Love is without reason.

 オフィスのドアを潜った時、ふと、微かになにかが香った。
 少し癖のある、けれど決して不快とは言い難い匂いだ。屋内であるに関わらず爽やかな陽射しを思わせる香りに鼻をクン、と鳴らして、バーナビー・ブルックス・Jr.は密かに眉を顰めた。
 窓にはブラインドが下ろされて、隙間から漏れる光以外はシャットアウトされていた。天井の蛍光灯が燦々と輝き、室内を眩しく照らしている。
 白を基調としたデザインに、丸みを帯びた広いデスク。ふたつ横並びにされたものの片方は整理整頓が行き届いているが、もう片方はありとあらゆるものが散乱し、足の踏み場ならぬ手の置き場すらない有様だった。
 あさっての方向を向いた椅子は空っぽで、パソコンのモニターはオフになっていた。だが少し前までそこに誰かが居た気配は、濃密に残されていた。
 バーナビーは無人のデスクから目を逸らし、窓を背に座っている女性を窺い見た。気難しい顔をした眼鏡の女史は、彼が入って来た時だけ視線を上げたが、以後は俯いて仕事に没頭していた。
 彼女の周囲にも大量の資料やら、ファイルやらが積み上げられていた。だが入って直ぐの席とは違い、きちんと種類ごとに分類されていた。ただ雑然と散らかしているのとは、わけが違う。
 無言の威圧は、早く席に着いて仕事に入れ、という意味だろう。声に出して叱って来るよりよっぽど威圧的で、バーナビーは小さく溜息をつき、腕時計を確認してから自分に宛がわれた席に向かった。
 椅子を引いて深く腰掛けて、パソコンを起動させる。それまで沈黙していた画面に光が奔り、データの読み込みが開始された。
 透過性のある画面に幾つかのウィンドウが表示されて、うちひとつが注意を促して明滅する。彼は超薄型のモニターの手前で指を彷徨わせると、新着ありのアラームを放つ画面を軽く押した。
 タッチパネルを操作して、出現したメールの文面をスクロールさせる。手短に要点が纏められた文章は、ヒーローTVのアニエス・ジュベールからのものだった。
 内容は、要約すれば近いうちに特集を組むのでスケジュールを調整して欲しい、との依頼だった。
 だが、話はそれだけに留まらない。
 主要な部分は前半で終了し、後半からはひたすらに、ポイントゼロのとあるヒーローへの小言で埋め尽くされていた。
「僕はあの人のお守役じゃないんですが」
 椅子をギシ、と軋ませて、最後まで読み終えたバーナビーは肩を竦めて嘆息した。閉じたメールを爪で弾いてやれば、くしゃくしゃに丸められた紙と化したアイコンが、自動的にゴミ箱へ転がっていった。
 届いていたメールは、なにもその一通に留まらない。見慣れた名前を一覧から見つけ出して操作して、パソコンが添付されていたファイルを読み込んでいる間に、彼は依然無人の隣を盗み見た。
 ふわりと、優しい匂いが鼻腔を甘く擽った。
「……」
 さっきから感じるこの匂いは、いったいなんなのだろう。
 強すぎることはないが、弱すぎることもなくて、自己主張は馬鹿みたいに強い。オフィス内に花瓶はなくて、花が飾られているようなこともなかった。匂いの元を探してみるものの、それらしきものは見当たらない。
 香水かと勘繰ったが、黙々と作業に勤しむ三角眼鏡の女性から漂っているわけではなかった。
「ふむ」
 気になり出すと、頭の片隅にいつまでもこびり付いて離れていかない。神経に障ると些か腹を立て、バーナビーは嗅ぎ慣れない匂いを追い払おうと手を振った。
 その手で引き出しを探って、昨晩綺麗に片付けておいたメモ用紙とペンを取り出す。仕事に必要な道具をひと通り卓上に揃え終えて、彼は何処から手をつけようかとしばし迷った。
 眉間に指を置いて考え込む時も、ふと気がつけば隣を気にして目が泳いでいた。
