Time tames the strongest grief.

 疲れた肩を労って骨を鳴らし、バーナビーは椅子の背凭れに深く身を沈めた。
 眼鏡の上から眉間に指をやり、同じく疲労感たっぷりの眼を慰めて吐息をひとつ。もう片腕は頭上高く掲げて仰け反った彼は、十秒ばかりその体勢で停止した後、勢いをつけて前のめりに姿勢を作り変えた。
 両足で床を蹴って立ち上がり、椅子を引いて道を作る。ブラインドの向こうに広がる空はもう暗く、時計の針は夜といって申し分ない時間帯を指し示していた。
 定時はとっくに過ぎているが、まだ暫く此処に居座らなければならない。終わらない事務仕事に辟易しつつ、ちょっと休憩を入れようと、彼は資料が山盛りのデスクを軽く叩いた。
 ふたつ並んだ机は、片方は綺麗に整い、片方は雑然として今にも雪崩が起きそうな有様だった。
 乱雑に積み上げられたファイルの間に、仕事とかおおよそ関係ないだろう雑誌が紛れ込んでいる。いったい此処は何をする場だと思っているのかと、怠け者の不在の隣人に向かい、バーナビ―は呆れ混じりに嘆息した。
 眼鏡を押し上げてきらりと輝かせ、無人になってそろそろ三十分は過ぎようとしている机を毅然と睨み付ける。だがそんな事をしたところで、置き去りにされた仕事が終わるわけではない。
 どうせ休憩室かどこかでサボっているに違いないが、仕事を放置したところでひとりでに終わってくれるはずが無いのは自明の理だ。
 手をつけずに捨て置けば置くほど、スケジュールが厳しくなっていくという事に、三十も半ばを過ぎたあの男は何故気付かないのか。
「まったく」
 絶賛売出し中のニューヒーローであるバーナビーは、不本意ながらあの男とペアを組んでいる。もっともそれとて、契約している会社の方針だから渋々従っているまでだ。
 最初の頃は、仕事上のみの付き合いだから我慢しようと思えた。だが時間が経つに連れて、どうやらそうもいかないことに気がついた。
 現場で犯人逮捕や人命救助に当たるだけのコンビと思いきや、実際はそうではなかった。ふたり一組ということは、つまるところ、報告書もふたり分でワンセットなのだ。
 そして相棒の鏑木・T・虎徹なる人物は、昔からずっとそうだったらしいが、書類仕事が非常に苦手だった。
 頭よりも先に体が動くタイプというものは、どうにも面倒臭くてやり辛い。辛抱が足りず、少しもじっとしていないところは、まるで子供だ。
 度重なるバーナビーの説教に、いい年をして膨れ面をして睨んでくる顔を思い浮かべて、彼は緩く首を振った。
 もう月末で、提出の締め切りも明日に迫っているというのに、これでは上司の説教も免れない。いくら自分が優秀でも、こうまで足を引っ張る相手が一緒だと、フォローしきれない。
「何処にいったんですか、あのおじさんは」
 辟易しながら呟いて、バーナビーは一向に開く気配のない扉に目をやった。
 探しに行きたいところだが、行き違いになるのは悔しい。帽子がデスクに残っているので、恐らくまだ社内に居る事は居るのだろう。
「どうして、こうも」
 今時分、小学生だってもっとしっかりしている。
 髭面の男のにやけた笑顔に奥歯を噛み、数秒悩んだバーナビーはポケットから携帯電話を取り出した。
 いつぞや、悪戯されたのを思い出す。二つ折りの小型機械を開いてびっくり、中年男のピースサインが現れた時には、握り潰してやろうかと思ったくらいだ。
 下らないことをしていないで、是非とももっと違うところに情熱を注いでもらいたい。
 恨み言は数知れず、心の中であれこれと並べ立てながら、バーナビーは短縮に登録済みの番号を呼び出した。
 ボタンを押して、回線を繋ぐ。ぷぷぷ、と電子音が端末を押し当てた右の耳に響き、程無くして着信音が鳴り始めた。
 部屋の中から。
「……む?」
 バーナビーが電話を鳴らした、まさにそのタイミングで軽やかなラテン調のリズムが奏でられた。彼は眉間に皺を寄せて携帯電話を顔から離し、表示されている番号をじっくり二度確認して呼び出しを切った。そうして五秒を数えてから、同じ番号を、今度は親指で頭から押して鳴らしてみた。
 先ほど聞いたのと全く同じメロディーが、最初から流れ始めた。
「あの人は!」
