茉莉花

 コンコン、というノックに顔を上げ、綱吉は長く握り続けていたボールペンを机に転がした。
 関節が固まってしまっており、指は悴んでいるかのように痛んだ。左手を添えて無理矢理人差し指を引っ張って伸ばし、壁に据えた柱時計を確認して、彼は怪訝に眉を顰めた。
 もう深夜と言っても過言ではない時間だった。
「どうぞ」
 終わらない書類仕事に明け暮れて、まだ当分寝床に入れそうにない。出しっぱなしの匣アニマルことナッツはとっくの昔に睡魔に負けて、一足先にベッドルームへ旅立ってしまっていた。
 己の分身めいた存在なのだが、あの子はこんな面倒な仕事をしなくても良い気楽な身分だ。日当たりの良い場所で一日のんびり寝て過ごし、腹一杯食べ、また眠り、時に遊ぶ。そんな、なんとも羨ましい限りの毎日を送っている。
 たまには代わって欲しい。そんな事を考えながら、綱吉はドアの向こうの人物に思いを馳せた。
 獄寺は既に休んでいるし、秘書代わりに詰めてくれているバジルも今日は先にあがって貰った。
 自分の作業が遅いばかりに、他に迷惑を掛けるのは心苦しい。かといって意気込みだけで作業が捗るかと言われたら、そうでもなかった。
 どう考えても夜明けまでに片付きそうにない書類の山をちらりと見て、綱吉は銀のドアノブがゆっくり左に回転するのを見送った。
 思い切って椅子を引いて立ち上がり、扉が内側に開かれるのを待たずして歩き出す。視界を颯爽と横切っていった青年に、ドアの隙間から顔を覗かせた雲雀は小首を傾げた。
「明かりがついてると思ったら」
「ヒバリさんこそ、門限破りは風紀違反ですよ」
 偶々通り掛かっただけ、と言いたげな彼に軽口で応じて、綱吉は柱時計の隣に置かれたチェストに手を伸ばした。
 存外に近いところまで来た彼の後ろ姿に肩を竦め、雲雀は開けたばかりのドアを押した。
 閉まりきる直前、小さな影が室内に紛れ混んだ。背中に無数の棘を生やした、剣山のような生き物は、細長い鼻をふんふん言わせて雲雀の足許をくるくる駆け回り、やがて綱吉の存在を気取ってきゅぅ、と鳴いた。
 電子ケトルの中身を確かめていた彼は顔を上げ、直ぐに下向いて、優しい笑顔を浮かべた。
「こんばんは、ロール」
「キュ、キュー」
「あはは。お前はこんな時間なのに、元気だね」
「夜行性だからね」
 手を動かしながら挨拶だけすると、掌サイズのハリネズミは上機嫌に、高らかに鳴いた。
 愛らしい外見、声、仕草につい油断しがちだが、この獣はこう見えて肉食だ。小さいからといって油断ならないのは、ボンゴレ歴代最強と謳われる初代雲の守護者に匹敵する力を有する人物が、パートナーに選んだところからして容易に窺える。
 その彼の短く切り揃えた前髪から覗く瞳は、相変わらず冴え冴えとして、さながら氷のようだった。
「そうでしたね。ヒバリさんも」
「そう?」
「そうですよ。いっつも、昼間は屋上で寝てばっかりで」
 昔懐かしい記憶を呼び覚まして、綱吉は食器をカチャカチャ言わせながら笑った。雲雀は覚えていない様子だったが、随分な頻度で呼びだされ、枕代わりにされた身としては、簡単に忘れられそうにない記憶だ。
 ティーカップを二セット用意して、綱吉は続けて小さな引き出しを開け、中から四角い箱を取り出した。
 隣では電気ケトルがしゅわしゅわと音を立てていた。
 白い湯気を吐くそれに目を細め、雲雀は外の冷たい風が紛れ混む戸口からやっと離れた。歩き出した彼を追い掛けて、棘だらけのハリネズミも短い脚で一所懸命走り出した。
 歩幅が違うので、当然ロールは置いて行かれた。しかも彼は小さいから、床に敷かれた毛足の長い絨毯に足を取られ、途中からはなかなか思うように進めなくなってしまった。