「まったく」
 出勤が早いのは良いことだが、始業時間間近になっても席に着いていないのは宜しくない。
 なんとも言えないこの残り香といい、あの男の存在は悉くバーナビーの神経を乱す。
 史上初のヒーローコンビとして売り出すと決めたのは、親代わりを務めてくれていた人だ。四歳で両親を喪って以降、ずっと世話になって来たから、本音はイヤだったのだが断りきれなかった。
 落ち目の中年ヒーローに、再起のチャンスを与えてやっただけでも感謝して欲しい。
 コンビと銘打ちながらも人の足を引っ張ってばかりの相棒を思い出して、彼は深く溜息をついた。
 最近は一寸だけ――本当にちょっとだけ、あの男というのがどういう人間なのかが分かってきた。お節介で、お人よしで、お調子者で、楽観的で。そのくせ妙に人の核心に触れる事を平気で口にして、魂に揺さぶりをかけてくる。
 ずっとひとりだったから、これから先もひとりで平気。
 今更誰かと親しくなるつもりなどなくて、相棒と言われても仕事上だけの、上司命令だから仕方なく従って付き合ってやっているだけのつもりでいたのに。
「なにやってるんですか、おじさん」
 居ない人間に話しかけて、バーナビーは頬杖をついた。
 始めたばかりの仕事を早速中断させて、監視役も兼ねている女性の鋭い視線を避けてペンを利き手に取る。カモフラージュでメモ帳に先端を押し付けると、自動書記でも始まったのか、白い紙面にとある人名が出現した。
 鏑木・T・虎徹。
 少し癖のある文字は、間違いなくバーナビーの手によるものだ。
「っ」
 無意識のうちに記してしまっていたと気付き、彼は瞬間的に赤くなった。バッと用紙を引き千切り、誰かに見られる前にと慌てて丸めて、現実のゴミ箱へと放り込む。
 だがコンピューターのようには巧くいかなかった。角に当たって跳ね返ったそれは、あらぬ方向へと転がって停止した。
 シュンッ、と長く沈黙を保っていたドアが動くものを探知して突如開いた。
 間違ってもバーナビーが放り投げた紙くずが原因ではない。細くしなやかな足を悠然と前に伸ばして、緑のシャツにベストを羽織った男がのんびりと部屋に入って来た。
 遅刻だというのに、慌てもしない。なんともふてぶてしい態度に唖然としながら、バーナビーは床に伸ばしていた手を急いで引っ込めた。
 掴んだ紙切れを、ゴミ箱の真上で手放す。椅子に座り直した彼を一瞥して、虎徹はひゅぅ、と口笛を吹いた。
「おはよっす、バニーちゃん」
「バーナビーです」
 もう何十回、否、何百回と繰り返したやり取りには、いい加減飽き飽きしてた。だがどれだけ訂正しようとも、この男はちっとも改めようとしない。
 妙にイラつくにやけた顔に、つっけんどんに言い返して、バーナビーは顔を背けた。いい加減仕事に戻ろうと気持ちを切り替えて、目を離していた数分の間に到着していた未読メールに眉を顰める。
 難しい顔をした彼の鼻先に、ふわりと、涼しげな香りが迷い込んだ。
「……?」
 覚えがあると感じたのは、先ほどからずっと室内に漂っていた匂いと似ていたからだ。ただ僅かに、本当に小指の爪の先程度に、違っている。
 例えるなら、そう、他の匂いと交じり合ったかのような。
 微妙すぎる変化に気付かない人も多かろう。バーナビー自身、どうして区別がついたのか分からない。
 香水には詳しくない。だからこの香りがどこのブランドのなんという銘柄なのかまでは判断が出来ないものの、雰囲気からしてそう、誰かを連想させるものがあった。
 爽やかさもあるけれど、癖が強い。嫌味ではないが、いつまでも鼻に残る。
「ちぇ。バニーちゃんは今日も冷たいなー」
 愛想の悪いバーナビーに愚痴を零し、虎徹は被っていた帽子を取ってデスクに置いた。椅子の背凭れを掴んでくるりと反転させて、どっかり腰を落として足を投げ出す。
