり靴下まで履いていた。だからあんなにも足音がリズミカルだったのだと、汗ばむ季節にありえない格好を見上げ、綱吉はぶつけた頭を撫でた。
 思わぬところで凶器と化した障子戸を掴んで身を起こし、畳に座る。正座した彼にもうひとつ嘆息して、雲雀はおもむろに手を伸ばした。
「床に落ちているものは、踏んでも良いものと判断してる」
「それって……」
「寝るなら、蚊帳の中にしなよ」
 路上に放置されたゴミと同じ扱いをされたと知って、綱吉は苦々しげに唇を噛んだ。慰めるつもりではなかろうが、雲雀の手が蜂蜜色の頭に触れて、汗を吸って湿っている髪をくしゃくしゃに掻き回した。
 瘤になってしまった場所を気にして、指が量の多い毛を掻き分ける。小突かれて、ずきりと来た痛みに綱吉は首を竦めた。
 咄嗟に背を丸めて首を振り、小さくなった彼に驚いて、雲雀は慌てて手を引っ込めた。
「痛む?」
 腹を踏むときは、一応手加減した。相応に痛かったろうが、その後戸の角でぶつけた後頭部の方が衝撃も凄まじくて、腹部が負ったダメージはすっかりどこかへ消し飛んでしまっていた。
 正座を崩してぺたんと腰を落とした少年を窺い、雲雀は軽く膝を曲げた。距離を狭めて、傷口をそうっと覗き込む。
「ヒバリさんが、踏むから」
「同じ言葉を二度繰り返すのは、好きじゃない」
「蚊帳の中って、なんか……虫かごみたいで落ち着かないっていうか」
 ぷっくり膨らんでいるのを確認した雲雀に恨み言を言えば、さらりと言い返されてしまった。
 開け放った襖の向こう側、隣の部屋には緑色っぽい網がぶら下がっていた。柱の壁の、高い場所に取り付けられた金具に固定された蚊帳は、なるほど確かに、捕まえた虫を入れておく箱に似ていなくもない。
 しかし折角彼の為に用意したものを、好きじゃないから使いたくない、と言われるのは心外だ。
 僅かに眉を顰めて不機嫌を露わにして、雲雀はタンコブの天辺をぴん、と指で弾いた。
「ぎゃっ」
 脳天を襲った激痛にびくりとして、綱吉が聞き苦しい悲鳴を上げた。両手を頭上にやって傷口を庇い、意地悪な男の前で涙に濡れた琥珀を揺らめかせる。
 鼻を愚図つかせた愛らしい少年に、雲雀は困った顔で首を掻いた。
 ほんのり汗ばんだ肌に爪を立て、綱吉の左足に残る赤い膨らみに眉目を顰める。
「咬まれてるじゃない」
 言う事を聞かないから、と言外に彼の行動をと咎めつつ、本格的に膝を折って腰を屈める。投げ出した足に触れられて、綱吉はハッとして赤くなった。
 急いで足を引っ込めようとしたが、一歩遅かった。細い足首を掴んで引っ張られて、バランスを崩した彼は敢え無く背中から畳に倒れこんだ。
 仰向けに寝転がって、またもや木目も鮮やかな天井を見上げる。真ん中に照明がぶら下がっているが、今はスイッチが入っていないのでただの飾りと化していた。
 風鈴の音色に耳を傾け、視線を宙に彷徨わせる。
 心の置き場が定まらず、当て所なく漂っている彼に些かむっとして、雲雀は爪の跡がうっすら残る蚊の咬み跡に指を重ねた。
 他に刺されている場所がないか確かめるべく、太腿に向かって這い上がらせる。
「っちょ!」
 気付いた綱吉が慌てて彼を引き剥がそうとしたが、抵抗むなしく、上から覆い被さられてしまった。
 視界が暗くなり、他人の熱が近くなる。ショートパンツの裾を捲りあげればもうそこは足の付け根で、日に焼けない白いラインが呆気ないほど簡単に露わになった。
 下着の一部がちらりと見えて、雲雀が不敵に笑った。
「なんだ。誘ってるんじゃないの?」
「違います!」
 柔らかな肉を揉みしだかれて、綱吉は真っ赤になって怒鳴った。唾を飛ばした彼に相好を崩し、雲雀は呵々と笑うと意外にあっさり身を退いた。