 憤って怒鳴り、バーナビーは音の発生源を探して隣の机に侵入した。
 電話は鳴らしたまま、当たりをつけた場所を左手で探る。積み重なった雑誌の下から、見覚えのある小さな機体が現れた。
 リズムに合わせてカタカタ揺れている。モニターに表示される発信者名は、バニーになっていた。
 苛立ちを隠すことなく、バーナビーは自分の電話を切った。程無く、喧しかった音楽も止んだ。
 所在を突き止めたくて連絡を取ろうとしたのに、まさか携帯電話を「携帯」していないとは。予想外の展開に、バーナビーの計画は初っ端で頓挫し、暗礁に乗り上げてしまった。
 こめかみに生じた鈍痛に耐え、彼は溜息と共に肩を落とした。
「常識というものがなさ過ぎる」
 戻ってきたらまた説教だと鼻息荒く意気込んで、バーナビーは着信があったと知らせるランプが明滅する、他人の携帯電話を引っつかんだ。
 八つ当たりで放り投げてやろうと思ったのだが、実行に移す寸前で我に返って中止する。ここで物に当たったら、自分だって癇癪を爆発させる子供と同じだ。
 冷静になって首を振り、彼はそれを元の場所に戻そうとした。
 が、またもや寸前で思い留まり、なにを思ったか顔の前まで持っていった。
 右手には自分のものを、左手には虎徹愛用の分を。
 両者を交互に見比べた後、彼は右手の分をポケットに押し込み、左手にあったものを右手に持ち替えた。
 いつぞやの、子供じみた悪戯を振り返って、長い時間をかけて息を吐く。
「……ちょっとくらいなら」
 デビュー十年目にして、正義の壊し屋の異名を取るポイントランキング最下位の男。市民からの人気は底辺を彷徨っているに関わらず、彼と長い付き合いのあるヒーローたちからは一目置かれ、信頼も厚い。
 お調子者で、お節介で、面倒臭がりなのに他人の危機には敏感で、行動を起こすのに迷いを抱かない。
 損得を真っ先に考えてしまうバーナビーとは正反対の、考え方もやり方も古臭くて、なにひとつ受け入れ難い男なのに。
 妙に気になって、目で追いかけてしまう、そんな存在。
 会社の中での彼については、誰よりも知っている自信がある。だがプライベートの時間となれば、どうだろう。
 彼と親しくしているヒーロー達を順に思い浮かべて、バーナビーは奥歯を噛み締めた。
「いや……」
 そうではない。そんな訳がない。
 なにか、彼の行き先のヒントに繋がる内容が残されていないか。それを調べるために、ちょっと覗かせてもらうだけ。これは仕事の上で必要な行為であり、純粋な好奇心や、興味からの行動ではないのだと、そう、誰に対してか何度も言い訳を繰り返して、バーナビーはドクドク言う心臓から目を逸らした。
 生唾を飲んで息を殺し、恐る恐る親指で本体のボタンを押す。
「――……」
 現れたのは、暗証番号の入力を求める画面だった。
「です、よね」
 携帯電話とは、プライバシーの塊のようなものだ。誰かに見られないようにロックをかけておくのが、世の常というものだ。
 そんな自分は、といえば今までこっそり携帯電話に悪戯しようだなどという人間が身近に居なかったのもあって、油断していたわけだが。
 意外なところでしっかり者だった虎徹に、悔しいやら哀しいやらで、バーナビーは複雑怪奇な感情を胸の奥に押しやり、表面上は無表情を装った。
 密かに盗み見しようとしたのを見付かって、バレて叱られた気分にもなった。こういう犯罪すれすれの事をするのは、自分に課したルールにも反する。大人しく諦めて、元の場所に戻しておくのが得策だというのは分かる。
 だがあの虎徹にも隠したいものがあるのだと考えると、却って興味が沸いて止まらなかった。
「戻って、来ないな」
 あと三十秒を数える間にドアが空いたら、無謀な挑戦は諦めよう。
 そう決めて注意深く後方を窺うけれども、緊張に頬を引き攣らせるバーナビーを嘲笑うかのように、室内の空気に一向に変化は現れなかった。
 時計の針がカチリと動き、爆発しそうな心臓に汗が止まらない。腋の下がじっとり湿るのを感じながら、彼は四桁の数字を画面に素早く打ち込んだ。
 確か、と記憶の引き出しを弄って、以前見せられた虎徹の経歴書を脳裏に蘇らせる。
「ちがうか」
 決定キーを押してみたところ、番号が違うとすげなく言われてしまった。