 暦年のヒーローとしてそれなりに鍛えているはずだが、それでも細い両手両足。スーツを身に纏い、五分間だけ百倍の力を発揮するハンドレットパワーを駆使して悪党退治に奔走する姿からは想像がつかない、華奢な体躯。
 ヒーローとしてデビューしてからもう十年を数える男は、相応に年齢を重ねているに関わらず、その辺の女子大生よりもずっと細身だった。
 席に座りはしたものの、溜まっている仕事を一向に始めようとしない。いつになったら動き出すのかと横顔を盗み見ていたら、視線に気付いた虎徹がニッ、と笑った。
「どうしたよ、バニーちゃん。俺ってば、見蕩れるほど格好良い?」
「馬鹿を言っていないで、早く仕事をしてください」
 どうしてこの人は、こういうどうでも良い時にばかり勘が働くのだろう。鬱陶しく思いながら素っ気無く言い返して、バーナビーはモニターに次々と資料を広げていった。
 相手になろうともしない相棒に小さく舌打ちして、虎徹は、今度は前のめりに姿勢を倒した。デスクに肘を立てて凭れ掛かり、面倒臭そうにスリープモードに入っていたパソコンを起動させる。
 彼が動く度に、そこいらに積み上げられているものがガサゴソと音を立てた。整理整頓が行き届いていないから、何処に何があるのか本人ですら把握しきれていない。
 肘に押しやられたファイルが雪崩を起こし、三つばかり床に落ちて、ひとつがバーナビーのデスクに押し流されて来た。
「おじさん。だからいっつも、言ってるでしょう」
 人のテリトリーに侵入してくるな。声を荒くして、バーナビーは分厚いファイルを取って振った。叱られた年長者はしゅん、と小さくなって、申し訳無さそうにしながら両手を差しだした。
 本人も悪いと思っているのだろう。いつもの図々しいまでの態度が影を潜め、随分と大人しい。
 しょぼくれている虎徹は見ていて面白くなくて、バーナビーはそんな風に感じている自分にも腹を立てた。
 ファイルの角を彼の掌に叩きつけるように押しつけて、さっさと片付けるよう捲し立てる。口喧しいバーナビーに、叱られているはずの虎徹がへらへらしているのも気に障って、喚き散らしたいのを堪えて深く息を吸い込んだ。
 空気と一緒に流れ込んできた甘い、心を淡く擽る香り。
 さっきから室内に紛れ込み、バーナビーを落ち着かなくさせていた匂いが、ひと際強く香った。
「……これ」
「んー?」
 長く不明だった発生源を突き止めて、彼はファイルを掴んだ虎徹の手ごと腕を引いた。
 引きずられてサイドデスクに凭れ掛かった虎徹に少しだけ顔を寄せて、鼻をヒクつかせる。
 クン、と匂いを嗅いだ彼に、虎徹の顔が途端、ぱぁぁ、と華やいだ。
「お、分かる? バニーちゃん、やっぱ分かっちゃう?」
 グリーン系のこの匂いがなんだったか、懸命に考えていたバーナビーの思考を邪魔して、彼は嬉しそうに声を高くした。満面の笑顔を浮かべて、強引に取り返したファイルを振り回しながら惚けている相棒に親指を立てる。
 なにがそんなに楽しいのか分からないまま、バーナビーはぶつかりそうだったファイルを避けて背筋を伸ばした。
 長く疑問だったものがひとつ解決をみて、小さな安堵が彼の胸に生まれた。それと時を同じくして、もっと大きな疑問が鎌首を擡げた。
 柳眉を寄せて顰め面を作ったバーナビーに、虎徹は首を傾げた。
「バニーちゃん?」
「おじさん、香水なんてつけてました?」
 少なくとも昨日の虎徹からは、こんな甘い香りはしなかった。相応に年齢を重ねた男が醸し出す、特有の臭いはしたが。
 やや険のある口調で問いかければ、虎徹は一瞬きょとんとしてから、自分の腕を鼻に寄せた。
「悪い。つけすぎたか」
「ああ、いえ」