 どうやらからかわれただけらしく、綱吉はひとり早とちりした自分を恥ずかしく思いながら、急いで乱れた着衣を整え、シャツの裾で臍を隠した。
 身なりを正して、正座する。行儀良く座り直した彼の頭を飽きずにぽんぽん撫でて、雲雀は腕に巻いた時計を見た。
 三本の針が交錯するアナログ盤から顔を上げて、畏まっている少年を正面から睨む。鋭い眼光にゾクリとして、綱吉は背筋を粟立てた。
 温い汗を流して、唾を飲む。
「で、君はうちに、何をしに来たんだっけ?」
「……えへ」
 ずい、と距離を詰めながら問われて、綱吉はキス出来そうな近さに臆し、背を仰け反らせた。
 笑って誤魔化そうとするが、相手は雲雀恭弥だ。並盛中学校を実質的に支配する男は、町内でも有数の資産家の息子でもあった。
 時代を感じさせる和風の一戸建てに、広い日本庭園。緑に囲まれ、町の中であるのに吹く風はどれも涼しい。ちりりん、とまた風鈴が鳴って、綱吉は不遜に笑う男に恐縮して頭を下げた。
「宿題、を……です」
「終わったの?」
「全然、です」
 正面からぶつかっていったところで、雲雀に叶うわけが無い。力でも、口でも、結果は同じだ。
 大人しく諦めて、観念する以外に道はない。綱吉が夏の暑い盛りに雲雀邸を訪れた理由は、今自ら認めたように、夏休みの宿題をする為だった。
 沢田家の、綱吉の部屋にも一応冷房は設置されている。だが昨今声高に叫ばれている節電への取り組みにより、彼の家ももれなく冷房禁止令が出されてしまった。
 日中は扇風機のみで過ごして、夜寝る時も極力使用は控える。だが連日の炎天下と湿気の多さから、とてもではないがクーラー無しで過ごすのは難しかった。
 かといって母である奈々を説得するのは難しく、公共の施設に出向いて勉強をしようにも、どこも常に混んでいる。
 ファミレスで、コーヒー一杯で延々居座るのも心苦しさが勝って出来なくて、最終的に綱吉が取った手段が、雲雀に頼ることだった。
 彼の家は、何故か空調が稼動しなくても涼しかった。
 障子戸や襖を開ければ部屋と部屋の仕切りがなくなり、風が一直線に駆け抜ける。簾や葦簀を利用すれば屋内に入る陽射しは遮られ、空気だけが通り抜ける。熱は軒先で排除されるので、日陰たる室内にまでは入って来ない。
 畳の感触は冷たくひんやりとしており、風鈴や鹿威しの音色も心に響き、涼やかさを演出している。
 投げ出されていた団扇を拾い、雲雀が綱吉の顔を扇いだ。誘われるままに身を乗り出して、彼は前髪を擽る風にクスクス笑った。
 猫のように喉を鳴らして甘えた顔をすれば、すかさず団扇を縦に持ち替えた雲雀が、一直線に空を切り裂いた。
「あでっ」
 脳天に一撃を食らい、折角引きかけていたタンコブに痛みを思い出して、綱吉は目尻にじんわり涙を浮かべた。
「ヒバリさん」
「努力しない子は、嫌いだよ」
 急に何をするかと怒鳴れば、すげなく言われた。団扇を放り投げた彼に唇を噛んで、綱吉は部屋の片隅に放置されたままの自分の鞄に目を向けた。
 その隣には、文卓があった。手元明かりがひとつおかれている以外、何もない。シンプルで、だからこそ機能的なデザインといえた。
 同じく飾り気のない座布団が前に置かれて、誰かが座るのをじっと待っていた。
 雲雀が見詰めているものに自分も目をやって、綱吉は恐縮気味に小さくなった。今になって戻って来た痒みにもぞもぞして足を掻けば、虫刺されは二箇所に増えていた。
「うぅ……」
 近い場所にふたつ、ぷっくり赤い膨らみが出来ていた。
