煤払 第四夜

 沢田の家にはこれが二台ある。うち一台は、今は奥座敷に置かれている。
 冬場、畑仕事が出来ない時期に、女達は収穫しておいた綿を縒って糸にして、それを織機にかけて布を織る。作った布は家人の衣服を縫う等して使うが、余れば売りに出して、現金に変える。
 機織機の前に座り、朝から晩までギーギーバタン、と糸を布に作りかえる作業は、なかなか骨身に沁みる作業だ。しかし夏は夏で、忙しい。雪の為に外を出歩くのもままならないこの季節だからこそ、家の中で出来る事をする。
 そうやって、日々の生活は巡っていくのだ。
 綱吉が産まれた時にはもう、祖父母は鬼籍に入った後だった。しかし昔は、家光の母と祖母がこの機織機を並べ、一緒に布を織っていたのだろう。
 話に聞くだけの情景を思い浮かべ、そこに母親の姿を重ね合わせた綱吉は、薄ら埃を被っている木組みの手機に触れ、汚れを払い落とした。
「さ、て。どれからいく?」
 納戸の端には人がひとり通るのがやっとの階段もあった。登れば天井裏に出て、昔はそこで蚕を飼っていた。
 しかし家光が出て行ってしまい、世話が行き届かなくて死なせてしまってからは、もうやっていない。幼かった綱吉にはよく分からなかったが、今思うと蚕の全滅は、かなりの損害だった筈だ。
 奈々の嘆き悲しみようを振り返り、冷たい汗を背中に流して、綱吉は階段横に乱雑に積まれていた麻の袋を試しに広げてみた。
「これは、要らないかな」
「なんだ?」
「桑の葉、だったと思う」
 その蚕の餌の残りか。乾燥して最早見る影もない屑の山を、臭いだけで判別して、綱吉はそれを丸ごと山本に押し付けた。
 将来、家光が戻ってきたらまた始めるのだろうか。居ない人に聞くわけにもいかないので、使っていた道具などの処分に困り、綱吉は顎を引っ掻きながら思案気味に顔を顰めた。
 家計が非常に苦しい今、元での掛かる養蚕に手を出す余裕は無い。それは家光が戻って来ても、同じだろう。
 捨てても良い気がしたが、自分ひとりでは決められなくて、結局綱吉は枯れ葉の袋ひとつを放り出すに留め、残りは元の場所に戻した。
 麻袋を表に出して戻って来た山本が、次どうするのか目で問うてくる。決断に苦慮しながら綱吉は、適当に近くにあった行李の蓋を外し、中を覗きこんだ。
 行灯の薄明かりに照らされて、中に収められているものの輪郭が浮かび上がる。
 それはどうやら、人形のようだった。
 白くふっくらした頬をして、頭巾を被っている。真ん丸い目は黒目がちで、どうやら赤子を模しているようだ。
 どこかで見た事がある気がして首を傾げ、綱吉は取り上げようと手を伸ばした。
「……こんなところに人形なんて」
 ひとりごち、眉を寄せて胸の前で結ばれている手に触れる。と、折り重なりあった十本の指が、まるで百足の如くいきなり動いた。
「うわっ」
 かぱっ、と指が解け、むっくりと人形が起き上がる。あまりの事に驚いて悲鳴をあげ、綱吉は腰を抜かしてその場にへたり込んだ。
 黄色い頭巾を被った赤子の人形が、行李の中からむくりと立ち上がる様は、柳の下に現れる幽霊どころの比ではない。
「ツナ?」
 派手に尻餅をついた彼に吃驚して、反対側の行李を調べていた山本が慌てて振り返る。暗がりの中、下からの光を浴びて陰影を刻む赤ん坊に、彼もまたひくりと頬を痙攣させた。
 一呼吸置いて、見覚えがありすぎる骨格に苦笑する。まだ気付いていない綱吉にも目をやり、山本は短く刈り揃えた黒髪を掻き回した。
「なーにやってんだ、小僧」
「へ?」
 怖がって竦み上がっている綱吉を安心させるべく、明るい声を出して行李の中で仁王立ちしている赤ん坊に喋りかける。頭上を通り抜けた彼の言葉に、綱吉は涙を浮かべた目をぱちくりさせた。
 自分で自分を抱き締めて、改めて人形だと思っていたものに視線を向ける。瞬きをして涙を飛ばし、暗さに慣れた目で見詰めた先にいたのは、確かに黄色い頭巾の赤ん坊、リボーンだった。
 唖然としている綱吉を見下ろしてにんまり笑っているところからして、最初から狙っていたのだろう。
「おっ、お前! なんでこんなところに」
「ったく。なかなか来ねーから、寝ちまったじゃねーか」
「もしかして、朝から居なかったのって……」
