若草の萌えるころ

 日溜まりの心地よさに、彼はうっとりと目を閉じた。木漏れ日を地表にもたらす木立は、海から吹き付ける風に煽られてそよそよと、穏やかに枝を揺らしていた。
 耳に優しい音色に耳を澄ませて、あまりの快適さにうっかり睡魔が降りて来た。満腹になったばかりともあって、なかなかに抗い難い。
「ふぁ、あ、あ~……」
「眠そうだな」
 思わず零れた欠伸に、隣に座っていた青年が肩を竦めて笑った。
 口元にやっていた手を下ろし、タクトは目を細めている青い髪の彼を軽くねめつけた。が、堪えきれなかった欠伸がもうひとつ出てしまい、説得力は皆無に等しかった。
「ちぇ」
「まあ、分からないでもないけどな」
 間もなく昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り、午後の授業が始まる。それが済んだ後は演劇部の練習が予定されており、ゆっくり寝入っている暇など何処にもない。
 平気だという主張は嘘だとあっさり見破られて、拗ねた顔をしたタクトにまたカラカラと笑い、スガタは足許で踊る陽光に目を細めた。
 学校の片隅に根を下ろす椨は、濃い緑色の葉を沢山茂らせて、彼らに涼しい日陰を提供していた。
 ふたりの傍らには、それぞれの昼食の残骸が並べられていた。パン屋のロゴが入ったくしゃくしゃの紙袋と、二段重ねの弁当箱と。どちらがどちらの物なのかは、言うに及ばない。
 そしてもうひとつ、まるで誰かが忘れていったかのように、可愛らしいピンク色の弁当箱がひとつ、ちょこん、と背の低い芝の上に残されていた。
 キツネのアップリケがアクセントになった巾着袋を下敷きにしているそれをちらりと見て、タクトは曲げた膝に右肘を立てて頬杖をついた。
「どうせだし、さぼっちゃおっかなー」
「それは、聞き捨てならないな」
「だってさー。こんなに良い天気なんだぜ。勿体なくない?」
 真面目に授業を受けるのも青春の一ページであるが、こっそり学校を抜け出して大人に見付からないように遊び回るのも、青春の醍醐味だ。
 どこから仕入れて来たのか甚だ怪しい知識を披露して、タクトは素っ気ないスガタに熱心に訴えかけた。
 だが彼はつれない態度を崩さず、興味なさそうに頷いて手元に視線を落としてしまった。
「それ、面白い?」
「それなりに」
 自分よりも書籍に興味を持って行かれてしまったのが不満らしい。頬を膨らませたタクトに顔も上げずに答え、スガタは栞を目印に文庫本を広げた。
 と、そこに風が吹いた。
「あっ」
 引き抜いたばかりだった薄い紙の栞を攫って行かれて、スガタがハッとして手を伸ばした。開いたばかりの頁を閉ざして、前のめりになる。
 だが惜しくも届かず、白い指は空を掻いた。
 横で一部始終を見ていたタクトが苦笑して、ズボンに付着した草を払い落として立ち上がった。
「よいしょ、……ああ、お帰り。ワコ」
「ただいまー。はい、タクト君。スガタ君も」
 三メートルほど先で草の間に埋もれた栞を拾う。曲げた腰を伸ばした彼の目に、急ぎ足で駆けてくる少女が見えた。
 手を振られ、振り返すわけにもいかなかった彼女は息せき切らしてふたりの前で足を止めた。呼吸を整え、抱えて運んできたものを順に手渡していく。
 よく冷えた缶のお茶を受け取って、タクトもスガタも顔を綻ばせた。
「有り難う」
「どういたしましてー」
 食後の一服に買いに走ってくれたワコを労い、タクトが礼を言ってプルタブを引き起こした。そして一気に喉に流し込んで噎せて、赤い顔をして何度も咳をした。
 落ち着きが足りない彼に肩を竦め、スガタはタクトが拾ってくれた栞を、表紙を捲って直ぐの頁に差し込んだ。
「随分と遅かったけど、誰かに捕まった?」
 休憩時間終了ギリギリに戻って来たワコに訊ね、プルタブの溝を爪で引っ掻く。美味しそうにお茶を飲んでいた彼女は、一寸だけ考え込む素振りを見せ、頷いた。