 ホッとしたような、そうでないような、うまい具合に当てはまる言葉が見付からない表情をして、彼は首の後ろを掻いた。
 もっとも、携帯電話の暗証番号に、自分の誕生日を設定する人間はそう多くはなかろう。当てはまるとしたら自己偏愛者か、よっぽど適した数字が思いつかない人くらいか。
 誕生日でないとしたら、電話番号。次に思いついたアイデアに頷き、バーナビーは最初に比べれば幾分スムーズな指使いで数字を並べていった。
 だが、携帯番号の末尾でもなかった。虎徹の自宅の固定電話も試してみたが、結果はこれまでと全く同じ。
「ふむ」
 虎徹に関わる、バーナビーが知っている限りの四桁は、悉く空振りだった。
 彼は小さな端末を右手に載せて、左手で顎を撫でて唸った。
 これで終わりにしよう、と思いながら親指を動かすのに、いざ違うと判明すると何故か悔しい。ガードが固ければ固いほど突き崩したくなって、半ばムキになりながら、バーナビーは他になにかないか、と無意味に視線を泳がせた。
 最終的に自分の手元に戻った瞳が、ぱちぱち、と二度続けて瞬きした。
「いや、まさか」
 幾らなんでもそれはありえない、と頭は否定するのに、右手は主の思いに反して胸に浮かんだ数字を押していた。
 そして案の定ハズレを引いて、予想外にショックを受けている自分にもショックを受け、項垂れた。
 俯いて首を振り、前髪を掻き上げて背筋を伸ばす。長い溜息をひとつ吐いて、彼は念のためもう一度、バーナビー・ブルックス・Jr.の誕生日を虎徹の携帯電話に叩き込んだ。
 結果は変わらない。これまで何十回と目にしたのと同じ画面に唇を噛んで、バーナビーはツンと来た鼻を掌で押し潰した。
「やめよう」
 こんな事、不毛だ。
 時間の無駄だと己に言い聞かせ、すっかり体温に馴染んでしまった携帯電話を机へ置く。だが手放し難く、そっと掌を重ねていたら、突然それがぶるぶる震え始めた。
 奏でられるメロディーは、少し前に聞いたものとは違っていた。
「な、なんですか」
 慌てて手にとってみるが、応対に出ようと思ってもロックが掛かっているので叶わない。両手でお手玉してオタオタしている間に、電話の相手も諦めたのか、玩具のマーチは半端なところで停止した。
 なにも聞こえなくなって、チカチカ明滅するランプだけがバーナビーの手に残された。
「今のは……」
「あー、くそっ」
 肩で息をしながら呆然としていたら、それまでうんともすんとも言わなかった後方のドアが突如プシュッ、と開いた。
 通行人の気配を感じ取って自動で開閉する扉を潜り、悪態をつきながら髭面の中年男が中に入ってくる。両腕を頭の上にやって交互に伸ばし、悔しげに顔を顰めて口を尖らせている。
 いきなり時間が動き始めて、バーナビーは他人のデスクの前で凍りついた。
 しかも彼の手は、未だ虎徹の携帯電話を握ったままだ。
 顔面を引き攣らせた彼の脂汗に気付かず、虎徹は腕を下ろして首を傾げた。定位置とは違う場所に立っている彼を不思議そうに見詰めて、目を眇めたかと思うと。
「あー!」
「うわっ」
 雄叫びのような悲鳴をあげられて、バーナビーは飛びあがった。手にしたものも放り投げてしまって、もう少しで落とすところだった。
 両手で大事にキャッチした彼に、虎鉄も安堵の表情をありありと浮かべた。
 不味いところを見られたと焦る相棒を他所に、彼は屈託なく笑って両手を腰にやった。人の携帯電話を手にしていたというのに、バーナビーを疑う素振りは一切ない。
「なあ、それ。何処にあった?」
 それどころか逆に聞き返されて、バーナビーは目が点になった。
「はい?」
 素っ頓狂な声をあげてしまった彼だが、虎鉄は気にも留めなかった。渡してくれるよう掌を上に手を伸ばしてこられて、彼は一呼吸置いて頷き、差し出すと同時に汚らしいデスクに目をやった。
 初期と異なる配置の雑誌を見て、虎鉄も納得したのか、頷いた。
「鳴っていましたので」
「だよな。悪いな、ありがとさん」
 今し方ベルが鳴ったので手に取ったと、さも面倒臭そうな態度を取ったバーナビーを素直に信じて、虎鉄はあまり有り難味を感じさせない礼を述べた。
 くしゃりと笑うと、見た目が幼くなる。その笑顔は嫌いではなくて、だが顔に出すのも悔しくて、バーナビーは逆にむっとして腕を引っ込めた。