 いつもなら朝餉の時間、何処からともなく現れて綱吉の膝に鎮座するくせに、今日に限って姿を現さなかった。よもや事始で大掃除をすると知って、わざわざ綱吉を驚かすためだけに、長い時間ここで待ち構えていたのか。
 暇人過ぎる。まんまと罠にはまった自分を棚に上げて、綱吉はそういうところにまで妥協しないリボーンに頭が痛くなった。
 思いもしなかった悪戯に、一気に力が抜けて直ぐには立てそうにない。近づいて来た山本の助けを借りてどうにか二本足で起き上がった綱吉は、したり顔のリボーンを軽くねめつけ、行李の中のがらくたに手を伸ばした。
 子供の玩具ばかりだ。最近は殆どしなくなって、何処にやったかわからなかった独楽も、こんなところに収められていた。
「懐かしいな」
 他に凧や、双六も入っていた。恐らくは奈々が、居間の隅に放り出されていたものを集めて、ここにしまったのだろう。ひとつずつ手にとって眺めていると、横から手を伸ばした山本が、七色に塗られた木製の独楽を左手で掴んだ。
「ほんとだ。懐かしい」
 山本は父親の剛と大喧嘩をする前から、頻繁に沢田家を訪ね来ていた。綱吉と、雲雀と、三人で遊ぶことも多かった。
 独楽回しは彼が一番上手で、凧は風の動きが読めた雲雀が一番高くまで揚げられた。綱吉はどれをやっても駄目で、特に独楽回しは苦手にしていた。
「ツナは、回せるようになったか?」
「出来るよ。……多分」
「おっし。じゃ、正月楽しみにしてるな」
「うげ」
 同じ事を思い出したらしい山本に言われ、つい減らず口を叩いてしまう。途端に揚げ足を取られて、変な声が出た。
 手作りの、きっと家光が作ってくれたのだろう独楽を前に閉口し、自分の迂闊さを呪って項垂れる。呵々と声を出した山本が慰めに肩を叩いてくるが、そもそも落ち込む原因を作ったのは誰なのか。
 関係ないリボーンまで楽しげに笑っており、綱吉は悔し紛れに赤子の額を小突いた。
「おっと」
「お前、邪魔。あっち行けよ」
 ずれかけた頭巾を両手で抑えた赤ん坊に膨れ面で言い、開けっ放しの戸を指し示す。綱吉たちは今、納戸の片付けの真っ最中なのであって、懐かしい玩具を手に遊び惚けるために此処にいるのではない。
 いつまで経っても作業が進まないと口を尖らせた彼を見上げ、リボーンはやれやれと大袈裟に肩を竦めた。
「しょーがねーな。折角手伝ってやろうと思ったんだが」
「いらないよ。だってお前、いっつも邪魔ばっかりじゃないか」
 リボーンがいると、手間が二倍にも、三倍にも増えてしまう。片付けたばかりのところを荒らされた過去の記憶を引き合いに出し、綱吉は強い口調で言った。。
 赤子は愛用の頭巾を整えると、憤慨している教え子を鼻で笑い、その場で飛びあがった。
 空中でくるん、と一回転をして、瞬時に煙となって掻き消える。
「ったく、なんなんだか」
「正月、か」
 その煙も瞬く間に消え失せて、リボーンが存在していたという痕跡はひとつとして残らなかった。神出鬼没、複雑怪奇を地で行く赤子に辟易した綱吉の隣で、山本は不意にぽつり、呟いた。
 手にした独楽を手の中で回転させ、行李に戻して両手を空にする。そうして、足元の蓋を拾って閉じようとした綱吉の細い手首を、いきなり掴んだ。
「いたっ」
 力加減が出来なかった所為で、腕を攫われた綱吉は甲高い悲鳴を上げた。
 行灯の炎が揺れて、壁に刻まれたふたりの影が大きく波を打つ。歪な人型を浮き上がらせ、山本は蓋を落とした綱吉の顔を睨むように覗き込んだ。
「やまも、と?」
「行くのか」
 急に態度を豹変させた親友に驚き、どうしたのかと目で問いかける。しかし彼は答えず、逆に主語の無い質問を繰り出してきた。
 なにが聞きたいのかが分からなくて、綱吉は捻られて痛む左腕を気にしながら顔を顰めた。奥歯を噛み締めて骨に響く苦痛を堪え、逼迫した様子の山本を見詰め返す。
「行くのか、お前は」
「どこ、にっ」
 答えられないでいると、力を強められた。骨が砕けそうな激痛に息苦しさが増して、綱吉は鼻を膨らませて酸素を掻き集め、呻くように問い返した。
 話が見えない、繋がらない。行くのかと言われても、綱吉に出かける予定など無い。
 いや、ある。
 一箇所だけ。あと半月もすればやってくる新年の頭に、彼は蛤蜊家本家に参賀するように言われていた。
