宿志

 僕が「もしも」という不確定な未来の話をするのが嫌いだと知っていたから、君はあまり、その言葉を使わなかった。
 だったらいいな、とか、そうなればいいな、とは良く使っていたけれど、この単語で始まる会話は、少なくとも僕の前では殆どしなかった。
 記憶に残る限り、それを君が使ったのは、あの一度きり。
『あの、お願いがあるんですけど』
 闇の中でいつものように甘える声を出した君の気配が、ほんの少し震えていたのに気づいていても、僕はそれを止められなかった。

 大丈夫、が口癖だった。
 きっとなんとかなる、だから大丈夫。
 根拠の無い話は嫌いだと言っているのに、くどいくらいにその言葉を吐き続ける。
 大抵君がその言葉を口にする時は、どうしようもなく追い詰められて本当にどうにもならなくなっていて、大概大丈夫とは程遠い状態に追い込まれているものだから、君の言う「大丈夫」程あてにならないものはない、と言い返すのが一種のルールのようになっていた。
 それはそれで、良かったのだ。
 たとえ万全の状態ではなかったとしても、君は確かに僕のところまで戻って来たのだから。時に僕が奪い返しに行く、何てこともあったけれど、結局のところ君は最後には僕の手の中で、安心したからか死んだように眠っていた。けれどそれは本当に死んでしまったわけではなくて、翌朝太陽が昇れば否応なしに君は目を覚まし、その零れ落ちそうな大きな瞳をいっぱいに見開いて僕の顔を覗き込み、何故貴方が此処に居るのですか、とわけのわからないことを言うのも常だった。
 それは君が人の袖なり、シャツなり、手なり、掴んだまま離さなかったからだろうといえば、急に照れ臭くなったのか真っ赤になって飛び退いて、ベッドから滑り落ちるなんて事も一度や二度の出来事ではなかった。
 君は本当に見ていて退屈しない子だった。次に何をしでかすのか分からないし、その心の奥底は最後まで読み解けなかった。
 手を伸ばせば握り返されるのに、君が僕の指を冷たいと言うように、君の心はどこか乾いていた。
『お守り、ください』
 逸らすこと、拒むことを許さない絶対王者の瞳が僕を射抜く。
 暗がりに落ちる闇よりも深い影がふたつ、重なり合った後やがて離れた。
 君は、振り返らなかった。
 

「行くの?」
 問う声はあくまでも静かに、無感情に、淡々と。
 けれど視線を上げ、少し驚いた様子を見せた君の目に映る僕は、何処かぎこちなく、微かな緊張を湛えた顔色をしていたように見えただろう。
 自分でも自分らしくないと思い、可笑しくて笑えそうなくらいに、僕はその質問が肯定で返されることを拒みたがって、心は震えていた。
「はい」
 少しだけ首を右に傾け、はにかんだ笑みを浮かべ頷いて返した君を咄嗟に抱き締めて、行かせまいと動きたがる体を理性で押し留める。そんな事をしても無駄だというのは、君のその柔らかな笑顔が決意の裏返しだととっくに勘付いているからだ。
 寒くもないのに右腕を左腕で強く握った僕に、君はいつもと何も変わらないように見える笑顔を向け続ける。
「俺が行かないと、終わりません」
「君が行っても、終わらないかもしれない」
「それでも」
 皮肉を言うつもりはなかったけれど、結局はそういうものになってしまった。やや自嘲気味に口角を歪めて言った僕の言葉を跳ね返し、けれど僅かに視線をずらして左へ流した君は、一瞬言葉に詰まって言うべきかを逡巡したようだった。
 窓から差し込むのは仄明るい月明かり。雲に閉ざされれば呆気なく消え失せる、蝋燭よりも頼りない光。
 床に浮かぶは窓枠のシルエット。一箇所だけ開かれたそこからは、潮風が遠い波の音と一緒になってカーテンを揺らしている。
「俺が行かなければ、始まりもしません」
「嘘」
 始まりは、とっくの昔に。
 火種は方々にあった。そのひとつずつを逐一揉み消していけるほど、彼は万能では無い。
「嘘を言うつもりは、ありませんよ」