 バーナビー以上に鼻をくんくんさせているところから、彼が香水にさほど慣れ親しんでいたわけではない様子が窺えた。振り掛ける加減が分からず、強く臭い過ぎていると誤解したらしい。
 そうでないと首を振って否定して、バーナビーはどう言おうか逡巡して肩を落とした。
「どうして急に」
 正直なところ、この匂いに慣れない。
 間違ってもイヤではない。ただ匂いというものには形がないから、鼻を塞がない限りは逃げようが無くて戸惑う。それも、まさかこういった香りものに縁がなかったような男から漂っているというのだから、余計に。
 香水と虎徹とが結びつかないのだと暗に匂わせて告げると、彼は気を悪くしたのかムッとした。
「だってよ。お前が言ったんだろ」
「はい?」
「俺が、だから。……臭いって」
「ああ」
 声に怒気が含まれていたのは、最初だけ。次第に小さくなり、最後にはそっぽを向きながら言われて、バーナビーは数日前のやり取りを思い出して頷いた。
 確かに言った。トレーニングの後の、汗だくの彼に。
 バーナビーよりもずっと年上の虎徹だけれども、実際のところ、彼はさほど臭いわけではない。加齢臭と呼べるものも、まだそれほど強くなかった。
 但し勿論全然無いわけではないので、なにかと年上ぶりたがる彼に嫌味を言い返すときに、精神的ダメージを受けるようにとそういう趣旨の言葉を選んだのだった。
 あの後かなりショックを受けていたので、もしかしたら本人も少し気にしていたのかもしれない。落ち込んでいる虎徹の横顔を思い出し、悪い事をしたかと後悔が生まれた。
「それで、わざわざ?」
 それと共に、なんともいえない不思議な充足感が、バーナビーの胸を満たした。
 自分の言葉をきっかけにして、虎徹が動いたのだ。不快な臭いだと指摘されて、これを改めようと影ながら努力した彼に感嘆し、急速に親近感を覚えた。
 確かにこの匂いは、爽やかでありながら虎徹らしさを引き立てている。
 野性味に溢れ、男臭さを感じさせながらも、どこか上品で優しい香りだ。
「どうだ?」
 黙り込んだバーナビーに、虎徹が落ち着きを欠いて小声で問いかけてくる。
 そわそわして、まるでテスト結果を待つ子供のようだ。両手を膝に置いて、上目遣いに見上げてくる姿は、年甲斐も無く可愛らしい。
 バーナビーはふっ、と気の抜けた笑みを浮かべて肩を竦めた。
「悪くないですよ。貴方にしては、良い選択だと思います」
 正直、ガサツを絵に描いたようなこの男が、こんな品の良い香りをチョイスできるとは思っていなかった。
 珍しく褒められて嬉しいのか、虎徹はまんざらでもない顔をして、照れ臭そうに首の後ろを掻いた。
 仕事とは全く関係のない雑談に興じている彼らに、冷たく鋭い視線が突き刺さった。出所を探れば、前方のデスクで資料に埋もれ気味の女性からだった。
 ただでさえ虎徹は、仕事が遅れ気味だ。提出締め切りの近い資料ですら、片付く気配が無い。
 だというのに毎日のように定時きっかりに帰るものだから、バーナビーがどれだけ手伝ってもまるで追いつかなかった。
 話もひと段落したと、バーナビーは仕事に戻ろうとした。虎徹の趣味が予想外に良い線をいっているのも分かって、パートナーに対する認識も少し改まった。
 ところが。
「そっかー。そりゃ良かった。流石は、カリーナが選んだだけのことはあるな」
 若い奴の好みは、若い奴へのウケが良い。そんな事を嘯いて、虎徹はポケットから取り出した薄い青の入ったボトルを揺らした。
 掌にすっぽり包めてしまえるくらいの、細長い小瓶だ。それが、例の香水なのだろう。先端に向かって鋭く尖っており、鋭利なナイフのようにも見えた。
 思いもしなかった発言にバーナビーは目を丸くして、大袈裟すぎる反応で虎徹を振り返った。
「カリーナ?」
 聞き覚えのある名前に、とある少女の顔がパッと思い浮かんだ。