 電話が鳴っていたのを知っていた風の虎鉄をいぶかしんでいると、彼は何を思ったか、取り戻したばかりの携帯電話を叩き始めた。
「ったく、ンなとこに居たのかよ。探しちまっただろー?」
 声だけ聞いていたら、迷子になった飼い猫を見つけて叱っているようにしか聞こえない。携帯電話は無機物で、自分の足で歩いて隠れたりはしないので、妖精が悪戯したのでも無い限り、虎徹が自分で其処に置いたのに。
 怒られている携帯電話も、さぞや遣る瀬無さに打ちひしがれていることだろう。
「おじさん」
「おっと。悪かったな、五月蝿くして」
 どうやら虎鉄が長時間席を外していた原因は、その小型端末にあったらしい。
 机に置いていたのに、上に雑誌が倒れてきたせいで見失って、どこかに忘れて来たと勘違いしたのだろう。心当たりを探し回ったが見付からなくて、最終手段として公衆電話か誰かの電話を借りて、自分の電話を鳴らしたのだ。
 光景を想像して、バーナビーはふっ、と笑った。
「痴呆の始まりじゃないですか?」
「俺はまだ三十台だぞ!」
「充分おじさんですよ。それより、仕事、早く終わらせてください」
 嫌味を言って顎をしゃくり、スリープモードに入っているパソコンを示して場を退く。自分の机に戻ろうとしたバーナビーにむっとして、虎鉄は手元に戻って来た携帯電話に向かって口を尖らせた。
「可愛げがねーなぁ……って、メールが来てら」
 愚痴を零した虎鉄が、椅子を掴んで引き寄せながら呟いた。
 バーナビーの見ている前で、彼にも見える角度で素早くロックを外す。四桁。あまり宜しくない視力で目を凝らした彼は、続けて机上の小型カレンダーを見た。
 頭の中のスケジュール帳の、該当日は真っ白だった。
「おじさん」
「んー?」
 椅子ではなく机に腰を預けた彼に呼びかけるが、虎鉄は生返事をしただけで、視線は小さなモニターに固定されていた。
 目を合わせようともしない態度に少し苛立って、バーナビーはメールを読んでいる横顔を睨み付けた。
「誰の、かは知りませんが。誕生日なんて分かり易いパスワード、感心しませんね」
 眼鏡を押し上げて淡々と言い放つ。感情の篭もらない冷めた口調に、虎鉄はきょとんとしながら顔を上げた。小首を傾げられて、バーナビーは右手で視界の半分を隠したまま臍を噛んだ。
 虎鉄が笑った。照れ臭そうに。
「あっれー? バレちゃった?」
 おちゃらけた調子で言って、机への座りを深くする。踵を浮かせた彼は、長く細い脚をぶらぶらさせて、掌に収まるサイズの端末をじっと見詰めた。
 その、どことなく寂しげな表情に、バーナビーは眉を顰めた。
 矢張りあの数字は、誕生日だったのだ。となれば、誰の。先日存在を明かされたばかりの娘か、それとも。
 五年前に亡くなったという――
 顔も知らない相手を想像した途端、ざわりと胸がざわめいた。悪寒めいたものに襲われて背筋が粟立ち、吐き気がこみ上げて逆流した胃酸が喉を焼く。眩暈を覚えて額を押さえれば、指の隙間にいた虎鉄が心配そうに顔を顰めやった。
 触れようとする手を拒んで叩き落して、バーナビーは覚えた苛立ちを懸命に押し殺した。
 醜い感情がいっぱいに膨らんで、内側から身体を食い破ろうとしていた。どす黒いものが全身の汗腺からあふれ出して、白い部屋を暗く汚さんとしていた。
 虎鉄と出会うまでは知る由もなかった、奇妙で、とても不愉快な想いがとぐろを巻いてバーナビーを飲み込もうとしていた。
「バースデーじゃ、ないんだけどな」
 歯を食いしばって堪えている彼を知らず、虎鉄がのんびりと、寂しげに呟く。
 暗くなった画面を見詰めた彼の左薬指には、恐らく一生外されることのない指輪が、存在を誇示するかのように輝いていた。
「……?」
 はにかんだ虎鉄を不思議そうに見詰め返して、バーナビーは荒い息を整えた。左胸をそれとなく押さえて心臓を宥め、黙ってしまった男が次に口を開くのを辛抱強く待つ。
 沈黙が耐え切れなくなった虎鉄が、顔をくしゃくしゃにして泣きそうに笑った。
「花の一本でも買って行ってやらないと、怒られるだろ?」
 忘れたくないのだと言外に告げて、机から飛び降りる。両足で着地を決めた彼の、なにかを悟ったような静かな横顔にゾクリと来て、バーナビーは息を飲んだ。