 貴方に通じるとは思わない、と肩を竦めてぎこちなく笑ってみせる君の頬を指の背で撫でてやる。長く伸びた髪の一本が其処に付着していたからで、払いのけてやると指の動きを追った君の瞳は、そのまま彼方へと流れて戻ってこなかった。
 持ち上げられた君の指がゆっくりと僕の腕を伝い、下ろさせる。絡ませようとしているのか、いないのか、迷う動きをとる指先はそっくりそのまま君の心の中を現していて、だから僕からそっと包み込むように握ってやれば、君は一瞬だけ全身を強張らせた後完全に俯いてしまった。
「行かなくていい」
「駄目ですよ、そんな事言っちゃ」
 貴方らしくない、と君は笑う。けれど顔を伏せてしまっているので、君が今どんな表情をしているのかは、僕には見えなかった。
 そうして沈黙の帳は降り、どちらもが等しく黙り込んでしまって会話は途絶える。流れ来る風だけがただ静かに、こうやっている今も時間は動き続けているのだと僕らに教えていた。
 刻限は、もう間近に。
 指定は、至極シンプルかつ冷酷極まりないものだった。
 ひとりで。たった、それだけ。
 ボンゴレの次代の長を潰せば、その影響は甚大なものとなる。今まで鉄の結束を誇ったこの世界は、途端に空中分解するだろう。ベッドの上の人となった九代目は未だ気勢衰えずとはいえ、彼に嘗ての行動力を求めるのは酷な事。
 気づくのが遅かった自分たちの力量不足を恨むのか、この状況に至るまで気づかせなかった相手の姑息さを褒めるべきか。
「大丈夫ですよ、ヒバリさん」
 根拠の無いその自信が何処から来るのかを聞きたくて、腕を伸ばす。拘束を逃れた腕で君の顎を取り、上向かせる。
 抵抗をせずに促されるまま瞳を持ち上げた君は、予想外に穏やかな目をしていた。
 諦めたのか、悟ったのか。それとも、本当に。
「大丈夫、です」
 押し退ける格好で僕の腕を左手で再び下ろさせた君は、凪の時間の海よりも静かな声で重ねて、そう告げた。
 確かに、今此処でボンゴレ十代目を奴らが殺せばどうなるか。ボンゴレの下には百を越えるファミリーがあり、その下にも無数のファミリーが凌ぎを削っている。
 その全てを敵に回す愚かさを、果たして奴らは実行するだろうか。
 いいや、解らない。そもそもこの数年で急激に勢力を増大させ、傘下となるファミリーを吸収合併してきた連中だ。血の掟、鉄の結束よりもまず力ありきの方向性は、旧世紀の遺産を引きずり続けている自分たちと著しく乖離している。
 保証は無い、どこにも。今までと同じやり方を貫いても、どこかで挫かれる。いや、既に綻びは目に見える形で僕たちの前に現れているではないか。
 それでも尚、気丈に「大丈夫」と口にし続ける君は、僕に言っているのではなく、いつもように、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
 握り返された指は氷のように冷たく、人の体温を感じさせない。蝋人形のようだと心の片隅で思いながら、それにしては柔らかすぎる君の癖だらけの髪をじっと見下ろす。
「行かなくていい」
 あんな奴らなどと、正面切って戦う勇気もない愚図どもと、語り合う場を持とうとするほうが馬鹿げている。嘆かわしい、と口早に告げたのもまた、君は僕らしくないと首を振って否定するのだ。
「今はまだ……あちらの目的も、意図も、何も分からない状況でただ無駄に戦火を拡散させるのは、得策ではないと思います。俺が出向いて、それで何か分かる――もしくは、変わるのであれば」
「死ぬ気か」
「俺は、いつだって」
 死ぬ気ですよ、と。
 おどけた道化を装って笑おうとして、君は失敗していた。見上げた先の僕の顔が、怒りさえ含む表情に彩られているのを知って、君は開いていた口を閉ざし続けようとした言葉を飲み込んだ。
 伏せられた瞳が足元を無駄に泳ぎ、僕たちの足のほぼ中心点で止まる。縋るように持ち上げられた君の右腕は、けれど爪の先が僕の上着を引っ掻いたところで痙攣を起こし、そのままもとの位置へと戻っていった。