 緩いウェーブの掛かった髪に、勝気そうなブラウンの瞳。氷を操る、バーナビーや虎徹と同じシュテルンビルドで活躍するヒーローのひとり。
「そうそう。ああ、お前にはブルーローズって言った方が分かり易いか」
 いぶかしむ声を上げた相棒に、虎徹が手を叩きながら訂正する。何を思い出しているのか、にやけた顔で頬を染める姿は、滑稽を通り越して腹が立った。
 何故彼女の名前が、此処で出て来るのか。
 理由を考え、バーナビーは知れず奥歯を噛んだ。
「彼女が、それを?」
 虎徹は昨日も、時間になるとそそくさと席を立ち、バーナビーの冷たい視線から逃げるように帰って行った。
 出動要請もなく、インタビューなどの取材も無くて、至極平和な一日だった。書類作業を進めるのに最適な一日だったに関わらず、そういえば彼は、昼を過ぎた辺りから妙に心此処に在らずな顔をして、落ち着きが無かった。
 学校帰りのカリーナと待ち合わせて、買い物に行ったのだ。その約束があったから、虎徹はあんなにもそわそわとしていた。
 そして今日も、嬉しそうにしている。
 その名の通り、棘のある青い薔薇の女王が如きヒーローは、しかし氷の仮面を外せば今どきの、年頃の少女だ。
 虎徹を見る彼女の目が、単なる同業者を相手にするのとは少し違っている事くらいは、恋愛経験に乏しいバーナビーでも気付いている。ただ肝心の虎徹が、カリーナをまるで娘かなにかのように扱うものだから、油断していた。
 ――油断?
 内心の動揺を隠して、バーナビーは自問した。
 何故そう思ったのか、自分でも良く分からない。油断するもなにも、あの氷の女王と虎徹がどうにかなろうと、バーナビーには何の関係もないのに。
 苛々して、むかむかして、気分が悪い。
 眼鏡の奥に表情の一切を隠して押し黙る彼を他所に、虎徹は声を弾ませ、しきりに頷いた。
「そうそう。俺は違うのが良いつったんだがな、アイツに押し切られちまったんだ。けど、バニーちゃんが良いっていうんだったら、こっちにして正解だったな」
 身近なところにいる若者から高評価を得られたのが、余程嬉しいのだろう。カリーナへの感謝の言葉を並べ立てて、虎徹は青色の、誰かを想起させるボトルをいとおしげに撫でた。
 飛びまわるハートマークの幻を見て、バーナビーはカッとなり、思い切り机を殴った。
 あまりの騒音に、真横にいた虎徹がビクリとした。眼鏡の女性もが、何事かと慌しく左右を見回す。
 突発的に取った己の行動に、バーナビー自身呆然となった。どうしてこうも苛々するのかと、原因が見付からないまま赤くなった拳を解く。
「バニーちゃん?」
「バーナビーです」
 魂が抜け落ちたようになっている彼を案じて、虎徹が声を潜めた。身を乗り出した彼から立ち上る、甘い、甘い匂いを嫌って、バーナビーはつっけんどんに言い返し、椅子を引いた。
 いきなり立ち上がった彼を目で追って、虎徹は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「貴方は、僕がせっせと貴方の尻拭いをしてさしあげている最中に、現役女子高生と仲良くデートしていらしたんですね。見損ないました」
「なっ。テメー……っていうか、デートじゃねえっての」
 淡々と吐き捨てたバーナビーに、虎徹が食って掛かる。唾を飛ばして怒鳴る彼を冷たく見下ろしながら、バーナビーは否定された嫌味に内心驚きを隠せなかった。
 疑わしき眼差しを受けて、彼は気まずげに、頭を掻いて明後日の方を見た。
「ついでだよ、つ、い、で。アイツが、父親へのプレゼント選ぶのに付き合えって、しつこいからさ」
「はあ……」
 言い訳がましく捲くし立てられて、バーナビーはなんとも気の抜けた相槌を打った。