 その返答期日はもう間もなくで、けれど彼に拒否権はなくて。
 行かざるを得ない。しかし、綱吉とて望んであそこに足を向けたいとは思わない。
 はっ、と息を吐いた彼の青褪めた表情を見て、山本が悔しげに唇を噛み締めた。震えている彼の痛ましい姿にもようやく気付いて、手を緩める。解放され、綱吉は後ろにふらついてそこに積み上げられていた古書の山を蹴り飛ばした。
 突き崩された和書に一瞬意識をとられるが、直ぐに山本に向き直り、彼は鈍い痛みを訴える左腕を右手で庇い、抱き締めた。
「山本」
「……やめとけよ」
 何故今、彼がその事を口にするのか。
 恐らくは正月の玩具を前にしたからだろう。だが思い自体は、ずっと前から彼の中にあったのだ。
 低い声で呻くように呟き、山本は首を振った。
 行灯の火が揺れている。心細げな薄明かりの中で、彼は巧く纏められない苛立ちに頭を掻き毟り、もう片方の手で衿を握り締めた。
「やめとけって。行くなよ、あんなとこ」
 今年の春の始めにも、綱吉は都にある蛤蜊家の本家に出向いている。あの時は母親とふたりで、呼び出された理由も知らなかったというのもあり、行き道はちょっとした遠足気分を楽しんだ。
 しかし現地に到着して、事の次第を知らされて、打ちのめされた。
 とても辞退できる状況ではなく、暫く考えさせて欲しいと、ただそれだけを答えるのがやっとだった。
 田舎から出て来たひょろひょろの子供に、何故蛤蜊家の家督を譲らなければいけないのか。たとえ血筋が重要視されるとはいえ、実績もなにもない、見るからに未熟な人間に当主の役目など、とても果たせるものではない。
 綱吉を値踏みする視線、疎ましく思う心、逆に取り込んで、自分の意のままに動く傀儡に仕立てようと目論む輩。あの広大な屋敷の中は、人々の負の感情が集まって渦を巻き、無防備だった彼を飲み込もうと蠢いていた。
 並盛は豊かで、平和で、争いごとは殆どなかった。あっても所詮は子供の口喧嘩くらいで、刃傷沙汰など、それこそ山本とその父親の騒動くらいしか起きた例が無い。
 誰もが優しく、親切で、大らかだった。他人を利用し、蹴落とし、自分さえ良ければそれで良いと考える人はひとりもいなかった。
 里での生活は、協力しあうのが前提だった。広い田をひとりで耕すのは大変だが、大勢で助け合えばあっという間に終わる。手伝ってもらった御礼に、自分も誰かの畑仕事を手伝う。綱吉にとっても、それはとても当たり前のことだった。
 だのに蛤蜊家内部では、そういう考えこそが異端だった。
 力を持たないものは役に立たない者、要らないもの。利用価値が無い人間は、生かしておくだけ無駄。
 衝撃を受けて帰って来た綱吉は、後に、蛤蜊家創設時を知るある存在から、こう教えられた。
 今の宗家は、本来の姿ではない。初代が本当に作りたかったものは、長い年月を経るうちに忘れ去られ、悪しき心によって置き換えられてしまった、と。
 初代の理想は高かった。蛤蜊家を作ったのだって、特権階級に甘んじようとしたわけではなく、差別され、忌避されてきた退魔師を救おうとしただけだ。
 だのにいつの間にか、蛤蜊家は力の使い方を間違えるようになった。崇高な理念は歪められ、踏み躙られた。
「行かなくていい。あんなとこ、お前には似合わない」
「山本、待って」
 声を張り上げ、捲くし立てる山本もまた、あの屋敷に出向いたことがある。大きくて、立派で、まるで城のようだった。
 一度は退魔師としてリボーンに一人前と認められたのを受け、これを報告するために。一度は、六道骸率いる一団が退魔師を虐殺して回っていた時に、これを警戒するようにとの呼びかけに応えて。
 二度目はそうでもなかったが、予想していた通り、一度目の訪問では全く以て歓迎されなかった。出自を聞かれ、詐欺師かと疑われ、退魔師として能力が優れているかの試験まで受けさせられて、かなり嫌な思いもした。
 同時期に退魔師として認定を受けた連中には、試験はなかった。彼らは全員、蛤蜊家に通じる一族の門弟だったから。
 幸いにも試験は、リボーンから受けた特訓に比べればぬるま湯のようなもので、難なく突破できたものの、散々言われた嫌味はひたすら耐えるしかなかった。下手に彼らに手を上げて、資格を取り消されては元も子もない。