「本当……心配しなくてもいいですから」
 気丈に振舞おうとして、けれど声が震えている。心持ち色を失った唇が細かく震えているのがあまりにも可哀想で、発作的に僕は半歩前に出て、その小さな身体を腕の中に押し込めた。
 身動ぎした君が、必死に両腕を振り上げて抵抗を見せる。けれど背中の低い位置でがっしりと両の手を結び合わせた僕を、君はそう易々と振り解けない。
 殴ろうと握り締められた拳は、途中で力をなくして僕の肩へと落とされる。
「ダメです、ヒバリさん。放して」
 肩口に顎を埋めている所為で、君の顔は見えなくなった。瞳をぎりぎりまで横向ければ、柔らかな髪の隙間から覗く耳朶が見える。
 君の身体は何処までも冷たかった。普段は子供みたいに暖かくて、時には考えすぎからか知恵熱を起こして三十七度など当たり前だった君の体が、凍てついた冬の海から引き上げられてきたばかりみたいで。
「どうして」
 凍り付いている身体を溶かしてやりたくて、耳朶に頬を寄せる。軽く首を前後に揺らして擦り合わせれば、とても近い場所から君の緊張した息遣いが聞こえた。
 何度も唇をかみ合わせ、開き、息を吸っては吐いて、時間を置いて。
 問いかけに懸命に答えを搾り出そうとしているのに、言葉が何一つ浮かんでこないのか。苛めているつもりはないのに、心がささくれ立つ。
「つなよし」
「放して……ください」
 最後の最後まで、敬語で話す癖は直らなかった。名前で呼ぶのも、嫌がった。その理由を聞いた時も、なんとなく、とはぐらかされてしまって、結局最後まで聞けなかった。
 底抜けに明るく笑う向日葵のような君が、遠い。
「放さない」
「ダメです、本当。ヒバリさん、お願いです」
 肩に置いているだけだった手を広げて押し返そうと試みた君だけれど、その程度の力で僕の身体がびくともしないのは分かりきっていたはずだ。それなのに抵抗をやめず、解放を求めて言葉を連ねる君は必死で、だから余計に辛そうに見えた。
 答えない限り放しはしないという意思を込め、君が真ん中で折れてしまいそうなくらいに抱き締める。いっそこの腕の中で眠ってしまえばいいとさえ思うくらいに、僕だって必死だった。
 今手を放せば二度と戻らない、予兆は暗い影を僕たちの周囲にとっくの昔に落とされていた。
「ヒバリさん」
「ダメだ」
「いやだ、放して」
 行かなければならない。定められた時に間に合わなければ、その時点で契約不履行に陥る。何事にも揺るがず、取り交わした約束は必ず成し遂げる。そう銘打たれたボンゴレの誇りを傷つけるわけにはいかない。
 たとえこの命が打ち砕かれようとも、守り通さなければならないものがある。
 何代も、何十年も、積み重ねて今の礎が作り上げられたのだ。僕たちの足元には、名も知られぬ多くの肉塊が折り重なり合っている。それら無言の目が問いかけるのだ、俺達の命を無駄にする気なのか、と。
 君はその視線を、跳ね返し押し退け、見ないフリを貫き通すことが出来ないでいる。
 そんなもののために、君を失えというのか。
「いやだ」
「お願い……ヒバリさん」
 力なく落ちていった君の両腕が、僕の上着を握り取る。ゆるりと背に回された手が、放せと口では言いながら放さないでと訴えている。
「放して……でないと、俺」
 弱々しく、たどたどしく紡がれる声のひとつひとつが、どうしようもなく愛おしくて、狂おしくて。
 何処にも行かせず、どこかに閉じ込めておいてしまいたくなる自分が堪えきれない。
 君が苦しいのは分かっている、けれど同じくらい僕だって苦しいのだと伝えたくて、腕に力を込める。額を僕の胸元に押し当てた君は、緩やかに首を振って、噛み締めた言葉を熱と一緒に吐き出した。
「俺、行きたくなくなっちゃう、から」
 掠れ気味の声が月明かりに沈んでいく。波を打つように床に広がる細い光の筋に、僕はもう一度「行かなくて良い」とだけを彼の耳に囁いた。