 じたばたしている小動物に苦笑して、綱吉は箱の蓋を開けた。
 ほんのりと甘い香りが鼻腔を擽った。
 すーっと空気に溶けていくそれは、疲れを訴える脳を優しく揉み解す癒しの効果もあった。綱吉は気持ちよさそうに胸一杯に吸い込むと、ティーバッグの茶葉をカップにひとつずつ沈めた。
 ケトルを傾けて、一寸ずつ湯を注いでいく。乾燥して硬くなっていた茶葉は水分を吸って勢いを取り戻し、一斉に花開いた。
 仄かに香る程度だったものが、瞬く間に部屋中に広がった。執務机に腰を預けて綱吉が放置した書類を手に取っていた雲雀も気づき、僅かに眉を顰めて口元に手をやった。
「綱吉?」
「っていうか、来てたんですね。連絡、入れてくれれば良かったのに」
「……ああ」
 ほんの少し声が踊っている。心持ち嬉しそうな彼に小さく頷いて、雲雀は振り返った青年に微笑んだ。
 綱吉の手には左右それぞれ、白い陶器のカップが握られていた。
 中身を零さないように注意しながら、綱吉がチェストを離れる。歩き出した彼は、まだ絨毯に悪戦苦闘していたロールを簡単に追い抜いた。
「キュゥゥ」
 悔しそうに鳴いた小動物に苦笑して、綱吉は行儀悪く人の机に寄り掛かっていた雲雀に右のカップを差し出した。
 中の液体はうっすら色付いているものの、底が楽に見えるくらいに透明度は高い。口元に持って行くと、先ほどから部屋に漂っていた香りが一層強まった。
「ハーブ?」
「ジャスミンです」
 リラックスするのに丁度良いので、夜遅い時間帯は好んで飲むのだと綱吉は言った。雲雀に倣い、椅子ではなく机の角に腰を預けて両手でカップを抱えて、波立つ水面に目を細める。
 横顔を眺めていたら、気付いた彼は顔を上げて照れ臭そうにはにかんだ。
「美味しいですよ」
 なかなか口をつけない彼に言って、先に自分がひとくち飲む。あまり目立たない喉仏が上下する様を眺め、雲雀は白い湯気を放つ液体に、そっと、唇を寄せた。
 あまり熱くない。咥内に含むと、強い香りが鼻腔を抜けて行った。
「…………」
 黙って、もうひとくち。先ほどより口に入れる量を増やした雲雀を盗み見て、綱吉は嬉しそうに相好を崩した。
 ようやく主の足許に到達したロールが、構って欲しそうに鼻をヒクつかせた。
「あの子は?」
「ナッツなら、ベッドルームにいると思います。行く?」
「キュー!」
 ぺしぺしと足を叩かれて、雲雀は綱吉に問うた。ぐいっ、とカップを傾けていた彼は濡れた唇を拭ってから言って、膝を折ってどことなく自分に通じるところがある獣に訊ねた。
 真夜中も良い頃合いなのに元気いっぱいに返事をして、ハリネズミは前脚を挙げようとしてそのまま後ろに転がった。
 天地が逆になってしまったロールを右手で掬い上げて、綱吉はまだ半分ほど残っているカップを机に置いた。
「座っててください」
 そう言い残し、ロールを連れて隣の寝室に向かって歩き出す。機嫌良さそうにしている後ろ姿を見送って、雲雀はそうと知られぬように嘆息した。
 数滴分残っていたジャスミンティーを一気に飲み干して、咥内を唾で漱いで、ほうっと息を吐く。ガチャリという音が聞こえて、彼は空になったカップを下ろした。
 綱吉の飲み残しが入ったカップに並べて置いて、またしてもやりかけの書類に目を落とした彼を見て、綱吉は呆れ顔で肩を竦めた。
「代わりにやってくれるんですかー?」
 両手を空にして執務室に戻ってきた綱吉が、雲雀が何をしているのかを知って声を高くした。間延びした猫撫で声に視線を流し、雲雀はほくそ笑むと同時に書類を机に投げ落とした。
 乱暴に扱われて、綱吉は不満げにしながら早足で戻って来た。