 誕生日ではない。幼い娘との記念日でもない。
 では、なんだ。
 親しい人に花を贈ると決めている日など、そう種類は多くない。
 ザッ、とバーナビーの脳裏を過ぎる光景があった。降りしきる雨、焼け焦げた屋敷の跡。もう誰も居ない、誰も住むことのない廃墟と化した小さな世界に佇む、まだ幼い頃の自分。
 汚物で頬を撫でられたような不快感がこみ上げて、彼は今度こそ口元を手で覆い隠した。唾を飲んで出てこようとする様々なものを押し返して、息さえ止めて必死に堪える。
 脂汗を流す彼を見ようともせず、虎鉄は過ぎ去った日々に思いを馳せているようだった。
 自嘲と、後悔と、哀愁が混ざり合った横顔に、唾を吐いてやりたかった。
 虎鉄の時間は止まっている――熱で溶けてしまった柱時計の、それでも辛うじて残った針が指し示す焦げた時間に、バーナビーが今も囚われているのと同じように。
 日頃は微塵も感じさせない過去への執着を滲ませた虎鉄を、出来るなら殴り飛ばしてしまいたかった。
「おじさん!」
 混乱する頭を抱え、バーナビーは怒鳴った。足元に向かって息を吐いて、波立つ心が平坦になるまで踏み潰す。
 肩を上下させている彼を振り返り、虎鉄は眉を顰めた。
 必死の形相を怪訝に思うと同時に、触れてはいけないものとして自分を戒める。こういう時に限って鋭い彼を恨みつつ、バーナビーは吐き捨てようとしていた言葉を一旦は飲み込んだ。
 渦巻く嫌悪感が何に対してなのかが、自分でも良く分からない。
 虎鉄に対してか。それとも彼の心を今も、これから先もずっと、独占していくだろう女性に対してか。
 或いは。
 痛いくらいに唇を噛んで、彼はかぶりを振った。
「その、番号。もう止めた方が良いですよ」
 精一杯の虚勢を張って、平静を装って告げる。だが努力は虚しく、声は裏返って、とても人に聞かせられるものではなかった。
 変に上擦って高くなった彼の言葉に、虎鉄は目を丸くし、理由の説明を求めて首を右に倒した。
 はっ、と息を吐いて、バーナビーは気付かぬうちに握り締めていた拳を解いた。汗に濡れた肌は生温く、不快だった。
 知らなければ良かった。出会わなければ良かった。
 パートナーとしてやって来たのが彼でなかったら、もっと楽に生きられただろうに。
「バニー」
「暗証番号っていうのは、人に知られてはいけないものです。でも」
「……ああ」
 押し殺しきれない動揺を声に忍ばせた彼に、虎徹は緩慢に頷いた。沈黙する携帯電話を見詰めて、気難しげで哀しげな顔をする。
 その表情を見て、バーナビーははっとした。
 もしかしたら彼も、暗く冷たい凍えた時間に留まり続ける自分を、心のどこかで愚かしいと思っていたのではないか。
 愚劣極まりなく、恐ろしく無意味な行為だと気付いていたのではないか。
 けれど自分では振り切れなくて、踏み出せなくて。誰かが背中を押してくれるのを、ひっそりと待ち続けていたのではないか、と。
 勝手な思い込みであり、都合の良い解釈だと分かっている。それでもそう思わずにいられなくて、バーナビーは青白かった頬に紅を咲かせ、口を開いた。
 喘ぐように息を吸い――
「じゃあ、何が良いと思う?」
 呼びかけようとした瞬間、逆に問いかけられた。
 喉に空気を詰まらせた彼は目を白黒させて、咄嗟に浮かんだ四桁の数字を無意識のうちに口遊んだ。
 暗証番号は誰にも知らせてはいけないと言っているのに、何故聞くのか。当たり前に浮かんだ疑問は、ふたりの間で泡となってはじけた。
「それ、なんか意味あるの?」
「……適当ですよ」
 早速設定し直した虎徹が、興味深げに問いかけてくる。
 バーナビーはそっぽを向いて、椅子に深く腰掛けた。彼に背を向けて、積み上げられている資料の整理に取り掛かる。
「そっか」
 首の後ろが赤くなっている彼に目を眇め、虎徹もまた、面倒な仕事を片付けようと椅子を引いた。
 さほど興味を示さず、追求してこない彼をちらりと窺って、バーナビーは一割の落胆と、九割の安堵が入り混じった溜息を零した。
 まさかそれが自分たちの、初めて顔を合わせたあの時間だとは、口が裂けても言えそうになかった。

2011/06/06 脱稿