 直後、思い切り突き飛ばされた。
 気を緩めていたところを狙われて、不覚にも僕の身体は後ろへと傾いた。倒れないようにするのだけが精一杯で、たたらを踏んで持ち堪えた僕を君はどこか冷めた目で見据えていた。
 一歩距離を置いて、今度こそ哀しげに、泣く寸前の笑顔を僕に向ける。
「行きます」
 涼やかな決意は、鈴の音に似ていた。
 君の代わりに今度は僕が顔を伏せる番で、最早取り返しがつかなく、引き戻せない場所に立っている現実に嫌気が差した。
 広げた右手で額を覆い、瞳を隠す。こんな情けない顔を君の記憶の最後にしたくなくて、いつも通りに振舞いたいのに、それが出来ない。こんな状況に置かれても平然とした素振りを、少なくとも彼を深く知らない人間にはそう思わせるだけの態度を保ち続けられる彼の、心の強さには舌を巻く。
 君は強くなり、僕は弱くなった。
「それで、あの」
 表情の半分を掌で隠したままでいると、塞いだ視界の向こうで君が急におどおどした声を出す。指の隙間を広げて盗み見た君は、顔の前で人差し指をつき合わせて、こんな時なのに上目遣いの甘えた瞳で僕を見ていた。
 雨に濡れた子猫を思わせる表情に絶句し、額に置いていた手を若干上にずらして僕は吐息を零した。
「なに」
「お願いがあるんですけど」
「なに?」
「えっと、その、……お守り」
 今まで数々の死線を潜り抜けて来たくせに、今回に限ってそんな事を言い出す。矢張りよほどの覚悟が必要だった様子で、気持ちがわからないでもなく、僕は空いていた手を彼に伸ばす。首筋から顎を伝い、頬を包み込んで開いていた距離を詰めようとした僕だったけれど、君は咄嗟に、違うと口走って首を振った。
 跳ね除けられた手の行き場を失い、僕は怪訝に顔を顰めやる。動揺を隠さない目の前の君は、もうひとつ「ちがう」と呟いてから近場の椅子を指差し、そこに座るよう指示を出した。
 本人は足音をけたたましく響かせて方向転換し、事務作業が主となっている、あまり座りたがらない重厚な机に向かって走っていった。
 いったい何なのか。キスをしそびれた事に幾許の不満を抱えつつ、僕は言われた通り白いスツールに歩を進め、身体を反転させて腰を落とした。
 いつでも立ち上がれるように深くは座らず、軽く腰を引っ掛ける程度に留める。大抵いつもこんな座り方をするものだから、気持ちを休める為にもちゃんと座ってください、と毎回君に注意されていたことがいきなり思い出された。
 だが急ぎ足で戻って来た君は、背中の後ろに右手を隠し、目を閉じるようにとだけ僕に言った。
「なに?」
「いいから」
 ちょっとだけですから、と意味が解らないことを言って、君は僕から視覚を奪い取る。大人しく瞼を下ろして待っていると、周囲を忙しなく動き回る気配だけが残された。後ろに回ったかと思えば左に移動し、右を覗き見て、最終的に君は正面に戻る。
 何をしたいのかさっぱり読み取れない僕は、様子を窺おうと右の瞼を薄く持ち上げた。けれどこういう時だけ妙に目敏い君は、ダメですとぴしゃりと言い切り人の額を小突いてきた。
 仕方が無く言う通りに目を閉じ直し、多少の嫌がらせも込めて背筋を真っ直ぐに伸ばしてやる。すると下から覗きこむ格好で気配が近くなり、無意識に喉が鳴った僕を通り越して君の手は僕の前髪を掬い上げた。
 じょり、という多少不穏な音を響かせて。
「……綱吉?」
「あ」
 音は正面から。
 痛くは無い、そもそも其処に神経は通っていない。だが嫌な予感はして、背筋に冷たい汗が伝った。
 目を開ける。半歩引いたところで、右手に銀の鋏を、左手に今しがた切ったばかりと思われる黒髪を持った君が、頬を引き攣らせて立っていた。
 鏡がないので今の状況がどういうものなのか、正確には掴みきれない。けれど今の君の表情と、その手に握られている髪の量、ならびに長さからして、ある程度の想像はつく。
 お守り、と君は言った。