 虎徹とカリーナの父親の年齢は、近くはないが遠くも無い。大人の男性で、暇そうで、且つ一番コメントを得やすい相手が、彼女の場合は虎徹しかいなかったのだ。
 惚けているバーナビーを盗み見て、虎徹はデスクに肘を立てて頬杖をついた。相変わらず他所を向いたまま、ボソボソと事の有様を説明する。
「つーか、最近の女子高生ってのはみんなあーなのか? プレゼントひとつ選ぶのに、六軒も回らされたんだぜ。六軒もだぞ、六軒。分かるか。信じられるか? んで、結局最初の店が良いってんで戻るしよ。楓もいつかあんな風になるのかなー」
 最後のひと言は、ほぼ独白だった。誰にも聞こえないよう声を噛み潰し、唾と一緒に飲み込んだ虎徹を黙って見下ろして、バーナビーはストン、と椅子に戻った。
 ずれた眼鏡をクイ、と押し上げて、光の反射で表情を隠す。虎徹は気付かず、もう片方の手をヒラヒラ揺らしながら昨日のカリーナへの愚痴を言い連ねた。
 あれもこれもと手に取っては、直ぐに気に入らないと言って元に戻して。店員を捕まえて質問を繰り返しては、これと決めてみるものの、結局サイズが分からないということで無しになって。
 贈られる父親から見れば、娘が時間をかけて熱心に選んでくれたと嬉しがるところだが、付き合わされる方は大変だ。
 身振りを交えながら、若干脚色して大袈裟に話し続ける虎徹に、バーナビーはそうと分かる溜息をついた。
「彼女は、コメントを求める相手を間違えましたね」
「どういう意味だよ」
「言葉通りの意味です。おじさんには、センスというものがありませんから」
 余裕と嫌味を取り戻し、バーナビーは不敵に笑った。ムキになる虎徹を鼻であしらって、しっしっ、と犬猫にするように追い払う。
 カリーナからのプレゼントではなかった。
 それが分かった瞬間、奇妙にも安堵を覚えたのには気付かなかったフリをして、彼は新着メールの山に若干うんざりした表情を作った。
 畜生扱いされた虎徹は発言の撤回を求めて吼えたが、それも虎ではなく、子猫の威嚇にしか聞こえなかった。
 彼が動く度に軽やかな香りが室内に満ちていく。決して不快ではないが、不愉快で、バーナビーは虎徹のデスクに置かれた青い小瓶を仇のように睨み付けた。
「あまり近付かないでください。おじさん、臭いです」
「なっ! お前――」
 先ほど褒めたばかりだというのに、それも忘れて堂々と言い放った彼に、虎徹は絶句した。
 だがバーナビーは少しも悪びれた様子なく、鼻をクン、と鳴らすと、口角を歪めて不遜に笑った。
「臭いですよ。香水自体は確かに香りよいものでしたが、おじさんの体臭と混じり始めてますからね」
 香りが虎徹に馴染み始めていると指摘して、彼は人差し指を立てた。突きつけられて、虎徹はギクリとしてから右の手首を鼻に押し当てた。
 だが、どうにもピンと来ないらしい。何度も匂いを嗅いでは、首を傾げている。
 面白い光景に苦笑して、バーナビーは満足げに笑った。
「第一、やっと貴方の加齢臭に慣れて来たところなのに、余計な匂いを付け足されるのは困ります。臭くて仕事になりません」
「そっかぁ?」
「パートナーである僕がこれだけ言っているのに、信じられませんか?」
 虎徹が日頃から、事あるごとに持ち出してくる単語を口に出せば、彼は渋い顔をして唸り、観念したのかがっくり肩を落とした。
 青色の小瓶を指で弾き、釈然としない面持ちながら小さく頷く。
「後でカリーナに謝らないとな」
 妙案だと思ったのに、と愚痴を零し、虎徹は瓶を揺らした。
「でしたら、僕が今度、貴方に一番合うのを選んで差し上げますよ」
 大事に机の引き出しにしまった彼を盗み見て、バーナビーが呟く。
 そのまんざらでも無さそうな顔を振り返って、虎徹は白い歯を見せて笑った。

2011/05/26 脱稿