「っていうか、さっきも言いましたけど。来るのなら、先に電話のひとつくらい」
「君を驚かせたかった――って言ったら?」
「嬉し過ぎるから、言わないでください」
 遅い時間だろうか。昼間ならば絶対に言ってくれそうにない台詞を告げられて、綱吉はつい調子に乗って、軽口で応じた。
 予想外の返答に目を丸くした雲雀が、数秒の間を置いて穏やかに微笑んだ。
「そう」
「はい」
 短く相槌を打った彼に頷いて、小さく舌を出す。空になっている彼のカップに気付いて、綱吉は自分の分も急いで飲み干した。
 温い液体を喉に流し込んで、その場でくるりとターンを決める。
「もう一杯、飲みますか?」
 それとも、アルコールの方が良いだろうか。
 そんな事を想いながら質問した彼に、雲雀はゆるゆる首を振った。
「ヒバリさん?」
「言い忘れてたけど……嫌いだよ」
「へ?」
「ジャスミン」
 素っ気なく言い放ち、彼は執務机に深く腰掛けた。右足を高く掲げ、脚を組んで胸を張る。
 堂々とした王者の態度に唖然として、綱吉は危うくカップを落とすところだった。
 茉莉花茶はもう一滴も残っていなかった。だのに彼は、今頃になってこれが嫌いだと言う。
 綱吉は目を点にして、茶器と不機嫌そうに顔を顰めている青年を見比べた。
「……え?」
「それに中国茶より、日本茶がいい」
「それも、……先に言ってくださいよ」
 もうかれこれ十年近いつきあいになるが、そんな話は、未だ嘗て聞いた事がない。
 一杯飲み干してから言う台詞でもなくて、綱吉は足を肩幅に広げて怒鳴った。が、雲雀はふて腐れた表情を変えず、頬を膨らませて不満を顔に出した。
 嫌いなら、飲まなければ良いのだ。出された時に受け取りを拒否して、要らないとひと言、そう告げてくれれば全て片付く。
 どうして今になって。
 負けじと口をへの字に曲げた綱吉を盗み見て、雲雀は頬杖を突き、そっぽを向いた。
「仕方がないだろう」
「なにがです」
 ぼそぼそ言う声は、なんとも聞き取りづらかった。常にはきはきと、周囲に響く声で話す彼にしては珍しい。
 それが照れている時の態度だというのを、綱吉はこの時忘れていた。
 彼は陶器に負けないくらい白い頬をほんのり朱に染めて、物分かりの悪い綱吉に苛立ち、頬杖を解いた手で机の縁を思い切り叩いた。
「君が淹れてくれたのに、飲まずに突き返せるわけがないだろう」
 同時に罵声をあげて、それが思った以上に大声になってしまった事にハッとして、彼は気まずげにして俯いた。
 足も解いて机から飛び降りて、歩きだそうとして踏み止まる。伸びてきた手に袖を捕まれて、雲雀は顔を赤くしている綱吉から目を逸らした。
 何も無い天井を向いて、黙りこくる。
 つられて綱吉も口を閉ざして、遠慮がちに彼に躙り寄った。
 コツン、と逞しい肩に額をぶつけて、こみ上げて来た笑いを必死に堪えて目を閉じる。
「じゃあ。じゃあ、次はヒバリさんの好きなものにします。なにが良いですか?」
 肌を擦りつけて首を振り、早口に言って、思い切って顔を上げる。眩しいくらいに輝いている琥珀の瞳に呑まれて、雲雀は一瞬言葉を失い、直ぐに表情を和らげて目を細めた。
 時計の針がこちこちと音を刻む。山積みの書類は、そうそう簡単に片付きそうにない。
 息抜きでちょっと休憩するくらい、構わないだろう。誰に向かってか許しを乞うて、雲雀は人差し指を伸ばした。
「って」
 おでこを小突かれて、綱吉が仰け反った。小さく悲鳴をあげて、意地悪く笑っている愛しい人を涙目で見詰める。
 音を伴わない返事に目を丸くして、彼は恥ずかしそうに、そしてとても嬉しそうにはにかんだ。

2011/02/12 脱稿