 爪の先でちょこまか引っ掻くが、ちっとも静まってくれない。逆にどんどん痒みが増して行って、彼は奥歯を噛み締めた。
 低く呻いた綱吉に視線を戻し、頻りに足首を気にしている彼を見つけ、雲雀は耳を澄ませた。ぷいーん、と微かな羽音を探り当てて、息を殺す。
 だが警戒する彼を警戒してか、それとも綱吉の血で満足したのか、蚊はどこかに飛び去ってしまった。
「君がぼんやりしてるから」
「ヒバリさんだって、気付かなかったくせに」
 一箇所目は綱吉の不注意だが、二箇所目を食われたのは雲雀が居るときだ。彼が先に気取ってくれていたなら、綱吉は要らぬ苦しみに耐えずに済んだ。
 頬を膨らませて不満を言えば、彼も同じ事を考えていたようで、気まずげに目を逸らした。
「蚊遣りを持ってこよう」
 言い訳がましく言って、立ち上がる。遠ざかる熱を追いかけて顔を上げて、綱吉は敷居の溝をなぞった。
 宿題をするに適した避暑地を探して、との理由で家に上げて貰ったが、雲雀は一向に綱吉に構おうとしなかった。屋敷の中は静かだが、騒がしい。ひっきりなしに人が出入りして、空気はざわついていた。
 綱吉が今居る、つまりは雲雀の私室がある離れまでは気配は届かないものの、名家の跡取り息子が忙しくしているのは充分感じられた。
 宿題云々を隠れ蓑にした本来の目的が果たせないのでは、つまらない。そんなわけで当然やる気が失せて、ついだらだらしてしまった。
「要りません」
 雲雀が行ってしまう。折角彼の部屋を訪ねたのに、長らく置き去りにされたままで、心は彼に餓えていた。
 また放置されるのであれば、蚊取り線香など要らないから、傍に居て見張っていて欲しい。勉強もするので、分からないところがあったら横から教えて欲しい。
 滾る思いをこめて黒水晶の瞳を見詰める。熱を帯びた琥珀に息を飲んで、雲雀は困った風に爪先で床を叩いた。
 多忙極める彼を、約束もなく訪ねて、部屋に通してもらえただけでも万々歳と言わなければならない。こんな我が儘を言える立場にないことくらい、綱吉だって重々承知していた。
 が、学校が休みに入った所為で会う機会が減った。
 我慢ならなかったのが自分だけだというのは、寂しすぎる。
 無言の訴えに首の後ろを掻いて、雲雀はもうひとつ床を蹴った。
「哲」
「えっ」
「へい」
「スイカ、冷やしておいて」
「……へい」
 綱吉とは違う方向を向いて、ぼそりと告げる。驚く小さな恋人を他所に、返事は直ぐにあった。
 部屋からでは見えなくて、恐る恐る廊下を覗くが、そこにも草壁の姿は無かった。いったいどこに隠れているのか――恐らくは通路の角を曲がった先だろう――雲雀の忠臣たる男は、余計な口を挟む事無く短く繰り返した。
 頷いているのか、一寸だけ黒っぽいものが柱の影で動くのが見えた。あんなところに、とホッとする反面、今までの会話を聞かれていたのが恥ずかしくて、綱吉は顔を赤くした。
「ヒバリさん」
「蚊遣りは、いかがいたしましょう」
「要らないよ」
 草壁がいるならいるで、最初に教えて欲しかった。黒のスラックスを掴んで引っ張った綱吉を無視して、雲雀は並盛中学校風紀委員会副委員長との会話を継続した。
 どきりとする問いかけに平然と言い放って、雲雀は尊大に胸を張った。
 久方ぶりに見下ろされて、綱吉は恥ずかしそうに身を捩った。
 逃げようとする彼を素早く捕まえて、腕の中に閉じ込める。抱き上げられて、綱吉は両手両足を振り回した。
 けれど雲雀は平然として、彼を抱えて歩き出した。敷居を跨ぎ、襖の奥へと身を進める。
「蚊帳があるからね」
 障子戸近くまで身を進めた部下に得意げに言って、彼は足で襖を閉めた。

2011/07/09 脱稿