「えっと……あ、あはははは」
「綱吉?」
「……ごめんなさい」
 やや語調を強めて名を呼べば、失敗したと分かっているのだろう君はしおらしく頭を下げた。
 そもそも何故髪の毛を、と聞けば、言っても怒らないかどうかを先ず心配する君が唇を尖らせ、鋏を置いた手で胸ポケットから古ぼけたお守り袋をひとつ取り出した。
 覚えがある、それ。確か過去の自分も、全く同じものを無理矢理に押し付けられている。
 決して忘れえぬ記憶のひとつに結びつく。十年前の、あの日。笹川の妹が作ったのだというお守り袋だ。僕の分は何処に行ったのか、恐らくはこの国へ拠点を移し変える際にどこかに紛れてしまったのだろうものを、君は後生大事に残していたのか。
 君はボロボロになりかけているその守り袋の口を広げ、左に握った髪を押し込める。全部は入らないだろうに、無理矢理指で捻じ込もうとしていて、必死になっている表情は見ている限り滑稽だ。だが当事者である僕からすれば、笑えない行動だった。
 髪の毛をお守りとして持ち歩くという風習は、故国にあったような気がする。君も同じ記憶があったのだろう、そしてこんな行動に出た、と。
 だが、指で掬い取った僕の前髪は、左半分の長さが随分とすっきりしてしまっており、いつもは視界に黒髪が混じるのに片側だけがいきなり見通しが良くなってしまっていた。試しに眉に指を置いても、爪に毛先が触れない。
「綱吉」
「は、はい!」
「……どうして前髪?」
 しかしこの場合、切るとしたら後ろ髪が常ではないのか。幾ら僕の前髪が人より長めであるとはいえ、片側だけ切られては格好が悪い。
 僕の素朴な疑問に、守り袋への詰め込み作業を終えた彼はびくりと肩を震わせ、だって、と声を潜めた。
「後ろを切ると、バランスが悪くなるかな~……って」
「今の状況を見てまだそう言える?」
 後ろ髪を少し切るのと、前髪の左側だけを切るのと。果たしてどちらのバランスが悪いか、火を見るより明らかではなかろうか。
 そんな事も解らないのか、と盛大なため息が漏れる。対する君は今頃になって両手を叩き、それもそうだと深く頷いて返してくれた。
 溜息がもうひとつ出て、頭を抱え込みたくなった。馬鹿な子だとは思っていたけれど、よもやここまで酷いとは。長い付き合いになるけれど、知らなかった。
「う……」
 よく見えるようになった左目で睨み付けてやると、君は子供みたいに拗ねた顔をして上唇を口腔に巻き込ませて噛み締める。けれど敢えて何も言わずにただ視線だけを向け続けてやれば、そのうちに根負けした君は力なく肩を落とし、置いていた鋏を再び手に取った。
 じっとしていてください、と頼まれる。言われなくても目の前で鋭利な刃物を振り翳されれば、君に僕を傷つける意思はないとはいえ、生理的な恐怖感は否めない。動くはずがない、と肩を竦めた態度で示してやり、もう一度目を閉じる。
 ざくっ、という一瞬の音の後、軽く引っ張られていた頭皮の痛みが消え失せた。やや前傾姿勢を取っていた僕は静かに目を見開き、君の顔を捜す。
 何故か左に動いていた君は、遠い世界に意識を飛ばしているようで左手に妙に沢山の髪の毛を握り、斜め上の何もない空間を見詰めていた。
「……」
 確かめるべく持ち上げた指、右から左に動かしてみる。
 出るのは溜息以外、なにもない。
「……ヒバリ、さん?」
「へたくそ」
 幸いなのか、どうなのか、中央部分は若干長めに残されている。だが先に切った左側に長さをそろえようとしたのだろう、右側までもが眉を表に出す短さにされてしまっていた。
 出来るなら怒りたかったが、その気力も萎える。鋏と切ったばかりの髪の毛の束を握り締め、右往左往している様は、マフィア界でも屈指の実力者として名を知らしめているボンゴレ十代目とはとても思えない。
 力が抜けた。最早笑う他無い。
「あの、ヒバリさん」
 声を殺し、けれど笑いは堪えきれず、随分とすっきりしてしまった額に手を置いて体を斜めにずらし肩を震わせる。