 空の弁当箱を手早く片付けて、赤と青、特徴的な髪色をしたふたりの男子を交互に見詰める。
「なに?」
 胸元を叩いていたタクトも視線に気付き、首を傾げた。
「ああ、ううん。なんていうか、さ。最近の男の子って、草食系とか、肉食系とか……言うよね」
「それが?」
「たいした話じゃないんだけど。ふたりはどっちだと思う? なんて、訊かれちゃったりして、うん。それだけ」
 どうやら別クラスの女子に捕まって、そんな質問をされていたらしい。
 いったい彼女は、どんな返事をしたのだろう。目で問い掛けたふたりだったが、ワコは首を振って苦笑するばかりだった。
 はっきりしない彼女の態度にも一寸だけ気を悪くして、タクトはその場にしゃがみ込んだ。
「っていうか、さ。どうしてなんでもかんでも、二種類に分けたがるのかな」
 脚を畳み、草の上で胡座を組んで残り半分以下になったお茶の缶を揺らしながら呟く。途端にふたりの注目を浴びて、挙げ句首まで傾げられて、彼はちょっと口籠もり、考えるかのように眉間に皺を寄せた。
 誤魔化しにお茶を一気に飲み干してまた噎せた彼に相好を崩し、スガタは重箱のような重厚感のある弁当箱を引き寄せ、その上に本を置いた。
「その方が分かり易いからだろ」
「だけどなー」
 草食動物と、肉食動物。その図式をそっくりそのまま、人間に当て嵌めただけ。
 なんでもかんでも区別をつけたがる人々には、この構図は非常に平易で、受け入れ易かったのだろう。
 だが、そんな大雑把な括りで人の本質を計ろうなど、烏滸がましいにも程がある。
 まだ不満顔をしているタクトは、飛んでしまった唾を拭って手の甲をぺろりと舐め、空になった缶を紙袋に押し込んだ。
「で、ワコは?」
「うん?」
 ガサガサ言わせている彼に肩を竦め、スガタが振り返る。いきなり話を振られた少女は吃驚したように目を丸くして、照れているのかピンク色の頬を爪で引っ掻いた。
 困ったように視線を浮かせて、枝の隙間から落ちる日射しに首を振る。
「私? 私は、うーん……どっちも肉食系?」
「えー?」
 訊いてきた女子にもそう答えた。彼女らはその返事に大いに満足したようで、やっぱりね、という顔をして頷いて去っていった。
 要するにあの子達は、スガタやタクトがどれくらい女子に興味があるのかを知りたかっただけなのだ。
 明日からまた騒々しくなるかもしれない。そうとは知らない暢気な男子二名を前に、彼女はそっと、溜息を零した。
 不満顔を継続中のタクトは、ワコの返答に頬を膨らませ、正面に座るスガタを指差した。
「スガタは、どう考えたって草食系だろ」
「何故そう思う」
「だって、えーっと。青いし」
「……意味が分からない」
 ぷんぷんしながら捲し立てる彼の言い分に、スガタは肩を落として前髪を掻き上げた。笑っているような、それでいてどこか怒っているような、複雑な表情を浮かべてタクトを見詰める。
「そういうお前こそ、草食系だろう」
 そしてやおら呟いて、何がツボに入ったのかクツクツ喉を鳴らして笑い始めた。
 口元を手で覆い隠し、顎を引いて俯いた彼にタクトは益々目を吊り上げた。
 ふて腐れた顔をする彼と、笑っている幼馴染みと。
 ふたりを交互に見て、ワコは自分が言い出しっぺであるのも忘れて小さく噴き出した。スガタ以上に楽しそうにして、巾着袋を揺らして立ち上がる。
「私、先戻るね」
 あまり言い争いをして授業に遅れないよう忠告して、彼女は短いスカートを翻して走り出した。
 温かな日射しに吸い込まれていく少女を見送って、スガタはまだ頬を膨らませている赤い髪の少年に視線を向け直した。
「ちなみに、僕は肉食系だ」
「そんなわけない」
 得意げに言い放った彼に即座に反論して、タクトは缶入りの紙袋を握り潰した。
「そんなはずない。スガタは、絶対に草食系」
「お前は色んな女子に声を掛けて、人気を集めている。だが実際、お前は彼女たちにこれといって手を出そうとしない」