 あんな、たとえ霊力が優れているとはいっても、人間的に最低な奴らの巣食う地に、綱吉をどうして連れていけるだろう。
 純粋無垢を絵に描いたような彼を、あんなにもどす黒い欲望渦巻く地に放り込むなど、常軌を逸している。
 激高し、叫ぶ山本がまた腕を伸ばしてきて、綱吉は咄嗟にそれを叩き落した。
 乾いた音がひとつ響く。後ろに下がった彼は崩れた本に踵を乗り上げて、びくりと肩を強張らせた。
「あ、……」
 思わず出てしまった手を呆然と見詰め、綱吉は力なく首を振った。打たれた山本も数秒間凍りつき、短く息を吐いて奥歯を噛み締めた。
 臼歯が砕けそうなくらいに力を込め、行き場をなくした拳を激しく震わせる。
「ツナ」
 この怒りが何に対してのものなのかさえ理解出来ぬまま、彼は乱暴に、手近なところにあった行李を殴りつけた。
「山本、落ち着いて。聞いて」
 納戸に埃が濛々と立ちこめて、一瞬視界が曇った。吸い込んでしまって咳き込み、目尻に涙を浮かべた綱吉は、冷静さを失っている幼馴染に呼びかけ、曖昧模糊ながらも漠然と形を持ち始めていた決意を告げようと、息を吐いた。
 だのに彼を遮り、山本が言った。
「ツナ。……逃げよう」
「え」
 耳を疑った綱吉の真向かいに立った彼は、それまでの荒い語気を薄め、淡々とした口調で告げた。
「逃げよう、ツナ。俺と」
 己の胸に手を押し当て、前のめりに姿勢を倒して言葉を重ねる。呆気に取られて返事が出来なかった綱吉は、ぽかんと間抜けな顔をして、言われた台詞を頭の中で繰り返した。
 逃げよう。
 逃げる。
 それこそ、何処へ。
 何の為に。
 山本の提案の意図を計りかね、怪訝に眉を寄せる。その表情が気に食わなかったのか、山本は必死だった形相を急変させ、眦を釣り上げた。
 怒りを全面に押し出して、乱暴に腕を伸ばしてくる。今度は逃げ切れずに捕まって、綱吉は彼の方へ無理矢理引き寄せられた。
 先ほど捩じられたのと同じ場所に痛みが走った。
「山本、やめて。痛い!」
 甲高い声を発して訴えるのに、彼の耳にはどうやっても届かない。睫に乗った涙を散らし、綱吉は抱き締めようとしてくる男の胸を、右腕一本で懸命に押し返した。
 山本は、優しい。いつだって綱吉の事を一番に考え、行動してくれる。彼が退魔師になったのだって、綱吉を守るのに、そうするのが最適だと考えたからだ。
 退魔師の仕事は危険と隣り合わせだ。しかし綱吉は、その職を父親から引き継ぐよう、生まれた時から定められていた。
 彼を守りたい。傍にいたい。しかし戦う力がなければ、綱吉の足を引っ張るだけだ。
 重荷にはなりたくない。足手まといにもなりたくない。ならばどうすればいいのか。
 応えは簡単だ、彼の前を行けばいいだけのことだ。
 綱吉の足に泥がかからぬよう、ぬかるんだ道には砂を撒く。旅の最中で傷つかぬよう、茨の道があればこれを切り落とす。立ちはだかる敵があれば、これを打ち砕く。
 その心積もりでいた。
 しかし、今回ばかりは相手が悪すぎる。あの蛤蜊家を敵に回して、綱吉を守りきれるかどうか。
 清き彼を穢さぬために、今の自分が出来ること。毎日のように懸命に考え、答えが出せぬまま悶々と過ごした日々。
 今朝早くに目が醒めたのだって、そうだ。綱吉が蛤蜊家の毒に冒されて苦しみ、迷い、悩み、立ち行かなくなるのをただ見ているしか出来ない自分、その光景を夢に見て、魘されて飛び起きた。
 夢だと分かっていても、じっとりと肌を濡らす汗がなかなか引かぬように、余韻は簡単に消えてはくれなかった。
 もう一度床に入る気にもなれず、じっとしているのも難しかった。だから誰にも何も言わず、危険を承知で屋敷を出た。青笹は、雪が白く淡く光る中をひとり歩き回る最中に見つけた。あれを採りに行ったというのは、詭弁だ。
 正面切って対峙するには、蛤蜊家はあまりにも大き過ぎる存在だった。
 これを打ち負かそうなど考える方が愚かだ。一介の退魔師風情が、到底太刀打ちできるわけがない。
 綱吉を守りたい。
 でも守れない。
 あんな牢獄に行かせたくない。
 どうすればいい。
 散々悩み、考えあぐねていた答えは、するりと口から滑り落ちた。