 鏡を見るのは辛い作業になりそうだが、切ったのが君だと知れれば、大抵の人間はこの髪型に納得するだろう。
「それも、ちゃんと詰め込んでいきなよ」
「え? あの……怒らないんですか」
「怒ってるよ」
 おずおず近づいて問うた君に即座に言い返し、多少のショックを与えてやって僕はまた声を潜めて笑う。
 きょとんとした君は、慌てて鋏をしまって交換で守り袋を取り、もう限界寸前まで膨らんでいるそれに、泣きそうな顔をしながら必死になって人の髪の毛を押し込んでいった。
 知らない人間が間違って口を開けて中身を見たなら、呪いか何かだと勘違いしそうだ。それくらい大量に、細い黒髪を掌サイズの袋に詰め込んで。
 入りきらなかったものが指の隙間から落ち、君の服に引っかかり、足元に散乱していく。
 ああ、そうだ。行くのは君一人ではない。僕もまた――僕の一部もまた、君と共に行くのだ。
 君を守る為に、君の傍で。
 目を閉じる。景色は何も浮かんでこなかった。
 ただ、夜の闇を漂う潮騒だけが、静かに。
「ヒバリさん」
 飛ばしかけた意識を呼び戻す、君の声。
 作業を終えた君は、妙に清々しい顔をしていた。
「大丈夫、ですから」
 指の先に残っていた短い髪の欠片に微笑んだ君は、何を思ったのかそれを口の中に入れた。止める間もなく飲み込まれてしまい、出しかけた手を宙ぶらりんにさせた僕に、君は。
「もし、何かがあっても」
 大丈夫、と繰り返す。
「貴方のよく知る仲間が、助けてくれます。この状況を、俺は変えられないかもしれないけれど、変えられる力と可能性を持った仲間が、助けに来てくれます」
 だから大丈夫なのだと、君は言う。
 僕の嫌いな「もしも」の話を、楽しげに言う。
「綱吉……?」
「だから、ヒバリさんは。彼らを助けてあげてください」
 貴方にしか頼めないのです、と。
 眇められた君の瞳は、己の限界を知り、終わりを知り、それでも諦めない何かを秘めて輝いていた。
 意味が解らないと戸惑いを露にする僕の手を握り、そっと胸元に押し当てて、今はまだ動いている心臓の音を聞かせてくれる。
「誰が来るって?」
「ヒバリさんが、よく知っている子です」
 それはもう、今の俺じゃないけれど。
 寂しげに告げた君の言葉の意味が解らない。
「大事に、してあげてください。俺の代わりに」
「つなよし?」
 君以外の誰を、大事に出来るというのだろう。僕には君しかいなくて、君以外の誰もいらないというのに。
 握り返した手は、けれどするりと抜け落ちて行って、虚しさが指の隙間からこぼれていった。
「あと、もうひとつ」
 体の前で両腕を揃え、歯を見せて笑った君。
「ヒバリさんがさっきくれようとした、お守り、ください」
 踵を浮かせ、揃えて落とす。視界の中で君の体は上下の動きを見せ、それから前に進み出た。
 スツールの脚に爪先を引っ掛けた僕は、導かれるように両腕を前に伸ばし、君の体を受け止める。寄りかかってくる体重は、すっかり身に馴染んだものだった。
 下から覗き込めば、君は即座に目を閉じて視線から逃げようとする。その癖も変わらない。
 初めてキスをしたのはいつだっただろうか。いつの間にかこうやって隣に居るのさえ当たり前になった自分たちを、十年前は誰が予想しただろう。
 弱虫で、泣き虫で、怖がりで、何事にも正面からぶつかって行くのを意識的に避けて、当たり障りない人生を目指していた君が。
 強がりで、孤独で、わけもなく世界中の全てに苛立って、自分以外は何も要らないと豪語していた自分が。
 ふっ、と自然と笑みが漏れて、緊張した面持ちで顔を近づけていた君が不可思議なものを見る目を向けてくる。
「ヒバリさん?」
「いや」
 昔を懐かしんで郷愁に浸る気はさらさら無い。今の自分が、君が在れば、それでいい。
 それだけで、いい。