「え?」
 ムキになって反論する彼に畳みかけて、スガタはずい、と前に出た。タクトの膝の手前に右腕を突き立てて、腰を浮かせて前屈みになる。
 下から覗き込むように見詰められて、タクトは彼の台詞よりもなにより、吸い込まれそうな眼差しに息を呑んだ。
 女子に声を掛けて回っている、というのは語弊がある。正しくは、向こうからタクトに近付いて来るのだ。
 手を出さないのだって、そういうアピールをされた覚えがない、とタクト自身が思い込んでいるからに他ならない。
 彼に興味を抱く女子からすれば、この鈍感ぶりはなんとも歯痒かろう。
 だからこそ助かっているのだが。
 地団駄を踏む少女らの姿を思い浮かべてクスリと笑い、スガタはきょとんとして、ほんのり頬を朱に染めている少年に目を細めた。
「スガタ?」
「だけど僕は、違う」
 タクトは迫り来る彼を避けて、後ろに下がろうと足掻いた。尻込みして、仰け反って距離を稼ごうとする。
 そんな彼に更に顔を寄せてスガタはふふ、と楽しそうに微笑んだ。
「僕は、欲しいと思ったものは必ず、どんな手段でも手に入れる」
 それは物でも、人でも、同じ。
 怖い事を嘯いた彼に瞠目し、タクトは首筋を撫でた温い風に冷や汗を流した。
 椨の枝が揺れる。ざああ、と生い茂る葉が一斉にざわめいた。
 温かな、それでいて柔らかな感触を唇に覚えて、何度となく瞬きを繰り返す。
 まん丸に見開かれた緋色の瞳を面白そうに眺めて、スガタはふっ、と触れあわせた唇の隙間から息を吐いた。
 浴びせられた熱風に竦んで、地面に落ちたタクトの指がぴくり、震えた。
「……ン」
 緩く折れ曲がった膝にのし掛かるようにして、スガタが身を乗り出す。目も閉じず、窺うようにじっと間近からタクトを見詰める。
 重なり合った場所から漏れる吐息に擽られて、惚けた顔の少年は頭の天辺目掛けて突き抜ける電流に四肢を強張らせた。
 ちろり、柔らかで熱いものが唇を掠めた。
 それが他ならぬスガタの舌だと気付いた瞬間。
「っわあ!」
 タクトはみっともなく悲鳴をあげて、彼を突き飛ばしていた。
 真っ赤になって、急いで唇を手の甲で擦る。だのに他者から与えられた感触も、熱も、すぐには消えてくれない。
「な、んぁ、なっ、……なな!」
「肉食系だからな」
 呂律が回っていないタクトに意地悪く微笑み、尻餅をついたスガタがくっ、と笑った。
 その勝ち誇った表情に、自分が彼に何をされたのかをようやく理解する。耳まで真っ赤に染めて、タクトは再び近付こうとしている彼から跳び上がって逃げた。
 丁度、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響き始めた。
 リーンゴーン、という壮大な鐘の音にふたりして顔を上げて、先に我に返ったタクトが足許に転がしていた紙袋を掴んだ。緑の芝を蹴り飛ばし、脱兎の如く駆け出す。
「スガタの……ケダモノ!」
 そう言い残して。
 怒鳴られた方はそれでハッとして、もうすっかり遠くなってしまった少年の背中に苦笑を浮かべた。
 仄かな熱を帯びる唇をなぞり、吐き捨てられた台詞を思い出して肩を揺らす。
「ケダモノ、か」
 成る程、肉食系男子としては最奥の褒め言葉かもしれない。
 そんな風に考えながら、立ち上がる。付着した草の切れ端を払い落とし、伸びをして、荷物を持ってのんびりと歩き出す。
 と、ふと思い出した事があって、彼は立ち止まって椨を振り返った。風に揺れる樹木で見た赤い顔の少年にふむ、と頷いて顎を撫でる。
「まだちょっと、早かったかな」
 この想いは伝えている。彼の想いもまた、此処にある。
 トクン、と鳴った左胸に手を添えて、微笑む。
「後で謝らないと、後が怖い」
 記念すべき自分達の初キスに相好を崩し、彼は教室までの道を急ぎ走り出した。

2011/01/30 脱稿