 触れるだけのキスは君の鬱陶しいまでの前髪から始まり、掻き分けて額へ、眉間に落とした後左の瞼、目尻に、こめかみを通って耳朶を軽く噛んでから頬へ滑り、鼻の頭、反対側の頬、右の瞼に戻ってそこで君は、目を開けた。
 刳り貫いてしまいたいくらいに綺麗な琥珀色の瞳を暫く見詰めて、再び瞼が下ろされるのを待ってから漸く、唇を塞ぐ。
「ん……」
 鼻から抜ける甘い息も、昔から変わらない。ただ触れるだけの戯れを嫌がり、首の後ろに腕を回して膝を割って内側に潜り込んで来た小さな身体をしっかりと抱きとめてやりながら、一度離れた後再び食らいつく。
 噛み付いてやるくらいの勢いで奥へと潜り込み、口腔を余すところ無く弄って舌の根を掠め取り、引き寄せて絡ませて、苦しげに君が眉を寄せるのも構わずに途中でやめてやらない。首の裏に爪を立てられたその痛みから僅かに顔を引いて、ふたりの間に伸びた舌は透明な唾液に白濁した泡が紛れていて途中で弾け飛んだ。
 その飛沫さえも舐め取って飲み込み、小ぶりの喉仏に牙を突き立てて白い柔肌に傷を残す。吸い付いた瞬間に君は身を捩って逃げようとしたが、敢えて見える場所に痣を刻み、慰めに舌の腹でたっぷり時間をかけて嬲ってやった。
「……っ」
 息を殺した君が一緒に声を飲み込む気配が闇を伝い、いつの間にか雲に隠れた月は光を弱めて僕の世界から君を隠そうとする。
 手放すものか。祈りを込めてしっかりと捕まえていたはずの身体は、しかしまたしてもするりと僕の手の中から滑り落ちていった。
 濡れた唇を拭い、その指を軽く噛んで君は最後まで、笑っていた。
「いってきます」
 時間です、と音もなく扉の前に佇むふたつの影がそう、どちらかと言えば僕に向かって言葉を告げた。
 長い髪、色は白。服装以外はまるで同じという、人類学上で異質に分類される誕生の仕方をした女が、婀娜な笑みを浮かべている。僕は黙ってそれを睨み返し、跳ね除けた。
 君が僕にゆっくりと背を向ける。歩き出す。影が離れていく、重なり合っていたものがふたつに別たれる。
 月明かりが窓からゆっくりと射し込み、その背中を淡く照らし出す。朧な輪郭は今にも風に流され、掻き消えそうなほどに細い。
「つなよし」
 呼び声は果たして音となって現れたのか。
 女が笑みを浮かべたまま角度の鈍いお辞儀をして去っていく。君の背中はそれに付き従い、扉の向こう側へと。
 君は、振り返らなかった。
 そして、二度と戻らなかった。

 報せを受けて、君が遺したことばの意味を僕はやっと理解した。
 あの日から僕の心はずっとささくれ立ち、苛立ったまま。
 行き場を失った想いは、何処に、誰に、ぶつければ良いのだろう。方向性を見失った僕は、何処を目指せば良いと言うのだろう。
 確かに、あそこで転がっている奴らは僕の知る――僕がよく知っていた連中だ。
 ならば彼も、来ているのだろうか。
 此処に。
 この時間に。
 僕の世界に。
 大切になど出来るわけがない、君は君ひとりきりで、他の誰にも代わりはなれないのに。
 大事にしろというのか、それでも、君は。
「酷いことをする」
 自嘲気味に浮かべた笑みは、久方ぶりの殺戮を楽しむ獰猛な肉食獣の眼。
「僕は今、機嫌が悪いんだ」
 知った顔、知らぬ顔。異なる時間、異なる世界。だから僕には関係ない。壊れようと、壊されようと、どうでもいい。
 ただ、許さない。
 この僕を置いていった君を、僕は永遠に、許さない。
 それでも、もしかしたら。
 僕はまた、迷うのだろうか。同じ轍を踏まないと誓いながら、君を前にして同じ答えを選ぶのだろうか。
 君の直感通りに。

 踏みしめる枯れ草の音、掻き分ける枝の動き。
 隙間を広げ、現れる小さな体躯。零れ落ちそうなまでに綺麗な琥珀色の瞳、柔らかな干草を思わせる淡い色の髪。
 小さく、弱く、頼りなく、それでも底知れぬ力を奥底に宿した、誇り高き幼き君を前にして、僕は。
「やあ、久しぶり」
 守れなかった君を、今度こそ、守り抜けるのだろうか。

2007/7/16 脱稿